北の大魔女に婚約者を生き返らせてほしいと頼みに行ったところ
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婚約者が戦死した。
終戦間近の流れ矢だったらしい。
私の心には何もなくなった。
* * *
北の大魔女が住む薄暗い森。
大きな木の傘が光を隠す。
じっとりと湿った苔の匂いが肺に充満する。足場は粘り気のある音を立てて、ブーツはすぐに泥に塗れた。それでも動きを止めることはない。
コンコンコン──。
乾いたノックの音。北の大魔女の家だった。一人で住むには大きな家が、二人なら手狭だろう。
黒いフードを深く被ったルルは、開かない扉をじっと見つめている。
この半年間を思い出していた。
婚約者のライナスが戦地に行ったのは一年前のこと。
その頃、隣国との戦争は終局へ向かっていた。しかし、運の悪いことに彼がいたのは最後の戦いの場──南東の国境部だった。
王立軍が南東の国境へたどり着けば、戦争は終わる。
誰もがそう思っていた。
王立軍到着まであとわずか。
そんなある日、砦の一部で小競り合いが発生。運悪く流れ矢が当たってライナスは戦死した。
戦死の二週間後、報せが屋敷に届いた。
その電報を握りしめてルルの目から涙が溢れた。連日泣いて目は腫れた。しかし、ルルの悲しみは消えない。
周りからは色が消え、すべてのことが他人事のようだった。
たった一つ──婚約者のこと以外は⋯⋯。
ある噂を聞きつけて北の大魔女の居場所をなんとか探し当てた。
ゆっくりと扉を開けたのは、ルルの頭一つ分大きい老婆。
“北の大魔女”。
ルルが小さすぎるのだ。齢十ほどの少女と変わらない背丈。
魔女はルルを見るなり、上から下まで視線を移す。
「とにかく入んな」
しわがれた声は呆れているようにも聞こえる。
ルルはダイニングルームまで来ると、家の中に入った実感が湧いた。
肩の力が抜け、フードに手を掛ける。
フードが肩に柔らかく降りてくると、押し込められていた茶色の長い髪がふんわりと出てきた。
着席を勧められ、ルルは腰掛けた。
「どんな用事だい?」
魔女の言葉に琥珀よりも明るいコーパル色の瞳に炎が反射する。
半年間の苦労を思い出しながら、ついに探し求めていた魔女が目の前に現れた。
「北の大魔女・スカーディアさま、婚約者のライナスを生き返らせてください」
ルルを見ながら、小さく息を飲んだ魔女。
目を瞑り、頭を左右に振る。
「悪いが諦めな」
魔女の落とした声音が結果を突き付けてくる。
それでもルルは諦めきれないように魔女を見続けていた。冷たくなった指先が宙を彷徨う。
魔女はそういいながらも、頬杖をつきながら濃い紫色の瞳はルルを捉えている。
「まぁ、せっかく来たんだから、寿命と交換で文のやり取りを出来るようにしてやろう」
指先が痺れた。肺の奥まで空気が流れ込んでくる。
「お前の寿命一年と引き換えに、一年前のお前の婚約者と一年間だけ文を交わせる」
(寿命と交換⋯⋯)
口元が思わず緩む。それを見た魔女はすかさず付け加えた。
「だが過去との縁を一年つなぐ術だ。何が起きても知らんぞ」
「それでは、お願いします」
今のやりとりがなくなるのを恐れて素早くルルは答えた。胸がじんわりと温かくなる。いつしか指先の感覚が戻ってきた。
「即答なんて命知らずな娘じゃな」
魔女がその後のやりとりと詳しい説明を続けたが、ルルは上の空だった。
黒いフードをかぶり直すとルルは来たときとは別人のように輝いた顔で、深く頭を下げた。
魔女は窓から帰っていくルルの後ろ姿を見送った。
「今にも冥府に呼ばれそうな光のない目を見た瞬間、焦ったわい。
あの娘、生き返らせる方法があると知ったら即答しそうな勢いじゃったな」
魔女は思い返していた。
人が死ぬとその魂は『死の門』をくぐる。
その門が開くのは魂が中に入るときだけ。
門が開いている間に中の魂を呼ぶ術なのだ。
失敗すると術師の魂も死の門の中に連れていかれる。
そして連れてきた魂の依代が必要となる。
もちろん、本人の体が残っていればいいのだが⋯⋯。
「先程の娘は喜んで自分の体を差し出しかねん。でも、わしの若い頃の輝く強き瞳にそっくりじゃ。未来を変えかねん」
魔女の声は部屋の中を跳ねた。
* * *
一年数ヶ月前──。
