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第四章 天変地異

 第四章 天変地異


 「あ、また光ったね」

 と、命が言ったとたんに、ズドーンという腹にひびく物凄い音がした。

 そこにガラガラガラと、なにか重たいものを引きずるかのような音もつづく。

 そしてほんの一時だけ静かになったかと思うと、またすぐ光と音がやってくる。

 もし今、この雷が止まってくれたとしても、まるでバケツをひっくり返したかのごとく降りつづく大雨は、いつ果てるともしれない。


 哲也と命の二人は、もうすでに一時間以上も、この雷と大雨に行く手をさえぎられていた。雨量は五百〜六百ミリに達するかもしれない。とてつもない荒れ方であった。

 彼らはハクウンボクの中腹で雨宿りをしている。密生した卵形の葉が、二人の屋根になってくれていた。


 今朝、目を覚ました彼らは、お互いやけに照れくさそうな顔をしつつ話し合い、哲也の家が善福寺で、命の家が吉祥寺と、距離が近くて方向も同じと知った。その幸運な偶然に小躍りした彼らは、さっそく出発したのである。

 哲也は、青梅街道を行くルートが一番よいと考えた。

 広い道なので比較的進みやすいであろうということと、まっすぐ行けばいいだけなので現状でも迷いにくそうであったのが理由である。

 しかし、新宿通りを駅に向かって西に歩き、巨木の園と化した東口の駅前広場にさしかかったあたりで、命は空の異常に気づいた。

 木の間ごしに細々と届いていた陽光が急になくなっている。さらに、枝と木の葉で切り取られた狭い空を見上げてみると、異様な形の雲があった。

 雲底に無数のこぶのようなものが垂れ下がっている。ボコボコと人の拳を思わせる雲が、低く厚くたちこめる雲の下にくっ付いていたのであった。

 コットンボールクラウドか。

 哲也はこの雲を知っていた。そして危険を感じた。

 とても珍しい形の雲だが、これがあらわれたら大気の状態が超不安定になっているという証拠なのである。上空で乱気流が渦巻き、地上に向かって下降気流がふいている時に、こういう雲の形になる。

 ちなみにこれ、日本名では乳房雲という。だが、その名前は昨夜のできごとを思い出させるので、オクテな哲也の防御本能が洋名で呼ばせていた。

 しかし乳房がどうのこうのはともかくとして、大気が不安定になっている理由についてなら、哲也はすぐに思い浮かべることができた。

 昨日から今日にかけての異常なむし暑さは、大量の水蒸気と上昇気流を発生させていたであろう。これで大気が不安定になったわけである。

 そして水蒸気と上昇気流は、空の低い位置に積雲を産む。この時、上空に冷たい空気の層があれば、積雲は積乱雲となるわけだが、今あるのはコットンボールクラウドだ。積乱雲どころではない現象が目の前にある。

「大里先輩、これは危ないかもしれませんよ」

「空のこと? たしかに暗くなっているけど、雨でもくるの?」

「たぶん、大雨になります。それも化け物クラスの。水がでることも考えると、位置が高くて人が休める場所を早くさがさないと危険です」

「わかったよ。ちょっと待ってて。まわりをざっと見てくるからさ」

 命は哲也の言葉にすぐにうなずいた。実は自分でも、イヤな予感がしていたのである。

 彼女は足にケガがある哲也をその場に残し、すぐに動き出した。


 おや? なんだ、あの足は。

 哲也は木の枝を移動していく命の足を見て驚いた。

 今の彼女は裸足なのだが、その足の指が五本とも大きく広がって、その一本一本が独自に動いていたのである。さらに足の裏も、まるで手のひらのように動いて枝をつかんでいた。

 先輩って、前からあんな足をしていたっけ・・・。

 剣道の稽古や試合の時、彼女の足が、あんな特異な形や動きをしていたという記憶などない。

 昨日はいろいろありすぎて、つい哲也も忘れてしまっていたのだが、こうした災害時に一番重要なのは靴なのである。ガラス片などで足に傷をおってしまうと、避難もままならないからだ。

 だというのに彼女は、はいていたサンダルをなくしていらいずっと裸足で、あれだけ走ったり飛んだりしてもすり傷一つない。足の皮膚が硬質化しているとしか考えらないが、いくら剣道で裸足になれているとは言っても、プロの相撲取りではないのだから限度があるはずであった。

 異常な力、暗闇の中でも見える目、そしてあの足・・・。

 彼女の変化は、すべて昨日からのようだ。そして昨日とは、植物たちが狂った日でもある。

 植物がこれだけおかしくなったんだ。人間にも妙なことが起こって当然かもしれないな。

 そう思い、一応、自分の体もチェックしてみる。だが、彼に変わったところはなかった。

 先輩はどうかなってしまうんだろうか。

 これは想像がつかない。

 唯一の救いは、自分の体の変化を、命自身があまり気にしていないことだ。便利だからいいじゃないていどにしか、本人は考えていないようなのである。

 その精神構造もすごいけど。

 しかし悩んだところで、解決策どころか、その原因すらわからないのだ。命の楽観性こそ正しいのかもしれない。

 そう思い、これについて考えるのは、ひとまずやめにした。


 その後、命が帰ってきて、ハクウンボクの枝と葉が複雑に入り組んだ、天然のテントを見つけたと言ってきた。そしてそこに移動し終わったころ、スコールのような大雨と、間断のない雷が、彼らをおそってきたのであった。


 哲也と命は、地上から十二〜十三メートルの所にいた。

 そこから下をうかがうと、雨水がどんどん地下へと流れ込んでいくのが見える。そのあまりの量に、地下が水でいっぱいになってしまうのも時間の問題に思えた。

 自分たちがいるハクウンボクの根元は、枝や葉で隠されて見えない。だが、根元を水流に洗われているらしく、ゆさゆさと気味悪くゆれている。なんだか、今にも倒れそうな気がしてきた。

 ここにいて大丈夫か・・・。

 哲也は不安になった。

 雷が木に直撃する危険もある。一つ所にいつまでも長居するべきではないかもしれない。「ちょっと、逃げようよ。ここはもうヤバいって」

 情けない口調で命が言った。

 昨日、彼女は、野生のカンとしか言いようがない危機感地能力を随所で見せている。そんな人が逃げろと言うのだから、哲也としてもその言葉に従いたい。

 だが、では逃げるとして、いったいどこへ向かえばいいというのか。

 まわりを見回しても、視界の悪い暗い森しかない。地上は激流、空は雷の集中砲火だ。逃げるとするなら、枝から枝を進むしかないだろう。

 しかし、ただでさえ歩きにくくすべりやすい枝の上を、この状況の中で移動などできるものなのか。

 実のところ、今の彼らに、雷から完全に逃れる術などない。雷に打たれるかどうかは、しょせん運しだいなのである。ならばいっそのこと、ここでじっとしている方がましではないのか。

