瞼の檻
彼らの間には三つの約束事がある。夜は昴と一緒に眠ること。昴が「おやすみ」と言ったら目を閉じること。昴が「おはよう」と言うまで目を開けないこと。もしも約束を破ったら、夜に生まれついた朔は二度と光に戻れない。
月灯りさえ届かない部屋の深みで隣の息遣いだけが朔の世界のすべてだった。薄い掛け布団の下、触れ合う肩口から伝わる温もりはどこか冷ややかで、それが朔を繋ぎ止める唯一の錨になる。
暗闇の奥、湿った柱の隙間や天井の隅から何かが擦れ合う微小な音が絶えず聴こえてくる。ぬめり気を帯びた視線が皮膚の表面を舐め上げるような不快感。それらはすべて、この部屋の輪郭の外側で蠢いていた。
志島朔は、生まれつき“見てはいけないもの”を引き寄せる性質だった。言葉を持たない異形、生者の情念が腐敗した残滓、土地にこびりついた古い祟り。幼い頃から常に視界の端に揺らめく影や、耳元で囁く濡れた声が朔の日常を蝕み続けていた。
彼らが朔を侵食しようと手を伸ばすたび、いつもその指先を払いけてくれたのは弟の志島昴だった。
「兄さん」
暗闇の中で穏やかな声が囁く。昴の手が朔の目元へと伸ばされた。指先が、震える朔の瞼を優しく撫でる。
「起きてる?」
「……うん」
朔は瞼を閉じたまま、掠れた声で応じた。幼い頃から夜を迎えるたびに繰り返されてきた文言を昴が口にする。
「朝になって僕がおはようって言うまで目を閉じてて。僕がいたら何も兄さんに近づけないし、見えなきゃいないのと同じなんだから」
何も見なかったことにして、何もいないことにして、昴が朝を運んでくるまで世界を閉ざして。
生まれてくる時に朔がすべてを持って行ってしまったのか、同じ母から生まれた兄弟でありながら昴には霊感というものが一切なかった。幼い頃からいつも朔にべったりだったにもかかわらず、異形の姿を見たこともなければ、夜ごと朔の部屋を満たす不穏な気配も昴にはまったく感じられないのだった。
だからなのか、昴がこうして隣に寄り添っていると怪異たちは朔に近づけない。息を潜めて遠まきに朔を眺めていることしかできない。それさえも昴は朔の怯えを通じて知るだけだ。
なぜ怪異が昴に近寄れないのか、本当のところは朔にも分からない。しかし昴の放つ清涼感のようなものが、化け物たちを退ける結界になっていることだけは確かだった。怪異の存在を感じ取れない昴のそばでは、あれらは“居る”ことができないのだ。
昴の唇が朔の耳朶に触れるほど近づく。その甘やかな吐息に朔の心臓が不規則に脈打った。部屋の外にある気配が恐ろしいから胸が鳴っているのではない。実の弟である昴に対して、自分は許されない恋心を抱いている。その罪悪感と、恋が露見して昴に拒絶されたくないという恐怖が、夜の暗闇よりも深く朔の胸を締めつけていた。
「おやすみ、昴。……俺のそばにいてくれてありがと」
「何言ってんの。いいんだよ。兄さんを守れるのは世界で僕だけなんだから」
その声を合図に、朔の意識はぬるい闇の底へと沈んでいった。
***
夏の名残りが滲んだ生ぬるい風が田舎村に吹き込む頃、都会から従姉の佐伯己奈がやってきた。兄弟の母方の伯父の娘である彼女は、洗練された洋服と整ったメイクを纏い、この古い木造の家ではどうやっても異物のように映る。
「古民家って聞こえはいいけど、古くて無駄に広くて、私やっぱりあんまり好きじゃないな。朔ちゃん不便だって思うことないの?」
「どうだろ。俺はここにしか住んだことないから」
朔は都会に住んでいる自分を想像してみた。ひしめき合って建ち並ぶ家々、緩衝空間のない狭い部屋。一体どうやって周囲に蔓延る怪異から身を隠せばいいのだろうと考えて肌が総毛立つ。
そんな朔の様子を訝しげに眺めながら、己奈が首を傾げた。
「ねえ、ちょっと気になってたんだけどさ。一階が叔母さんたちの部屋でしょ? 朔ちゃんと昴ちゃんの部屋って二階?」
「俺の部屋は二階。昴の部屋は……前はあったんだけど、今は客間になってる。己奈さんたちが泊ってるとこ」
「……二人、同じ部屋で寝てたりする?」
縁側で冷やし麦茶を飲みながら、己奈は眉をひそめた。
「田舎ってそんなもんなのかな。べつにいいんだけど。ちゃんと部屋あるのにいい年して兄弟同じ部屋で寝てるなんて、なんか……距離近いよね」
彼女の何気ない苦笑は遠回しに子供っぽいと非難しているだけだったが、その言葉は己奈が想像しているよりも遥かに鋭く朔の胸の奥を刺した。
