序章 神さまの花嫁
……! ……は、る……! 小春……!
誰かが、自分を呼んでいる。
柔らかくて、とても心地のいい、大好きな声。
父さまかしら。それとも、母さま? それとも……。
「お願い……君は、まだ……」
どうしてそんなに悲しそうなの。何があったの?
問いかけようとしても、声が出なかった。
唇と喉、それから体のどこも、少しも動かない。何も見えなくて、目が開いているのか、閉じているのかさえわからない深い闇の中。
ただ、自分を呼ぶ声だけが聞こえていた。
なぜだろうか、と考えかけて、鮮やかな血飛沫が脳裏をよぎっていった。
倒れ伏す父と母、それを見て硬直した自分を貫いた痛み。
そうだった。
(わたし、もうすぐ死ぬの……)
痛みも、苦しいところもなく、不思議なほど心が穏やかだった。
自分を抱いているらしい腕の温かさを感じる。
「小春……!」
悲痛な声の持ち主は、相変わらず小春を呼んでいた。
ふと、頭が冴えてゆく感覚があった。
もうすぐ死ぬのだと思った。それで、血を失って冷えゆく体にひどく凍えながら、でも、父や母のもとに行くのだと思って、消えゆく意識を闇に任せた。
それは今よりも前のことで、もう二度と目覚めないはずだった。
「……どう、して……?」
「小春!」
闇に閉ざされていた視界がひらけ、眩しさとともに、目の前の情景が流れ込んでくる。
見上げたすぐそこに、小春の敬愛する神さまがいた。
彼は小春を腕に抱き、悲痛な面もちで小春を見下ろしている。
桃色の目に涙をためて、今にもその可愛らしい色が滴り落ちてしまいそう。
ぼんやり思ったとき、神さまは小春の意識が戻ってきたことに気づいたらしく、はっとして震える息を吐いた。
「小春……!」
小春の頬に、温かい涙の雫が落ちる。ひとつふたつ、自分のものではない涙が頬を伝い、流れ落ちていった。
「死、ぬ……んだ、って……思った……のに……」
「君だけでも助けたかった。僕の勝手な気持ちを、君は許してくれる?」
「あなたが、わたしを……助けた、の……?」
「こうするしかほかになかった。僕は君を……」
神さまは泣きながら、彼の涙が濡らした小春の頬を撫でていた。まだ冷たい小春の肌に、彼の温度は熱いほどだった。
その温もりのみなもとである彼の霊力が、自分の体をめぐるのを感じる。神さまは泣いているし、小春もあまり気力はなくて、彼を問いただすことはしなかったが、何が起こったのか、うっすらとわかってきた。
彼は、小春が生きることを願ってくれた。
とても嬉しかった。
家族を失った悲しみや、襲い来た敵への憎しみを越えて、彼の思いがあれば、生きてゆけると思った。
この日、小春は彼の花嫁になった。