 しばし逡巡する哲也。

 その思考のすきを狙ったかのように、グラリとハクウンボクが大きくゆれた。

 ゆれを感じたとき、すでに彼らの体は、空中にいきおいよく放り出されてしまっていた。バキバキという倒壊音が、後ろから聞こえてくる。

 「神野くん!」

 命は、とっさに哲也の腕をつかんで引き寄せ、彼を小脇に抱えて走り出した。

 ハクウンボクから、前方のオオモミジへ。しかしこれも倒れだしたので、さらに次のフウの木へ。そしてフウが倒れる前に、横のボダイジュへ。

 彼女は、ドミノ倒しのごとく次々と倒れる巨木の森を、枝から枝へと、哲也を守りつつ風のように駆け抜けていく。

 雷鳴とどろく中とはいえ、こうして走るのはヒロハカツラにつづいて二度目である。命には余裕すらあった。

 しかし、それが油断につながった。

 「ああっ!」

 ボダイジュの先は、なにもない空間だった。

 その向こうのヤブツバキまでには、かなり距離がある。だが,すでに勢いがついていた彼女は急に止まれない。一か八か、ヤブツバキに向かって飛ぶ。そして見事にとどいた。

 しかし着地したとたん、バギンという音をたてて枝が折れてしまった。

 「きゃああああああ!」

 命は抱えた哲也ごと、激流渦巻く地上へ落ちて行った。


 石館義男は、真っ暗な空に美代子の姿を見いだしていた。

 五十メートル級のサクラの、頂点近くに腰をおろした彼は、雨にぬれるのも雷が近づくのもかまわず、ただ、空の一点のみを眺めつづけていた。

 濡れネズミのようになった彼をピンク色の花弁がおおう。狂い咲きに花を咲かせたサクラは、自分のかけらを盛大に嵐の中に振りまいている。

 花盛りのサクラをよく見ると、花の上にさらに花がつき、ものによっては三段にすらなっていた。まるでサーティワンアイスクリームの二段、三段重ねアイスのようだ。

 これは貫生花といい、花芽をつける過程で急な高温にさらされたりすると見られるものである。サクラ以外でも、どんな花にも起きうるが、この異常がはじまるまでは、かなり珍しい現象であった。

 そもそも、今やすべての植物が単性生殖をしているのだから、ほんらい花など必要なくなったはずであった。しかしそれでも、植物たちは花を咲かせ、実もつける。それはどこか、平和だった時代を彼らなりになつかしんでいるかのようにも見える。

 狂った天候に、狂った花、そしてそこにたたずむ一人の男。

 その光景は、騒々しいばかりで落ち着きがなく、しかしどこか緊張感ただようものであった。

 「サクラか・・・」

 義男は、この花を見ると思い出すことがあった。

 「あれから何年すぎたのか・・・・。美代子と二人で小金井公園に花見にいったよな」

 空に向かって話しかける。

 下手に口をひらけば猛烈な雨水が中に入り、呼吸が苦しくなるほどであった。だが義男には、そんなことを気にしている風もない。

 「そうか。もう三年もすぎたか。そうだな。まだ美代子は高校生だったものなぁ。小金井公園はこんでて、入るのすらむずかしかったんだよな。お前が秘密の入り口を知らなかったら、花見はできなかったよな」

 コクコクと一人でうなずく。

 「美代子が作ってくれたお弁当は、本当においしかった。お前は料理も上手だからな。うん。また行こうな」

 義男はほほ笑んだ。

 雲間に美代子の顔が浮かび、うれしそうな笑顔を見せる。しかし、その表情はどこか、父親に対するものではないように思えた。女の匂いがするのである。

 あの男・・・。

 義男の脳裏に、写真にうつっていた哲也の姿がよみがえった。

 もしや美代子は、あの男が欲しいのでは? そのために、俺にやってもらいたいことがあるのでは?

 立ち上がった。

 彼の眼下に広がる東京は、完全に闇と森に占領されてしまっている。

 しかし、雷がおとずれる一瞬だけは、さまざまな緑色が集まった樹海の中から、超高層ビルが巨大な影を突き出している姿を見ることができる。その光景はまるで、人から見捨てられた廃村の、古い墓場のようだ。

 その墓場のような巨木の森の中へ、幽鬼のような石館義男が吸い込まれていった。


 水の流れは複雑の一言につきた。

 命と哲也を抱え込み、水流はこちらで渦を巻き、あちらで逆流しと、流れ同士の衝突を繰り返しながら、少しでも低い場所へと殺到する。

 ここ新宿東口は、今や手つかずの巨大森林だ。しかも、この木々は急速成長をした影響からか、見た目の立派さのわりには非常にもろいらしく、水に根を洗われるとかんたんに倒れてしまう。

 これによって、この辺りはあらゆる場所が障害物だらけだった。水は単純に高きから低きに流れるということができない。

 命は哲也を抱え、襲いくる木の破片やら建物の残骸やらを左手一本で防ぎながら、この流れの中をなんと泳いでいた。

 だが、さすがの超人的な気力と体力も、どこに流れていくのか、いつまでこれに耐えればよいのかわからない状況の中で、容赦なくけずられていく。

 さらに、腕の中の哲也はぐったりとして、死んだように動かない。

 死んじゃってなんかいない! 神野くんは大丈夫!

 心で繰り返すが、最悪の想像が頭をはなれず、さらに力が奪われる。

 流木が前にあらわれた。左手の一撃を加え、それをバラバラにする。

 水の負荷を感じさせない彼女のパワーではあったが、使えばその分確実に体力を消費する。

 限界は近かった。

 誰か助けて! 神野くん死んじゃう! 私も死んじゃうよ! 誰か! お願い!

 必死に祈った。

 その祈りが天に通じたのか、命は流れの中に、文字通りの救いの手を見つけた。

 誰かが、この手をつかめとばかりに、水流に深く手を差し込んでいたのである。

 それを見た彼女は、まさにおぼれる者ワラをもつかむの心境で、その腕にかじりつく。なんだかやけに固い腕であった。

 左手で腕をにぎり、右手で哲也を抱えながら、いっきに自分を水上に引っぱり上げる。腕の主はなにもしてくれなかった。

 しかし、命と哲也二人分の体重と、水流による加速が、その腕一本にいきなり加わったのである。腕は一瞬で折れてしまった。間一髪で無事に水から上がった命は、ボキリというイヤな音を聞いた。

 あわててふり向くが、そこに人の姿はない。さらに水面も調べたが、そちらにも人の姿などなかった。

 ああ、なるほど。人と木を見間違えたか。

 そう納得した。

 とうぜん考えられることであった。昼なお暗い大雨の森の中、しかも流木だらけの水流をもがいていた命なのである。人の腕を認識できたという方が変と言えば変だ。

 他人の腕を自分の体重でへし折ってしまったと思った彼女は心底ホッとし、感情のすべてを哲也へとふり向けた

 