ルルのいるアルバトス王国から遠く離れた元大帝国・ヴェスティアは『歴史をたどればカルトリアの一部も自国の土地だったこと』を主張した。そして『それを取り返す』と他国へ宣言。その同日に隣国・カストリアへと侵攻を始めた。
原因となったのは、カストリアのある鉱山から見つかった新種の魔石。
半ば無理やりともとれる理由で戦争は勃発したが、近隣諸国もまた思惑が飛び交うことになる。
ヴェスティアのお零れに預かろうとする国。
カストリアを独り占めしようとする国。
すぐに数十カ国が混戦する世界戦争へと膨らんでいった。
ヴェスティアの近くあるセレティオン王国も参加せざるを得なかった。
世界の西側で大戦争がある中、ルルのいるアルバトス王国の隣国・オルナントが『アルバトスがセレティオンを無理やり戦争に参加させた』と公表した。
アルバトスは西地域に繋がりはなく、セレティオンへ同盟を持ち掛け始めた矢先の出来事だった。
オルナントはセレティオンと二カ国同盟を理由に、北東の国境の石壁を壊しオルナントが侵攻してきた。
アルバトス国は震撼した。
半年間の激戦の結果、奪われた北東のハルディンを奪還した。
取り戻した時には、岩と木の瓦礫山だった。
そしてオルナントは唯一の南大陸航路を持つアルバトス南東のポルト・ラグネアへと軍を向けていたのだった──。
* * *
ルルは自室に戻るとさっそく北の大魔女にもらった羽根ペンと羊皮紙、便箋をそれぞれ机に広げた。
どれも魔女の術がかかったもの。
羽根ペンはインク不要で便箋に字が浮かび上がる。
それから羊皮紙──なぞる指先が表面で滑る。
円形の図の付近にいろいろと古語のようなものが書き込まれている。
北の大魔女はこれで書いた手紙が一年前のライナスに届くと告げた。
「ルルです。ライナスさまの方はいかがでしょうか?」
『こちらは移動を始めたばかりですね。周りの人と不安なことを言い合っていましたが、戦地までも遠いので少しずつ慣れてきました』
ルルは不思議な感覚に陥っていた。
手紙を書いて魔法陣の描かれた羊皮紙に乗せる。
眩い光を放ったかと思うと手紙は消える。
彼はただの手紙のやりとりだと思っているだろう。
戦争が起こるまでルルは『戦地になど手紙を送るものではない。残されたものはただ無事を祈って待つのみ』との教えを鵜呑みにしていた。
そして他の令嬢がするように、手紙は送らず、刺繍に願いを込め、彼の手に届くはずのないハンカチを縫い続けたのだ。
だが、今回は違う。
彼を死に至らしめた、流れ矢を食い止めなければいけない。
それでも、そこまで書こうと考えると、手が震えて書けなかった。
(今から一年前はどうだったかしら⋯⋯)
* * *
ちょうど一年前、ライナスが招集された。場所はポルト・ラグネア。
今回の戦争の一番の要である。
ポルト・ラグネアは国内でも一番の貿易港。
近隣諸国の中でも唯一南大陸を結ぶ航路を持つ。
ライナスが出征する頃にはポルト・ラグネアは火の海となった。
生死不明の数多の人間が転がる戦地では、戦死者の埋葬や怪我人の治療の方が最優先とされたはずだろう。
軍での移動は長距離になるため、何日もかけて戦地へと赴く。
ライナスとの手紙のやりとりは週に一度ほどだった。
戦地へと赴いている彼のことを考えると、比較的落ち着いているのではないだろうか。
各都市を回って戦況を確認、怪我人の治療をしながら進んでいく。ライナスのいる大軍では多くの時間を要するのだろう。
風の噂では、ポルト・ラグネアはすでに隣国に落ちたとも聞くという。
国内では終戦するまで明らかにされないだろう。
ライナスとは他愛のない話が多かった。
缶詰め料理は美味しくないので、アレンジをしているとか、街に着いた日だけはワインと柔らかいパンが出ること、など。
ライナスが流れ矢で当たって亡くなって何日かすると王太子が到着。
王太子の持つ王命を隣国に示し終戦を宣言する。
自国での被害は主要な二都市が陥落。
すでに余力はなくなった。
敵国・オルナントの狙いは“ポルト・ラグネア”。
それを得た暁にはすぐさま終戦を受け入れる。
ルルがそれを知っているのは、終戦後、国が崩れ始めたからだ。
* * *
終戦宣言後、復興しようにも資材も人も足りない状況となった。
戦争中、農村地区の多かった北東部は焼け野原になった。そればかりか欠けた剣や鉄鏃も残るこの大地を浄化し、種を植え、農作物を収穫するまでには数年の時が必要となる。
