闇姫の譚
突然の豹変に怯んだビアンカを注視したまま、ルルーは無表情に繰り返した。
「ねえ、なんでお祭りに行かないの?」
半歩身を乗り出し、重ねて問う。
「アンタ、この国のお姫さまなんでしょう?なんで自分の国の一番大事な行事に参加しないの?」
躊躇も逡巡も無く、土足で踏み込まれたビアンカの頬に羞恥の熱が走った。
蛮族の娘と厭われてきた彼女は、アイデンティティーをフィリ王家に求めずにはいられなかった。なのに王族としての責任を何一つまっとうできていないジレンマは―――例え傷みから眼を逸らすことはできても―――ビアンカの神経を蝕まない日はなかった。
半ば常態化していた矛盾を真正面から糾弾され、狼狽と屈辱で目の前が真っ赤になった。
食い縛った歯の合間から声を絞り出す。
「…あんた、おばあ様に私のこと聞いたんじゃないの?」
「うん」
「…だったら、なんでそんなこと聞けんのよ」
「それが分かんないんだな」
「何が分かんないのよ!私は異端児なの!化け物の姫なの!外に出たら苛められるのよ!」
掴み所の無いルルーの言動に、遂に爆発して大声で怒鳴った。
「私が野蛮な外国人の娘だって大人はみんな思ってる!赤い瞳の化け物だって!冗談じゃないわ、そんな下らない理由で!私は何も悪いことなんかしてない!ただ生まれてきただけで!私は何もしないのに!」
「しそうな顔してるからじゃないの?」
事も無げなルルーの切り返しに、ビアンカは束の間ぽかんとした。
「………は?」
「例えばさー、あと四、五年してジェラーが亡くなったとして、アンタが一人この状況に取り残されたとして―――」
「ふざけんな!」
噛み付かんばかりに食ってかかられ、ルルーはあれれと眼をしばたたく。まだ本題に突入してもいないのに、逆鱗に触れるのが早すぎやしないか。
「おばあ様があと四、五年で死ぬはずない!おばあ様は体は頑健だもの!もっと長生きするわ!」
「え、そこ?」
「そうよ!」
「そこはただの過程だから、じゃああと十年後でいいよ」
目下、重要事はそこではない。
「とにかくそうしてジェラーがいなくなって、アンタが一人この状況に取り残されたら、アンタは間違いなく自国に害を成すよ。そして自分がこうなったのはお前達の所為だって、民を罵倒するね」
「そんなことしない!」
即座に否定が飛び出した。これ以上の侮辱は己の全尊厳に関わる。絶対に言い負かさなければならない。
胸に手を当て、声高に断言する。
「私はフィリの正統な王女だ!自分の民に牙を剥くような真似は絶対にしない!」
「じゃあなんで外に出ないの?」
どうしてもその問い掛けから離れないルルーに苛立ちを倍加させ、ビアンカは力の限り怒鳴り散らした。
「だから、出れば苛められるって言ってるでしょう!国辱の塊だ、赤い眼の化け物だって!」
「言い返せばいいじゃない。私はフィリの王女だ、現女王の孫娘である私になんて口を利く、王族に向かって無礼だって」
「そんなこと言ったら余計馬鹿にされるわ!私はこの国では厄介者なのよ!」
「さっきと言ってる事食い違ってない?」
「うるさい!どっちも本当なんだから仕方ないじゃない!」
転瞬、ハシバミ色の瞳がすっと細められた。
「―――アンタの誇りなんてその程度なのねぇ」
突然口調が変わり、ビアンカは今度こそ凍り付いた。
得体の知れない恐怖に襲われ言葉が詰まり、反射的に身を引く。
ルルーの背は低く、然程大柄でもないビアンカより頭半分小さい。だから実際には、自分が彼女を見下ろしているのに、どういうわけか彼女の方に見下ろされていると感じた。
見くだされている、ではない。見下ろされている。それも遥かな高見から。
「言い返せないのは反撃が怖いからじゃない。民に対して後ろめたいから。アンタが自分を心の隅っこで蛮族だと決め込んでいるからよ。
それなのに、王女としてのプライドばかり高くして、結局何もしないで自分を誤魔化してる。馬鹿馬鹿しいったらないわね」
突如として、ルルーが高らかに哄笑した。他人の心を掻き乱す嘲りの笑いだった。
「この、根性なし」
挙動も口振りも嘲笑も、いとけない容姿には不釣り合いに老成し、異質だった。なのに不思議と様になっていた。
「民草にはアンタの本質が分かるんだよ。だから余計攻撃したくなるの。将来の敵になる予感があるから」