 重なり合った枝のおかげか、ここは雨の落ちてこない場所であった。

 命は哲也を、できるだけ平らで渇いたところに寝かせた。

 しかし、それからどうすればいいのかが、彼女にはわからない。

 「死んじゃってねぇよな・・・。お願い、お願いだよう・・・」

 呪文のようにつぶやきつつ、とりあえず哲也の顔に自分の顔を近づけてみる。

 ・・・息してる・・・。

 安心し、とたんにドッと疲れを感じて、その場に座り込んでしまった。

 一応、哲也の胸や腹に手をおいて調べてみると、奇跡的にも彼は水も飲まなかったらしい。今はただ単に気絶しているだけなのだ。

 「よかった〜」

 思わず哲也の上に突っ伏した。

 「ん・・・」

 「あ! 目、さめた?」

 命はあわてて身を起こし、彼の様子をうかがう。

 「先輩? ぼくはいったい・・・?」

 上体を起こした哲也だったが、まだ本調子ではない。右手でこめかみを押さえ、目には焦点があってない。

 「神野くん、体は大丈夫? ケガしてねぇか? どこか痛くない? 足は? ね、変なガマンなんかするんじゃないぞ!」

 そんな彼に、命は矢つぎ早に質問しながらにじり寄る。

 「え、いや、あの」

 いまだ半覚醒の状態にいる哲也は、伸しかからんばかりの勢いでせまる彼女をしのぎきれない。

 「心配したんだぞ! 木から落ちちゃうし、水の流れは早いし、 神野くん動かないし。

 私、私、すっごく心配したんだぞっ!」

 「す、すいません。心配をおかけして。でも大丈夫みたいです」

 「本当か? 本当なんだな?」

 あ、そういえば。

 必死に命をなだめつつ、哲也は自分の身になにがあったのか正確に思い出した。

 そうだよ。ぼくは先輩に抱きかかえられて、それで意識が落ちちゃったんだ。

 「よかった!」

 命は哲也に飛びつき抱きしめた。全力で。

 彼の肋骨がメキメキと音をたててきしむ。

 これだ。この力で締め付けられて、さっきは気絶しちゃったんだよ。

 彼女はしばらくはなしてくれそうもない。万力のような力が圧迫しつづけてくる。

 今度こそ気を失わないように、腹筋を固めて耐え続けるしかなかった。

 よく考えてみれば、ぼくが水を飲まずにすんだのって、その前に気絶しちゃってたからなんだろうな・・・。

 世の中なにが幸いするかわからないものだと、哲也は痛感した。

 

 「それじゃあ、私はこの辺をちょっと見てくるよ。ここがどこなのか知りたいし、食料だって見つかるかもしんねぇしな。神野くんは休んでろ」

 やっと万力地獄から哲也を解放した命は、そう言って哲也に背中を向けた。

 「あ、食べ物も大事ですが、今は服や靴を優先的にさがしてください。ずぶ濡れでは体力が持ちませんし、靴だってボロボロもいいところです」

 その純白の背に向かい、あわてて注文をつける哲也。命の様子では、食糧しかさがしてきそうになかった。

 「あ、ふ、服ね・・・。そ、そうだな、それも大事だな。私はいいけど、神野くんは靴もいるだろうし・・・」

 服という単語を、命はやけに意識してしまった。

 激流の中で脱げてしまい、ついにパンツ一枚になってしまっている自分を見下ろす。もはやすべて丸見えだが、哲也の視線から隠すのはイヤだった。

 彼女はノルウェー人の母親から、「健康で若い女子たるもの、惚れた男の前では全裸が基本! 脱がんでどうする! 北欧魂を見せつけろ!」と、厳しくしつけられて育った人なのである。

 「ええ、まあ・・・」

 北欧魂なんざ知る由もない哲也は口ごもる。

 日本男児の彼は、ずっと目のやり場に困っていたのだ。やたら丈夫なポニーテールが、いまだに彼女の背でゆれているのだが、なんだかタチの悪いギャグにしか思えない。

 「でも、でもさ、私はさ、このままの方がいいんだけどな・・・。動きやすいし・・・二人っきりだし・・・もう他人ってワケじゃなし・・・」

 「はい?」

 命の言葉は、ゴニョゴニョと口の中だけで言っていたので、よく聞こえなかった。

ハダカは見せつけたいくらいなのに、服を着たくないと知られるのはなぜか恥ずかしい。自分で自分の心がわからない。

 「なんでもねぇよ!」

 一声叫び、真っ暗な森の奥へ、真っ白な裸身をおどらせた。

 

 一人になっている間に、哲也は自分のズボンのポケットをまさぐった。そこには金鎖でベルトとつながれた懐中時計が入っている。

 彼の時計は、六十年ほど前につくられたヴィンテージウォッチだ。手巻きで、時刻表示のほかは機能を持たない。もちろん防水加工もない。

 時計はポケットの中にあってくれた。

 だが、フェイスをおおうガラスは無残に割れ、時計自身も動きを止めていた。針も短針が一本しか残っていない。

 ため息がでた。予想はしていたが悲しかった。

 このパテックフィリップというメーカーの時計をなおせるのは、日本では数少ない機械式時計の専門家だけだ。今、そんな人をさがせるわけもないし、もし見つけられても部品がない。

 ついにお別れか。

 切なさに身を切られる思いすらした。

 五歳の時から十三年間もつかってきたものであったし、なによりもこれは、死んでしまった父親の形見なのである。

 この時計が動いているところを見ていると、哲也の失われた家族が、父親も母親も兄も、彼を無言で見守ってくれているような、そんな気になれたのだ。

 彼は、時計をざっとはらってガラスや部品の破片を取り除くと、それをまたポケットにしまった。動かないからといって、捨てるべきものでもない。

 ぼくは今、そうとう情けない顔をしていることだろうな。

 自分をわらう。

 そうなるとわかっていたから、命がいない時に時計の確認をしたのである。

 

 コンカンキン。

 その時、なにか固いものが木を叩いている音が、頭上から聞こえてきた。

 物思いにふけっていた哲也は、調子はずれの木琴みたいなその音に、イヤな予感がして顔をあげた。

 命はまだ帰っていない。

 その前に水流でかなり体力を消耗したはずの彼女であったが、飛ぶような勢いで暗い森の探索に出て行っていた。あの様子では、もう少し帰らないであろう。

 すると、この音をたてているのは彼女ではない。ではほかの生き残りの人かと言うと、それもちょっと考えにくい。

 コンコンコンコンコン。

 音はかなり高所で鳴っている上に、森中に反響している。人が起こしているものではない。

 ゴンゴンゴンゴンゴン。

 少し重たい音になった。それだけ音源が近づいたか。

 哲也は、自分のまわりにバラバラと木の破片が降ってきていることに気づいた。

 これはまずい!

 さっき感じた悪い予感が的中したと確信した。

 「大里先輩! お、お、さ、と、せ、ん、ぱーいっ!」

 まだ帰らない命に向かい、声を振り絞って叫ぶ。彼女の聴力なら聞こえてくれると信じた。

 「雹です! 今度は雹がきました! 早く、早く逃げてください!」

 さらに声を張り上げた。

 「雹がきました! 逃げてください!」

 ゴガァンッ。

 その時、彼の頭上にあった木々の枝がいっせいに折れ、大量の木片が落ちてきた。それとともに、今まではからみ合った枝によって防がれていた雹も、いっきょに地上へと殺到する。

 遮蔽物を取り除いた雹は、地表へ情け容赦のない爆撃を開始した。

 一個一個の氷の大きさは、なんと野球のボール並みかそれ以上だ。これの直撃をうけては、とても生きていられない。

 あわてて顔をめぐらすと、すぐそばに、ひしゃげたワンボックスカーがあった。その下にスライディングの要領で逃げ込む。間一髪で雹をさけたが、ムリな動きによって足に痛みが走った。

 車の下から、そっと外をうかがう。

 雹が地面をたたくマシンガンのような音と振動がひびいている。それ以外は、光のない森の底で彼に見えるものなどないし、なにも聞こえない。

 しまった。先輩がでかける前に、雹の可能性に気づいてさえいれば・・・。

 唇をかむ。

 コットンボールクラウドがあり、あれだけ激しい雷雨もあったのだ。雹がふる条件はそろっていたはずなのである。そのメカニズムを知っていながら、実際に雹が落ちてくるまで思いつけなかった。

 彼にはそれが悔やまれてならない。やはり耳学問のみでは現実に勝てない。

 ちくしょう! ちくしょう!