国庫の農作物を開放しようにも、王族や貴族が優先される。平民には空腹を満たすほどの量は配られないだろう。
そればかりか復興のために、貴族には重税が課せられた。流通紙幣、金貨、宝石等金品に代わるもの──。
誰もいなくなった屋敷で一人、溜息をつくルルは部屋を見渡した。
壁にかけられていた絵画や宝石やドレスで満たされていたドレッサーやワードローブは綺麗になくなった。
昼間なのに明かりは外から入る自然光のみ。夜は蝋燭の毎日だ。
北の大魔女に出会う一ヶ月前に事件が起きた。
父は頻繁に街を行き来し、なんとか持ち堪えようとした。顔に怪我をして帰ってくることもあった。皺を増やし、顔も手も乾燥していた父は半年で別人のようになった。
珍しくご馳走だった夜、父は以前のような穏やかな顔をして『いい夢をみるんだぞ』と言った。
そう言った直後、父の口からは声は出なかったが、動いていた。
何と言っていたのか、何度思い返しても分からない。
次の日、父は母とともに自害した。
唯一残った私への手紙にはひと言、『ルル、すまない』、と。
ルルは動かなくなった二人を見て動けなくなった。
そこから優しく肩を抱いて部屋を移動し、その後の埋葬の指示を出してくれたのは侍女長だった。
ルルの人生はライナスの訃報だけではなく、完全に壊れてしまった。
これは自分の人生ではない。
悪い夢だ。
目の前で起きていることは何一つ理解できなかった。
戦争は終わったはずなのに、なぜ両親は死ななければいけなかったのだろうか。
見えているものが現実ではなかったとしたらどんなに良かったのだろう。
侍女長は『私と一緒に来ませんか』と誘ってくれた。胸がじんわりと熱くなった。
だが、ルルは首を縦に振らなかった。
ここで生きる亡霊となってもいい。
ルルの気持ちを悟ったのか、少し悩んだあと侍女長は静かに告げた。
『北の大魔女は死んだ人を生き返らせるらしい──』
ルルは急いで北の大魔女を探し始めたのだった。
* * *
ルルは長いことペンを走らせることに迷っていた。
(もしライナスが生きていたとしても、辛い未来を歩くことになる⋯⋯それは本当に良いことかしら⋯⋯)
ライナスが流れ矢に当たる一ヶ月前、ようやくルルは自分が一年後にいて、そこから手紙を出していることを打ち明けた。
ライナスが流れ矢に当たって亡くなってしまうことも⋯⋯。
そして終戦後半年で何があったのかも。
ペンを置いたルルはそっと羊皮紙の上に手紙を置き、光とともに消えていく手紙を見つめていた。
辺りはすでに闇に包まれていた。
実はすぐに返信が返ってきた。
その手紙を開けることが怖くて、届いた手紙にルルは視線を落とし続けている。
手の震えはまだ止まらない。
「ふぅ、ルル、これ以上失うことはないわ。もう何も残っていないもの。何かが駄目で諦めるとしても冥府までは一緒よ」
ルルは青い唇でそう呟くと手紙を開けた。
胸が強く鷲掴みにされる。息をするのも忘れてライナスの力強い字を見つめる。
『詳しく教えてほしい。俺はルルの元へ絶対に帰る!』
ルルは下を向いて力を入れる。
肺は息を求めて悲鳴を上げたが、眉間に力を込めて堪えなければ、すべてが出てしまう。
「ごほっ! ごほっごほっ⋯⋯」
ルルは力加減が分からず咳込んでしまった。
* * *
ルルは両親がいなくなって以来、寄り付かなかった父の執務室や寝室に足を入れ、引き出しを開けた。
侍女長や使用人が使っていた部屋も全部探す。
見つけた書類をすべて抱えると、部屋へと戻ってくる。
埃が鼻腔をくすぐる。目を細めながら紙をめくっていくといくつか分かったことがあった。
ライナスの最期を迎えた場所と日付。
そして近くにいた仲間の名前が数名。
分かることは何でも手紙に書いた。
ライナスに会えるかもしれない。
その想いだけが、ルルに希望を与える。
それでもルルにはライナスへの手紙に書かなかったことが一つだけあった。
それはポルト・ラグネアのその後について──。
終戦して数カ月後、近隣諸国は驚愕した。
“群青”という見たこともない染料で染め上げられた生糸が南大陸からやってきた。
この深い青の色味に多くの国が夢中になる。
その話をルルが知るくらいなので、ポルト・ラグネアを得たオルナントの繁栄は目を見張るほどだろう。
