第十話 神さまの後悔
ふたりきりの家の中に、由希斗の声は、染みるように響いた。彼はカウンターの向こうで、手もとに目を落としたままだ。小春の視線から逃げているようにも見えた。
「……」
小春は、今の自分がどんな顔を由希斗へと向けているか、よくわからなかった。胸のなかで、由希斗に打ち解ける相手がいないことへの不安と、彼に求められていることへの喜びが、渦のように絡まり、溶けあって、自分の一部になってゆくのがわかる。
そうやって成り立つ小春の心は、ひとつの問いを返してきた。
ほんとうに、それでいいの?
「……そういえば、室井くん、帰ってきているそうよ」
言葉にできなかった問いを飲み込み、別の話題を口にする。
「へえ」
由希斗は低く、冷淡な相づちを打った。美しい面差しを歪めはしなかったけれど、声音だけで、十分に嫌悪感が伝わってくる。
「まあ、家族はこの街にいることだし、帰省しようという気にくらい、なるのだろうね」
抑揚のない口ぶりから、不承不承というのがよくわかった。
基本的に、由希斗は街の住人の個々人に興味を持たない。その彼にとって、室井健太は、はっきり嫌悪を表す数少ない人間だ。だからといって由希斗が直接の手出しをしたわけではないけれど、室井は街を去った。由希斗に嫌われた瞬間から、この街の空気は、室井には居心地のいいものではなくなったのだろう。
室井がなぜ帰ってきたかはわからないが、由希斗の様子からして、きっとまた出て行くことになる。
「小春は、気になるの」
「え?」
由希斗があまりに低い声で唸るように言ったから、小春はうまく聞き取れなかった。由希斗は手を止め、顔を上げてもう一度言う。
「小春は、彼が気になるの?」
「いいえ。ただ、一応言っておこうと思っただけよ」
「ふうん」
納得したのか、また作業に戻った由希斗の前髪の先をなんとはなしに眺める。平凡なキッチンの明かりの下でも、彼の白銀の髪は細やかにきらめく。繊細な輝きを、小春は、彼の心のようだ、と思った。
街の人々が崇めつつ畏れるように、強い力を持つ神として堂々と構えていればいいものを、由希斗は少しばかり頼りない。
小春には、その頼りなさが愛おしい。彼に甘えられると、自分が求められているかのように思ってしまう。
「室井くんのこと、まだ気にしているの?」
「小春は僕のお嫁さんなんだよ。それなのに……」
小春と由希斗が室井健太と同じ教室で過ごしたのは、三年前のことだ。
普通の人間より遥かに長い時間を生きている小春といえど、時間の感覚が極端に違うわけではない。三年も過ぎたら当時の感情も薄れているのに、由希斗はそのころと変わらず顔をしかめた。
「彼は知らなかったのよ」
「それでも……あんな、何かと小春に寄っていって、話しかけて、僕はずっと我慢してたのに」
「ユキが何もないふりをしてくれて、とても助かったわ。ありがとう」
由希斗は眉を下げ、不満もありつつ、嬉しいような、何とも微妙な顔をした。
当時、室井が小春に気があるというのは学校中に知れ渡っていたから、そこに目立つ由希斗が参戦していたら、どれだけ面倒なことになったか知れない。
「彼は嫌いだけど、小春が困るのが、一番いやだから」
「……ごめんね、ユキ」
「いいの。そのほうがよかったのは僕もわかっているし、あのころも、今も、ここでは一緒にいてくれるもの」
「……」
本当は、あなたの思う通りにしてもいいのよ。
そう、言ってしまいたい気持ちを抑える。由希斗が思うままに振る舞うことの最大の障害は自分だろう、と、頭の中で、小春を責める自分の声が聞こえる。
「僕、我慢するのも、嫌いなだけじゃないよ。小春と一緒にいるために必要なことだから。その瞬間はちょっと嫌だけど、でも、我慢しなきゃいけないのは、小春がそばにいてくれるからこそだもの」
「わたしがいなかったら、我慢する必要もないのでしょうに」
つい、小春の口から本音がこぼれた。その直後、指先にしびれのようなものが走り、由希斗が「痛っ」と小さく声を上げる。小春は指先から流れ出てゆく由希斗の霊力を感じ取り、慌ててカウンターを回り込んだ。
調理台の前で、由希斗が左手の指を軽く押さえている。彼は小春を見て、力無く笑った。
「ちょっと失敗しちゃった」
「切ったの? 大丈夫? どのくらいの……」
「このくらいなら、すぐ治せるよ」
由希斗が押さえていた手を離し、小春の前に左手を差し出す。小春は彼の手を取り、しびれを感じたひとさし指を中心によく調べたが、もう傷跡さえ残っていなかった。
小さくため息をついて離そうとした小春の手を、由希斗が掴んで強めに握る。