 涙しそうになった。

 時計なんかを見ているヒマがありながら、空を見なかった。死んだ人間を思い出していて、生きている人間を危険にさらしてしまった。

 ドガガガガガガガ。

 雹によるマシンガン掃射は、いつ果てるともなくつづいている。

 哲也が避難しているこの車も、雹の攻撃に耐えかねているらしい。刻々と車体の歪みがひどくなってきていた。この車がもつという保証はない。

 さらに、今、この時に、周囲の巨木の一本でも倒れてきたなら、彼には逃げ場すらない。

 「あきらめちゃダメだよ!」

 哲也の心に命の言葉がよみがえった。その時の彼女の瞳も思い出す。。

 雹の次はなんだ? これで終わりというわけではないはずだ。上昇気流が生まれ、そして雲をつくり大雨や雹をもたらした。ならば、次は・・・。

 知識を総動員して次を読む。

 今は他にできることもないが、頭を抱えて幸運を祈るだけなどということはしたくない。もしかしたらムダな努力で終わってしまうかもしれないが、最後まで自分の全能力を使って生き残る工夫をしていなければならない。

 それが、生まれてはじめて真剣に彼をしかってくれた他人である命との、大切な約束なのである。

 

 雹は十五分ほどで去った。

 それは哲也にとって長い長い十五分であったが、車はよく持ちこたてくれて、彼はぶじであった。

 まだだ! まだアレがくる! 次は必ずアレだ!

 「先輩! まだ動かないでください! まだ、こっちに来ちゃダメです!」

 哲也は、足の痛みもかまわずに車の下から急いではいでると、また声をかぎりに叫んだ。

 「体を固定できるところにいてください! 吹き飛ばされないように気をつけて!」

 自分も、太い木の根と根の間に移動し、できるだけ身を伏せる。

 「これからくるのはダウンバーストです! 強風がきます!」

 彼の言葉が終わらないうちに、ゴウッという音とともに、恐ろしく強い風が上からふきおろしてきた。

 強すぎる風を受けて呼吸もできない。哲也は必死に身をちぢめ、大地にへばりついた。目を開くこともできないが、さっきまで避難していた車が吹き飛ばされていく様が、かすかに見えた。

 ダウンバースト。それは、上昇した気流が下降に転じたものである。その風速はすさまじく、これの直撃をうけて電車が横転したことさえある。コットンボールクラウドがでた時は、強い下降気流も発生しているものなのだ。

 「ぐ・・・ぐぐっ・・・」

 息もできないが、体は全力で押さえつけていないと、すぐに持ってかれそうになる。

 飛んできた固いなにかが体のどこかに当り、また気を失いそうになる。だが、ここで意識が落ちたら死ぬほかない。歯を食いしばって痛みに耐えた。

 「神野くん」

 命の心配そうな顔がアップで見えた。その声も聞こえてくる。もはや彼には、この命が幻なのか現実なのかさえ、わからなくなっていた。

 

 雹は十五分だったが、風は十秒もたたずに消えた。

 なにも見えない。なにも聞こえない。

 森は、完全な無風で無音という状態になっていた。光もないから真の闇である。

 ぼくは生きているのか・・・。

 雹と風の攻撃にさらされ、それらから必死に身を守った哲也は、精も根も尽き果てていた。

 一人ぼっちだ。またぼく一人が残されたのか。

 光もなく音もなく、疲れ果てて体の自由もきかない。彼の心は孤独におかされた。

 イヤだ! もう一人はイヤだ! 

 闇をもがく。

 イヤだ! 

 手を伸ばす。動かない体で、必死になにかをつかもうとする。

 「見つけた!」

 その時、声がした。

 「絶対、生きてるって信じてた!」

 声はかなり高いところから聞こえてきた。

 そしてすぐに、なにか大きなものが、彼のとなりにおりてくる。

 「神野くん!」

 クロガネモチの巨木から飛び降りてきた命が、哲也を抱きしめた。

 「せ、先輩・・・」

 「神野くん、今はだまって」

 命は、背中のナップザックの中から、ミネラルウォ―ターのペットボトルをとり出した。

 「ありがとうね」

 哲也の上体を起こし、その口にペットボトルをかたむけつつ、彼女は言った。

 彼の体内に、新鮮な水が流れ込んでくる。腕も足も背中も痛み、さらに口中には刺すような感覚があった。それでも、今までの人生でもっともおいしい水だと思えた。

 「神野くんの声、聞こえたよ。雹の時も、風の時も。私もなんか予感があったもんだからさ、あれを聞いて、すぐ逃げなきゃってわかったんだ」

 やわらかく笑い、「それにしても神野くんが無事でよかった」と、また抱きしめた。

 「でも先輩、ぼくは、雹のことに寸前まで気づけなくて・・・ぼくは・・・」

 水を飲んで、少し落ち着いた哲也だったが、命の目をまっすぐに見られない。思わずポケットの時計をにぎりしめていた。

 「おいおい、なに言ってんだよ。誰もそんなことまで頭にまわるワケないだろ。神野くん、なに責任感じちゃってんだよ。あはは、変なヤツ〜」

  口調は明るいが、瞳に涙をためている。

 「神野くんも私も無事。それでいいじゃん。ね、難しく考えない考えない」

 「ありがとう、先輩」

 「やだな、お礼を言っているのはこっちだって」

 「それでも、ありがとう。先輩」

 やっと哲也は笑顔になれた。まだ時計を捨てられないが、少しだけ過去のこだわりを消せそうな、そんな気がした。

 

 雹や強風がなくなったのはいいが、かわりにすさまじいまでの気温と湿度が二人をおそってきた。ダウンバーストが去っていらいの無風状態はまだ続いており、暑さをしのぐ術もない。ただ、うすくではあるが光はもどっており、哲也でもぼんやりとまわりを見られるようになっていた。

 彼は、命が見つけてきてくれた衣類に着替えたが、すぐに大量の汗をかいてしまい、新しい服が早くも湿り気味になってしまっていた。ペットボトルの水も飲み干してしまっている。

 「ほーらね、新しい服なんざ、意味ねぇって」

 いまだ裸の命が声を笑った。

 さっきは、着替えのために命から少しはなれた哲也を、「今さらなに気にしてんのさ」とからかったものである。

 なんだろう、なんだが、どんどん近づいてきてるんだけど・・・。

 命にしてみれば、二人でピンチを切り抜ける度に絆が深まっていくのを感じ、自然とこういう態度になっているだけであった。だが、人づきあいが少なかった哲也には、自分の領域に入り込まれているように思えてならない。

 先輩は、自分の服は見つからなかったって言ってたけど・・・。

 彼女のサイズのものが、なかなかないのは理解できる。

 だが、哲也の服や靴はサイズも完璧にさがしてきたのである。服は黒いTシャツにジーンズという、ほとんど前とかわらないものだったが、靴は登山用のトレッキングシューズだった。状況を配慮してチョイスしてきてくれたのはまいがいない。

 それにナップザックやミネラルウォ―ターまで見つけてきていて、自分の服だけないというのは、本当なのだろうか。

 もしかして露出の趣味でももってたのかな・・・?