己奈は単に同じ部屋だと認識している。しかし実際にはもっと近い。もう高校生にもなる男兄弟が、毎夜ひとつの布団で身を寄せ合って眠り、互いの呼気を感じながら夜を明かす。それが異常であることなど朔だって百も承知だった。
「俺、昔から少し身体が弱いから。夜中になんかあった時のためにって昴が付き合ってくれてるんだ。……甘ったれてるよな」
朔が俯いて弁解すると、己奈は「そういう家庭もあるとは思うけど」と遠慮がちに朔から視線を外し、庭のほうへ目を向けた。ざわ、と茂みが鳴る。朔はそちらを見ないようにしていた。
「大変だね。もっと将来のこととか考えたらいいのに。ずっとこんなところにいなくたって、外に出たら絶対モテるのに」
己奈の言葉には明らかな好意に基づく関心が混ざっている。それが自分ではなく昴に向けられていることも朔はなんとなく理解した。彼女は昴の端正な顔立ちと、この田舎には珍しく来客にも誠実な距離を持って接する物腰を気に入っているようだ。
実際、兄の目からしても昴は町に出ればもっと友人も増えて毎日を忙しく過ごすタイプの人間だろうと思われた。しかしこの辺りではまったくモテない。そもそも同年代の友人が少なく交流が生まれないうえに、昴自身が朔にかかりきりで他者に興味を示さないからだ。
外に出たら――昴なら広い世界で好きなように生きていける。朔とは違って。
その夜、朔は葛藤の末に二階の空き室で眠ることにした。抱えていた敷布団を部屋へ運び入れようとしている時、廊下の暗がりの中から昴が現れた。
「兄さん、何やってんの?」
昴の顔にはいつも通りの穏やかな笑みが浮かんでいる。
「あ、うん。ちょっと……一人で寝るのに挑戦してみようと思って」
まるで幼児の言うことのように思えて朔は俯いた。
「いつまでも昴に甘えてちゃダメだと思って。今なら伯父さんたちもいるし、人が多いから、もしかしたら変なことも起きないかもしれないし。昴がいつも言ってくれるみたいに、見ないようにすれば、なかったことになるかもしれないし」
言葉を紡ぐほど弁解がましくなっていくのを感じながら朔は必死で声を張り上げた。今夜は、自分の醜い恋心が漏れ出して兄としての尊厳すら失ってしまう予感がしていた。何より、昴の人生を自分の性質に巻き込み続けるわけにはいかないのだ。
昴は特に大きな反応を見せず、「ふぅん」と息を漏らすだけだった。
「分かった。兄さんがそうしたいなら、がんばって。でも無理しないでよ。怖くなったらいつでも呼んでよ」
「うん。ありがと」
嫌だとは言わない。拒絶も止めもしない。昴は知っていた。正常な人間が、朔の世界に付き合えるはずがないことを。
部屋で一人横になった朔を襲ったのは、地獄のような狂気だった。昴のいない部屋は瞬く間に冷気と悪臭で満ちた。天井の木目が歪み、無数の人間の顔となって朔を見下ろしている。湿った手首が布団の裾から潜り込み、朔の足首を掴んだ。頭蓋の内側で怨嗟の声が延々と囁き続けた。
目を開ければおぞましいものが見え、目を閉じればざわめきが強まる。呼吸さえも困難で、朔は明け方に昴が「兄さん、おはよう」と言って部屋の扉を開けるまで一睡もできずに震えていた。
***
翌日、朔の顔色は幽鬼のように青白く、目の下には濃いクマが刻まれていた。それを見た己奈はぎょっとしたような顔になり、「朔ちゃん、大丈夫? 変な夢でも見た?」と尋ねた。
「うん。そう……嫌な夢、見ちゃって」
「あんな黴臭い家に閉じこもってるからだよ。ね、散歩でも行こうよ。せっかく空気はいいんだから。この辺、きれいな川とか滝とかないの?」
「えっと、じゃあ、神社にでも行く?」
「やだ朔ちゃん、年寄り臭い。いいよ、神社でも」
水辺にはあまり近づきたくなかった朔は、己奈を自転車の後ろに乗せて村外れにある鎮守社に向かった。昴のいない部屋の外で朔が安堵できる数少ない場所だった。興味深げに社を観察している己奈の後ろ姿に、朔は意を決して声をかける。
「あのさ、己奈さん。俺、もっと外のこと知りたくて。もしよかったら、町の話とかいろいろ教えてくれないか」
それは昴を自分に縛りつけることをやめ、ひとりで正常な人間の世界へ歩み寄るための、朔なりの決死の一歩だった。己奈はあっさり答えた。
「いいけど、私そんな面白い話なんか持ってないよ。普通に学校行って普通に生活してるだけだもん。それより朔ちゃんのほうが話たくさん持ってるでしょ。昴ちゃんのこととか。彼女とかいないのかな」
「え……」
