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死目①

自分が馬鹿にされたことは、慣れる慣れないは別として、数限りなく経験してきたが、身近な人が自分の所為で中傷されたのも、それを耳にするのもこれが初めてだった。ショックの余り顔色を失う。関節が外れるような虚脱感と絶望に心の中身がごっそりと抉り取られ、五感が麻痺した。

だが、当然そんな状態は長くは続かなかった。

束の間の沈黙を経て、空っぽになった心の中に、沸騰するような屈辱と憤激が熱を伴いながら噴き出し、あっという間に器から漏れ出した。

直後、渾身の力で少年の左顔面を殴り付けた。

不意討ちに体勢を崩した少年の襟首に掴み掛かり、仰向けに倒れた所にのし掛かると、満身の力で顔に爪を立てる。短い髪の中を掻き毟り、こめかみを思い切り引っ掻いた。爪の間に削れた肉がもぐり込み、その確かな感触がビアンカを極限まで決壊させた。



「―――――取り消せぇっ!!!今言ったことを!!!!」



臟腑を抉り貫くような甲高い絶叫が広場を切り裂いた。

居合わせた全ての者に行き渡るように、声帯が壊れる程の凄絶な怒声を張り上げた。

「オマエら誰のお陰で安穏と暮らせてると思ってる!お前が着てるものも食べてるものも、全部おばあ様が外の国とやり取りして仕入れたものだぞ!それを!それを忘れて!おばあ様を侮辱するなんて!一体何様だ!この恥知らず!非国民はお前達の方だ!」

力任せに両手を振るって少年を殴り付けながらビアンカは喚いた。数限りなく罵詈雑言を吐きつけてきた少女の短い人生の中で、これほど凶暴な怒りに身をやつして叫んだのは初めてだった。


突然の反撃に殴られながら呆けていた少年だったが、実害による痛みと激昂に正気を取り戻した。

「こいついきなり何すんだよ!」

リーダーが叫ぶと、固まっていた子供達も我に返り、一斉にビアンカに掴み掛かった。

「マモノの仔のくせに!」

「生意気!」

「おいお前ら手ぇ貸せ!」

「痛い!離せ!」

心の堤防が消滅し、臆する必要も怖じ気づく理由も無くなったビアンカは引っ掻き噛み付き殴り、手当たり次第滅茶苦茶に暴れ回ったが、非力な腕では攻撃も持続性もたかが知れている。加えて多勢に無勢、あっという間に地べたに押さえ付けられてしまった。

「このクソ野郎ふざけやがって!血ぃ出てんじゃねえか!」

こめかみを押さえた少年が眉を逆立てて怒鳴り付けてくる。俯せのまま手足をそれぞれに掴まれ、蜘蛛の巣に引っ掛かった虫のように身動きが取れなくなりながらも、ビアンカは怯むことなく相手を睨め付け、唯一できる攻撃の手段を迷わなかった。

「ふざけてるのはあんた達だ!この国に生まれておばあ様の加護を受けて育ちながら、女王を笑い者にするなんて!クズは死ね!」

「うるせえな!」

頭に衝撃が打ち下ろされる。手加減無しに踏みつけられた。防寒靴の底は硬く、滑り止めの細かい突起がびっしり並んでいる。髪の毛に埋まり皮膚に食い込む痛みと重みに心の中だけで悲鳴を上げながら、それでも泣くまいと必死に意志をかき集め、糾弾した。

「私を馬鹿にするより先に自分達の立場を弁えろ!私だけならまだしもおばあ様を馬鹿にするな!」

「うるせえって言ってんだよ!城に住み着いた寄生虫のくせに!」

「ああそうだ!私は役にも立たない寄生虫だ!でもそれはお前達だって同じだ!親がいなければ何もできないくせに!自覚が無いだけ私より悪質だ!無能のくせに偉そうなことを言うな!」

腹部に熱のような塊がぶつかる。腹を蹴り上げられ、逆流した胃液が喉元までせり上がるのを辛うじて堪えると、髪を掴まれた。

「コイツはフィリの民じゃないぞ!赤い眼の化け物だ!」

「そうだ!化け物は退治しちまえばいい!駆除しちまえ!」

既に悪ふざけの域を脱して私刑に近いが、周囲をぐるりと取り囲んでいる大人達は、とっくにビアンカの存在に気付いていながら、一人として止めに入ろうとはしなかった。ビアンカは重い首を動かして、自分を囲む子供達の外に目を向けた。

