いってらっしゃい
教卓の目の前の席に座らされた俺は今、異世界に行く前の講習を受けている。魔王を倒すまで死ねないと言われ驚きはしたものの、どうせ決定事項なのだろうからとすぐに受け入れ、とりあえず叶に異世界転生について教えてもらうことにした。
彼女は眼鏡をかけて黒板に注意事項を書いている。形から入るタイプなのだろうけど、どうせならもっと女教師っぽい格好をしてくれたらいいのに。口には出さないけど。
注意事項を書き終えた彼女がこちらに振り向く。ちなみに内容は、私の話をちゃんと聞く、勝手に私語をしない、寝ない、と異世界での注意事項ではなく、今この講習での注意事項が書かれていた。いらないだろ。
「それじゃあまずは、転生について教えるわね。」
そう言うと、彼女は黒板に人間の絵と可愛らしい赤ちゃんの絵を描いた。(補足として赤ちゃんの絵も人間の赤ちゃんの絵である)
「まず最初に転生とは、元の肉体が死ぬことで魂が肉体から離れ、新しく誕生した肉体へと移ることを言います。」
彼女は人間から赤ちゃんへと矢印を書き、その上に魂と書く。つまりは俺の魂を、異世界で新たに誕生した肉体に移すことで転生させるということだろう。彼女は続ける。
「そして人には肉体と精神が存在していて、それらには記憶が刻まれています。なので転生の際に精神を魂に付随させることで、今の記憶をもった状態で転生することが可能なのです。」
黒板の魂という字から吹き出しで精神、そこからさらに吹き出しで記憶と書かれる。
なるほど、さっき空井世界の記憶をもった魂は死なないと言っていたのは、条件を達成しないとたとえ死んだとしても、肉体を代えて記憶を引き継ぎ続けるということだったのか。しんどいな。
「ここまでで何か質問はある?」
「いや、だいたい理解した、続けてくれ。」
「さすが高学歴、理解が早いね。」
高学歴、か。たしかに有名国立大学を卒業してはいるが、結局フリーターになったしあんまり行った意味はなかった気がするが、褒められて悪い気はしない。
「次に、君が転生する世界や家庭について教えてあげたいところだけど、そこまで教えるのは禁止されてるんだよね。ごめんね。」
禁止されているということは神様にルールを課しているさらに上の神様的な存在がいるのだろうか。
「まあ、郷に入っては郷に従えと言うし、その辺は自分の力で知っていくけど、もしかして文字や言語も伝わらないのか?」
「うん、まあでも子どもの頃は知識の吸収が早いから、すぐに覚えると思うよ。」
俺もうオッサンなんだけど、転生先の肉体は子どもからだから大丈夫なのだろうか。とりあえずそう信じるしかないか。と、ここで重大な問題に気づく。
「なあ、俺の記憶ってまさか生まれてすぐから定着しているのか?正直、三十四歳の精神で赤ちゃんとして過ごすのはキツすぎるんだが。」
「それなら安心して、君の記憶が定着するのは多分三歳ぐらいの頃だろうから。」
多分じゃ安心できないけどなあ。まあこれも信じるしかないか。人には三歳ぐらいの頃までの記憶を持たない幼児期健忘というシステムがあり、そのことを踏まえているなら納得がいくしな。
「他に何か質問はある?答えられることは少ないだろうけど。もし質問がないなら講習は終わるわよ。」
異世界に関する質問は答えられないみたいだし、最後に一つだけ聞いてみた。
「何で俺なんだ?」
ここには俺しか呼ばれていないし、誰かが死ぬ度にこんな面倒なことはしていないだろうからな。彼女がなぜ俺を転生者として選んだのか、その理由を俺は知りたかった。
「君は何も成さずに死んだから。」
「就職して社会に貢献したり、結婚して子孫を残したりしなかったからってことか?でもそんな人、俺以外にもまあまあいると思うぜ。」
「たしかにそういう人はたくさんいる。でもそういう人はみんな、後悔して死んでいくの。その後悔が魂を成長させ、次の人生ではより素晴らしい人生を歩んでくれるんじゃないかって、私はそう信じているの。」
叶はこちらに向き直し、鋭く俺の目を見つめる。
「それなのに君は、後悔しないどころか、幸せな人生だったと満足して死んだ。君には何だって成し遂げられる力があったのに、何もしようとしなかった。それが私は許せなかったの。」
語気を強めて話す彼女の言葉を聞いても、俺は俺の人生が間違っていたとは思わない。でも少しだけ、彼女の気持ちに応えてあげたいと思った。
「わかったよ。それなりに頑張ってみるよ。」
そう言って微笑む俺を見て、叶の表情も緩んだ。こうしてしっかり見るとやっぱり可愛いな。
それじゃあもう行くよと席を立つと、彼女は、教室を出てドアを閉めれば転生できると教えてくれた。教室から出るのが少し名残惜しく感じつつも、長居する訳にもいかないと思い、前方のドアを開けて教室の外に出る。ドアを閉めようとしたとき、叶と目が合った。
「いってらっしゃい。」
その言葉を聞いて俺はドアを閉めた。そのときの彼女の笑顔は、息子を送り出す母親の笑顔でも、旦那を見送る妻の笑顔でもなく、いたずらが成功した少女のような笑顔だった。彼女が俺を選んだ理由はきっと他にもあったのだろう。そう感じながら俺は転生した。