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第九話 由希斗の執着

「ああ、化け猫の子でしょう」


 トントン、と軽快に鳴る包丁の音を途切らせもせず、由希斗はあっさりと言った。雑談がてら、ダイニングテーブルで宿題を片づけていた小春は、手を止めて由希斗を振り仰ぐ。


「化け猫……」

「まだ若いよ。三十年か、そこら」


 歳まで見透かすとは、さすが神さまだけはある。


 目を伏せて手もとを見ている由希斗の姿をカウンター越しに眺めながら、小春は、神さまがキッチンに立ってきゅうりを切っているなんて、街の人が知ったらのけぞるだろうな、と、見慣れてしまった今でも思う。

 昔は、料理や掃除、その他の家事も、すべて小春がひとりでやっていた。由希斗が菫と紫苑を従えるようになってからは、彼らもよく働いてくれる。それに不満を抱いたことはなかったのに、二十年ほど前だったか、由希斗が突然自分もやると言い出したのだ。


 小春もはじめは断った。数百年も一緒にいれば、畏れ多い気持ちも薄れるとはいえ、小春にとって、由希斗が仕える神であることに変わりはない。身の回りの世話をするのは自分の役目だという小春の意識を、由希斗は懇願のすえ押し切った。


 というより、小春の隙をついてひとりで包丁を握った彼が怪我をしたので、小春は折れるしかなかった。彼の無事に勝るものはない。

 由希斗の体は普通の人間とは違うが、実体として存在するので、物理的に損なわれることもある。彼の霊力で生かされている小春は、由希斗が怪我をしたらすぐに気づく。

 霊力がほどけるように流れ出てゆく感覚は、ごくわずかでも、小春をぞっとさせるものだった。


「ユキ、いつから知っていたの?」

「はじめから。入学式で見かけたとき」


 事も無げに言うので、小春は拍子抜けしてしまった。思わずため息をつくと、由希斗が顔を上げる。包丁の音が止まり、彼は狼狽えたように目を見開いた。


「ごめん、小春。えっと、伝えるべきだった……よね。別に問題はないから、見過ごしてしまって……」

「あなたが問題ないと判断したなら、別にいいのよ」

「でも」

「彼女は、特に害もないのでしょう?」

「それは、そうだけど……」


 しょんぼりと肩を落とす由希斗に、小春は、もうひとつのため息を飲み込んだ。


「ユキは神さまで、ここはあなたの街なのだから、ユキにとって問題がないなら、それでいいの」

「でも……でも、小春は、僕の……」


 小春が優しく微笑みかけたのに、由希斗は悲しい顔をして、口の中で何かを小さく呟いたあと、唇をきゅっと引き結ぶ。


 言いたいことがあるなら、言っていい。したいことがあればしていいし、行きたいところがあるなら行けばいい。本当は、由希斗はそうできるはずなのに、いつも小春の顔色をうかがい、何かに耐えようとする。


 小春のせいで、彼は苦しむ。そう思うと胸の奥が痛くて、さりげなくそこを庇うように、右手で左の肘を握りしめた。そして、その仕草を辿る由希斗の視線を遮るように言う。


「じゃあ、佐々良ちゃんは、わたしとユキのことにも気づいているのかしら」

「……それは、どうかな」


 由希斗の目が小春から離れ、ふたたび、トントン、と包丁の音が鳴りはじめる。それは、先ほどよりも少しだけ静かで、ゆっくりだった。


「小春や僕が普通の人間じゃないってことはわかっているかもしれないけれど、僕たちの関係は、彼女程度の子に、見てわかるものではないと思う」

「ふうん。でも、市長さんは、家族三人で引っ越してきたって調べてきたのよね。彼は化かされたってことね」

「普通の人間より霊力はあるよ。ただ、菫や紫苑と比べてもずっと少ないし、僕や小春が街で過ごすための目くらましの術を、はねのけるほどではないかな」


 春祭りの神さまと舞姫役が毎年同じであることに街の住人たちが気づかないのは、由希斗がそれとなく誤魔化しの術を使っているからだ。街を守る結界に組み込まれた弱い術であり、それなりの霊力があるものには、由希斗の正体を見抜かれることもある。

 ごく稀なことであって、小春たちは数十年に一度くらいしか、そのような存在とは出会わない。


「それにしても、どうしてわざわざこの街に来たのかしら」


 小春は、垢抜けた佐々良の顔を思い浮かべながら首をひねった。この街は間違いなく良いところだが、それは由希斗の加護があるからで、そのぶんだけ由希斗の支配力も強い。化け猫なら他者の霊力を感知できただろうに、それを受け入れても、由希斗の加護が魅力的だったのだろうか。


