死目②
少女がもたらした奇妙な沈黙。
最初にそれを破ったのは、倒れた大将の腰巾着をしていた痩せぎすの少年だった。
「…なっ、おま―――」
ばしん!と湿った音が炸裂する。枝葉に残った雪を毟り取るように掴んだルルーが、一切の躊躇も見せず、ほとんど振りかぶる動作も無しに雪玉を投擲、命中させた。顔面に一撃を食らったその少年も木の葉のように吹き飛び、滑りながら倒れた後は瀕死の魚のように悶絶した。
魂を抜かれたように硬直していた残りの子供達が、それを境にわっと逃げ出す。一斉にばらばらの方角に走り出したが、回避には繋がらなかった。
一人残らず後頭部や背中に強烈な打撃を食らい、威力を受け流しきれずに地面へ叩き付けられる。体勢が俯せという違いを除いては、最初の少年と同じ末路を辿った。
それを見届けると、ルルーは身軽な動作で音もなく舞い降りた。
勘の良い者ならこの時点で何かを感じ取っただろうが、生憎突然の闖入者に思考と感覚が麻痺した輩には、感知する才覚は残っていなかった。
ビアンカは捕縛からは解放されたものの、驚きと痛みで立ち上がることはできず、俯せのままで何とか鎌首を持ち上げ、辺りを見回した。彼女の向きからでは誰が何をしたのか確認できなかったのだ。
霞む視界に最初に映ったのは、焦げ茶色をした丸い靴の先だった。
倒れているビアンカの前にやってきたルルーは、しかし助け起こすでも安否を気遣うわけでもなく、おもむろにしゃがみこんで雪をかき集め始めた。
どこか呑気に雪を丸めている、たった今子供達に暴力を振るった異国の娘を、呆けたように眺めていた大人だったが、遅蒔きながらはっとした。
「おい!何やってんだ!」
子供達の啜り泣きに押されるように、幾人かが踏み出してきた。恐らく彼等の親だろう、一様に子供を傷つけられた怒りを露にしている。真っ先にルルーの元へ向かった男性が、聞いた相手が萎縮する程の声量で怒鳴りつけてきた。
「いきなり横から出てきて泣かせるなんて!何考えてんだ!」
「………」
「こら!聞いてんのか!」
答えもしなければ顔も上げないルルーに、更に怒声を張り上げ大股に近付き、彼女を掴み上げようとした男だったが、突然見えない手で引き戻されるように体勢を崩した。勢いを削がれた他の者の足が止まる。再び、呼吸も憚られる密度の沈黙が落ちた。
「聞いてるよ」
顔一面に硬い雪を叩き込まれ、転倒した男を眺めながら立ち上がったルルーが、取り澄ましたような冷たい声で返事をした。
彼女の爪先辺りには、指の形に穴が空いている。
そして、周囲に残った者達が矛盾に気付いた。
春に入ってから、雪は一度も降っていない。
故にルルーが投げ付けたのは、残雪の塊だ。大人でさえ、器具を用いなければ抉り取る事は不可能な程、踏み固められ石畳のような強度を持つ積雪。
それが、小さな小さな掌で、削り取られたこの事実。
違和感が意識へ完全に浸透するより早く、少女が動いた。
白い地面を蹴り、数歩の距離を一気に詰めたルルーは、その勢いのまま倒れた男の短い髪に五指を差し入れ、膝で上体を押さえ付けながら雑草を毟り取るような手つきで乱暴に掴み上げた。
頭皮にあらぬ激痛が走り、雪まみれの口から苦痛の声を漏らした男は、揺れる意識を怒りで統率し視線を上げたが、瞬間、全身を強烈な悪寒に縛り上げられた。
鳥肌が走り、皮膚という皮膚から冷や汗が噴き出した。動物的な本能が大音量で警鐘を鳴らす。
これは、
これは駄目だ、
逆らってはいけない、と。
今のルルーを前にして、平常心を保てる者は皆無だろう。夜色の髪は激情に逆立ち、小さな唇は憤懣を圧し殺した真一文字に引き絞られ、幼さを宿す全身からは殺意と呼んで遜色ない激烈な気配を放っている。