 思わず疑ってしまう。一応、知り合ったのは一年以上前だが、今まで哲也は、彼女の内面などまったく知らなかったのだ。

 命にしてみれば、あくまでもハダカを見せたいのは哲也のみなのであって、他人にまで見せたいわけではない。しかし哲也は、その辺の機微がわからない。

 でも、今はそれどころじゃないんだ。まだぼくたちは、危機の中にいるはずなんだから。

 ハダカ云々は後にして、とにかく目の前の問題に対処せねばと、彼は気持ちを切り替えた。

 「先輩、先輩は木の上からきましたよね。その時に空の様子は見ましたか?」

 命に質問する。確認したいことがあった。

 「空?」と首をかしげた命は、

 「そういや、雨とかはやんだんだけど、晴れてはいねぇんだよな。明るくなったのは、雲がうすくなったからでさ。そんで、そこから、象の鼻みたいな長細い形の雲が、何本も垂れ下がっていたよ。なんなんだろね、あれ」

 と、答えた。

 「やっぱり・・・」

 彼は、自分の考えが正しかったと知った。

 「先輩、それは竜巻です」

 「ああ? でも風なんかなかったぞ」

 「それは空中のみで起こっているからです。そういう竜巻もあるんですよ。ただ、今はいいけど、それがこれからどう動くかわからないので危険です。早く非難しないといけないでしょうね」

 彼の言う空中のみの竜巻とは、ファンネルアロートと呼ばれるものだ。竜巻の種類は大きく分けて三種類あり、他の二つは陸上のトルネードと海上に発生するウォ―タースポートである。

 「でも、どこに逃げるっていうのさ?」

 命が当然の不安を口にした。

 彼女も哲也も、竜巻から逃げなくてはならなくなった経験などない。最近は日本でも発生するようになってはいたが、それでもテレビなどで見たことがあるだけだった。

 「先輩、この辺に大きくて頑丈そうな建物はありませんでしたか?」

 哲也は、質問に質問で返してきた。

 「え? うん。でっけぇのが一あったよ。そこに逃げるの?」

 「ええ。それしかぼくにも思いつけません。そのビルまでの道はわかりますか?」

 「まあ、途中で木に登って方向を確認すれば大丈夫だろ。よし、まずはこっちだよ」

 二人は動き出した。

 「竜巻は、旋風の親玉みたいなものらしいです。

  これの中では秒速百メートルくらいの風が吹き荒れ、気圧もやたら低下しているので、なんでも吸い上げてしまいます。

  ぼくが以前に読んだ本では、四トントラックが巻き上げられたとありました」

 雹やダウンバーストが枝打ちしてくれたおかげで、少し歩きやすくなった森を進みながら、哲也は竜巻の解説をしていた。

 「神野くんって物知りだよね。さっきの雹やらダウンバーストやらも言い当てたし。なあ、一か月にどれくらいの本を読んでんだ?」

 彼の知識の多さに、すなおに命は感心していた。

 「ま、それはおいといて。

  ええと、つまり、竜巻というのは、巨大な真空吸入式の掃除機みたいなものだということです。これから逃げたいなら、一番良いのはその進行方向の逆さに向かうことです。当たり前ですけどね。

 ですが、それができない今は、竜巻の力に負けない建物の中に避難するしかないと思うんですよ。もし、そのビルに地下があれば、なおいいんですけど」

 「地下の方が安全なんだ」

 「ええ。竜巻はその先端がとどいていない所には、ほとんど影響をあたえないらしいんです。現に今、空中竜巻があるわけですけど、地上はこのとおり無風ですよね」

 「ああ、なるほど、たしかにあっついもんな」

 言いながら命は、手をパタパタふって自分に風を送る。そんなささいな動きでも、彼女のカラダのあらゆる所がやわらかそうにゆれる。

 たしかに、もう見慣れちゃったかもな。

 哲也は内心で苦笑した。

 しかし、こうした彼女の、よく言えば大らか、悪く言えばがさつという性格が、この異変が起きてからかなり彼の助けになっているというのも、また事実であった。

 物事を深く考えず豪快に笑い飛ばし、あっけらかんと好きなものは好き、嫌いなものは嫌いと言える命がいてくれなかったら、哲也はとっくの昔に森の闇に押しつぶされていたであろう。

 だから、これくらいのことを気にしていてはいけないのであった。

 「そ、そういうわけですので、大里先輩の見つけたビルに移動しようと、ま、まあ、そう考えたんですよ」

 気にしてはいけないと思うが、哲也くらいの年齢の男子が、命のハダカを気にしないでいられるわけもない。口調もあせったものになる。

 「もっと見てもいいのに」

 うつむく彼の頭上から、いたずらっぽい命の言葉がふってきた。

 「それとも神野くんは、上より下が好みか?」

 視線を下げていると、横を歩く命の腰回りが目に入る。調子にのって、美しいヒップを左右に大きくふる。

 「い、いや、それより、ここがどこなのかはわかるんですか?」

 「なんだよ。人がせっかく見ろって言ってやってんのに。つまんねぇな」

 一瞬、子供みたいにほほをふくらませた命だったが、

 「ま、いいや。ここは歌舞伎町だと思うよ。飲み屋さんの看板が多かったしな」

 怒らずに答えてくれた。

 「歌舞伎町・・・ここが・・・?」

 植物が狂ってから、新宿の景観は変わってしまっている。頭でそうわかってはいても、それに慣れるのは難しい。

 今も、エゴノキやクマシデ、ミズキなどが、雹にも負けずに青々とした葉をしげらせている光景を見てしまうと、ここがどこかの山林の中であるような錯覚をおぼえる。

 だが、密生した植物たちのわずかなすき間には、コンクリ片や折れまがった鉄骨などが見えた。ここはまちがいなく、あの東京の新宿なのである。

 「たしかに、JR東口より、歌舞伎町の方が低い位置にはありますね。水が流れてきても不思議はない。

 でもそうすると、ぼくたちが流された距離ってのは、かなり短いものだったんですね。

 ぼくは気絶していたので知らなかったんですが」

 「直線距離ならね。流されている時は、あっちこっちに運ばれてたから、ずいぶん長く感じたんだけど」

 「あはは、ぼくだけ楽しちゃってゴメンなさい。それにしても、歌舞伎町に大きなビルなんてありましたっけ? ペンシルビルばかりって印象なんですが」

 「いや、私もこの辺はくわしくなくて、あんなビルがあるなんて知らなかったんだ。

 今はこんなだから、木の上からだと、その建物だけがやけに目立ってね」

 この森を構成している植物群は、目算でも五十メートルを超えるものがほとんどである。たいていの建物は緑に包まれて破壊されるか、その姿が見えなくなってしまっていた。

 樹上に立って見える人工物など、遠く西新宿の超高層ビル群くらいなものなのだ。

 だから、今、向かっているビルは、かなり規模があると知れた。

 「あ、神野くん、ここでちょっと待ってて。そろそろ道がわからなくなりそうだから、上で確認してくれるよ」

 左右の景色を見ながら命が言った。

 どの方向に首をめぐらしても似たような木々のむれしか見えず、ともすれば自分がどれくらい歩いたのかさえ分からなくなりそうだった。

 「お願いします。あと、できれば空の様子も見てきてください」

 「オッケー」

 命は手近の木にするすると登って行った。

 

 一人の間、哲也は竜巻について考えていた。

 地上はむし暑く、上空には乱気流が吹き荒れている。以前、本で読んだ、竜巻が発生しやすい条件がそろっていた。

 いや、実際には、すでに空に竜巻は生まれている。問題は、それがいつ地上におりてくるか、なのである。

 もしかすると、一つや二つじゃないかもしれない。

 複数の竜巻があらわれる可能性もすてきれない。アメリカなどでは、十以上の竜巻が同時発生したという報告も珍しくない。

 なにしろ今の状況は、なにもかもが大げさになっているのである。雨は濁流と化し、雹も野球ボールみたいだった。竜巻だけが、奥ゆかしく一つで遠慮してくれるとは、とても考えられない。

 「神野くん!」

 そこに頭上から、命の切迫した声がした。

 「神野くん! 雲がくっついた! くっついたよ!」

 あせっている彼女の言葉は、どうにも要領をえない。

 「先輩、落ち着いて。まずビルの方向は確認できましたか?」

 哲也は、となりまで駆け寄ってきた命をなだめた。

 「う、うん。それはすぐわかったんだよ。それより!」

 ゴオオオオオオオオオオッ。

 その時いきなり、地鳴りのような風音がひびいてきた。先ほどのダウンバーストの時の風音が、まるでかわいく思えるほどの強烈さだ。

 考えていたより早く、竜巻がきたか!

