卑しい聖女だからと国外追放されたけど、追放した本人がついてきた
「聖女とは名ばかりの卑しい娘め! お前の横暴振りは俺の耳にも入っている。今すぐ聖女の位を返上し、ここから――いや、この国から去るがいい!」
赤い絨毯の敷かれた玉座の間。壁際には数人の騎士がこちらを見守っている。そして部屋の中心で堂々と宣言するのは、アルベイム国の第二王子リオン殿下。
私を睨みつけている翠玉のような瞳の下は黒く彩られ、白く滑らかだった肌は青白く、薔薇色だった頬は見る影もない。
日頃の不摂生が祟り、まるで幽鬼のようだと揶揄される彼の腕に巻き付いているのは、ふふんと勝ち誇ったような笑みを浮かべた黒髪の令嬢。
皆の目がこの私に――この国の聖女であり、リオン殿下の婚約者でもある私に向けられている。
「ですが、殿下。私がここを去れば、誰が聖女を務めるのですか」
私が聖女と認められたのは、今から十年前。
孤児院で育った私は、旅の人の傷を癒したのをきっかけに、聖女として城に迎えられた。
十八歳で行われる予定の聖女の儀に挑むための教育を受け、第二王子の婚約者にふさわしい教養を学び、儀式まで残すところ半年となった今になって――リオン殿下が私を呼び出した。
私を、国外に追放するために。
「ふん、たかが癒しの力。お前程度の力を持つ者など、いくらでもいる。現に、俺の横にいる彼女も、傷ついた従者を癒してみせた」
たいていの人は火、風、水のどれかしか扱えないけれど、それでも癒しの力を使える人は一定数いる。
癒しの力程度で聖女になるなんて、卑しい身分の癖にと、よく言われたものだ。
リオン殿下の腕に自らの腕を巻きつけている彼女も、その一人だった。
『あなたが聖女だなんて、何かの間違いではないの? 癒しの力ぐらい、私にもあるわよ。あなたがなれるのなら、私でもなれるんじゃないかしら』
そう言って、笑っていた。
「このことを、両陛下はご存じなのですか」
陛下と王妃陛下だけでなく、彼の兄である王太子殿下も今はこの国を出ている。半年後に控えた聖女の儀に備え、各国を訪ねているらしい。
今年で十二歳になる第三王子殿下はいるけれど、柱の影に隠れて寂しそうにこちらを見ているだけなので、きっとリオン殿下に言いくるめられたのだろう。
「そんなもの、後でどうとでもなる。それに伝承では、王子である俺からの愛も聖女たる資格とされている。だがお前にそんなものはない。ならば、俺の愛する彼女こそ聖女にふさわしいと父上も納得するだろう」
うっとりと頬を染める黒髪の令嬢は、たしか新興貴族である男爵家の二女。
顔を合わせれば髪を引っ張られ、転ばされた。その度に彼女の頭に虫が降ってきたり、窓から飛びこんできた鳥のくちばしが彼女の頭に刺さったりで大騒ぎになったので、よく覚えている。
それでもめげずにリオン殿下に言い寄ったのは、たとえ幽鬼のようだと揶揄されていても、王子は王子。しかも将来は、王家が管理する土地での生活が約束されている。
新興貴族の二女という不安定な立場から脱却したかったのだろう。あるいは、卑しい身分の娘が聖女になるのを嫌ったからか。
「これでお前に聖女の資格がないことが、よくわかっただろう。誰がお前のような粗野な娘を好むものか」
吐き捨てるように言うリオン殿下に、胸の奥がぎゅっと苦しくなる。
「騎士よ、即刻この娘を取り押さえ、貴賓室にでも押しこんでおけ!」
堂々とした宣言に、一連の流れを困惑しながら見ていた騎士がハッとしたように動き出す。
聖女に王子である彼の愛が必要なことは、彼らも知っているのだろう。愛されていないのなら、私にその資格はない。
戸惑いながらも、彼らの手が私を捕らえた。
「馬車の用意ができ次第、お前を国外追放とする!」
ぴしりと突きつけられた指先と、私を睨む彼の顔には、昔の面影はどこにもない。
『何があっても絶対に、僕が守るよ』
今と変わらない輝くような金髪の下で明るく笑っていた彼はもういない。
『ならずっと、一緒にいてね』
そう言った私に、はにかむような笑みを浮かべてくれた彼も、ここにはいない。
何年も前に交わした約束は、もう彼の中にはない。
そのことに、どうしようもなく涙が溢れそうになる。
私は彼のことが大好きだった。
孤児のくせに聖女なんて、と苛められたのを助けてくれた。
残飯のような食事を見て怒ってくれた。