何よりも、ルルーの瞳が。
つややかな木の実を彷彿とさせ、無邪気な明るさに輝いていたハシバミ色の瞳が、稲妻の如き閃く黄金に変貌していた。何を反射したわけでもない、眼窩の奥底で爆発的な感情が火を噴き、それを意志の力で抑圧した結果だった。
見る者に真空の絶望を与える、死神の瞳。まともな神経の持ち主であれば二秒と直視できない、純度の高い恐怖を内包する、それは、ヒトガタの『死』―――
「オマエ、さっきからそこに居たな。ビアンカが殴られてる時は、大人が子供の喧嘩に口出しできねぇよなぁとかほざいて、ニヤニヤ笑って見てたくせに、翻ったその態度は一体なんだ?」
有無を言わせぬ冷徹な物言いは、子供が使うには恐ろしくそぐわない。見下ろす貌は酷薄さを底に広げた無表情で、威嚇や憤怒の形相など及びもつかない、発狂しそうな怖気を引きずり出す凄惨ささえ滲ませている。誰もが脳天から地面に軛を打ち付けられたように、形容し難い畏怖と緊迫感に貫かれて動けなかった。
一歩でも動いたら―――標的は自分に変わる。
「ねぇどうなの?ねぇ、どうなの?どうなのよ??」
頭から胸ぐらに掴みかえて、まるで催促するように前後に揺さぶりながら、ルルーが疑問符をぶつけてくる。挙動そのものは駄々をこねる子供のようだというのに、決定的に何かが違った。
ほんの僅かな均衡の崩れで、男の頭が腐った果物のように潰れて落ちる、見る者にそんな悪夢的な予兆を植え付ける狂気じみた光景。
最早目の前に居るのが形通りの少女だと認識する者は皆無だった。
狂人か魔物か、そうでなければ―――
ようやく一同の心に芽生え、思考に根を張る、一つの仮定。
―――六皇神と直接の関係を持つ女王が招いた客が、唯人である道理が何処にあるのか?
「ねえ、恥ずかしくないの?オマエ、恥ずかしくないの?そういうことして恥ずかしくないの?オマエは大人だろう?親だろう?保護者だろう?子供を守るのが役目だろう?それとも自分の子供はコドモで、あの子は子供じゃないっていうの?なに食べてればそういう支離滅裂な持論に到達するわけ??」
「ひいっ、たっ、助け…!」
得体の知れない凄まじい怖れに肺と心臓を絞り上げられ、外見に見合わない握力がもたらす直接的な苦痛から、痙攣して上手く動かない口で命乞いをするように必死になってそう言ったが、逆に両手で首を捕まれた。グエッ、と、潰れた声と唾液が地面に散乱する。
「私は、いいのか悪いのか聞いてるの。それじゃあ返答になってない。どうなの?いいの?」
殺人の仕掛けに絡め取られるように引き摺り起こされながら、見せしめのように吊し上げを食らう男が、辛うじて首を横に振れば、突き飛ばされるように腕が外れた。
したたかに背面を打ち付けた男は失神寸前で藻掻き、砕けた腰のまま離れようと、泡を噴きながら手足をばたつかせたが、最早そんな見苦しい姿には目もくれず、屹立したルルーは、閃く金色の眼差しを周囲に走らせた。
欠き割りのように微動だにしない『大人達』を睨み付け、ごくごく落とした声量で、しかしその場の隅々にまで満ち渡るように、異様に柔らかく滑らかな声で畳み掛ける。
「悪いって、わかっててやってたの?オマエ達は悪いって、わかってて止めなかったの?笑って見てたの?へぇ、そう、オマエ達にとって、あの子が殴られて蹴られて怪我をして泣いてるのは、熊いじめみたいな面白い見せ物なの?」
ふざけるなよ。
鼓膜に触れた者の血が凍りつくような、凄まじい怒気を孕む低温の言葉が落ちて。
「―――煌盟巫国の名前の下で、付け上がるのも大概にしろ!」
裂帛の叫び。
刹那、数百年に渡り人々を裏切らなかった《春》に、水平を保ってきた《揺籠》に、亀裂が生じた。