アルバトスは多くの地域で産業が低迷し、食べ物を奪い合う騒動が勃発した。
そしてルルの家のように重税に耐えかねる貴族も多く出ている。
(あの時、ポルト・ラグネアが奪われなければ⋯⋯)
絵空事とは分かっている。
だが、ライナスが生きていたらと同じくらい、そのことを考えてしまう。
ルルはライナスが流れ矢に当たったとされるその日まで、ライナスの無事を祈ることしかできなかった。
* * *
ライナスは不思議な気分だった。
頻繁に届くルルからの手紙に喜んでいたが、ルルから打ち明けられた大きな秘密。
ルルのこじんまりとしながらも一字一字綺麗な字には、熱意が籠っていた。
『一年後から自分は手紙を出している』と始まったルルの手紙。彼女の説明は、具体的で疑う余地はなかった。
もしそれが本当なら、彼女はどれほど独りで悲しい渦の中にいるのだろう。
ルルの言葉が本当なら今日、自分は流れ矢に当たって死ぬ。
丘の上に構えたアルバトス軍はポルト・ラグネアが一望できた。
しかし、オルナントは牽制とばかりに何度も攻撃を加えてきた。アルバトスは王太子を待つのみだというのに⋯⋯。
「本当に運が悪いな」
この日、ライナスは最前線で戦うことになった。
相手もこれ以上侵略する気はないのか、丘に築いたアルバトスの防衛線を大きく越えてくることはない。
それがアルバトス軍を苛立たせた。
それでも最前線。
怒号に矢が飛び交う。
気をつけていてもキリがない。
「今日だけ気をつければ⋯⋯」
その想いに反して、次第に目の前で戦っている敵国が警戒し始めた。
それは敵だけではなかった。
「ライナスだけに戦わせているんじゃない! 俺たちも行くぞ!」
ライナスの戦いぶりに感化され始めた仲間たちは、己を奮い立たせるために鼓舞する声があちこちで上がり始めた。
ライナスは目を見開き後ろの仲間に呼びかけようとする。
『流れ矢で死ぬ』
その言葉が思考を支配し、目の前の敵兵に身体を戻す。
キィイン、頭で理解する前に視界に入ったものを剣で払い落とした。
それは矢の芯から鏃に当たり、その硬さに剣が震え手が痺れた。
指先がひどく冷える。
もし前方へと身体を戻さなければ、自分に当たっていたかもしれない。
ライナスは今までで一番の混戦でただ剣を振り、敵兵を蹴散らす。薙ぎ倒した敵を踏みつけ前へと進むしかなかった。
城壁の端を登る敵兵を振り落とすと、顔を上げた。
ライナスは無意識に弓兵を探してしまう。奥にいた弓兵は矢を引き始めた。
その矢の先を視線で追うと仲間の姿があった。
ライナスは何も考えられなかった。
ライナスの足は地を強く蹴り仲間へと駆ける。
仲間がライナスの意を汲めずにいる。
それでもライナスは仲間の胴を掴むと横へと押した。
仲間が横に倒れていくと、あの弓兵が見えた。弓には矢がいない。
その鏃は着実にライナスの胸へと向っていた。
ライナスは鏃が自分の胸に着く少し前に、ようやく気がついた。
頭の中では、ルルへの謝罪の言葉が溢れ出した。
その時、ちらりと見え始めた弾ける光はすぐに閃光へと変わり、辺りを光で眩ませる。
大きく四方に散る閃光は辺りの兵の動きを止めるには十分な大きさだった。
光がなくなる頃、ライナスは目の前の光景に釘付けになった。
* * *
「ルル!」
ルルはライナスが目の前にいることに、理解が追いつかなかった。
部屋の中に渦が現れたかと思ったら、急に目の前にライナスがいたのだ。
嬉しさに胸が震えるルルは、目を開けていられなかった。
そう思ったのも束の間、土煙の匂いが鼻腔をくすぐる。
そして慌ただしく固い音や男性の声が上がる。
(あれ? ここはもしかして⋯⋯)
大きな手がルルの両腕を包む。
「ルル、混乱しているところ悪いけどここは戦場だ。君が俺を流れ矢から救ってくれた」
その言葉を確かめるように周りを見渡す。周りの兵士たちと目が合った。
ここはポルト・ラグネアの最前線。
怒声と低い叫び声、金属が当たる固い音──。
そして戦後の暗い部屋。
父と母の最期の顔。
(ここが奪われなければ⋯⋯)
怖かった。
足も震えている。
だが、この光景を知っている。
この先に待っている未来を知っている。
ライナスも、父も、母も失う未来を、私はもう知ってしまっている。
(あれがオルナントね⋯⋯もう絶対に失ったりしない。私が皆を護るの!)