 すぐに哲也はさとった。

 命の言う、雲がくっついたとは、空にあった竜巻が地上にとどいた瞬間を表現していたものにちがいない。

 竜巻発生の瞬間を記録した資料はまだ少ない。だがその中に、空中と地上から象の鼻のようなロート雲がそれぞれのびてきて、その二つが合体して竜巻となった様子をうつした映像があった。それを命は見たのであろう。

 「逃げましょう! どっちに行けばいいのですか!」

 音に負けないように、哲也は力いっぱい叫んだ。

 すさまじいまでの風音がせまってきているのに、まだ周囲は無風だ。それが逆に怖い。

 「こっち! でも神野くん、走れんのかよ! どっか痛いんじゃねぇのか!」

 「平気です! 行きましょう!」

 音と風から、二人は手に手をとって逃げ出した。

 しかし、竜巻の進行方向などもちろんわからない。かなり運任せの逃避行であった。

 

 そこへ突然、二人の正面上方から、とがった木片がいくつもふってきた。 強い風によって折られた木々が、飛ばされてきたのである。

 ゴオオという風音の間に、よく耳をすませばベキバキという木をむりやりへし折る音が混じっているのがわかる。

 哲也をかばって前にでた命は、拳をふるって木片を次々と叩き落とす。さらに飛んできた枝をキャッチし、それを縦横に振り回した。

 「先輩、こっちへ!」

 哲也が、大きなクスノキの陰へと命を引っぱりこんだ。木片によってちぎられた枝や葉から、独特のクスノキ臭さがあふれている。

 「ケガは大丈夫ですか!」

 「私は大丈夫。神野くんは?」

 ハアハアと肩で息をしながら答える命。二人は風音に消されてしまわないように、大声で会話している。それだけに息はなかなか整えられなかった。

 それにしても、あれだけの木片と戦いながら無傷とは、命の動体視力と身体能力は人間とは思えないレベルであった。ハダカの体にかすりもしないのだから驚くほかない。

 「先輩のおかげで、今回は無傷です」

 「よかったな。ふう。でも、なんで破片が前からきたんだろう。私が見た竜巻は、正面にあったはずはないんだけど」

 「竜巻が一つとはかぎらないんですよ。見てない奴がもう一つくらい生まれたかもしれませんし、もしかするとあの木片は、旋風で吹っ飛ばされてきたものなのかもしれません」

 竜巻と旋風はどちらも似たような現象だが、竜巻にはロート雲があり、旋風にはない。風の強さは、一般的には竜巻の方が強いと言われてはいるが、だからと言って旋風が危険でないわけではない。

 「じゃあ、どうすんだよ! このまま動けねぇじゃん!」

命が悲鳴のような声をあげた。

 「大丈夫! これは長くつづきません! すぐやみます! そうしたら走りましょう!」

 哲也の言う通り、木片の雨は、それから十秒とたたずにぴたっと止まった。風も巻き上げた木片も、それぞれ在庫切れとなったようだ。

 「今です!」

 二人はクスノキの陰から飛び出した。

 だが竜巻の方はなくなっていない。その証拠に、渦巻く風音は、いまだ止む気配がない。


 命と哲也は、目指すビルへと一心不乱に走りつづけるほかなかった。一歩ごとに体中が痛む哲也は、歯をくいしばってそれに耐える。

 そんな彼を、無言で命は抱えた。そして放り投げるように背中にまわす。

 「なにも言うな! この方が早いことはわかってんだろ!」

 哲也が抗議する前にどなりつけ、

 「さあ、全力だすぜ!」

 体の固定は哲也の腕にまかせ、地上を、巨木の枝を、道を選ばず走る。

 夢中だったので自分でも気づいていなかったが、命はほとんど四つん這いでかけていた。

 前より早い!

 もう何度も、こうして命にしがみついて走っている哲也は、彼女の力が数時間ごとに増しているという事実を、間近で見せつけられていた。

 昨日、デパートから脱出した時も、彼女は男一人を抱えながら、驚異的な速度で木々を移動したものだ。しかし、今はそれ以上であった。よく鍛えられた哲也の腕でかじり付いていながら、振り落とされないように必死にならざるをえないのである。

 ここまでくると、もはやまちがいない。先輩は変貌しつつある。

 哲也は確信した。

 命は、痛みも変調もうったえていない。それでも、一昨日までの彼女と、昨日からの彼女は別人みたいなものなのであろう。同じなのは中身だけなのだ。

 それもこれからはどうなるかわからない。そもそも、体が変化しているのに心はそのままなんて方が不自然じゃないか。もしかすると、先輩がやたらハダカでいたがっているのも、その一つのあらわれなのかもしれない。

 ニッケイの枝を、足のみでつかんで二人分の体重を支える命を見て、哲也は彼女の前途に恐怖すら感じていた。


 命の言う大きいビルとは、ハイジアという名前の建物であった。

 ここには都の健康プラザや会員制スポーツクラブなどがあり、大きな病院も隣接している。

 高さは西新宿の超高層ビルなどよりはかなり低いが、面積の大きい建物なので、その厚みが森の中で目立ったのだ。

 どうやら正面入り口側に彼らはたどり着いたらしい。しかし、建物がすっぽりと植物群に占領されてしまっているため、よくわからない。

 「なるほど。ここか」

 哲也は、このビルを知ってはいた。だが、歌舞伎町などに縁がない生活をしていたため、思いつけなかったのだ。

 「たしか、ここには地下もあったはずですよ。正面入り口の広場から、直接行けたらしいんですが。階段があったんじゃないかな」

 「階段ねぇ・・・」

 命はそれらしきものを目でさがしたが、見えるものはコンクリートを突き破って立つサワグルミの巨木と、それに左巻きにからむヤマフジのみであった。

 「神野くん、地下に行くなら中からだよ」

 「たしかにそうですね。あそこのマルバノキを伝って行けば入れそうですし」

 哲也は、卵形の赤い葉をゆらしている木をさした。

 このビルは正面と裏面を壁一面の強化ガラスでかざっていた。

 そのガラスを刺し貫く形で、マルバノキが斜めに倒れ込んでいる。折り重なった倒木や木々によって閉ざされてしまっている本来の入り口をさがすより、これを登って行く方が早く中に入れそうだ。

 背後からは荒れ狂う風が追いかけてきている。彼らの時間は少ない。

 「よし!」

 命は、マルバノキ目指してダッシュした。


 この建物は、内部が高い吹き抜け構造になっている。

 壁面のガラスを破って内部に侵入したマルバノキの枝は、吹き抜けの中間を通っている連絡通路の橋にぶつかって止まっていた。

 「やあ、意外と楽に入れたな」

 橋の上に立った命が一息つく。

 「大里先輩、まだ安心してはいけませんよ。さあ、地下へ行きましょう」

 言いながら、哲也は命の背中からおりる。

 彼女との密着から解放された哲也は、命とは違う意味で一息ついた。

 「足とか体は痛まないのか?」 

 「ここからくらいなら大丈夫です!」

 壁面のガラスがほとんどこわされていて、風をさえぎるものがない。ここも安全とは言いきれない。けっして命の質問をごまかしただけではない。

 彼らは、橋をわたって三階のフロアーにつくと、動かなくなったエスカレーターをかけ下りた。

 

