第十九話 傷
絵里奈は少しだけ迷う様子を見せてから、こくりとうなずく。
「健太くん、トウキョウから帰ってきて、少しおかしくて……」
「街を出たら、ユキの加護を失ってしまうの。この街の人は、誰かを憎まないし、悪い感情も強くは持たない。でも、外の世界はそうじゃない」
小春と由希斗が室井健太と同級生だったのは、三年前のことである。高校三年間をともに過ごしたわけではなく、当時、高校生たちに流行していた『おまじない』のせいで招いてしまった悪しきものを追い払うため、三年生の学級に潜り込んだ。高校三年生が、受験の合格祈願でおまじないをする頻度が最も高かったのだ。
そして無事悪しきものを退治したあと、卒業と同時に、生徒や教師、学校の関係者全員に対して、小春と由希斗の存在をなかったことにする術をかけた。
「……室井くんは、外の世界で、悪い人と出会ってしまったのね」
「悪い人?」
「この街を壊そうとする誰かよ」
室井健太は、小春を忘れたはずだった。それを思い出したということは、外の世界で彼とかかわった誰かが、由希斗の術を打ち消したからに違いない。そして彼の小春への想いを利用して、この街を奪おうとしている。
室井は被害者と言えるけれど、小春は、彼へ同情する気は起きなかった。
「そんな人と出会って……健太くんは、どうなるの?」
「この街の幸せを壊そうとするなら許さない。わたしはこの街が大事で、守りたいの」
「健太くんは小春ちゃんを助けたいって言ってた。ねえ、健太くんは、悪い人じゃないんだよ」
絵里奈の口調は懇願を帯びていた。初恋の相手で、そうでなくとも幼なじみとして親しい室井を庇いたい絵里奈の気持ちは理解できても、小春は冷たく言った。
「わたしには室井くんより、ユキのほうが大事なの」
絵里奈にとってどれだけ惨いことであろうと、小春には、自分の気持ちを変えられない。
小春の頭の斜め後ろで、由希斗が小さく息をついたのを感じた。
由希斗を傷つけるものは排除する。小春の意思決定において、最優先で考慮されるのは、いつだって由希斗のことだ。
小春は絵里奈から、杏、祐実、佐々良へと順番に視線を移した。
「みんなも室井くんに、この街の神さまは悪いものだと、聞かされたのかしら」
少女たちは三人で顔を見合わせてから、おずおずとうなずいた。
「駅前に寄り道していたら、その人が声をかけてきて……」
「それで、神さまを疑った?」
「違うよ! ……ただ、本当のことを、知りたくて……」
杏はほんの一瞬だけ由希斗を見、すぐに目を伏せて、膝の上で緊張に固く握ったこぶしを見つめた。
学校に龍が出た事件について、小春はあのとき学校にいた人々の記憶を操作し、何事もなかったことにしたはずだった。それには小春が山村や絵里奈と交わした会話も含まれる。
それなのに絵里奈が神さまへの疑いを強めて禁を破り、山へやってきた時点で、あのあとに室井と会ったのだと予想できていた。
「あなたたちの知りたい『本当のこと』って、つまり、何なのかしら」
絵里奈と祐実、杏が顔を見合わせる。佐々良が彼女たちの輪に入らないのは、絵里奈たちにとって、佐々良はまだ余所者という意識があるからだろう。
「この街の幸せが、幻想、って……。アタシたちが、そう思わされているだけ、っていうのは、本当なの?」
祐実が、肩に力が入り、上目遣いになって問う。
「ユキが、何か術をかけて、人に幸せと思い込ませているわけではないわ」
小春ははっきりと答えた。
「あなたたちが幸せと感じるなら、それは確かに、あなたたちの本当の感情よ」
「健太くんは、この街が恵まれているのは異常だって、言ってた、けど……」
おずおずと絵里奈が口を挟む。小春は彼女に目を向け、答える前に、ちらと市長を見やった。
豊かさを享受する住人たち。市長の役割ははよその都市と少し違って、由希斗に対する人間側の代表であり、神と人とを繋ぐ窓口でもある。市長や市議会が何かをせずとも、この街は自然とうまく回るのだ。
「そうね。異常と言えばそうなのかもしれないわ。でも、ユキ……神さまは、ただ力を巡らせているだけなの。街の色んなことが、その力を借りてうまく回ってゆく。言ってしまえば、ものすごく運がいいだけなのよ」
「神さまが、わざと何かしてるわけじゃない、ってこと?」
