おとなりさんと変な音
夜風が火照った体に心地よい。山梨愛子は物音一つしない住宅街を早足で駆け抜けた。上司に、「明日休みだし行こうよ、ね?」と付き合わされた飲み会が長引いてしまい、最後は半ば強引に、酔った仲間の手を振り切って警告ベルの鳴る終電に飛び乗ったのだった。愛子はザルであるのだが、どういう訳か彼女の周りには酒に飲まれる側の人物ばかり。そういう人に限って何も考えず酒をよく呑む、と愛子は自身の短い社会経験の中で学ぶ。
愛子はこの時代に運良く新卒採用された、社会人一年目のOLである。新米として当然である酒の付き合いは別段苦手というわけでもないのだが、大勢で意味もなく騒いで飲み散らかすその雰囲気だけはどうも好きになれないでいた。これから二次会なんてとんでもない、あの中から一人急性アル中でも出ればあいつらも懲りるかも、と心では上司にいきり立ちながらも、なるべく音を立てないようにと慎重にマンションの階段を上り、廊下の一番奥の我が家を目指した。
駅からほど近く小綺麗な割に安いこのマンションで、愛子は人の気配を感じたことがない。それは、愛子の出勤時刻が人よりも早く人よりも遅いのが原因であり、近所付き合いの煩わしさはないものの、子供の頃から夢に描いた『ご近所さんとの楽しい井戸端会議』とは程遠い状況だった。長野県の山奥の実家でその昔テレビでよく見たドラマは、大体が都会が舞台であった。家の玄関を出ると向かいの家の奥様が玄関先を箒で掃除している。『あら奥様、おはようございます』なんて声をかけるとそこから楽しい世間話が――という、都会でなくとも町では当たり前の光景を、愛子は未だかつて生で見たことがないのだ。玄関を出ると右は庭と畑、左も庭と畑、前は庭と道路とその向こうは空き地、後ろは別棟の蔵と伸び放題茂り放題の竹林…という記憶しかない。憧れの都会生活は、やはりあのドラマの主人公のように相応の年齢にならないとできない物なのかもしれない、と愛子は諦めのため息をついて家に入り、ドアを静かに閉めた。
スーツのジャケットを脱いでハンガーに掛け、バッグをソファーに放る。酒の所為で重い足を引きずって身をソファーに投げた愛子は、明日が休みでよかったとつくづく思った。ソファーで仰向けになって天井を見上げる。ふと視界に冷蔵庫が見え、愛子は新発売のチューハイを買ってあったことを思い出した。今日はあんなのに出ないで一人で静かにそれを飲めばよかった、と不毛な後悔をしてしまう。余計に腹が立った愛子は、背中にゴツゴツと不快感を与えていたバッグを、壁に向かって力任せに放り投げた。
ガシャン、とガラスの割れる音がしたのは、ちょうどそのときであった。
やってしまった、と思わず固まった愛子だが、バッグを投げた先は何もない壁。バッグが落ちた先の床にも物は置いていない。愛子は寝転がったソファーからゆっくりと起きあがって、壁の方に寄った。こんな夜に女一人だから、少しでも不可思議なことがあると、とても慎重になるのだ。当たり散らした壁やその周辺には異常はない。ガラスや陶器ものを入れた棚も見たが全く異常がない。どういうことだ、と思った矢先であった。
手をついていた壁が揺れた。続けて、またもガラスが割れる音。愛子は思わず壁からぱっと手を離した。隣の家?と愛子は少し驚く。今までそこからこのような人の動きを感じたことがなかったため、空き家だと思っていたのだ。耳を澄ますと聞こえてきたのは、隣の人物が暴れているような音。たくさんの物が床に落下する音、そして、大きな質量がこちらの壁に倒れ込んだのを思わせる、振動、そして咳き込む声。それを最後に何も聞こえなくなった。つい先ほどと同じように、気配を何も感じないほど静かである。
(人が倒れた・・・・・・?)
確証もなくそう結論づけた愛子は、無意識に先ほど入ったばかりの家を飛び出し、隣の戸を叩いた。
「夜分にすみません、隣の山梨という者なんですけど。」
反応がない。愛子の根拠のない考えが、正解に近づいたような気がした。
「すみません!もしもし!ちょっと!大丈夫ですか?生きてますか?」
悪い考えが悪い考えを呼ぶ。握りしめた携帯のディスプレイには既に119の文字がスタンバイ。愛子はドアノブを回した。開かない。パニック寸前だった。
「すみません!死んじゃった!?」
「・・・・・・なん、ですか?」
しかし、意に反して扉がゆっくりと開いた。中から覗いたのは、若い男。
「あ、れ?・・・・・・あ、すみません、隣の部屋の山梨という者なんですけれども・・・・・・。えっと、大丈夫、ですか?」
今までの焦り様が恥ずかしくなり、えへ、と誤魔化す愛子に、男は怪訝そうな顔を向けた。だが、一見何ともなさそうな男のその顔は、白皙という言葉では足りないほど、白い。
「何がですか?」
「え、先ほど凄く咳き込んでらっしゃったのが聞こえたので・・・・・・大丈夫かなぁと。・・・・・・すみません、お節介で。」
「全くだ。こんな時間に一体――」
と言いかけた男の言葉はそこで途切れた。再び男が咳き込みだしたのだ。途端、顔をゆがめる男は、いかにも苦しそうである。只の風邪などではない咳き込み方だった。
「ちょっと……!やっぱり!大丈夫ですか!?何かのご病気ですか?救急車呼びますか!?」
「……うるさい。あなたには、関係、ない――」
無理矢理に咳を押さえ込み、呼吸を落とそうとしている男は、そう言ってドアノブに手をかけた。だが、そこで急に彼はその場にしゃがみ込む。呼吸が荒い。
「……、…、く、くすり……」
彼の言葉は半ば空気のような音で、聞き取りにくかった。
「……くすり……薬!?それどこにあるんですか!?」
「……切らして、て、病院……明日取りに……はず…――」
ドアの隙間を広げて、愛子は室内に入り込む。男は地面に手をついていた。汗が髪を滴り落ちている。愛子は隣にしゃがんで男の背中を宥めるように撫でた。
「わかりました!私救急車呼びますから!それまで待ってて!」
「すみま、せ――」
最早会話も辛そうな男を、玄関から引きずって廊下に横たえ、愛子は携帯電話の通話ボタンをすぐに押した。呼び出し音が鳴る――
救急車はその後すぐに到着し、男は近くの病院に運ばれていった。それを見送った愛子は、家主のいなくなった隣宅へと足を踏み入れた。そこは雑然としている。
(せめて……割れたガラスだけでも片付けてあげた方がいいよね……)
ガラスの処理をし終わって自宅に帰りついた時には、既に夜中の三時を回っていた。疲れていたはずの愛子は、先の男の容態が気になって全く寝付けない。明日は休日だから、様子を見に行ってみようと決心して、愛子は無理矢理に目を閉じたのだった。