ヴァンパイアの秘密③
また、大いなる野望と言う言葉が出てきた。精霊と人間のハイブリッドを作るこの実験。果たしてそれが本当に可能なのかどうかは、俺には分からないが、このアンカーという人形は、人間の禁忌に触れようとしている。やはり、止める必要があるだろう。
しかし、気になるのは、なぜ今大いなる野望を目指しているのかということだろう。一〇〇年前に行われた実験。それを糧に今アンカーは精霊を生み出そうとしているのだ。その目的は……。真の目的とは何なのか? 俺はそれだけが気がかりになり、徒に精神が刺激された。
「大いなる野望なんてものは幻想なのよ」
と、Elzaが言った。
確かにElzaの言う通り、それは幻想であると思えた。しかし、アンカーはそう考えていない。
「いや、幻想じゃない。大いなる野望は、実際に実現可能なんだ。螺々と瑠々がそれを証明している。それにそこにいる君もね……」
と、アンカーは意外にも俺の方を向き、そのように言った。
俺が一体何なのか?
わけが分からず黙り込むと、Elzaだけはその意味をしっかりと自覚しているようであった。俺の見つめると、ゆっくりと頷いた。
「轆轤川には秘密がある。それは分かるわ。だけど、彼は大いなる野望には関係ないはずよ」
Elzaはきっぱりと言う。
けれど、アンカーは納得しなかった。ただ、俺の方を興味深そうに見つめたまま、持論を展開した。
「精霊を生み出すだけが、大いなる野望ではないのだ」
今度は烏鵲が言った。
「なら、何が目的なんだ?」
「似鳥町で行われた殺人事件。これが何と呼ばれているか、刑事である君なら知っているだろう」
アンカーは烏鵲が刑事であることを知っている。烏鵲はその事実には大した驚きを覚えていないようである。ただ、似鳥町で引き起こされた吸血事件を振り返っている。
「吸血事件。あの事件は『悪魔憑き』と呼ばれている」
「そうさ。悪魔憑きが関係しているのだ」
「悪魔憑きが関係している? どういう意味だよ?」
烏鵲は理解出来ぬという口調でアンカーに尋ねた。
アンカーはどういうわけかにっこりと微笑んだ。この段階で笑う理由が分からなかったが、アンカーは何か重要なことを知っているのであろう。
「精霊と悪魔。この二つの存在は、元は一緒なんだよ」
「精霊と悪魔だと……。お、お前何を言っているんだ?」
「簡単な話さ。例の悪魔憑き事件は文字通り、悪魔を生み出すために行われたんだ。精霊を生み出すための予行演習のためにね……」
「だが、そんな……。Elza。悪魔を生み出すなんて可能なのか?」
慌てふためく烏鵲。
彼はElzaに向かって質問を飛ばした。Elzaは少し考えた素振りを見せた後、ゆっくりと声を出した。
「悪魔を顕現するのは可能よ。だけど、それは精霊と少し違うと思う」
「悪魔を生み出すとどうなる?」
「人は悪魔に取り憑かれると、人格が変わる。人を殺すことに躊躇がなくなるし。ほら、よく残虐な行為を行うことを『悪魔的』と言うでしょう。あれと同じ、人は残虐に変化するわ」
「能力がついたりするのか?」
「それは基本的にはないはず。あくまで悪魔化するだけで、実際に悪魔になるわけじゃないのよ。しかし、今アンカーが言っているのは、そういう意味ではないはず。精霊と同じように人智を超えた存在を言っていると思うけど、そうなると話は別ね。高尚な悪魔を呼び出すのは、一介の人間の力では難しい。いいえ、不可能と言っても過言ではない。だから、悪魔憑きの事件が悪魔を生み出すなんていうのは、普通は考えられない」
Elzaは一気に語った。
悪魔が実際にいるのだとしたら、それは脅威に他ならない。どんな存在なのかは分からないが、きっと、よくないのは間違いないだろう。よく神話などで堕天使とかが出てくるが、あれとは関係があるのだろうか? 元は天使で、しかし、悪魔に成り下がってしまう存在が確かにいるのである。
「証拠を見せようか?」
と、アンカーは自信満々に言った。
彼は何やら目を閉じると、呪文を唱え始めた。一体、何をするというのだろうか。俺もElzaも烏鵲も式神もただ黙ってアンカーを見つめていた。アンカーは俺たちに見つめられていることなど一切に気にせずに自分のペースで活動している。
「見てごらん」
ふと、アンカーは言った。
そして、彼のそばに何やら得体の知れない生命体が現れた。
俺にはそれがなんであるか分からなかったが、Elzaにはすぐに分かったようである。白い顔を良い一層青白くさせ、ガタガタと震えている。
「う、嘘でしょ……」
それを見ていた式神が声を放つ。
「Elza様。どうされたのですか?」
「今、アンカーのそばにいる生命体。それは悪魔よ。それも高尚な存在である。ベルゼブブ。でも、こんなことが起こるなんてありない。アンカーは人形のはず、エルザのように精霊をミステールには出来ないはずなのに」
