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水神の謁見

それは、一種異様な光景だった。


屋内においてすら、暖を取るための火を絶やせばものの数分で指先が壊死する。

そんな極寒の大気を伴侶として歴史の長道を歩いてきた北方の国、フィリ。


夜半、灰色の王城の小さな一室。

窓の無い石壁に囲まれたその部屋は、中央に巨大な水鏡が据えられており、まじないの類を目的とした作りをしていた。

狭い部屋の四隅には濃紫色の紐が下がり、それぞれの下方で焚かれる香により、独特の熱気と高潔さが漂っている。


そして扉の正面の縁近くには、ランプを手にした細い人影が仁王立ちに立っていた。


影の正体は、防寒着の上に最高位を示す紫色のローブを羽織った年配の女性だった。真白き髪は簡素に纏めて結われ、背中に少し流している。色素の薄さは加齢によるものではなく、この山脈に生きる人種に共通した特徴だ。

衣と同じ深い紫の瞳は宝石のように硬質な光を湛え、鋭角な皺を刻む貌や、革手袋に隠された肉の薄い掌など、その体に若さは欠片も見出せないが、目鼻のパーツと肌の質感が、かつての美しさを残り香を、辛うじて彼女の容貌に留めていた。


異様な雰囲気の中に立つ、鋭利な気配を纏う痩躯の老女。

彼女はゆっくりとした動作で手元に据えた金色の灯火を翳し、水鏡を照らし出した。


水はちゃぷりと音を立て、波紋を生んだ。

風も、水滴も無いままに、鏡面が揺れる。




『―――久しいですね、ジェラー』




冷たい水の底から響く、静かで厳かな声を聞き届け、ジェラーと呼ばれたその女性は数歩下がった。


「お久しぶりです、水神様」

年を感じさせぬきびきびした声と動作で腰を折り、深々と頭を垂れる。

と、頭上からころころと愉快げな笑みが零れてきた。


『まあ、そんな堅苦しい挨拶はいらないと、いつも言っているでしょう?我々は旧知の仲ではありませんか』

親しみさえ感じられる口調で、そんな言葉が降り注がれる。


先程まで影一つ無かった水面に、青白く丈高い女が屹立していた。


亡霊じみた出現と様相だが、その姿からはあたたかな光気が溢れている。豊かに流した真っ直ぐな長髪は、限りなく白に近い銀。同色の睫毛に囲まれた切れ長の双眸も同じく銀で、乏しい灯りの中で透明な奥行きを見せる。卵形の輪郭はふくよかで瑞々しく、頭部を包む紗のベールも爪先を隠す長い裾も白に統一され、現実感の欠けた凛々しさと、侵し難い高貴な気品に包まれていた。


伏せた眼差しはどこまでも深く、存在そのものが聖性のようだ。

否、そのもの。



水神スーフェン。この世界の頂点に座す星創六皇神の一柱にして、建国時よりフィリが主神として崇める女神。この鏡の間は、王城でも代々、王や女王のみが入室を許可された、女神と交信するための特別な、不可侵の場だった。



氷国の女王は臆することなく、恭しく言葉を拝した。

「過ぎた気遣い、望外の幸せ。ですが、貴女様に礼を欠くなど、私の矜持が許しません」

『相変わらず堅苦しいこと』

幾重にも重ねた袖口で口元を隠したスーフェンが笑う。

皮肉や咎めの調子は無い。このやり取りは既に、会話の一部だからだ。



変わらぬ女王の態度に軽く息をついてから、水神が本題に入った。

春宵節(しゅんしょうせつ)まで一ヶ月を切りましたね。祭りの準備は滞りなく?』

「慈悲深い女神様の加護により、例年通り進んでおります」

『それは良かった。私も最後の日には貌を出しますね。民にもそうお伝えなさい』

「御意にございます」



固めた拳を地につけたまま、頭を上げないこの国の女王に、義務的なやり取りを終えた水神はふっと眼を細めた。

過去を掬い、懐かしむ眼差しだった。


『時の経つのは早いこと。わたしには、そなたが即位した時のことが、昨日のように思われます』


そこでちょっと呼吸を止め、微笑と共に訂正する。


『…いいえ、そなたが生まれた時のことも』


ジェラーは辞儀の姿勢を崩さず、無言で紫の眼を伏せた。

胸に迫るのは、万感と熱。


彼女の記憶に間違いがなければ、この水神と初めて対面したのは、彼女の年齢が片手の指に足りぬ頃だ。随分遠くまで来たと実感するのは、あの頃と寸分違わぬ神々しい姿を前にしているからだろうか。


『では、祭りを楽しみにしていますよ』

「承知しました」

『そうだ、何か必要なものはありますか?なんなりと申しなさい』


これも型通りの問答だ。スーフェンの申し出に、ジェラーが何か要求することは殆ど無い。彼女は余計なことは何一つ言わぬ、実直すぎるきらいがある。スーフェンが美徳と評し、同時にもう少し改善されればと心密かに案じている側面だ。


なので、普段よりは長い僅かの沈黙が、思案によるものだと気付いたのは、ジェラーが口を開いた後だった。


「…では、恐れながら一つだけ」

『…ほう?』


珍しいと興味を覗かせ、水神が童女のように小首を傾げた。銀紗がさらりと肩口まで広がる。


『何なりと聞きましょう』


承諾の返事に、ジェラーは初めて顔を上げた。衰えを知らぬ意志の強い瞳で、水神と視線を合わせる。


「此度の春宵節に、ルールロワリス様をお招きしたく願います」

『ルルーを?』


意表を衝かれ、スーフェンの声が上擦った。

『何故ここでルルーの名前が出てくるのです?』

問い掛けは静かだが、明らかな疑心が込められていた。

けれど、その反応は予測済みだったフィリの女王は、狼狽えることなく言葉を続けた。

「以前お会いした折、緋霊花(ひれいか)を見せる約束を交わしました」

『それは面妖な。ルルーは花を好みませんよ?』

細い指を頬に当てて、困ったように問いを重ねる。女神の物言いは既知の存在を語る響きだった。


当然だ。ジェラーが唇に乗せたのは、スーフェンの同胞である六皇神の男神、ジークフリートの娘の名。それこそ、赤子の頃から関わってきた少女である。


「存じております。ですが、緋霊花は芳香を持たないと話したところ、それなら見てみたいと申しておりました故、わたくしは約束致しました」

『ああ、そうでしたか』

合点がいった様子で水神が相好を崩す。それだけで辺りの空気が柔らかくほぐれた。

銀の瞳を優しく細めて首肯する。

『わかりました、私からルルーに伝えましょう。話が通り次第また連絡を入れます』

「ありがとうございます」


一瞬だった。水神の姿が落ちるように消滅する。まるで足元の水中に沈んでしまったように。


途端、無機質な部屋を満たしていた光気が幻のように消え失せた。手元の明かりが貧弱になったと感じたのは、単なる錯覚ではないだろう。



衣擦れの音をさせながら、女王が冷たい床から立ち上がる。それを合図に均衡が崩れた。


たった今まで水神が佇んでいた水面に薄氷が走り、幾重にも亀裂が生じた。

軋む音を発しながら、透明な水は瞬く間に水としての質感を失い、ひび割れ、折り重なり、歪な輪郭を形成し、あっという間に白く濁り果て、底が見えなくなってしまった。


白濁した氷面を、感情の窺えない紫の眼で見下ろす。


まるで未来を拒むようだ。そう思ったのは、自身の弱さからだろうか。

歪んだ水鏡をいくら凝視したところで、答えは見つからなかった。





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