「そう。ユキは何かを贔屓したり、邪険にしたりはしない。彼は見守っているだけよ」
「外の街には、そういう神さまは、いないの?」
「わたしは知らないわ。この街から出たことがないから。ユキ、どう?」
小春が話を振ると、由希斗は少しだけ眉を寄せた。珍しいその表情に小春は何かが引っかかったが、絵里奈たちもいる場で話の腰を折るわけにもいかず、黙っていた。
「神、つまり、僕のような存在は、ほかにもいると思う。でも彼らがどこで、どんなふうにしているかは、僕には知り得ない」
由希斗は柔らかな気配を潜め、神さまらしい、少し厳かな雰囲気を滲ませた。
「力があっても、それを欲のまま行使すれば、ことによっては代償を払わなければならない。何もかもを望みのままにできるわけじゃないんだよ」
小春は息を潜めて由希斗を見上げた。彼は、美しい面差しをかすかに強ばらせ、少し苦しげに見えた。
それは、始まりの舞姫のことなのだろうか。
「この街が幸運に恵まれているのは、確かに僕の力の影響だよ。だけどそれは僕が望んでいるからだけじゃなく、君たち人間が、そうしようと努力しているからというのも、間違いないことなんだ」
由希斗は、小春を見つめていた。
『小春が、生きたいと願ったんだよ』
ついこのあいだ聞いた由希斗の切ない声が、耳の奥でまた聞こえる。
小春はその声をそっと胸の奥まで仕舞い込み、絵里奈たちに向き直った。
「ここは、幸せな街。それはユキと、あなたたち街の住人、どちらもの願いで成り立っているの。幻想でも、悪いものでもないわ」
小春は腹に力を込めながら言い切って、ゆっくりと息を吐き出した。
「この街やユキを悪いものだと室井くんが言うのは、彼がそう考えるからよ。誰かに何かを言われたのだとしても、彼がみずから、神さまを悪しきものだと定めたの」
室井を惑わせた何者かのことは、もちろん、許し難く思っている。けれど同じくらい、惑わされた室井にも、小春は腹を立てていた。
ユキを悪いものだと思いたい気持ちが室井になかったなら、きっと、街を出ても、故郷の神さまを否定するような考えにはならなかったはずだ。
小春は少女たちひとりひとりの顔を順に見、最後に絵里奈を見据える。
「この街をどう思うかは、あなた次第。あなたの感じている幸せや苦しみ、それを幻想と呼ぶか、本物とするかも、あなた次第なの。だけど……」
緊張に固まる絵里奈へ、小春は優しく微笑みかけた。
「前に言ったことがあるわよね。苦しかった気持ちも、あとから振り返って感じたことも、どちらも大事なものだって」
「うん……」
「自分に向き合えば、幻想じゃないって、わかるはずだわ。あなたの気持ちだもの」
前に絵里奈へ同じことを言ったときは、彼女には理解できないものと思った。それが今なら、通じる気がする。
絵里奈は真剣な顔で小春を見返し、しばらくしてから、ぽつりと言った。
「うん。……あたし、ホント言うとね、小春ちゃんが妬ましかった。あたしがどんなに健太くんを好きでも見向きもされないのに、小春ちゃんは健太くんを何とも思ってないから」
普段は、恋愛沙汰となると騒がしい少女たちも、今は固唾を飲んで絵里奈の告白を聞いている。絵里奈と特に親しい杏は、絵里奈の気持ちに気づいていたのだろう。案じるように両手を組み合わせて、絵里奈を見ていた。
「あたしのこのイヤなところを、まやかしだって言えば、あたしはイヤな奴じゃないって思えるかもしれないけど……そうやって誤魔化す自分は、やっぱりイヤな奴だと思う」
「あなたの気持ちは、あなたのものよ。ほかの誰かに作られたものではないわ」
「うん」
うなずき、絵里奈はほっとしたように、ここに来て初めて破顔した。そんな絵里奈に、ほかの少女たちも肩の力を抜く。
「室井くんは、どうしてこの街の神さまが幻想だと思うようになったとか、そういうことは言っていなかったかしら」
「健太くんと一緒に、知らない男の人がいたんだ」
小春の問いかけに、絵里奈が食い気味に言った。
「その人が、どうしたの?」
「健太くん、その人が教えてくれたって言ってた。神さまの……えっと、欺瞞、について」
「ひどい言いようだわ。ユキは、何もだましたり嘘をついたりは、していないのに」
小春はため息とともについそうこぼした。すると、由希斗が、小春の肩に手を添えて言う。
