第十二話 小春と由希斗3 契約
「は……?」
「あなたがわたしを救ってくれるというなら、それだけが、あなたにできるかもしれないことよ」
愕然として一瞬棒立ちになった室井が、我に返った途端、大股で小春に詰め寄って来た。だが、小春が数歩後ずさり、ローファーの踵を禁域との境界に掛けそうになると、室井はぴたりと立ち止まって、焦った声を出す。
「菅原、それ以上下がると……」
「神さまを幻想だと言うのに、禁域は恐れるのね」
「恐れているわけじゃない。でも幸福で目を眩ませて人を支配するような奴だぞ」
「偽物の幸せよりも、本物の不幸のほうが良いって、そう思う?」
小春はその場から動かず、禁域を示す注連縄を見上げながら室井に尋ねる。
もし、自分が由希斗の言葉が意味するところに気づかないままでいられたなら、それは幸せなことだったろう、と思うのだ。
由希斗に仕える巫女の家系に生まれ、神嫁になる前から、小春は由希斗が好きだった。仕える神であることを越えて、由希斗に惹かれていた。
「本物が、不幸とは限らないだろ」
「……わたしにとっては、そうなの」
「お前を神から解き放って、オレがお前を幸せにしてやる」
小春が笑ったことに、嘲笑の意図はなかったが、室井にはそう見えたかもしれない。そのせいで、室井は対抗心に火がついたかのような勢いで身を乗り出した。小春が動かないことを確かめてから、さらに近づいてくる室井に、小春はふたたび告げた。
「わたしを救うと言うのなら、わたしを」
殺して。
そう言おうとして、唐突に声が出なくなった。
「小春、それはダメ」
声を出せないことに気づいたときには、どこからともなく現れた由希斗が、小春を後ろから抱き締めていた。
神嫁、つまるところ由希斗の眷属である小春は、由希斗が言葉を封じれば、逆らうことはできない。
小春は小さく息を吐いて唇を閉じた。
「剣崎……! やっぱり、お前が!」
小春をその胸に収めるように抱いた由希斗は、鬱陶しそうにゆるりと顔を上げる。小春の視界の端で、白銀の髪が揺れて輝く。
「小春は僕のものだ」
「お前を殺せば、菅原は自由になれるんだ!」
「小春は望まないよ」
その言いざまは傲慢なもので、小春は由希斗の神らしい言葉に少し安心してしまった。
本当は、頼りない男の子なんかじゃない。
間違いなく、彼は神さまだ。
けれど、彼の苛立ちのせいで、霊力が大きく乱れているのはよろしくない兆候だった。このままでは街の天候や、人の心にも影響が出てしまう。
小春は由希斗に締め付けられてほとんど身動きがとれないまま、首を少しだけ動かして由希斗を見上げようとした。体格差のせいで、実際は小春のこめかみが由希斗の肩を擦った程度で、彼の顔は見えないが、由希斗の気を引くには十分だった。
「ユキ、うちに帰りましょう」
「諦める必要なんかないんだ、菅原!」
室井が叫ぶが、彼のことなど、今の小春には眼中になかった。
荒れて苦しいだろう由希斗を思えば、一刻も早く、彼が安らげるところへ落ち着きたい。
「帰るの。わたしたちの家に」
繰り返し言い聞かせると、由希斗は小春をいっそう強く抱き寄せて、そこから小春は一瞬の浮遊感を味わった。
瞬きのあいだに、由希斗は小春を連れて家に戻っていた。
見慣れたリビングで、相変わらず由希斗は小春を後ろから抱いたまま、その力は緩むどころか強まってゆく。いっそ小春を彼のなかに仕舞い込みたいかのようだ。小春はあらがわず、体の力を抜いて彼に任せていたが、息苦しくなって身じろいだ。それを抵抗と感じたのか、由希斗がますます腕に力を込めるから、本当に息ができなくなりそうだった。
そんなふうにしてしまうほど、由希斗が苦しい思いをしているのだと思えば、小春は何も言えなくなってしまう。
せめて窒息だけは避けたいと、できるだけ優しく、自分を締め上げている由希斗の腕に手を添えた。
「……あのとき、小春が生きたいと願ったんだよ」
「……っ」
「違うなんて言わせない。僕、嘘は言ってないもの」
小春は、単に息苦しくて声を詰まらせただけなのに、由希斗には反論に思えたのだろうか。彼はまた小春の声を封じて続けた。
「小春が生きたいと願って、僕が叶えた。僕たちの契約は等価で、だからこそ、どちらか片方の意思だけでは破棄できない」
小春には、生きたいなどと願った記憶はなかった。
人々の信仰を失った野良神が小春の家族を襲い、小春も重傷を負ったとき、かすんだ視界に赤い血を眺め、薄れゆく意識のなかで、自分も父や母と同じように、まもなく死ぬのだと悟った。あのとき、思っていたことはただそれだけだ。