「何言ってんのよ!もとはといえばどっちが―――」
「ほらそうやって自分のことは棚上げにしてる」
くりくりとしたハシバミの瞳はいっそ無惨な程冷たい光を宿しながら、特定の過去を反射していた。
ルルーもかつて父母を―――全く謂われの無い中傷で足蹴にされ、責められ、プライドを汚され、生まれたことを貶された。
ただ彼女の場合、天性の直情型の性質上、見て見ぬふりも泣き寝入りもできず、言った連中を一人残らず血祭りに上げてやった。自国――ジルの統べる界――を侵犯されたくなかったので、命こそ奪いはしなかったが、恐らく死んだ方がずっとマシだっただろう。怒りに任せて、それほど激烈な報復に走ったのだ。
思い返せば独断でやりすぎたと反省する点はあるものの、行為自体を悔いたことは皆無だった。自分の大切なものを傷つけられ、怒れないような不誠実ではいられなかった。
それでも出生を明かされて以降、おびただしい程の数、無神経な物知らずに嘲笑を浴びせられ、理不尽に傷つけられてきた。
国民の礎となり無条件で愛し敬われる存在の星神姫と、死者に関わる役目と偏見から必然的に嫌悪される死神総督の娘。奇異な眼で見られない方がおかしかった。
ルルーもまた、産まれに関わる『痛み』を知っていた。
それを自分の一部として、心の中に持っていた。
だからこそ、目の前で赤い瞳に当惑を湛えた娘の境遇を、偽善的ではなく、経験を踏まえて理解することができたし、小さな両肩に背負わされた宿命の重さを、誰よりも思いやることができた。
そして思いやることができたからこそ、同情する気は一切起きなかった。
「アンタが今のアンタになったのを、人の所為にするのは天性の狡さだよ。そういうのって子供のうちに直さないと一生ものになるんだって」
「なによ…偉そうにっ!死神のくせに…っ!」
「そう、死神よ。わたしは死神の娘よ。それが何?」
負け惜しみのような暴言をさらりと受け流す。
今更そんな事実を突き付けられた位で、狼狽える程心に隙間は無い。
自問し苦悩する時期は、疾うの昔に過ぎたのだ。
「わたしの父様と母様も結婚は許されなかった。アンタと同じ、私は元々生まれてきてはいけない存在だったのよ。両親の立場を危うくするから。
生まれてこない方がよかったなんて、耳にタコができるくらいいろんな奴等から言われてきたホントウのことよ。分かりきったホントウのことを偉そうに言うようなアホには、好きなだけ言わせておけばいいのよ」
出し抜けな告白に眼を剥いたビアンカをひたと凝視し、ただ事実を語る口調で淡々と言葉を紡いでいく。声にも表情にもおよそ感傷や自己陶酔めいた含みは感じられなかったが、ビアンカを見つめる眼差しは苛烈に鋭く、根底にはなまなかな敵意や悪意では揺るがない強さがあった。
驚きと混乱で呼吸も止まったビアンカを見据えたまま、ルルーはふっと口元を綻ばせた。
「でも、私はアンタみたいに自分の生まれを恥じた事なんて一度も無い。苦しんだ時はあるけど、何を言われたって、生まれたことを悔いたりなんかしていない。
―――母様は私の命、父様は私の誇りだ。この二つを汚す者は、誰であろうと絶対に許さない」
静かなうちに激しさを孕んだ口調には、淡々とした実感と決意が感じられ、その確固たる意志の一言一句が胸に深く突き刺さった。
絶句するビアンカを覗き込むように、ルルーが微かに腰を落とす。
「自尊心って、そうやって守るものじゃないの?他人に踏まれても傷つけられても、歯を喰い縛って俯くことしかできない弱虫に、プライドなんて上等なものを持つ資格、最初から無いよ」
大きな瞳を柔らかく細め、にっこりと明るく破顔した。
「好き勝手当たり散らして、拗ねて、せいぜい無駄でやるせない一生を送ってちょうだいな。
―――でもそのまま表に出てくるのはやめてね?中途半端に姿を見せられても、民には迷惑だし目障りなだけだから」
無邪気な笑顔とちぐはぐな言葉を一つ放り捨て、死神の少女は軽やかに身を翻した。華奢な背中で、濃紺の結い髪が二つのリボンのように揺れる。
直接突き飛ばされたような衝撃を体に感じながら呆然と立ち竦むビアンカの耳に、今度はちゃんと階段を踏む音が届いた。その単調で一定のリズムが、空洞と化した頭蓋の中で、いつまでも耳鳴りのように反響していた。
自分は逃げてばかりだ。
―――逃げ切ることも、できないくせに。