「こんな傷なんかより、小春、僕はね、たとえもっと痛くても、小春がそばにいてくれるなら、いくらでも我慢できるよ。我慢したいんだよ。それが、自分だけじゃなくて、小春と一緒にいるということだから」
「頑張るのは嫌いなんじゃなかったの?」
「あんまり得意じゃない。だけど小春に一緒にいてもらうためなら、頑張れる」
死ぬつもりだった小春を、その強大な力でもって生かした神さまらしくない、殊勝なもの言いだった。まるで小春に選ぶ自由があるかのような言い方だが、実際には由希斗の一存である。それを忘れているのか、気にかけていないのか、今、小春の手を握りしめながら見つめてくる由希斗からは、健気なほどの必死さが伝わってきた。
小春の自由がないところに、なお意思を求めるのは、神の傲慢さと言えるのかもしれない。
「ユキが痛い思いをするのは嫌」
「こんな怪我で小春に優しくしてもらえるんだから、逆にお釣りがくるね」
「馬鹿なことを言わないの」
窘められたというのに、由希斗はほんのり嬉しそうに口もとを緩めた。
「長いことこうして暮らして、わたしもずいぶん慣れてしまったけれど……。それでもわたしはあなたの巫女で、あなたはわたしの大事な神さまなの。わたしのためにあなたが何かを犠牲にするのは、間違っているのよ」
「小春は、僕のお嫁さんだよ」
「そういうことじゃなくて」
「そういうことなの」
柔らかい声音はそのままだが、異論を受け付けない口ぶりだった。
「……わかったわ」
本当に納得できたわけではなく、気圧されてただうなずいただけ。由希斗はそれに気づいたかどうか、小春の手を一度強い力で握って、それからゆっくりと解放した。
「いっときも忘れないで」
切なく目を細めてそう念を押す由希斗の、小春を大切に思ってくれる心を、疑ってはいない。でも彼が言う『お嫁さん』という言葉の空虚さを、小春はどうしても考えてしまう。
小春を指して何度も『お嫁さん』と言うけれど、由希斗が、小春にそれらしい欲求を向けてきたことは一度もない。小春から見て、由希斗はあまりに清らかで、それが小春には苦しくてならなかった。
由希斗は、小春が仕える神さまだ。その一線を踏み越えないよう自分を戒めても、小春を『僕のお嫁さん』と呼ぶ由希斗の甘く柔らかな声が、小春を揺るがしてしまう。そのくせ、由希斗が使うその言葉には、小春が抱くような想いなど含まれていないのだ。
それでも、小春に微笑みかける由希斗に滲む、ほかでは見せることのない柔らかさが、甘い夢を見せる。
『小春は、あの子によく似てる』
ずっと昔、小春がまだただの人間の子どもだったころ、由希斗はそう言って笑った。
あの子というのは、この街で『始まりの舞姫』と呼ばれる少女だ。この地で舞って由希斗に見初められた、彼の本当の花嫁。
彼女が由希斗のそばに居ない理由を、小春が尋ねたことはない。由希斗にとって幸福ではないと想像がつくものを、どうして問いかけられるだろう。
身代わりというほど単純な想いではないことくらい、由希斗から向けられるまなざしを受け止めていればわかる。けれど、欲を含まない声音で繰り返し『僕のお嫁さん』と呼ばれるのなら、いっそ身代わりにしてくれてよかったのに、と思う。
「小春?」
「なんでもないわ」
黙ってしまった小春を心配そうに呼ぶ由希斗の表情には、小春を案じる気持ちと、彼自身の不安とが表れていた。
「ユキも、傷を治すくらいのコントロールはできるようになったのね、と思っただけ」
小春が笑ってみせると、由希斗ははっと目をみはって、それから苦しげに眉を顰め、唇を引き結ぶ。小春は、由希斗の変化に気づかなかったふりをして、ダイニングに戻った。椅子に座り、宿題の続きに取りかかれば、キッチンからも、また包丁の音が聞こえてくる。
今日の献立は、冷しゃぶサラダ。由希斗は野菜たっぷりが好きだから、レタスのほかに、きゅうり、玉ねぎ、ブロッコリー、とうもろこし、トマトと、賑やかなひと皿になる予定だ。
何回も高校生をやったおかげで、すっかり解けるようになった数学の問題にさらさらと解答を書き込みながら、小春の頭には、数式ではなく由希斗の苦しい顔ばかりが浮かんでいた。調理台に転がっていた野菜の鮮やかさを思い浮かべてみても、由希斗の表情をかき消すことはできず、気を抜くと険しい顔をしてしまいそうになる。
数百年経っても後悔するくらいなら、はじめから、死ぬはずだった小春を、助けなければよかったのに。
由希斗への恨み言のはずが、小春の胸を冷たく刺すのは、自分が今、生きてここにいるという、存在の重苦しさだった。




