足掻き
太陽が昇るより早く目が覚めた。
というより、眠れなかった。
「おはようございます、姫様」
広い寝台で身を起こすと、あやすような侍女の声が降ってくる。城中から腫れ物扱いされていたビアンカだが、侍女達には手放して甘やかされていた。憐れみ甘やかす者しか自分の侍女に採用されないというのが本当だったが。
寝台から連れ出されると、いつも通り手早く髪を整えられた。衣服を変えられ、隣室に用意されていた朝食の前に連れてこられる。
だが、五感は完全に麻痺していた。舌を包むスープの温度も分からず、ちぎって口に入れたパンは綿のように味がしない。
黙々と機械的に咀嚼しながら、ビアンカは別のモノを噛み締めていた。
一言も言い返せなかった。
お前は民にとって害毒だと、不名誉な謗りを受けたのに。
だって、余りにもその通りだったから。
ルルーの口にしたあの仮定が、そのまま未来を予言したように感じられて空恐ろしかった。彼女の言葉はしなやかに鋭く、手加減も容赦もなかったが、多分に真実を含んでいた。
わたしも同じだと言った、あの娘の境遇を作り話だと切って棄てるには、彼女のハシバミ色の眼差しには真摯な説得力があった。根拠も証拠も無いけれど、きっとあの吐露は真実だろうと思う。
汚らわしいなどと罵倒されて、平然としている自信がビアンカには無かった。
激しく傷付く自分が簡単に予想された。
認めながら否定して現状で暴れている自分と、認めた上でそれを飛び越え、けろりとしているあの娘とは雲泥の差だ。
母は自分の命、父は自分の誇りだと、臆面もなく言い放ったあの娘に比べ、卑小でみすぼらしい己の存在に自己嫌悪を通り越して気が遠くなった。
必死で眼を逸らしてきた現実を否応なしに目の当たりにし、改めて己に愕然としながら、けれど一つだけ、強く強く確信したことがあった。
「…上着を出して」
思い詰めた思考を気取られないように、貌を伏せながら命令する。ビアンカのぎこちない態度を不審に感じる様子も無く、侍女はいつも使っている白いフード付きの上着を出してきた。城内の行き来にも上着は必須なため、別段怪しまれることも行き先を問われることもなかった。
袖を通し、部屋履きを外出用の雪靴に履き替え、通路に出た。
幼い容貌に貼り付いていたのは、疲労を根にした決意。
小さな拳を握りしめながら思う。
―――恐らくこの先、あんなお節介は二度と現れないだろう。
―――ここで脱却できなければ、自分は一生、今の自分のままだ。
国を呪い、自分を呪い、理不尽な世界への怨嗟を撒き散らすだけの不快な塊になってしまう。
そんな自分は想像するのも耐えられない程醜悪だったが、遠からず成り果てるという絶望的な予感がした。
このままの自分では、いつか本当にそうなってしまう。
嫌だ、それだけは。あの死神娘が言ったような、正真正銘の異物になることだけは。
そのためには、ここで侍女を相手に、恨み言を言うだけの自分では駄目なのだ。
覚悟を決めるというより、いっそ悲愴な兆しに背中を押され、本当に何年かぶりに、ビアンカは『絵の中』に入っていった。
久しぶりに訪れた城下は、知らない国だった。
人混みの喧騒はよそよそしく無作法で、肌触りが悪い。人に掻き回される空気を吸って歩きながら、ビアンカの心臓は嫌な音を立てて暴れていた。
記憶にこびりつく錯覚の痛みが、足の動きを鈍くする。
深くフードを被ったビアンカに気付く者はおらず、何に邪魔されることもなく通りを抜け、広場に到達した。