婚約者にと引き合わされて、それからずっと一緒にいた。
一緒にいて楽しくて、温かくて、優しくて、どんな理不尽にも立ち向かおうとする姿勢に、どんどん心惹かれていった。
この人とずっとずっと一緒にいたい。彼となら、どんな困難も乗り越えられる。そう思っていた。
今から二年前。彼が私を遠ざけるようになるまでは。
◇◇◇
聖女がこの国に現れるようになったのは、千年以上も前のこと。
未曾有の災害に襲われ、飢餓で苦しんでいた王家は神に助けを求めた。
そうして現れた神は、聖女の儀を行うようにと王家に命じた。二百年に一度、王族が愛する聖女が祈ることによって国が豊かになると、約束した。
そして次の二百年はもうじきやって来る。祈りを捧げなければどうなるのかは、誰にもわからない。
神に約束された豊穣が奪われるだけならまだいいけれど、これまで与えられた実りすら奪われたら――災害のあった頃に戻るのだとしたら。
「……でも、今さら考えてもしかたないわね」
ふう、とため息を落とす。
他国から招いた王族をもてなすための貴賓室から、城を守る門に向けて足を進める。
道を飾る色濃い緑と咲き乱れる花々は、去る人と来た人の目を楽しませるためのもの。もうこの光景を見ることはないのだと思うと胸が痛むけれど、どうしようもない。
「遅い!」
城の前で待たせている馬車まであと少しというところで、怒声が聞こえてきた。
「何をしているんだ! すぐに連れてこいと命じたではないか!」
怒鳴り声の向く先は、リオン殿下に仕える侍従の一人。あわあわと顔を青くさせているのを見て、肩をすくめる。いったい、何をしているんだ。
「リオン殿下。お待たせいたしました。最後にこうして見送ってくださるなんて、光栄の極みです」
楚々と頭を下げると、リオン殿下の舌打ちが頭上から聞こえてきた。
ちらりと目線だけを彼に向けると、やつれた顔に似つかわしくない金色の髪が、降り注ぐ太陽の光を受けて輝いているのが見えた。
「見送る? 馬鹿なことを言うな。誰がお前などを見送るものか」
「……なら、どうしてこちらに?」
「無論、お前が途中で逃げぬように、国外まで見張る役目に決まっているだろう!」
堂々と言い張る姿に、ぽかんと呆けてしまう。どういうことかと侍従を見ると、彼は諦めた顔で首を横に振った。
「普通、そういうのは騎士に任せるものでは」
「ふん、お前が篭絡するかもしれんからな。どこの誰とも知れぬ輩に任せておけるものか」
騎士は身分確かな人がなるものなので、どこの誰とも知れぬ輩ということはないはずなのだけど。
でも彼がそう言い張るのならと頷く。
「わかりました。では、殿下以外にはどなたが同乗されるのですか? 殿下しかいらっしゃらないように、思えるのですが……」
「束になっても俺に敵わぬ輩など、いようといまいと変わらん。お前の監視など、俺一人で十分だ」
リオン殿下は風魔法の使い手で、幽鬼のようだと揶揄される少し前から鍛錬に勤しむようになり、今ではそうとうな使い手になっているのだと、聞いたことがある。
その時には私との交流はほとんどなくなっていたので、実際にどうなのかは知らなかったけれど、騎士が束になっても敵わないなんて。
「ですが、先ほどのご令嬢はよろしいのですか?」
「誰が見てもわかるように、新しい聖女と書いた看板をかけておいたからな。無論、問題ない」
それは問題しかないのではないだろうか。
「わかったら、さっさと乗り込め。お前に使う時間がもったいない」
そう言って、リオン殿下がぐいぐいと私を馬車に押しこんだ。見てくれは質素な馬車だったけど、中にはこれでもかとクッションが敷き詰められている。
「これは……?」
緑色をしたクッションを手に持って、ぐにぐにと弄ぶ。柔らかい。
「王族である俺が同乗するのだからな。これぐらいしなければ、俺が乗るに値しない」
リオン殿下が堂々とした振る舞いで私の対面に腰を下ろしたところで、馬車が走りだした。本当に、リオン殿下しかいない。御者はいるけれど、おそらくは雇った人なのだろう。知らない顔だった。
◇◇◇
国境を超えるまで馬車で七日。当然、その間はどこかの村や街で夜を過ごすことになる。
野宿は、高貴な王子である自分にふさわしくないとリオン殿下が反対した。
そして宿屋でも。
「この俺が質素な部屋になど泊まれるものか! 一番いい部屋を用意しろ!」
