トゥルーエンドを模索する17(side.スーエレン)
薄いカーテン越しに、だんだん明るむ陽射しがそっと差し込んでくる。
私は久しぶりに穏やかな気持ちで目覚めることができた。そっと目を開けると、愛しい旦那様の鍛えられた胸がある。相変わらず夜着がわりのシャツだけ羽織って、ボタンは全開らしい。
朝日のもと、薄暗いランプの元では見られない旦那様の逞しいお身体を堪能していると、僅かに傾いたらしい太陽のせいで、カーテンの隙間から彼の顔に日光が直射する。
夏場の日光は朝から刺激的だ。
眩しいからか、彼のけぶる睫毛が震えてゆっくりと瞼が開く。ゆっくりと二、三度瞬いて、私と視線が合った彼は、甘くかすれた声で私に挨拶した。
「おはよう、エレ」
「おはようございます、エルバート様」
穏やかな朝。
温もりに包まれた目覚め。
そんな当たり前なことが、どうしようもなく幸福だ。
◇
あの日。フィアーム城がセロン率いるシンシアの騎士と反第二皇子派によって制圧された日。
イガルシヴ皇国は一つの分岐点を迎えた。
それはシンシアとセロンのハッピーエンドとも言うべきもの。
シンシアは、トゥルーエンドを選ばなかった。
ゲーム上のトゥルーエンドでは、オズワルドを実権のない皇帝として傀儡にした大臣達が上手く舵をとりイガルシヴ皇国の在り方を変えていく。その横でヒロインは花屋の娘として、セロンはバステード家出身の騎士として、庶民となって結ばれるというストーリーだ。
トゥルーエンドとして、あり得た可能性の未来としては無難なものに近いだろうね。セロンもヒロインも、王族の生活とは離れて生きてきたから、下手に王族として振る舞うよりは市政でのんびり生きた方が気が楽なんだろうなと思う。
でもシンシアは、その楽な生活を手放してハッピーエンドを迎えた。すなわち王女として、戴冠したセロンの隣に立つという棘の道を。
ゲームのハッピーエンドはお伽噺のように二人は王族・皇族として結婚して、セロンの治世は素晴らしいものとなったと締め括られる。
でもよく考えてみるんだ。
現実問題として、皇太子と皇太子妃になった二人はこれまで以上に過酷且つ忙しない毎日を過ごしていた。数日前にシンシアに会えたときに聞いた話では、なかなかセロンと落ち着いた時間が取れていないとぼやいていたくらいに。
形としてはハッピーエンドらしいハッピーエンドに落ち着いたんだろうけど……現実は厳しいよね。やること、やらねばならないことが多すぎる。
だからこそ、トゥルーエンドは庶民に戻るという結果になったんだろうけれど。
そう、それに関わって私の周りの環境も色々と変わってきている。
まずオズワルド。
彼はセロン以外の皇位継承者を皆殺しにした罪がある……というと正義に駈られそうになるが、その実イガルシヴ皇国では皇族内の抗争は珍しくないために不問にされた。驚きだ。しかしながら継承者抗争に負けたとみなされたオズワルドは、その上でセロンの皇太子権限で幽閉されている。
ゲーム上ではセロンが手加減を加えずに救出現場で刈り取られていたはずの命だけれど、何故か奴は生きている。ユリエルも逃亡中だし、ゲームとの大きな相違点は気に止めておかないといけないね、とシンシアと強くうなずきあったのも記憶に新しい。
次に私の両親について。
私をオズワルドに売ったという両親は、いると思っていたはずの静養地に姿は見えず、実際にはイガルシヴ皇国で贅を尽くした生活をしていた。報告を聞いたとき、その財はどこから来たのかと思ったけれど、以前と同じ轍を踏んでいたらしく裏の世界とやらに踏み込んで手に入れたお金だったらしい。
救いようもない犯罪にまで手を染めていた両親はイガルシヴ皇国で裁かれ、とうとうゲーム通りに処刑されてしまった。あれでも不自由なく私を生活させて育ててくれた人達なので、自分の知らないところで死んだと聞かされたときには目頭が熱くなった。
一度目の温情で改心していたら……なんて、後から言っても詮無きことか。馬鹿な人達だ。
三つ目。シンシアの公表。
彼女はアーシラ国王の名の元に正式にお披露目がされた。残念ながらアーシラ王国まで二週間もかかる旅路のせいで、私は彼女の晴れ舞台を見ることが叶わなかったけれど、人伝に彼女が凛とした佇まいで腕に花束を持ちつつ、セロンへと寄り添っていた様子は素晴らしく輝いていたらしい。ゲームのハッピーエンドのスチルをこの目で見られなかったことが、本っ当に残念でならない……。
そして最後、私自身とエルバート様の事。
現在、エルバート様はシンシアの騎士改めてアーシラ王国大使としてアーシラ王国とイガルシヴ皇国の友好関係を維持するための重要な任についている。