 このビルは植物の侵攻がそれほどではなく、火災のあともなかった。

 各階のエスカレーター付近にはサンショウバラが群生していて、可憐な淡紅色の花を薄闇に浮かばせていたし、大量の水が通ったのか通路はぬれていたが、サンショウバラのトゲと、すべらないように足元に注意さえしていれば、歩行に支障はない。 今まで彼らが通ってきた道を思えば、楽なものであった。

 あれ? これはもしかしたら。

 哲也は地下を目指しながら、今、自分が進んでいる道があまりにも歩きやすいことに違和感をおぼえた。まるで、大勢の人間が通りやすいように、ざっと障害物を排除したような感じなのである。

 「大里先輩、ここには誰かいるかもしれませんよ」

 先行する命の背中にむかって言った。

 「ほんとかよ! なんでわかるのさ?」

 走りながら器用にふり向く命。

 「まわりがきれいすぎるんですよ。たぶん、上の階の人が避難しやすいように、道を確保したんでしょう」

 「じゃあ、この下に!」

 「ええ! 考えることはぼくたちと同じでしょうから、みんな、地下に逃げているんですよ!」

 外からは連続で発射される大砲のような、風がなにかにあたる音がひびいてきている。その振動もへたな地震なみであった。

 こんな状況で外を目指すバカはいないだろうし、このビルは火災も起きなかったのだから、なおさら逃げ出す必要などない。

 やっと人にあえる!

 二人の足取りは思わず軽くなった。

 日曜日のにぎわいを見せていた新宿は、巨大植物群の出現とともに無人と化していた。

 この異変で大勢の生命が失われたであろうことはわかる。しかし、それにしても人とあわなさすぎた。なにしろ彼らは、一人のけが人、あるいは死体にすらであっていないのだ。

他人を見たのは、白い花のようだった美代子の手が最後なのである。

 その人間消滅の謎も、ここにいる人に聞けばわかるかもしれない。

 哲也は思った。

 それと、大里先輩のように、体が変わりつつある人も・・・。

 この命の変身が、彼女にとってよいものなのか、悪いものなのか、それは彼にもわからない。だがそれも、同じように変身している人間が他にもいれば、くらべることでなにか見えてくるかもしれない。  

 ・・・って、他の人・・・?

 そこで、やっと思い出した。命のかっこうに。

 「先輩、そのまま地下についちゃったらヤバいですよ! 服を着ない変態だと思われちゃいます!」

 「ちょっとまて、誰が変態だ!・・・おお、たしかにそうだな。こらヤベぇな」

 命は立ち止まり、何かをさがすようにキョロキョロと首をふった。

 よかった。納得してくれて。誰彼かまわずハダカを見せつける露出狂じゃなかったんだな。

 彼女の様子に、失礼な想像をしつつホッと胸をなでおろす哲也。同時に、それはつまり自分だけは特別だったのだと、ようやくというか今さら気づき、心に甘い感触が広がっていく。

 そんな彼の心配をよそに、命は「あれでいいや」などと言いながら移動し、近くの窓にあったカーテンを引きちぎってきた。それを体に巻きつけると、古代ローマのトーガを着たような姿になる。

 その身長といい、その服装といい、なんだかやたらと迫力満点な命であった。

 

 ダンドリオンには、人間たちの行動などお見通しであった。

 彼は、己の爪牙の新たな生贄をもとめて新宿まできていたが、この土地では強風が吹き荒れていた。

 さすがの彼ですら、この風にはまともに対抗できない。この巨体でそうなのだから、ひ弱な人間なら必ずどこか安全な所で、固まって息をひそめているはずであった。

 ダンドリオンは、ライオンのくせに花粉症で鼻が悪い。それでも彼は、たくみに竜巻をさけつつ、二人の人間の匂いを発見していた。

 どうやら男女のペアであるらしいこの二人組は、この先の大きな建物に逃げ込んだようだ。

 と、いうことは・・・。

 思わず舌なめずりした。

 あの大きな建物の中が奴らの巣か。

 ハイジアビルの正面まできた。

 ここまで接近すれば、彼の鈍い鼻でも複数の人間が発する体臭を嗅ぎとれる。それは実にかぐわしいものであった。

 いるいる! うようよと人間どもが!

 その美しいたてがみを逆立てて、歓喜の雄叫びをあげた。

 

 哲也たちがついた地下には、ゆらゆらと細い火を灯す、ろうそくの炎があった。さらにアウトドア用の大型ランタンの光もある。人がいるという証拠であった。

 「いた、人がいたよ! 神野くん、ざっと見ただけでも五十人くらいいる!」

 夜目のきく命が歓声をあげた。

 人々はフロアー中央に固まって避難していた。

 よく見ると、その向こうには大量の水がある。濁流からきたか、匂いはないから上水道がこわれたりして流れ込んだものなのかもしれない。彼らはそれをさけるために、そんな所に陣取っているのだ。

 「いましたね!」

 珍しく哲也も興奮していた。

 昨日から異変の連続で、その中を命と二人だけというのは、さすがの彼でも少し心細かったのである。

 それに、こうして大勢の生き残りがいたという事実は、それならばきっと彼の祖母も生きていてくれるという、かすかな希望をいだかせてくれた。

 二人は人々の群れの中へ、跳ねるように近づいて行った。

 

 「おや、きみたちどうした? ・・・うわ」

 闇の向こうで空気が動く気配を感じた一人の男性が、哲也たちに懐中電灯の光をあてながら話しかけてきた。が、闇に照らし出された命の巨体に、思わず言葉を失ってしまう。

 「あ、ぼくたちは外からきました。竜巻から避難してきたんです」

 命の額に青筋が立ったのを見た哲也は、あわてて自分たちの説明をした。

 「なに! 外から! 君、外はどうなっているんだ? 一体全体、今、なにがおきているんだ?」

 彼の言葉に驚いた男性は、矢つぎ早に質問を投げかけてきた。男性のまわりにいた男女にもざわめきが起きる。

 「それが、ぼくらにも正確な情報なんてないんです。ただ、突然植物が狂ったように巨大化するようになったとしか・・・。それより、ここにはみなさんしかいないんですか? もっと他の人は?」

 「ここにはこれだけだよ。昨日、外の様子を見に行った人が何人かいたけど、まだ帰っていない。俺も外へ行こうとしてたんだけど、こんなんなっちまったからな」

 男性は天井をアゴでしめして肩をすくめた。

 上の階からは、獣のうなり声のような風音と、なにか重たいものがガラスを割るような音が聞こえてきていた。

 ついに竜巻がきたか。

 哲也は思った。

 それでも、この地下には影響がない。考えた通り、ここにいれば安全なようであった。

 「あ、自己紹介が遅れたな。俺は高田。この上のスポーツクラブに勤めている」

 高田は三十代くらいで、体格がよく、髪を短く刈り上げた、精悍な容姿の持ち主であった。

 哲也と命もそれぞれあいさつし、哲也が昨日までの彼らの体験を、高田に説明した。

  しかし彼は、命の体についてだけはだまっていた。もう少し慎重に様子を見てからの方がよいと判断したのである。

 その間に命は、地下階にテナントとして入っていたアウトドアショップとハンバーガショップに侵入し、見つけた固形燃料やフライパンを使い、哲也と自分の遅い昼食を作った。

 「なるほど、人がいなくなっちまってるのか。そりゃ、たしかに変だよな」

 高田が、哲也の話に相槌をうつ。

 彼も、人がどこに消えたのかはわからないということだったが、フロアー奥にある大量の水の正体はわかった。これは、彼が勤めるスポーツクラブのプール用の水が配管を逆流して、ここにたまったものだったのである。

