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第六話 偽りの幸福

「ユキも、無理してわたしをそばに置かなくていいのにね」


 ビーフシチューを同じ材料のカレーに変えてほしいと言うくらいで、野菜を切っておくほど気を遣う必要なんてないのだ。小春がよほどビーフシチューを食べたい気分のときは別として、使うルーを変える程度は、手間ですらない。


「あるじさまは、無理などしておられません!」

「姫さまとともにあることを、心から喜んでいらっしゃいます!」


 ひとりきりだったキッチンで、突然子どもの声が聞こえても、小春は驚かなかった。腰のあたりまで視線を下げると、揃いの紺の浴衣を着た五、六歳くらいの男の子がふたり、くりくりした目を真剣に見開いて小春を見上げている。


「あら、まあ」


 小春は右側の男の子の髪から、目に付いた葉っぱをつまんで取った。


「菫、紫苑、いったいどこで遊んできたの。ふたりとも泥だらけじゃない」


 左側の子は頬に泥の跡をつけている。ハンカチを水に濡らし、子どもらしい柔らかな頬を拭ってやりながら、ふたりが抱えている虫かごを覗き込んだ。


「タラの芽ね」

「姫さまに、召し上がっていただきたくて……」

「つい夢中になってしまいました」


 ふたりの男の子は、外見は見分けがつかないほどそっくりで、まさに瓜ふたつである。正体は人間に化けた狛犬であり、由希斗の神使だ。もとは人間が神社を建てた際に置いた石像だったのだが、由希斗に霊力を分け与えられて、器用に人間の姿を取るようになった。由希斗や小春が留守にしているときはたいてい台座に収まってこの家や神域を守り、それ以外のときは、由希斗が自由にさせていた。


 彼らも数百年は歳を取っているはずなのに、いつまでも子どもらしく可愛らしい。

 小春のことは、由希斗に次ぐ主人として慕ってくれる。


「姫さま、ね……」


 呼ばれ慣れてはいるが、今は少し、否定的な気分になった。


「あるじさまの奥方さまですから」

「そんなに立派じゃないわ」


 菫が言うのに否定を返せば、今度は紫苑が口を開く。


「あるじさまは、姫さまをとても大事にしておられます」

「それはわかっているのよ」


 生真面目な菫と紫苑に、小春はほろ苦く微笑む。

 無邪気で、伸びやかに甘えるようでいて、その実、由希斗はいつも小春の顔色をうかがっている。それを『大事にしている』と言い表すなら、否定はできない。でも、由希斗の本意なのかを問えば、そうとは言えないと小春は思っていた。


「主さまは、無理などなさいません」

「だって主さまは、無理するのはお嫌いですから」

「……そうね」


 小春は、つい笑ってしまいそうになるのをこらえた。

 聞きようによっては由希斗を貶す言いようだが、ふたりは真面目で素直なだけだ。菫と紫苑の頭をそれぞれ撫でてやって、彼らから虫かごを受け取る。天ぷらかしら、と考えていると、カウンターのカーテンをひらいて、由希斗が顔を出した。


「ねえ小春、やっぱり、学校で話しかけてはだめ?」


 深刻そうな顔をして訊くことではない。料理や、ほかの家事を当番制にしてみても、寂しがりやの由希斗は余暇でテレビや本を楽しむより、すぐ放り出して小春に構ってもらいたがる。


「だめ。騒がしいのはいやよ、わたし」

「だってみんな、小春に彼氏がいるかどうかを気にしてる」

「いるみたいだって、言っていいわよ」


 カウンターに肘をついて、由希斗は少し悩むように眉を寄せた。きっと大したことを考えているわけでもないのに、とびきりの美人だから、何かを深く憂えているように見える。


「彼氏ではなくて、旦那さんがいるよ、って言うのは?」

「答えがわかっていて訊くのはやめなさい」

「何年かに一度くらい、小春が気を変えてくれないかな、と」

「変えないわねぇ」


 顔を上げずタラの芽をざるに上げる小春に、取り合う気がないのを悟って、由希斗はカウンターに突っ伏した。


「学校なんて行きたくない……」

「いいわよ、ユキは行かなくて。調べものだけなら、わたしひとりで進めるわ」

「それは一番だめ」


 由希斗がぱっと体を起こした。それから軽い息をついて、また頬杖をつく。


「『ファントムペイン』かあ……」

「『この世で受ける痛みや苦しみはすべて幻想に過ぎないもので、我々は幻想に騙されているだけなのだ』」


 小春は、この街の市長から今回の相談を受けたときに聞かされた教団の理念を復唱した。『ファントムペイン』は教団の名だ。


「現実に存在する痛みや苦しみを幻だと言っても、人は救われない」


 少し冷たく、突き放した言い方をした由希斗に、小春はやんわりと付け加えた。


「縋れるものがあるのは大事なことよ。問題なのは、この街の神さまが、その幻想を生み出していると主張していることだわ。それも、痛みや苦しみだけでなく、この街が幸福で、恵まれているのも、そう思い込まされているだけだと、付け加えて」