というのも、あの運命の分岐の日の翌日からイガルシヴ皇国は見事な大寒波に見舞われた。冬の到来によって、妊婦である私に対し、二週間もの道のりをかけてアーシラ王国に帰還するのはよろしくないとドクターストップがかかってしまったのである。なお担当医は中立派だったヤング医師だった。
イガルシヴ皇国の冬は長い。冬が開ける頃にはお腹も膨らむだろうからますます長旅はしない方がいいという事で、セロンの母方の実家……オブリー家から出産祝いと称してエルバート様に屋敷が贈られた。出産祝いの範疇に含むにはスケールが大きすぎて庶民派の私は恐縮しまくりだ。
しばらくは贈られた屋敷でのんびりとしていたんだけど、誰も彼もが走り回るなか、エルバート様は四六時中私についていたがった。ふとエルバート様を引き込もりにさせておくのはどうかと気がついて、「騎士の仕事もあるだろうしエルバート様だけでもアーシラ王国に一度帰ったら?」と言ったら「エレと一緒にいたいから今日付で騎士を辞めよう」とか言い出したので慌てて前言撤回したのは微笑ましい記憶にしておきたいところ。
そんな様子のエルバート様の事が、シンシアの事と一緒に報告が上がるのも時間の問題だった。シンシアが公表されて、早々に皇太子妃としてイガルシヴ皇国に嫁入りする際にアーシラ王から直々の辞令が下ったという。
曰く、「イガルシヴ皇国との友好大使に任ずる」。
エルバート様は忌々しそうに王命の書かれた勅書を睨み付けていたけれど、やがて諦めたのか、私に「……暫くイガルシヴ皇国にいることになるけれどいいかい?」と尋ねてきたので私は二つ返事で了承した。子供が生まれたら尚更赤ちゃんを連れて長旅なんてしんどいだろうし。
そうして忙しない毎日を過ごしていると、あっという間に季節は過ぎていく。
イガルシヴ皇国の長い冬が明け、私のお腹も大きく膨らんだ。
花が咲き誇る季節になると、イガルシヴ皇国でシンシアとセロンの盛大な結婚式が行われた。アーシラ王国からも重鎮が何人か呼ばれる。私は式にだけ出席し、その後の夜会は欠席したけれど、エルバート様と懇意にしていた方々が結婚式に前後して屋敷にまで訪ねに来てくれた。口々に言われる「おめでとうございます」の言葉と贈られてくる気の早い出産祝いにてんやわんやだった。
季節が過ぎるのは本当に早い。
時間というものはせっかちだと最近よく思う。
走馬灯のようにこれまでのあれこれを思い出していると、珍しくまだ眠たそうに瞼を半分下ろしたエルバート様が頬杖をつきながら寝そべる。欠伸をかみ殺しているのを見ると、なんだか自然と頬が緩んだ。
「もう少し寝られますか」
「ん……エレが寝るなら……」
そう言いながら頬杖をついた腕を、私の枕に投げ出す。私はエルバート様の胸に頭を抱かれるようにして寝ていたから、もぞもぞと動いてエルバート様の腕枕に頭をのせた。
エルバート様と視線が一緒になる。
エルバート様がふわりと微笑んで、私の唇を啄んだ。
戯れの口付けに頬が熱を持つ。朝から刺激が強すぎて駄目ですよエルバート様。色気で私を殺すつもりですか。
恥ずかしいのを誤魔化すように薄いシーツを顔にまでかける。同衾しているからエルバート様の顔にだってシーツがかかる。……私の顔が隠れたことにはならない。隠れるなら、私が体ごと下がるべきだった。
いやでも腕枕の誘惑が魅力的すぎるのがいけないの……。腕枕してもらったならそのままで一緒に寝たいじゃん……。
固まってぐるぐると考えていると、エルバート様がくすくすと笑ったのが分かった。むぅ、と睨んでやればエルバート様は「ごめん」と言って、シーツの中の隠れた世界で、私に深く深く、口付ける。
舌が絡んで。
互いの呼吸が循環して。
熱のこもった吐息は脳を甘く痺れさせる。
唇を離して、幸せをかみしめる。
朝だというのに、エルバート様の金の瞳が熱を孕んだ。
もう駄目よ、なんてお約束の台詞を私が口にするよりも早く、もう一度、深く口付けようと、私の全てを堪能しようとエルバート様の唇が重な───
「おぎゃぁあああにぁあああ!!」
「奥様、申し訳ありません……」
おぉう……けたたましい泣き声が、寝室へと近づいてくる。寝室と外界を隔てる扉の前にまで来たかと思ったら、乳母の情けない声も聞こえてきた。
エルバート様が少しだけ拗ねたように溜め息をつく。
「全く、僕らの息子はどうも空気が読めないらしい」
「いいじゃないの。一晩、大人しく乳母の元で眠ってくれていたんだから」
瑞々しい生命が息吹く季節の盛りに生まれた、待望の我が子。私は、私の息子を心から可愛いがっている。エルバート様がそれに対抗して嫉妬してくるのはここ最近の見慣れた日常だ。
エルバート様ごめんね、と思いつつも、私はどうしても息子の方を優先しがちだ。
だってこの子、かなり我が儘でなかなか乳母には懐かず、母である私に世話をしてもらいたがるんだもの。