外の街であれば噴水が設けられているだろう、そんな空間だった。ここを抜けると国境検問所まで一直線で、屋台は途切れている。外回りは針葉樹で囲まれて、普段であれば白と暗緑の色彩に限定されるが、この時期には別の色が混じっていた。
開けた広場の中央が段差をつけた雪で高くなり、あちこちに素焼きの器に植えられた緋霊花が飾られていた。
近付いたビアンカは足元に眼を落とした。
花はようやく蕾を綻ばせたばかりで、小さな赤い実のように見える。
(…緋霊花、こんなに近くで見たの初めてだ…)
この国に生まれながら、国の象徴とも言うべきものには何一つ触れてこなかったと、ぼんやり思いながら眺めていた時だった。
いきなり背中に重い衝撃が走った。
「………っ!」
蹴られたのだと分かったのは、緋霊花を巻き込んで派手に倒れた後だった。
痛みに呻くより早く、嘲るような声が降ってきた。
「おい見ろよ、マモノの仔がいるぞ!こいつ大事な花を駄目にしやがった!」
「本当だー、いけないんだー」
「やっぱり蛮族の娘だわ、フィリに対して無礼な働きしかしないのよ」
嘲笑と揶揄を浴びながら無言で身を起こすと、五、六人の少年少女が並んでいるのが視界に映り、ビアンカは顔を歪めた。
見覚えのある顔触れだったのだ。
今よりずっと幼かった彼女をいたぶった連中が、年月にやや面貌を変えながら、変わらぬ残忍さを持って彼女を囲んでいた。
ざわつく心を鎮めながら服の裾を払って立ち上がると、一番大柄なリーダー格の少年が、腕組みをしながら小馬鹿にするよう笑って言った。
「つーかまだ生きてたんだな!見かけなくなったから恥じて死んだのかと思ってた!」
「全くだ、羞恥心てもんがあればとっくにそうしてるよ」
「あるわけないじゃん、そんな上等なもの!こんな赤い眼のマモノにさ」
子供らしい、遠慮を知らぬ悪意がさざ波のように広がる。ビアンカは黙って眼を伏せた。何を言っても相手を面白がらせるだけだと知っていたからだ。
自分が何のためにここへ出てきたのか、実は明確な目的や理由があったわけではない。ただ漠然と、やり直すならここからだと感じていた。
逃げ出したのは、ここが始まりだったから。
しかし、具体的に何をすればいいのかは分からなかった。文句にしろ反発にしろ、身体の機能にセーブがかかり、どう動けばいいのか先行きが組み立てられない。
そうしてビアンカが何も言わないのをいいことに、少年が図に乗って更に嫌らしい笑みを浮かべた。
「相変わらず真っ赤な目玉だな」
「そうそう、気持ちわるいわ!」
「やっぱ人間じゃねーよ、コイツはさ!」
純粋な悪意の言葉が、脳の裏側や心の表面を削る。爪が食い込む程強く拳を握り締めた。
ビアンカの葛藤する様を愉快げに眺めながら、子供達の罵倒は留まる所を知らず増幅していった。
「コイツはただの化け物じゃねえぞ、人殺しだ!女王は自分の娘を殺した化け物を飼ってるんだぜ、悪趣味だよなぁ」
「!」
知らず知らず俯けていた、頬の筋肉が瞬時に強張った。
耳を疑った。
弾かれたように顔を上げれば、紫色の小さな瞳と視線がぶつかる。
そこには優越感のようなものが登っていた。
「オマエ自分が飼われてる自覚無かったのかー?でもなんの役にも立たないんだから、家畜以下だよなぁ」
筋を切られたように顎が落ちる。
余りのことに思考と感覚が飛んでしまった。
祖母を罵倒されたことに対する驚きではない。もちろんそれも含まれていたが、遥かに上回る絶望的な驚愕に意識を塗り潰された。
今の言葉は、こんな見るからに足りなそうな少年が、自ら編み出した台詞とは思えない。いずれ誰かの口真似だろうと瞬時に悟る。
誰かが―――大人が、口にしたのだ。
祖母を、この国の女王を、そう嘲ったのだ。