 街の若者たちのあいだに、良くない噂が流れつつある。

 市長が持ち込んで来たのは、なにやらきな臭い宗教の話だった。由希斗や小春の正体を知っている市長は、表舞台では解決できない問題ごとが起こったときに、この家を訪ねてくる。


「僕を殺せば、本物の喜びが手に入るってことかな。まあ、嘘ではないかもしれないね」

「馬鹿を言わないで」

「だって、この街が豊かなのは、確かに僕の力だもの。それがなくなったら、人は自分たちの力だけで生きなきゃならない。それはある意味で、本当の喜びだよ」

「…………」


 小春は何も言えなかった。

 由希斗の言うことが理解できなくはないからだ。


「……ともかく、この街の人は、そんなこと望まないはずだわ。だから市長がわたしたちのところへ来たのでしょう」


 黙ってしまった小春を由希斗が不審に思う前に、気を取り直して誤魔化した。


「目的は何なのかしら」

「この街の『神さま』になりたいんじゃない? 僕がここを守っているのは、趣味みたいなものだけれど」

「ユキがこの街を大切に思っているのを、わたしは知っているのよ」


 由希斗がふてくされているのは、小春を高校に通わせなければならない事態が、心底気に入らないからだ。けれど、街で起こっていることをきちんと知るために、人々と生活をともにすべきだという小春の考えを、彼は尊重してくれている。


「噂はあるのに、教祖や、信徒らしい人は見つかっていない。いったい、どこの誰なのかしら……」

「みんな幸せに暮らしているのに、わざわざそれを壊そうなんて、ひどい話だよ」


 由希斗の心情が少し荒れたようで、周囲の霊力がややざわつく。小春は軽く呼吸を整え、目には見えない糸を解くように、それを宥めて穏やかな流れに戻してやった。

 霊力は、小春にとって、かたちのないもうひとつの身体のようなものだった。生まれ持った自分の霊力は少ないものの、由希斗が彼のものを丸ごとゆだねてくるから、そちらも自在に扱える。

 小春には簡単なことが、当の神さまにはできないというのも、どうにも不思議な話だ。


「でも、若い人たちのあいだでってことだったのに、学校ではまだ何も聞かないわ」

「僕も。うちの神社についてはよく聞くよ。街が豊かなのは、神さまの力のおかげだって」


 誇らしげにする由希斗に、小春は褒めるように笑いかける。


「そうね。ユキが、頑張って街を守っている証拠ね」

「僕と小春が、ね」


 軽い口調だが、由希斗が小春を見つめるまなざしは真剣だった。それを、手元のタラの芽に目を落とすことでかわした。


「高校じゃなくて、大学生のほうだったのかしら。わたしの見た目では、大学生は少し厳しいのよね。ユキはむしろ、そちらのほうが合うでしょうけれど」


 街を守ると言っても、神の力があれば万事解決とはいかない。人が思うより地道なもので、その一環として、小春と由希斗は、何年かに一回くらい、高校へ通ったりもする。


「小春と一緒でないなら、学校なんて行かない」

「わかっているわ。わたしだって、ユキと長く離ればなれでいるのは、気が進まないし」


 そう言えば、由希斗は安心した子どものような笑みをうかべる。

 けれど、小春が彼のそばを離れたくないというのは、そう甘い理由ではなかった。

 この街を守る神さま。彼は、膨大な霊力を持ち、それを自分で制御することができない。うっかり怒らせると、街が吹き飛ぶ。彼が祟り神と言われる所以である。

 だから小春が担っている。

 もともと、小春はそうして神の力を預かってきた巫女の家系の末裔で、数百年前まではただの人間だった。とうに死んでいるはずの小春を生かしているのも由希斗の力だ。


「ねえ、やっぱり学校でも……」

「だめ」


 とりつく島もない小春に、由希斗がため息をつく。


「小春は、僕のお嫁さんなのに」


 甘えるように小春へ流し目をくれる由希斗を、小さく笑っていなす小春のなかでは、由希斗の声が繰り返されていた。


 僕のお嫁さん。


 小春にとって、ほんのわずかも甘い響きを持たない言葉。


 それは、小春を生かすために由希斗が払った、代償の名なのだ。


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