見てみぬふりをしながらも、気まずさや憐憫を浮かべていればまだいい方で、中にはあからさまに面白い出し物がはじまったと、にやつきながらこちらを注視している輩がいる。



戸惑い、不理解、憐れみ、迷惑。

皮肉、蔑み、嫌悪、拒否。

………ああ、これは自分の『眼』だ。



侮蔑と隔意に満たされた悪意の眼差しを受けて、深く、昏く、痛感する。

これはかつて、自分が彼等に注いだ眼差しだと。

ビアンカの脳裏に蘇ったのは、ルルーに差し出されたキャンディだった。

『いらないわよ!こんな下賤の輩が食べるものなんて!』



歪んだ差別意識の上に立つしか、自分を支える術がなかったとはいえ、選択の余地がなかったとはいえ、自分の行いは間違っていた。

今ならはっきり認めることができた。そんな負のループは、繰り返すべきではなかったと。


こそこそ囁き合う声が、驚くほどよく聞こえてきた。

「…止めなくていいのか、あれ」

「放っておけよ、子供同士のケンカだろ。大人が手出しするわけにはいかねぇよな」

「女王陛下もお気の毒にねぇ…」

「本当に、立て続けに姫君を亡くされただけでなく、あんなお荷物を…」

「何故、スーリ様でなくあんな蛮族の娘が…」

「アレが代わりに…死ねばよかったのに…」

「でもさー、女王様も、案外何かの報いなのかもよ?」

「そうだねぇ、清廉で高潔なイメージあるけど、王族なんて裏じゃ何やってるか分かったもんじゃないし」

「統治者としては優秀でも、憐れな人生だよねぇ…」

「………っ!」

瞬間、怒りに駆られて身を起こした。自分の所為で祖母を笑われるのだけは我慢がならなかった。

「おばあ様を馬鹿にするな!」

押さえ付けられながらも暴れ、全身を震わせて叫んだが、四方八方から靴底で踏みにじられた。頬を蹴られて歯で舌が切れ、鉄錆びじみた血の味が口腔に満ちる。

「喋るんじゃねえよ!耳障りだな!」

「そうだ!耳障りだし目障りだ!生きてるだけで鬱陶しい奴だ!」

「薄汚い蛮族の娘だ!」

罵りを浴びながら、不意に、どこまで行っても自分はただの蛮族の娘なのだなと、他人事のように考える。硬く冷たい雪に横たわりながら、肺の間を木枯らしが吹き抜けるような淋しさを感じた。



『この、根性なし』



あの一言は、もしかしたら色眼鏡無しに自分へかけられた、はじめての評価だったのかもしれない。

どれ程心外で、どれ程侮辱的でも。

蛮族の娘ではなく、異端の姫君でもなく、ビアンカ自身に、向けられた言葉だったのかもしれない。

「よし、多数決だ!コイツを追い出すのに賛成の者は手を挙げろ」

はーいという無邪気で残酷な声がいくつも重なり、力無く這いつくばるビアンカには、その気配で満場一致が伝わった。

「よし、決定だ。森の外に捨てちまおう」

「その前に髪を抜きましょうよ!中途半端にこの国の人間みたいな顔されたくないわ」

「さんせーい!みんなで引っこ抜いちまえ!」

異常な熱気に煽られ、留まる所を知らぬ苛虐と興奮が、どこまでエスカレートするのか誰にも解らない。そんな中心で生け贄のように囚われながら、ビアンカは心の中でひたすら懺悔を繰り返した。





ごめんなさい。

ごめんなさい。

ごめんなさい、おばあ様。





生まれてこなければよかったなんて、思ってごめんなさい。

何で生かしたなんて、詰ってごめんなさい。


私はおばあ様が自慢にできるような娘じゃなかったけど、もっと、ちゃんと、一番最初に、胸を張ってフィリの民だと名乗れていれば良かったのに。


瞳の色が違っても、受け継がれていたものがあったのに。

この銀色の髪を、水神から賜ったこの色を、それを誇りに、できればよかったのに。


けれど、気付いたソレすら、たった今無残に奪われようとしているのだ。それどころか、ひょっとしたらこのまま、限度を知らぬこいつらに蹴り殺されるかもしれないと、諦念が頭を過る。そうなっても仕方がない、確執は、もうそれほどに深くなってしまっている。


酸欠で耳鳴りがする。頭を踏みつけられたまま、いくつもの手に無造作に髪を掴まれる。遠くなりかけた意識の中で、涙を飲み込みながら、ビアンカはひたすら祖母に詫び続けた。








ぱぁん!







爆竹が弾けるのにも似た、軽い破裂音。何処から響いたのかと思うより早く、ビアンカを踏みつけていたリーダー格の少年の体が吹っ飛んだ。銃弾に撃ち抜かれた獣のようにもんどりうって仰向けに倒れる。その顔は布を被せたように真っ白になっていた。

取り巻いていた子供達と、傍観していた大人達が、示し合わせたように固まる。

雪玉を投げ付けられたのだと理解が及ぶまで数秒かかったが、それでも何が起こったのか事態を把握できない。

ゆるゆると、無数の視線が雪玉の軌道を辿る。


倒れた少年の正面、広場を円形に囲む針葉樹の枝に、ちょこんと腰掛ける小さな人影。


ここ数日で馴染み、見慣れた、濃紺色の髪をなびかせた異国の少女が、見上げれば首が痛くなるような高い枝に、華奢な両肩を竦めながら、細い両足を投げ出すように座っていた。愛らしい容貌に表情は無く、大きな瞳が無機質に足下の情景を映している。




その静かな佇まいは、古い民話に登場する、悪夢を運ぶ不吉な鳥のようだった。






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