と言って、上客に機嫌をよくした店主に金貨を渡していた。
そうして案内されたのは、居間と寝室がある大きな部屋だった。日が暮れるまでまだ少し時間があるのに街で停泊することにしたのは、村だとここまで立派な部屋は用意できないと思ったからかもしれない。
「……リオン殿下。私の部屋は?」
普通についてきてしまったけれど、そういえば私の部屋の鍵を貰っていない。そのことを思い出して聞くと、リオン殿下の眉間に皺が刻まれた。
「お前を一人にして逃がすような馬鹿をするとでも思ったか」
「つまり、一緒のベッドで眠るんですか?」
首を傾げると、青白い肌に一気に赤みが差した。
「ば、馬鹿なこと言うな! 寝室はお前が使うに決まっているだろう! もちろん、俺はお前が逃げ出さないように見張っているからな!」
リオン殿下が寝室を使えば、彼の目が届かない場所で私が逃げるかもしれないとかなんとか、そんなことを言いながら、彼は居間にある長椅子に体を預けた。
まあ、そういうことならと寝室に引っ込もうとしたら、待てとリオン殿下に制止の声をかけられる。
「じき食事が届く。変なことを考えないように俺の前で食え」
彼の宣言通り、すぐに食事が届いた。高貴な彼にふさわしい食事とでも言って、金貨を渡したのだろう。
なんとも豪勢な食事が机に上に並べられる。二人分。
「目の前で変なものを食われたら飯がまずくなるからな」
それだけ言うと、リオン殿下はさっさと料理を食べはじめた。少しずつ摘まむように食べてから、中々座らない私に業を煮やしたのだろう。さっさと座れと目で指示される。
そういえば、リオン殿下とこうして一緒に食事をするのは、いつ振りだろう。そっと柔らかなパンを頬張る。
リオン殿下と一緒に食事をとらなくなってからは、また固いパンと冷めたスープだけに戻った。料理人が、卑しい私に料理を作るなんてと嫌がったからだ。
久しぶりの温かい食事に、胸が苦しくなる。昔なら、こうして食事をしている合間も会話に興じていたけれど、今はどちらも何も言わない。
ただ黙々と、食事をすませるだけ。
食事を終えて寝室に入って、試しにと窓に触れてみたら、見えない壁に弾かれた。リオン殿下が風魔法で格子でも作ったのだろう。
どれだけ警戒しているのかと、乾いた笑いが漏れそうになった。
◇◇◇
次の日もそのまた次の日も、四日、五日と同じことが続いて、なんだか城にいた時よりも肥えてきたような気がしてきた頃、ようやく馬車が国境に到着した。
「やっと着いたか」
馬車から降りたリオン殿下が国境を囲う壁を見上げる。国を出るためには、この壁を越えなければいけない。そこには当然、通行を管理する兵士もいる。
そして通行待ちの人たちで、行列もできている。おとなしく順番を待つ、ということはしないのだろう。リオン殿下の装飾はひと目見ただけでやんごとない立場の人間だとわかるし、着の身着のままの私が着ているのも、それなりに質のよい服だ。ドレスではないのは、城を出る数日前にドレスがすべて紛失し、ワンピースなどの簡素なものに変わっていたからである。
「これでようやくお前の顔を見なくて済むと思うと、清々する」
吐き捨てるリオン殿下が、堂々とした足取りで兵のもとに向かう。私もその後をおとなしくついていく。
自らが王子であると名乗り、王子である自分を待たせるとは何事かと言い放つリオン殿下。だけど当然とでも言うべきか。すぐにどうこうはできないので、貴賓室でお待ちください、ということになった。
案内された貴賓室で、ソファに座りながら苛々とした様子で腕を組むリオン殿下を見据える。
きっと、すぐにでも私を国外に追いやりたいのだろう。こんなことをしている暇はないと、彼の顔が物語っている。
そうしてしばらくして、ノックの音が響いた。リオン殿下のやつれた顔が険しくなる。
「両陛下より、言伝を預かっております」
七日あれば、手紙を送ることができる。人は送れなくても、手紙や小包程度なら転送魔法を使うことができるから。
「聖女並びに、リオン殿下は即刻城に戻るようにとの仰せです」
勢いよく開かれた扉から、数人の兵士がなだれこんでくる。多少手荒な真似をしても構わないとでも言われているのだろう。彼らの手には、抜き放たれた剣が握られていた。
リオン殿下の顔がよりいっそう険しくなり、目の前にいる敵を払うべく風魔法を展開しようとして――それが発動するよりも早く、兵士たちはその場に倒れ込んだ。