ルルは城壁に登った。
簡素なワンピースの裾は風に靡いている。
「私はアルバトスを勝利へ導く女神!
先程もここにいるライナスを矢から救った!」
誰からも異論の声はない。
続きを聞こうとルルの方を皆は見つめている。
「ポルト・ラグネアはアルバトスのものである! 誰も侵略してはならない!」
戦場に似つかわしくない可愛らしい声が辺りに響く。
人前で大声など出したことがないルルは喉をすぐに痛めた。
それでも、ルルは背筋をもう一度伸ばす。
(大事なものをすべて失ったオルナントとの戦い。ここで退くことはできないわ!)
横から鬨の声が上がる。
男たちの低く響く声は次第に重なりを強めていく。
ルルは周りを見渡すと一人、また一人と視線を交えていく。
波打つような声はどんどん大きくなる。
応援するかのように風が背中を押していく。
ルルは短剣をオルナントの方へと向けた。
* * *
そこから馬車で一時間程かかる小高い丘にはひときわ輝く兜の人物と彼が率いる小軍の姿があった。
ため息をついた王太子は力ない顔を戦地へ向けた。
率いていた大軍はいつしか数が減り、兵士も疲弊しきっていた。
「エドガー、なぜ少女が戦場にいるのだ?」
「分かりませんが、短剣をオルナントへ向けている辺り、こちらの味方のように見受けられます」
大きな体躯のエドガーは低くよく通る声で王太子に伝える。
王太子の合図を見た宮廷魔導師はすぐさまルルへ向けて拡声魔法をかけた。
離れた王太子たちのいる小高い丘までルルの可愛らしい声が聞こえる。
「すぐに王太子が到着されます。すでに私たちの状況を知った王太子が大軍をまとめて駆けつけるのです!」
ルルに王太子たちが見えているとは誰も思っていなかった。
敵国へ向けて虚勢をはっている。
華奢な彼女は剣をオルナント側へ向け続けている。
兵士たちがオルナント軍へ近づいていく。
「あの少女⋯⋯前線で戦を先導しております」
あの距離で彼女があんなことをすれば、敵の的になる。
すぐさま引き下ろそうと、オルナント兵は弓矢を射っているはずなのに、彼女は立ち続けている。
「私も本当は戦いたかった。何度も訪れたことのあるポルト・ラグネア。だが私の胸元にある王命は⋯⋯」
王太子は胸にそっと手を当てた。
「あんなにか弱い女の子が戦地の前線で誰よりも堂々としている。少女は私たちを待っているんだ。それなのに私たちが諦めることなんて、できない」
胸元から出した手にはある書状が握られていた。
「お父様には悪いが──」
王太子の目は意思を持って輝き始める。
王命は王太子の手によって音を立てて破かれる。
宙を舞う紙切れには“敗戦を認める”という文字があり、どこかへ消えていった。
王太子は後ろを振り返るとルルと同じ顔つきになった。
「皆の者、勝利の女神に続くぞ!」
エドガーは誰よりも勇ましい顔で笑った。
王太子は手綱を振り下ろす。
それに応じるように王太子を乗せた馬は足を前へと出す。
そのまま丘を下り始めると勢いがついていく。
王太子とその側近の乗る駿馬は筋肉を盛り上がらせ、力強く地面を蹴っていく。
たてがみを上下になびかせ悠々と進む姿は神々しい。
風を切る音で耳が覆われるようだった。
「エドガー、あの少女は?」
「まだ剣を上げております」
エドガーは王太子の横をすり抜けていく。
戦場となっているポルト・ラグネアの関所がどんどん近づいてくる。
こちらまで息を吸う音が聞こえそうなほどエドガーは胸を膨らませた。
「こちらはアルバトス王国の王太子・レイヴン様の率いる軍である。後ろに構える丘の奥には何千もの兵士が控えている。ポルト・ラグネアを奪還するぞ!」
エドガーの重低音の声はよく響く。
拡声魔法をかけたエドガーの声に辺りの騒がしさは掻き消された。
ルルは心の底から驚いていた。