小春にとってはまったく知らない願いだが、由希斗の言葉が真実なのか、偽りなのか、どちらなのかわからない。いずれにせよ、小春の力では、小春を神嫁と定めた由希斗の契約を破れなかった。
「……ユキ?」
ふと、由希斗の力が弱まり、声が出せるようになる。少し余裕ができたために、由希斗の呼吸が荒く乱れて、その体は小さく震えていることに気がついた。
小春が呼びかけても、由希斗は小春を抱き締めたまま、返事も、身じろぎもしない。
だがひどく苦しげな様子だけでも彼の異状を察するに十分だった。小春は、それが何であるか知っていた。
「ユキ、歩ける? せめてソファに……」
「……だいじょうぶ……部屋に、戻るから……」
小さな声で答え、小春を放そうとした由希斗に、小春はみずから寄り添った。
「菫、紫苑」
呼びかけると、音もなくふたりが姿を現す。彼らは心配そうに自分たちのあるじを見つめたあと、小春に視線を移した。
「タオルを何枚かと、お湯と、氷水を、それぞれユキの部屋まで持ってきてくれる?」
「はい、姫さま」
さっと早足に洗面所へ向かうふたりを見送り、小春は由希斗を支えながら、家の一番奥にある彼の部屋へ連れていった。
二階にある小春の私室は、この家の外観通り、現代ふうの普通の部屋だ。
由希斗の部屋は、入り口が一双の襖で、それを開くと、建物の大きさを考えれば、高さ、奥行きともに明らかに大きすぎる空間が広がっている。板敷きの部屋の中央には、大きな御帳台があった。
部屋の敷居を跨ぐと、空気が変わる。この先は、本当に神域なのだ。
部屋に入ってから、由希斗は覚束ない足取りのまま小春から離れて、御帳台の中に倒れ込んだ。小春は制服のままだった由希斗からジャケットを脱がせてやり、乱れた髪を指で梳いて、汗ばむ額をそっと撫でる。
由希斗がうっすらと目をひらいた。
「小春……もどって、いいよ」
桃色の瞳は宙をさまよい、あまり見えてはいないようだった。無理はしないでと言う代わりに、彼のまぶたに指を添え、閉ざしてやりながら、ささやくように答える。
「そばにいるわ。もともと、神さまに寄り添うのがわたしたちの役目で、それに、わたしはあなたのお嫁さんだから」
由希斗の不調は、強すぎる力の反動だ。
何万という人口をもつ街を支え、あるいは、それを一瞬にして消し去ることができる強大な力を、先ほど、彼は感情のままに爆発させかけて、寸でのところで押し止めた。その負担が彼を苛んでいる。
小春のせいだ。もっと思慮深くいられたら、由希斗が苦しむことはなかったろう。
「ごめん……小春、ごめん……」
うめくように言う由希斗の手を取る。
「あなたは何も悪くないわ」
「ごめんね……僕のせいで……」
「ユキが謝ることなんて、何もないの」
由希斗に、小春の声は聞こえていないようだった。彼は疲れ果てて眠るまで、うわ言で小春に謝り続け、小春は、聞こえていないとわかっても、そのたび彼に答え続けた。
由希斗の呼吸が落ち着き、深く眠ったことを確かめて、そっと息をつく。
「いったい、何をそんなに謝るの……?」
小春は、彼に怒りも恨みも、謝罪を受けるような感情は何ひとつ抱いていないのだ。
彼が目を覚ましたら、尋ねてみようか。
でも、答えを聞くのが怖い。
心当たりがないだけに、もしも彼を苛むものが、小春にはどうしようもないことであったら。
決定的な何かを突きつけられてしまう可能性が、小春を竦ませる。そして、自分が怖じけづいていることに、自嘲のため息がこぼれた。
自分の存在が由希斗を苦しめているととうにわかっていて、だからこそ死ぬことを考え続けているのに、今さら怖がるなんて、馬鹿みたいだ。
早く、由希斗を解放してあげたい。
それは心からの願いだった。
それでもどこかからこみ上げてくる、泣きたいような、逃げ出したいような気持ちを、小春は、強く手を握りしめて抑えこんだ。
由希斗の部屋を出ると、襖のすぐ横で、菫と紫苑が膝を抱えて座っていた。彼らは小春に気づくなりさっと立ち上がって、心配そうに見上げてくる。
「あるじさまは、落ち着かれましたか」
「ええ。そのうち目を覚ますわ」
小春が安心させるために微笑みかけても、菫と紫苑の表情は晴れない。そのまま首をかしげてみせると、菫と紫苑は互いに目を見交わし、またそっくりの不安げな顔を並べて小春を見る。
「姫さまは、その……」
「わたし?」
菫は口ごもり、代わりに紫苑がおずおずと言った。
「あの、室井健太に、殺してほしいとおっしゃったのは……」
ああ、と小春は内心で嘆息した。
菫と紫苑は、由希斗の耳目や思考を共有することができる。小春が室井と会っていたとき、由希斗は不穏なものを感じたか、菫と紫苑を待機させていたらしい。