「リオン殿下、ご存じですか」
驚いたように目を見開くリオン殿下に、微笑んでみせる。
「薬も過ぎれば、毒になるということを」
私の持つ癒しの力は、病や傷を治すことができる。体の中に送り込んだ私の魔力が、壊れた部分を補い、修復する。
私が聖女に選ばれたのは、この力があったからこそ。聖女と奉るのにふさわしい、癒しの力を持っていたから。
王家の誤算は、私の癒しの力がこれまでに例のないほど強力だったということだろう。
普通なら、送り込んだ魔力は治す場所がなければそのまま霧散する。彼らの中にある魔力とぶつかり、消え失せる。
だけどもしも、彼らが持つ魔力以上を流し込めばどうなるか。彼らの中にある魔力は失われ、行き場のなくなった癒しの力が体の中を蹂躙する。
その結果、立てないほどの疲労と痛みが、彼らを襲う。
「聖女の儀とは何か。それを知ってからこれまで、どうすればいいのかを必死に考えてきました」
二百年に一度行われる聖女の儀。それは神に生贄を捧げる儀式だった。
千年以上前、救いを求めた王家に、神は言った。汝らの愛する者を捧げよ、と。
それから二百年ごとに、王家は生贄を聖女と名付け、王族の一人と愛情を築かせ、生贄として捧げた。
私が選ばれたのは、聖女と奉るにふさわしい癒しの力があったのと――いなくなっても誰も困らない孤児だったから。
そして、生贄にする聖女と恋仲にする第二王子と釣り合う年齢だったからこそ。
私が聖女の儀とは何かを知ったのは、なんとなく歴史書を読み漁っていたおかげだ。聖女と、結ばれた王子に関する記述があまりにもないのに気づいた。
聖女の儀を執り行い、二人は王家が管理する地で生涯を共にした。いつの時代もそれだけしか書かれていないことに違和感を覚え、他に何かないかと城中を調べてようやく――城の一際高い屋根のひとつに隠し穴を見つけ、はるか昔に記された日記を手に入れることができた。
最初は、なんてことのない日常だけが書かれていた日記は、聖女の儀が近づくにつれおかしくなる。愛する者を生贄に捧げると知った王子による、贖罪と後悔の日記。それは、聖女の儀を終えた日に途切れていた。
彼がどうなったのかは、わからない。聖女のもとにいくことを自ら選んだのか、不穏分子として処理されたのか、真実を民に広げられては困るからと幽閉されたのか。
いずれにしろ、彼の日記に記されていたのは、これからの私たちに起こること。そして彼の行く末は、リオン殿下の行く末でもあった。
「日記を、リオン殿下も見たのですよね」
部屋の絨毯の下の床板を外して作った、大切なものの隠し場所。それを知っているのは私と、私が誰よりも大好きで信頼する、リオン殿下だけだった。
ある日、日記がなくなっていて、それ以来リオン殿下は私を遠ざけるようになり、部屋にこもるようになった。
夜は遅くまで起きていて、陽の光を浴びることのない生活を送るリオン殿下は、いつしか幽鬼のようだと言われるようになった。
「どうすればリオン殿下を助けられるのか、私も悩みましたし、考えました」
日記を見つけてから三年。それから今に至るまでの苦労を、思い出す。
「リオン殿下を縛ってでも連れ去れないかと悩みましたし、どうすれば動きを封じられるかと実験もして、どんなところでも走れるようにと城の屋根を走り回ったり。あとそれから、木から木に移動する練習もしてみました。もちろん、リオン殿下を背負っていることを想定して、丸太を背中にくくりつけながら」
おかげで、粗野だの野蛮だのと呼ばれるようになったけど、そもそも卑しい聖女と呼ばれていたので、たいして変わらない。
「私が連れ戻されないか心配だったのでしょうけど、ここまでついてきたのが運のツキ。諦めて、私に拉致されてください」
リオン殿下がどんなに抵抗しても連れ出せるように、色々と準備した。私の部屋ではなく貴賓室に案内されたので、物の調達は道中で行うことになったけど。
服の中に隠していたロープを手に持ち、リオン殿下ににじり寄る。癒しの力は動きを封じることはできるけど、痛みを伴うのでできれば使いたくない。
病気を治しにきた貴族に使ったら、一日ぐらい痛みで悶えていたので、あの苦痛をリオン殿下に味わわせるのはかわいそうだ。
「……俺に、王族である俺に民を見捨てろと言うのか」