まさかハッタリで言ったのに王太子が参上した。しかも終戦をするはずなのに一緒に戦うと言っている。
周りの兵士たちも同じような気持ちだったのか目を大きく見開いていた。
一方、オルナント側では、顔に影が差し込み、周りの様子を心配そうに見渡す者が増えた。
「エドガーの大口が効いているようだな」
「あの少女が来るはずのないレイヴン様がもうすぐ来ると断言したのです。こちらもいるはずがない大軍を率いていると言わないと格好がつかないでしょう」
さすが大将軍のエドガーは安々と言ってのける。
ルルの元に王太子の肉声が届く。
「勝利の女神よ、運命を切り開いてくれて感謝する!」
ルルの剣先に向かって威勢の良い騎馬がどんどん通り過ぎていく。
オルナントの兵は押され始めた。
エドガーの一声でオルナント軍の兵士たちが顔色を変え始めたのが、きっかけだろう。
ルルは胸が大きく締め付けられたような気がした。
ルルに弓矢こそ当たらない奇跡が起こり、王太子がやってきた。
そして王太子の軍がオルナントを退けている。
剣先が震える。
それは疲れではなかった。
ルルは奇跡を実感していたのだ。
ルルの周りにも後ろからも味方の兵士が威勢の良い声を上げてオルナント軍を押し出していく。
こんなに小さな少女を『勝利の女神』と呼び、鼓舞してくれる。
それは現実が変わり始めていることを肌で感じていた。
ポルト・ラグネアを護りきれば未来は変わる。
この国もルルもライナスもそして──。
「お父様、お母様のいる未来に変わるかもしれない」
ルルの瞳に映る光景に、確信へと変わる。
「もう下ろして良さそうね」
ルルはゆっくりと剣を下ろした。
ルルの周りには味方だけになった。
そして、一番聞きたかった大好きな人の声。
「ルル!」
自分の名前を呼ばれ、嬉しさに心臓がどくんと鳴る。
「ライナス!」
ルルはライナスの胸へと飛び込んだ。
ライナスの腕がルルの背中をしっかりと抱く。
二人はあるはずのない未来にたどり着いたのだった。
* * *
ルルは玉座の間で王に深々と頭を垂れていた。
男爵家の令嬢が王と面会することは前代未聞だった。
しかし、終戦間近のポルト・ラグネアの戦いでは『勝利の女神』とされ、ポルト・ラグネアの奪還に一役買ったことが評価された。
その功績は大きく王もいたく感心し、異例の招集が叶った。
王は上機嫌でルルを労った。
ここへ来る前に王太子からも御礼を言われた。ルルの方が何度も頭を下げていた。
そして王の前でも頭を下げ続けるルル。
それでも気分が良かった。
ライナスは生きていたから。
「其方には褒美を取らせたい。なにか望みはあるか?」
遠慮と本音がルルの心に入り混じる。
自害する前日に父と母が残した手紙の『ルル、すまない』という文字がルルの脳裏に浮かんだ。
(遠慮をしている場合ではないわ)
「はい、ポルト・ラグネアから王都までの交易路にグライフ領を加えていただくことは出来ないでしょうか?」
それを聞いた王は満足気に笑う。
「なんて賢い娘だ。グライフ領を交易路に加えてやれ」
王はすぐに側近に指示した。
ルルは深々とお辞儀をした。
帰りの馬車では、得も言えぬ達成感に溢れていた。
「ようやく家へ帰れるわ」
ライナスと父と母がルルを待っている。
おそらくこの知らせを聞いたら皆、驚くとともに笑顔になるだろう。
未来は変わったのだから。
「そうだわ。北の大魔女・スカーディアさまにも御礼を言わなくちゃ」
ルルは自分の身体を見下ろした。
戦地であれだけ矢が飛んでいたのに、傷一つない。
「⋯⋯きっと、あの方ね」
ルルを乗せた馬車は、太陽の光を受けて前へ前へと進んでいった。
お読みいただきありがとうございました!
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