「小春は、ここより、ほかの土地がいいと思うの?」


 由希斗は、また手を止めて小春をじっと見た。何気ない口ぶりを装っているが、桃色の瞳には張りつめた気配がうかぶ。


「いいえ。わたしにはここが良いわ」


 由希斗の変化を見逃さないよう、彼を見つめ返しながら、小春は慎重に答える。口にしたものが彼の望む答えでなかった場合の、次のひと言も、頭に用意していた。


「……でも、ほかの子には、そうとは限らないでしょう」


 小春の否定で、由希斗の表情から緊張が取れたのを見て、そう付け足した。


「……そうだね」


 ふたたび夕食の準備に戻った由希斗は、自分が今、頬を緩めたことに気づいただろうか。

 小春がいることで苦しそうな顔をするのに、小春が離れる気配をほんのわずかでも滲ませただけで、彼は身を強ばらせる。アンバランスな執着だ。


 だからこの場所で――由希斗のもとで死を迎えることが、もっとも正しい答えなのだろうと、小春は考えている。

 だがそれは、由希斗に生かされている小春自身では成し得ない。小春が一方的に破棄できる契約ではなかった。


「何かの事情があって、元居た土地を離れたんだろうね。ここの居心地がいいならずっといるだろうし、気に入らないならほかに行くよ」


 由希斗はさらりと言うが、この街での居心地の良さには、彼の好き嫌いの感情が影響する。彼は積極的に他人に興味を持たないけれど、それでも街の住人たちとともに過ごしているからには、誰かを特別に気に入ったり、または嫌ったりすることが、ときどきある。


「できれば、この街を好きでいてくれたらいいな」


 そう言うわりには、由希斗自身は佐々良にさほど興味があるようでもない、軽い口調だった。


「どうして?」

「化け猫は、人間よりは長く生きるから。小春の友だちとして、長くそばにいてくれる」

「わたしのためではなく、佐々良ちゃんの居たい場所に、居るべきよ」

「うん。だから、この街が彼女にとって居心地がいいなら、居たい場所になるでしょう?」

「……」


 小春は、由希斗にダメだと言いたくて、けれど、否定する理由を見つけられなかった。


 由希斗が気に入ってほしいと望むなら、佐々良はこの街で、運が良かったり、親切な人と行き合ったり、何かと良いことに恵まれるだろう。逆に、悪い目にはそう遭わない。

 それは決して誰かが何かを強制されて得られる結果ではなく、すべてがごく自然ななりゆきのままに起こる。


 それを居心地がいいと感じるのも、佐々良の自由な感情だ。

 その何を悪いと言えるだろう。


 ここは、そういう街なのだ。


「僕は、僕がそうしてほしいと望めば、ほとんどのことが叶うのを知ってる」


 由希斗は小春の気持ちを汲んだように、静かに言った。

 佐々良がこの街に来なければ、もしくは小春とかかわらなければ、存在したかもしれない別の幸福は、もう訪れない。代わりに、由希斗の機嫌を損ねないかぎり、この街での幸いが約束されている。


「小春は、あの子は必要ない?」

「……いいえ。おかげで学校生活も楽しいわ」


 小春が否定すると、由希斗の表情が和らぎ、口もとがほころぶ。小春はそれで初めて、由希斗が小春の友人関係を案じているらしいことに気がついた。


 時々、人に紛れて学生生活を送り、用が済めば周囲の記憶を操作して人間関係を清算する。小春には特に思うところもなかったが、由希斗はどうやら違ったらしい。

 かつてはただの人間であった小春よりも、もとから神として異なる存在である由希斗のほうが、かえって気になるものなのかもしれない。


「でも、今までだって、わたしは不満があったわけではないのよ。それにファントムペインの件が片づいたら、ほかの子たちと同じように、記憶を消してしまうのではないの?」

「そうしてほしい?」

「わたしがどう、ではなくて……」

「仲がよかった狐の子が消えちゃって、しばらく経つでしょう。小春、寂しいんじゃないかと思ったんだけど」


 小春は緩く首を横に振った。

 由希斗の言う化け狐とは百年以上の付き合いで、数年前、彼女がついに寿命を迎えて消えてから、確かに寂しさを感じていた。だが、身代わりを求めてはいない。


「たった二ヶ月くらいの付き合いしかないの。長く気が合うかどうかわからないし、今から決めてしまうことではないわ」

「そっか」


 由希斗は残念そうにすることもなく、あっさり退いた。


「……わたしはともかく、ユキは、誰か仲良くなれそうな子は、いないの?」

「僕には小春だけだよ」


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