「そういうことにしたいんだよ。そうすれば、小春が僕を見限るかもしれないと思っているんだ」
「わたしがユキを見限ることなんて、決してないわ」
「うん」
小春がつい後ろの由希斗を振り返ると、彼は優しい笑みで軽くうなずいた。けれど、その桃色の瞳が、一瞬だけ陰ったのを、小春は見つけてしまった。
どうしたの、と問いたいけれど、今は由希斗ばかり気にしてはいられない。
気を取り直して、少女たちに向き直る。
「その人のことを、もう少し教えてくれる?」
「なんか、変な感じの人だった」
祐実の言う『変』は、気味が悪いとか、そういう意味合いだろうと、小春は彼女の表情を見て感じ取る。次いで杏が言った。
「その人と目が合ったとき、わたし、学校に大きな蛇が出たのを急に思い出したの」
杏は、巨大な蛇が学校に出て、しかもその事件を一度忘れていたという体験の奇妙さからか、少し自信がなさそうな口ぶりだった。
「私、その人、苦手だったわ」
佐々良には、ほかの子たちとは違って事件への動揺はなく、ツンと冷たい態度は、日常にありふれた嫌悪感のうちのひとつに見えた。化け猫だけあって、相手が人ならざるものだろうと、彼女には何ということもないのかもしれない。
「苦手って、どうして?」
「蛇は嫌いなの」
その短い返答で、小春には、その人の正体が学校に出た龍なのだとわかった。
「自分の棲み処を失ったからって、他人のなわばりを荒らさないでほしいわよね」
佐々良以外の少女たちは、何となく彼女の言っていることを理解しつつも、呆気にとられた顔をしている。巨大な龍や、それが人に化けることなど、絵里奈たちにとっては、おとぎ話の世界だ。この街で、神さまの存在を感じながら育ったといっても、今まで、神は彼女たちの日常に現れるものではなかった。
「棲み処を失った……野良神か……」
小春の後ろで、ごく小さく由希斗が呟いた。彼の言葉から、遠い昔の記憶が呼び起こされる。
小春の一族を皆殺しにし、小春を手にかけたのも、そのたぐいのモノだった。
由希斗の声は小さく、絵里奈たちには聞こえなかっただろうが、彼の険しい表情は、皆を不安にさせる。小春はつとめていつも通りに穏やかな笑みをうかべた。
「いろいろとありがとう。怖い思いをさせて、申し訳ないわ」
話の終わりを示唆すると、少女たちはほっとしたように息をついた。その中で、絵里奈だけは、まだ不安そうにしていた。
「あの……小春ちゃん、健太くんは、どうなるの?」
室井を案じる絵里奈からは、幼なじみの情だけでなく、恋慕が感じられた。小春にそれを咎める気持ちはないが、その情を汲んであげることもない。
「彼次第ね。わたしたちはこの街を守るわ。もし、彼が街を奪うか、壊そうとするなら、それを許すわけにいかないの」
「健太くんに、神さまは幻想なんかじゃないって、わかってもらえたらいいってこと?」
小春は「そうね」とうなずいたが、市長が、絵里奈の前に身を乗り出して彼女を止めた。
「やめなさい。彼らに任せるのが一番だよ」
「お父さん……」
市長は絵里奈から小春へ視線を移し、姿勢を正した。
「どうか、よろしくお願いします」
頭を下げる市長を、複雑な気分で眺める。彼にとって今回の件は、かかわりたくないたぐいのものなのだ。街に関する重大ごとではあるけれど、人間のかかわる領域ではないと考えている。
市長や、街の人々がほしいのは、平穏で満ち足りた暮らしだ。
それさえ約束されるなら、彼らにとって、神は由希斗でなくていいのだろう。もしも室井の連れてきた何者かが、由希斗と同じような恵みをもたらしてくれると確信していたら、市長は小春たちを尋ねて来なかったかもしれない。
神に守られた街でありながら、住人たちにとって神は同胞ではなく、遠い他人であり、人の手に負えないぶん、わずらわしくもあるのだった。
それを責めても仕方がない。
由希斗や小春は、たしかに普通の人間たちとは異なる力を持ち、異なる時間を生きる。
自分たちは、人が思うほど恐ろしい存在ではないのだと思いつつ、彼らから向けられる感情を、小春は当然のものと受け入れてきた。
それを寂しいとは思えないくらい、小春は由希斗とともにいることに幸福を感じている。
その幸福のたったひとつの傷が、自分の存在が由希斗を苦しめているという、どうしようもない事実だった。