神嫁である小春も由希斗の眷属だが、何の術も使わず彼と共有できるのは、霊力を辿ってわかる互いの居場所くらいだ。由希斗が、小春が室井と会っていることを知ったのは、小春が大学のキャンパスにいることを怪訝に思って、遠見の術で様子を見たからなのだろう。
「あまり心配しないで大丈夫よ。あれは、室井くんの出方を見ようと思って」
「ほんとうに、そうなのですか?」
菫は、疑いよりも、不安の濃い口調でおそるおそる尋ねる。小春の言うとおりであってほしいけれど、そうは思えないという顔だ。その横で、紫苑がためらいを感じさせつつも打ち明けた。
「あるじさまは……あれは、姫さまの本当のお気持ちなのだろうと、思っていらっしゃいます」
「姫さま、どうしてですか……」
菫は声を震わせ、紫苑とともに泣きかけている。
小春は、彼らを安心させてやれるだけの答えを思いつかなかった。
「……わたしにも、ユキの気持ちがわかればよかったのに」
菫と紫苑の頭を順番に撫でてやりながら呟く。子どもらしい細くさらさらした髪は、無性に罪悪感を刺激する。
「それは、ぼくたちがあるじさまのただの眷属にすぎないからです」
「ぼくたちは、あるじさまの分け身のひとつ。だからなんとなく感情を共有します」
「でも、姫さまは違います。あるじさまは、姫さまのことをきちんと別の存在として、おそばにいてほしいと思っているのです」
「別の存在だから、姫さまとあるじさまは、感情を共有しません」
菫と紫苑が代わる代わる言う。彼らの言うことは、きっと由希斗の本心なのだろう。そう思うことはできるのに、小春の心は晴れない。
そばにいてほしい。
由希斗にそう願われても、そうすることで苦しむ由希斗を目の当たりにし続けるのは、小春には荷が重すぎる。
それに、どうしたって小春は、由希斗が求めた始まりの舞姫にはなれない。
「……お夕飯の準備をしましょう。ユキも目を覚ましたら、お腹を空かせているでしょうから」
どうにもできないことを横に除けて、気を取り直すように菫と紫苑に声をかけた。
「姫さま、どうか、あるじさまを見捨てないでください」
「ユキを見捨てたりなんかしないわ」
「でも……」
小春の答えを聞いても、なお、菫と紫苑は顔を歪める。
死を選ぶことは、由希斗を見捨てることになるのだろうか。
――いつかは。
いつごろからそう思い始めたかは忘れてしまったが、もう長くそう考えながら、小春は今日まで生きてきた。小春がどんな決断をしても、きっと由希斗を悲しませてしまう。
(ユキのため、だけじゃないことは、誰よりわたしが知っているの)
小春は、自分の心へ向かって、声に出さないままの戒めを呟いた。
由希斗を悲しませるからとか、方法がないからとか、どれほどの言い訳を積み上げたところで、小春自身がそう望んでいなければ、今の今まで由希斗のそばを離れずにいるわけがない。菫と紫苑の言うとおり、小春は彼の眷属であっても、限りなく自由を与えられている。
「たまごのお雑炊がいいかしらね。それとも、予定通り、ハンバーグを食べたがるかしら」
「姫さまが作ってくださるなら、あるじさまはどちらでも喜ばれます」
小春に背を押されながら、菫がちらりと横目に小春を見上げる。あからさまな視線に小さく笑みをこぼしつつ、小春は「両方用意しておきましょうか」と返してふたりを和ませようとした。
このあと、キッチンで卵不足が発覚し、小春が何かを言う前からおつかいに飛び出そうとした菫と紫苑を捕まえ、雑炊の代わりに牛乳とチーズを使ってリゾットを作ったりなどしていたら、深刻な空気はすっかり消え去ってしまった。
菫と紫苑は、たとえ実年齢が百をゆうに越えていても、見た目は就学前の子どもなのである。夏至が近くずいぶん明るいといえど、日没近い時間に、ふたりだけで外には行かせられない。まして、卵を売っているスーパーマーケットは、この家から山を歩いて下り、さらに電車でひと駅は先にしかないのだ。
山の神域に家をかまえ、静かな暮らしは小春も気に入っているものの、たまに、人里離れた立地の不便さを感じさせられる。それでも冷蔵庫があるだけで随分マシ、と考える小春は、学校では絶対にこんなことは言えない、と思う。
家庭に冷蔵庫がなかった時代は百年異状も前の話で、今の子どもたちは、冷蔵庫がないことを、そもそも想定しないに違いない。
小春は自分の年齢を数えていないけれど、こういうとき、生きた時間の長さに思いを馳せる。ともに居るのが由希斗でなければ、もう十分、と思っただろう。
由希斗がいるから、小春は生きていられる。
それは、命の存在そのものにも、小春の心にも、双方に言えることだった。