そんな中、アンカーはにっこりと微笑みながら言葉を返した。
「僕でもミステールは持てるんだよ」
「不可能よ!」Elzaは叫ぶ。「だってあなたは人間じゃないもの。血液がない者が、エヴァン・サングリーノにはなれないはず。特に精霊をミステールにする場合、血液を逆に献上しなければならない。悪魔をミステールにする場合も同じことが言えるはず。だけど、人形であるアンカーには血液がないはず」
確かに人形には血液がないと言えるだろう。それが定説だ。しかし、アンカーはほくそ笑むだけで、面白そうに状況を見つめている。
俺の感じた印象を言えば、アンカーはただの人形ではない。
何と言うか、人間のような意思を感じるのだ。これは人形ではあり得ない。まず、人形が人のようになれる時点でおかしなことではあるのだけれど、螺々と瑠々の力を使えば、それも可能になるのだろう。
それだけの力が螺々と瑠々の二人には内包されている。彼ら二人は元をたどると精霊なのだそうだ。大いなる野望の残り火として生まれた存在。人間でありながら人間を超えた存在……。
そんな存在が螺々と瑠々の二人だ。
俺がそうこう考えていると、アンカーが口を開いた。
「面白いものを見せよう」
アンカーはそう言うと、上着のポケットから鋭利なナイフを取り出した。刃渡り一〇㎝程度の小ぶりなものであるが、それを肌に押し付けると、サッとナイフを動かした。忽ち皮膚が避け、そこから血が流れだした。しかし、その血は通常の赤い血ではなく、綺麗な青色をしていた。
するとその青い血を見ていたベルゼブブがハッと目を開き、その傷口に唇を押し当てた。
血液を吸っているのである。
何かこう、同性愛的な一部を見せられたかのようで、俺は恥ずかしくなる。ベルゼブブはゆっくり血液を吸うと、次のように言った。
「アンカー。何がしたい?」
アンカーはベルゼブブに視線を向けると、少し思案し、そして答えた。
「一つ命令しよう。この場にいる人間をすべて黙らせてほしい」
ベルゼブブは、俺たちを一瞥すると、
「よろしい。こやつらを黙らせよう」
そのように言うと、何やら呪文を唱えた。すると、ベルゼブブの前方に強大な光球が現れた。強烈な熱量持っている光球だ。
式神がElzaの前に立ち、直ぐに言った。
「Elza様。下がってください。私が盾になります」
Elzaは式神の能力を解放する。
ミステールとしての力。
式神の残された力は残り十五分。あまり長くない。この時間が過ぎれば、彼は戦闘を行うことができなくなるだろう。そうなる前に、何とかこのベルゼブブを止めなければならない。
「〈サンオブザムーン〉レベル三発動」
式神はそう言うと、呪文を唱えた。式神の額にもう一つの目が現れ、三つ目になる。そして、その目から大量の炎が生み出される。全身を炎に包まれた式神は、Elzaの前に立ち、ベルゼブブの攻撃からElzaを守ろうとしている。
「なかなかいい能力だ。だが、私の前では通じない」
あくまで冷静にベルゼブブは言う。
高めた光球を分裂させると、野球ボール大くらいの大きさまで縮小させ、それを式神に向かって放った。
式神の炎の壁に、光球は吸収されたと思ったが、そうはならなかった。光球はバターを熱したナイフで切り取るみたいに、炎の壁を貫いていくと、炎の壁の向こう側にいた、式神の体に直撃した。
式神の右腕が完全に粉砕される。苦痛に顔を歪める式神。
圧倒的な攻撃力……。
これが堕天使ベルゼブブの力なのだろうか? だとすると、あまりに戦力差がありすぎる。とてもではないが、式神の力ではベルゼブブには対応できない。
ベルゼブブは光球を次から次へと式神に向かって発射する。炎の壁は壁としての機能がない。式神は良いように光球の餌食となる。たった三発の光球による攻撃で、式神は両腕と右足を粉砕されてしまった。
ダルマに近い状態になる式神。
その後方で、Elzaはわなわなと震えていた。
次の瞬間。Elzaはエルザに切り替わった。
「やれやれ、俺の出番だな」
エルザの口調が変わる。
どうらや今は男性人格のエルザに切り替わったらしい。
エルザは倒れ込む、式神を見つめると。さっと呪文を唱えた。
「トゥトゥリス。頼む!」
と、エルザは言った。
すると、エルザの前に、霊妙な女性が現れた。これも彼の持つ精霊の一人なのだろうか? 精霊をミステールのとして持つエルザ。彼はさらに言った。
「トゥトゥリス。式神を治すんだ」
トゥトゥリスと言われた女精霊は、こくりと頷くと、式神に手を向けた。すると、式神の傷ついた身体がみるみると治っていくではないか。
僅か数秒で、式神は息を吹き返す。
「これで式神は大丈夫だ」
と、エルザは満足そうに呟く。
それを見ていた、アンカーは疑心の瞳をエルザに対して注いだ。
「お、お前は何者だ?」
アンカーはエルザが多重人格で、人格のよって従えるミステールが違うことを知らないのであろう。だから、ここまで焦っているのだ。