 もしかすると、ここが火事にならなかったのって、この水のおかげだったのかもな。

 哲也は、地下におりるまでの通路がぬれていたことを思い出した。

 「変と言えば、今の状況はすべて変ってことになってしまいますけどね。

  なにしろ、外の植物たちは生態系も環境も無視したようにばらばらで、秩序というものがありません。あれでは、この森は長続きなんかできないでしょう。しばらくガマンできれば、必ず消えてなくなります。

 ですので、問題は人なんですよ。人間がどこにいってしまったかなんです」

 そもそも森林とは、樹木など植物群、微生物など土壌中の生物群、そして地上の動物と、土中、地上の両方に生息する昆虫たちという各グループが、すべてあってはじめて成立するものだ。これは世界中のどこの森でも変わらない。

 しかしまた、生きている者はすべて環境に左右されつつ、自分たちもその環境に影響をあたえてもいる。したがって周囲の状況が変われば、単純に生物の種類が変わるというだけでなく、その影響のあたえ方も違ってくるのだ。

 熱帯の森と寒帯の森とは、同じ森であって、まったく違うものでもある。

 だが、今、哲也たちの眼前に広がる森は、それを構成している一本一本は巨大だが、そこに虫はおらず、人も鳥もいない。その上、熱帯雨林の一斉開花のように、春夏秋冬すべての季節の花が咲き乱れている。

 常識がまったく通じない世界に、彼らはいるのであった。

 しかし、剣道をつうじて練り上げられた哲也の信念に、長い目で見れば邪道は王道にかなわないというものがある。どんなに小器用に竹刀をあやつれたとしても、変則技に頼る者は、正攻法にこだわりつづけた者に、いつか勝てなくなるものなのだ。

 これは師匠であった彼の祖父から叩き込まれた教えで、哲也という人間の基礎をなす思想であった。

 ゆえに彼は、この状況もいずれもとの自然にもどると確信している。

 邪道は非常識で王道は常識だ。長期的な視点に立てば、非常識が常識に勝ることは決してない。だから、それまであきらめてはいけない。これが、彼の今の考えであった。

 とは言え、せっかく危機を乗り越えても、肝心の人間がいないのではどうしようもない。救助であろうと復興であろうと、大量の人手がいる。

 それと、この植物禍が、どのくらいの規模で起きている災害なのかわからないのも不安であった。最悪、地球規模だとして、この東京という世界有数の巨大都市でも、こんなに一気に人がいなくなってしまったことを考えると、他では全滅している場所があっておかしくない。

 また、そうだとすると、他地域や他国の援助は期待できないということにもなる。

 そういうわけで、人がいないという事実は、哲也にとって最大の懸念となっているのであった。

 「はい、神野くん。ゴハンだよ」

 そこへ命が、できたてのハンバーグを差し出してきた。それを見て彼は、自分が空腹だったことに気づく。

 「わあ、ありがとうございます。いただきます」

 食器類や箸などはなかったので、フライパンから直にナイフを使って食べた。

 ものを食べていると、人類の明日がどうのこうのなどという問題を、しばらく忘れることができた。

 

 ガシャーン!

 また階上から大きな破壊音がひびいてきた。

 「まだ竜巻は去らないか」

 すでに昼食はすませていた高田が、命と哲也の食事をながめながらつぶやく。

 グウウウウルルルルルルオオオオオオオッ。

 獣のうなり声を思わせる音も聞こえてくる。

 「まったく、しつっけぇ風だな」

 彼はうんざりした声でつづけた。

 「ちがうっ!」

 とつぜん、命が立ち上がった。

 その勢いに、哲也も高田もあぜんとして彼女を見上げる。

 「ちがうって、なにが?」

 「しっ! 神野くん、だまって!」

 つねにない強い口調で、哲也の言葉をさえぎる命。そのまま、闇の一点を見つめ続ける。

 彼女の視線の先を目で追った哲也は、そこに赤い一対の光が浮かんでいることに気づいた。その場所はちょうど、一階と地下を結ぶ階段のある付近だ。

 ランタンかな。でもちょっと変だな。

 そこはたしか水がある所だったのだ。それに、その光がいつの間にあらわれたのかもわからない。

 「あれは・・・神野くん・・・あれ・・・」

 命の声がふるえている。

 そのふるえは、彼女の驚愕と恐怖からきているとさとった哲也は、自分たちの目の前に危機がせまっていると理解した。

 「あれ、ライオンだ! あそこにライオンがいる!」

 彼女は叫んだ。

 グワアアアアアオオオオオオオッ!

 両眼を赤く燃え上がらせながら、ダンドリオンはフロアー中をゆるがす咆哮をはなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


  

  

  

  幕間 その四

 

 人間と自然とのかかわり合いとは、つねに人間が自然に挑戦する形でなくてはならない。

 『それ』の考えであった。

 挑戦は前進を生み、前進しているからこそ人生は輝きをます。

 人間という種は、その脳の容量と手先の器用さだけはかなりのものだが、筋力や反射神経などは他の動物に遠くおよばず、生命力や形態の多様さで昆虫たちに負け、魚類のように泳げず、鳥類がもつ羽もない。

 ないない尽くしの人間たちであったが、ただ一つ『それ』が彼らに与えたものがあった。

 それは不屈の闘志である。

 人間の大脳皮質の三十%を占める前頭連合野。ここは、実験的に『それ』が他の種の者たちより進化させたものだ。

 この部分を得たことで人は未来予測をできるようになった。以前にも大型の哺乳類にそれを行える者はいたが、人間はさらに高度な想定能力を手に入れたのである。

 しかしこの能力は、不安という今までの生き物にはない新たな感情を人々にあたえもした。

 今、満腹でも、明日は飢えるかもしれない。

 今、金持ちでも、明日は破産しているかもしれない。

 今、平和でも、明日は戦争かもしれない。

 こうして疑心暗鬼にさらされ、人の感情はつねに不安定な状態になった。

 だが、未来の展望がいつも暗いというわけでもない。

 逆境や恐怖に立ち向かう勇気や、運命にあらがう闘争心といったものもつくり出す。

 その心の命ずるまま、人間たちは生き残りをかけて自然や肉食獣などと戦い、そしてなによりも己自身に挑戦しつづけてきた。

 そんな彼らの姿は、一度ならず『それ』を感動させてくれたものである。

 そして今また、猛威をふるう自然にたいして、世界中で人間たちの挑戦がはじまっていた。

 現在、生きるとは戦うことだ。『それ』が、地球をそう改造してしまったのである。

 落伍者には死あるのみだ。

 これだけのことをしていながら、『それ』は自分の行為に少しの疑問ももっていなかった。

なぜなら、『それ』には常識というものが、まったくないからである。しょせん常識とは、他人と自分が構成する社会というものがなければ成立しない概念なのだ。

 これは、『それ』には望むべくもない環境なのであった。

 

 

 



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