私としても貴族のしきたりとかで可愛い我が子の世話ができないのは悲しいと思っていたので、乳母が息子に根負けしたときは私が世話をすることにしている。乳母はストレスフリーで私は息子の世話ができる。これぞ一石二鳥。
乳母に入室を促すと、彼女は息子を抱いて事情を説明してくれた。曰く、お腹が空いているだろうに乳母の与える母乳を飲んでくれないと。
我が息子ながら、なかなかグルメである。乳兄弟の男の子は本能のままに乳母からお乳を貰ってるのにねぇ。
将来マザコンにならなきゃいいけどと思いながら、目の下に隈を作っている乳母から息子を受け取る。
乳母の隈がちょっとひどくて心配なので、仮眠させるために息子をこのまま預かることにした。頭を下げて感謝の言葉を述べた乳母が退室していく。
私は息子をあやしながら、薄いネグリジェをはだけさせる。ふふん、このくらいもう手慣れたものである。
我が子に自らのお乳をあげられるから、私の顔はだらしなく溶けていたのかもしれない。私が息子にばかり構うのが面白くないのか、エルバート様はぽつりと爆弾を落っことしてきた。
「エレは僕のなのに……息子だけが母乳を飲めるなんてずるい」
「エルバート様、今の発言はちょっと引きます」
私が息子にお乳を飲ませようとした矢先のこの発言である。
エルバート様、ちょっと自重しよ。息子に嫉妬するのはいいけど、変態じみた発言までは許容してないよ私。
生ぬるい目をエルバート様に向けていると、あっぷあっぷと息子が私の胸に吸い付いてお乳を飲み始めた。私は息子の顔を覗く。ふふ、やっぱり可愛い。
エルバート様譲りの銀髪に、私譲りの赤い瞳。エルバート様の銀髪も、私の赤い瞳も、どちらも先祖返りと言われて珍しい色合いのものだから、この息子は中々に珍妙な配色をもって生まれてしまったことになる。銀髪赤眼とか、前世なら確実に神秘を纏った美人枠として人気が出たに違いない。
そんな息子に食事を与えていると、エルバート様が私の背中を覆うようにして隣から抱き込んできた。肩越しに、一生懸命ミルクを飲んでいる息子を観察している。
「全く、今だけだ。大きくなったら、エレは返してもらうからね」
「あーうー」
満足したのか飽きたのかは分からないけれど、息子が胸に吸い付くのをやめて、生ぬるい目をエルバート様に向けた気がした。赤子にも伝わるエルバート様の嫉妬深さ、恐るべし。
「もうお腹いっぱいかしら?」
「うー! うー!」
まだ飲むらしい。可愛い息子はあむあむとまた吸い付き出した。
……こういう時、我が子は天才なんじゃないかと思うときがある。エルバート様はよく「僕とエレの朝の一時を邪魔するなんて……」とか言っているけど、その息子様は大人の言葉を理解してそうな節を時折垣間見せるので、確信犯なのではと思うこともある。
まぁそれがどうしたって話なのだけれど。どう考えても親の欲目に違いない。
息子にお乳を与えていると、穏やかな時間が過ぎていく。
愛しい旦那様がいて。愛しい息子がいて。
家族水入らずの団欒の時間。
それは、私が諦めたままだったり、エルバート様が私に手を差しのべなかったら、きっと手に入れることは出来なかった一つの未来の形。
無数の選択肢から選びとった細い道の先に続いた私の幸福は、悪役令嬢『スーエレン・クラドック』の唯一のハッピーエンドに違いない。
お乳を飲んで満足したらしい息子がうとうととしだす。
少し考えて、私は息子をエルバート様と私の間に寝かせた。
トントン、と優しくお腹を叩けば息子はすぐに寝こけてしまう。なんて間抜けな寝顔だろう。我が息子は寝顔もすごく可愛い。
「寝ちゃったね」
「そうね」
「僕らももう少し寝よう」
「朝なのに?」
「たまの贅沢さ」
仕方ないなぁと私は微笑んで、またベッドに横になる。エルバート様もシーツに潜り込んだ。
親子三人、川の字になって眠る。
これもまた家族の団欒で、多幸感にあふれた穏やかさに包まれる。寝ると言っても、ちょっとうとうとするくらいだから、赤ちゃんをつぶしちゃうことはないでしょう。
悪役令嬢になるはずだった私のエンドにしては、幸せすぎる現状に不安になる。
だけどその不安の檻から、エルバート様が何度でも私を救ってくれるから、私は今日も笑顔で朝の目覚めを迎えられるんだ。
エルバート様。
シナリオという運命から抜け出して、私を求めてくれた『あなた』。
あなたがいるから、私は『スーエレン』であることを辞められない。
悪役令嬢に生まれたって、罪人の子であったって、『あなた』は私を愛してくれた。
───たった一人の、私だけのエルバート様。
───私を狂おしいほど愛してくれてありがとう。
「死にたくない悪役令嬢はトゥルーエンドを模索する」完。
次回更新はエピローグです。