「私、結構いいなと思ってるんだけど。朔ちゃんから見て、どう思う? 私って昴ちゃんの好みだと思う?」
己奈の言葉が波紋のようにゆっくりと朔の中で広がっていった。さざ波だった心は容易に落ち着かない。その瞬間、朔の中で何かが決壊した。
朔の動揺に呼応するかのように、周りの空気が一変した。昼間にもかかわらず辺りが急に薄暗くなる。風が止み、なのに草木がざわざわと音を立てた。
何かが腐ったような異臭が漂い始めたのをきっかけに己奈も異変に気づく。彼女の背後の木陰から異常に長い首を垂らした影がこちらを覗き込んでいる。
「な、なにあれ……」
足に触れられたような感覚に己奈が悲鳴をあげた。地面が盛り上がり、朽ちた手にも見えるものが彼女の足首を掴んでいた。彼女には怪異の姿は見えず、ただの影や木の根として視界に映る。ただ異様な気配が理性を凌駕して恐怖を作り出していた。
「やだ、気持ち悪い……! 朔ちゃん、朔ちゃん!? なんか変だよ!」
ぼんやりと朔が己奈のほうを見ると、彼女は身体を強張らせた。怪奇現象めいた出来事よりも、その中で平然と立っている朔のほうが恐ろしかった。
己奈は足に絡みついたものを振り払うと、朔を振り返ることもなく参道を駆け下りていった。彼女はその日のうちに親をせっついたようで、日暮れ前にようやく我に返った朔が帰宅する頃には伯父一家は荷物をまとめて町へ帰ったあとだった。
己奈は二度とここには来ないだろうと不意に考え、朔は奇妙な安堵感を覚えた。あれが正常な反応なのだ。おかしいのは自分のほうだと朔は知っていた。
他者を脅かし、不快にさせ、拒絶される忌々しい呪い。自分という存在そのものが、まともな人間の世界には受け入れられない異物なのだ。
そして生みの親ですら薄気味悪そうに目を逸らすそれをものともせずに受け入れてくれるのは、この世界でただひとり、昴だけなのだった。
***
昴は己奈が戻ってからの騒ぎを知っていたはずだが、朔に対して何も尋ねなかった。ただ縁側に座り込み、何事もなかったかのように超然として「おかえり」と笑う。そのいつもの場所に己奈ではなく昴がいる。そのことを実感した途端に朔の目から思わず涙がこぼれた。
「昴、ごめん……俺やっぱり駄目みたいだ。普通になれないんだ。約束を守ってても……俺は、あっちに戻っちゃいけないんだ」
崩れ落ちるように朔が座り込むと、昴は腕を伸ばして兄の身体を抱き寄せた。
「なれないものに無理してならなくたっていいんだよ。外の光が兄さんの見たくないものを照らし出すなら、僕がずっと目隠ししてるから」
耳元で聞こえる昴の声は恐ろしいほど静かで甘やかだった。
「僕は、朔がどんな朔でも平気だよ」
その言葉がじわりと染み渡っていく。昴は朔をそのまま受け入れてくれる。昴は朔をそのままで愛してくれる。いや、昴でなければ、朔を受け入れられる人間などいないのだ。
昴の手が朔の背中を撫で下ろし、その指先が朔の顔へと伸びる。両手で朔の頬を包み込み、ゆっくりと親指で瞼を閉ざさせた。
「彼女に感謝しないと。おかげで外なんて見なくていいって分かったんだ。光の射す場所は、兄さんには眩しすぎるだけ。僕がいるから、暗闇でも平気でしょ?」
朔の視界は完全な闇に包まれた。瞼の向こうには昴の体温だけがある。
朔は今まで普通の人間になろうと努め、光を求め続けることを自分に強いてきた。だが、それ自体が間違いだったのだ。終わりのない夜に生まれたのなら、光など最初から必要ではなかった。この閉ざされた、狭く静かな夜こそが朔の生きていくべき場所だった。
「月が昇ってきたよ、兄さん。目を閉じてても、きれいなものだけ僕が教えてあげる」
朔は昴の胸に顔をうずめ、その首筋に手を回した。胸の奥で燻っていた恋心は、もう隠す必要すらないのかもしれない。朔の異常さも、許されざる想いも、すべて夜が包み隠してくれるのだから。
***
夜、互いの呼吸が重なり、肌が密着する。外では相変わらず無数の怪異たちが部屋を囲み、隙あらば朔を奪い去ろうと戸に爪を立てていた。しかし昴の腕の中にいる限り、それらは決して触れてはこない。昴という檻の中に囚われている限り、朔はそれらの存在を感じずにいられる。
――夜は昴と一緒に眠ること。昴が「おやすみ」と言ったら目を閉じること。昴が「おはよう」と言うまで目を開けないこと。
朔は瞼を閉じて昴の心音に耳を澄ました。
「おやすみ、僕の朔」
「……おやすみ、昴」
残酷な光を退け、世界のすべてから隔絶された夜の中で、二人は深い安らぎを感じていた。