「聖女である私が失われれば、同じことでしょう。契約を反故にされた神が、ならしかたないと許すとお思いですか?」
「だが、それでも……! 国と共にあることはできる。民を率い、復興させることも、できるかもしれん。兄上も弟も、俺に同意した。たとえ最後の王族になろうとも、この国のため、命を賭すのだと……その約束を、俺だけが破るわけにはいかない!」
聖女の儀を行うために万全を期さなければいけないこの時期に、国王夫妻どころか王太子殿下まで不在なのはおかしな話だと思っていたけれど、王子三人が結託していたのか。
第三王子の寂しそうな顔を思い出して、視線を落とす。
「神に頼るのではなく、人の力で国を導くのだと……それこそが、国のあるべき姿だ。だから、お前のような聖女は、もういらん。そもそも、愛されていない聖女は神に捧げるにふさわしくない。役に立たない聖女など今すぐに、この国から立ち去るがよい!」
吐き捨てるようなリオン殿下の言葉。顔を見なくても、その顔にくっきりと刻まれた色濃い隈と青白い肌と、こけた頬を思い出せる。
日記がなくなってから二年。その間に彼も悩みに悩んで、悩みぬいたのだろう。
私との約束を、忘れるぐらいに。
「言ったじゃないですか。ずっと一緒にいようって。何があっても、私を助けてくれるって、そう言ったじゃないですか」
王族の義務なんて、私は知らない。聖女の義務も、私には関係ない。
強力な癒しの力で貴族の病を治し、私腹を肥やした国王夫妻。
試練が愛を育むのだという名目で、私を虐げて楽しんでいた貴族たち。
孤児である私が聖女だなんてと眉をひそめた、真相を何も知らない新興貴族たち。
私は神だけでなく、貴族たちに対する生贄でもあった。
十年間の衣食住に恩はあるけれど、命を捧げるほどの義理はない。
「私だけを外に放りだして、その後は誰が守ってくれるんですか?」
この国で大切なのは、ただ一人だけ。王族の義務を全うしながらも、どうすれば私を助けられるのか、ずっと悩んで考えて、逃がそうとしてくれたリオン殿下だけ。
「ずっとずっと、一緒にいてください。逃げるのが嫌なら、あなたのために聖女になるから……最後の瞬間まで、一緒にいてください」
ぎゅっと手を握る。どれだけ鍛錬に打ち込んだのか。幼い頃は柔らかかった手が、かさついて、固くなっている。
見上げた顔はやつれにやつれている。この二年間だけではなく、国境に到着するまでもずっと、私を連れ戻しに来るのではと心配して、ろくに眠れていないことを物語っている。
「セリーナ」
リオン殿下が私の名前を呼ぶ。聖女であり、聖女でしかないからと、この十年間リオン殿下しか呼ぶことのなかった、私の名前。
「すまない……それでも、俺は、俺は……民を、国を見捨てることはできない。だがそれでも、お前だけは、幸せになってほしい」
ようやく引き出せた彼の本心に、渾身の微笑みを浮かべる。
その両手をがっしりと掴みながら。
「王太子殿下とはすでに話をつけてあります。あなたを連れ去ることを不問とするとお約束いただきました。聖女の儀は、王族が愛する者であるのなら誰もでもいいと解釈し、王妃陛下を捧げることにすると」
王太子殿下はリオン殿下とよく似た顔でにこやかに笑って、命を賭すのは民である君ではなく王族の務めであると言い切った。
「それで両陛下が納得されなければ、その時は神との契約を打ち切るとも、約束してくださいました。王族の誰もが納得できない契約など、続けても意味はないと」
リオン殿下は優しいから、母親が生贄になるかもと知れば黙ってはいられないだろう。だから、いい感じになると思うのでそのまま連れ出していいと、約束してくれた。
その『いい感じ』がリオン殿下による国外追放だとは知らなくて、面食らってしまったけれど。
「ひょろっちい殿下が、孤児院にいた頃から野山を駆けまわっていた私に勝てると思わないでくださいね」
捕らえた獲物のように、リオン殿下を肩に担ぎ上げる。
神との契約がどうなるのかはわからない。陛下が私たちのことを逆賊として手配した時は戻ってこなくていいと言われているけれど、実りが失われて傷ついた民を、リオン殿下は放ってはおけないだろう。
だからその時は、こっそりと戻ってきて、傷ついた人々を癒す旅でもするとしよう。聖女らしく。
お読みいただきありがとうございます。