彼の横に立つ、ベルゼブブも驚きの表情を浮かべている。同類を見るような目線で、トゥトゥリスという精霊を見ているではないか。
「分が悪いな。アンカー、ここは一旦引いた方が良いだろう。戦闘はいつだってできる。だが、今はその時ではない」
と、ベルゼブブは言った。
アンカーは頷くと、ベルゼブブに言葉を返した。
「分かった。今は引こうか。転移の魔法を頼む」
転移の魔法。
ベルゼブブは再びアンカーの腕に口をつけると、血を吸い始めた。その後、青い血を手で拭いながら、呪文を唱える。
「〈自動転移〉。発動!」
ベルゼブブとアンカーは呪文と共に、消えて行った。廞杭町から消えてしまったのかもしれない。
俺たちは戦闘状態から解放された。
俺は式神のそばにより、彼に向かって手を差し伸ばした。
「式神さん。大丈夫ですか?」
腕や足は元通りに戻っている。しかし、若干の痛みはあるようで、式神は苦痛に顔を歪めている。俺の手を取ると、式神は声を出した。
「不甲斐ない戦いをしてしまったな。またElza様を危険に晒してしまった。護衛隊としては失格だ」
「そんなことないですよ。向こうは堕天使だった。普通の人間では太刀打ちできない」
「鍛錬が必要になるな。レベル三の〈サンオブザムーン〉でも効果がない。となると、最終奥義レベル四、そして絶対奥義レベル五を発動する必要がある」
「やめておけよ。式神」
と、言ったのはエルザ。
まだエルザのままのようだ。
「なぜですか?」
と、式神は呟く。
「レベル四、五の〈サンオブザムーン〉は人体にかなりの影響を与える。場合によっては自分の体が崩壊することだってあるだろう。そうなったら、お前は戦闘ができなくなる。つまり、Elzaを守れない」
「しかし、今のままでは私はアンカーに太刀打ちできない」
「レベル五の炎が何と呼ばれているか知っているか?」
式神は、ゆっくりと頷き、声を発した。
「もちろん知っています。〈邪炎〉と呼ばれています」
「そうだ。但し〈邪炎〉はこの世界の炎ではない。霊界の炎だ。それをこの人間界で発現させるためには、術者の生命力を大きく消費する。今の式神では使いこなせないだろう。逆に邪炎に食い殺される」
「では、どうすれば良いのですか?」
「本当にElzaを守る……。そして決して死なぬと誓うか?」
と、エルザは真剣な声を出した。
式神はその答えに返答する。
もちろん、彼の声も神妙にあたりに響いた。
「もちろんです」
「アカシックレコードを使うんだ。つまり、轆轤川の力を使う。アカシックレコードにより、式神の肉体を人間から精霊にシフトさせる。そうすれば、レベル五の〈邪炎〉が使えるようになる。その前段階であるレベル四の〈魔炎〉もな」
「しかし、轆轤川は既に二度力を使っています。今後は三カ月能力を使えないでしょう」
「それはな」エルザは言う。「轆轤川が通常のミステールだった場合だ」
それを聞いていた烏鵲が話に割って入る。
「エルザ。どういう意味だ?」
「俺はこう考えている。轆轤川。お前は人間ではない」
俺はそう言われ、開いた口が塞がらなかった。
「そ、それはどういう……」
口をパクパクと動かしながら、俺はそう尋ねた。
「螺々と瑠々と同じ……。つまり、精霊と人間のハーフだ。しかし、お前の場合、かけ合わさっているのは精霊ではない」
「では何がかけ合わさっているのですか?」
と、俺は堪らず尋ねる。
エルザはゆっくりと目を瞬くと、次のように言った。
「悪魔……。魔族の血がお前には流れている」
魔族の血……。
そんな馬鹿な。
俺はただ黙ってエルザの方を見つめた。俺は今まで通常の生活を送って来たただの人間だったはず。それなのに、どうしてこんな目にあっているのだろうか? それが良く分からなかった。魔族と言うのは、よく小説やアニメで出てくる悪魔のことであろうか?
「お、俺が魔族? 冗談でしょ?」
と、俺は何とか絞り出すように言った。
それを烏鵲や式神も見つめている。二人ともなんと声をかけるべきか悩んでいるようでただ、黙って事態の把握に努めているようであった。
そんな中、エルザだけが冷静に俺を見据え、声をかけてきた。
「今までは半信半疑だった」
「どういう意味ですか?」
と、俺は尋ねる。
「お前のアカシックレコードにアクセスするという力。こんなレアな力が、果たして人間にいるのか? というと、やはり疑問符が湧き上がるんだ。通常、こんな力は人間には宿らない」
「だからと言って、俺が魔族だなんて考えは、やはり飛躍しすぎですよ」
「いや、理由はそれだけじゃないんだよ」
「他にも何かあるんですか?」
「あぁ、それこそ、実はな、お前のアカシックレコードにアクセスする力は、実は単発型ではないのかもしれない」
「持続型というわけですか?」
「決して持続するわけでもない。ただ、混合型なんだ。ある程度、自在に使える。それがお前の能力の特徴だ」
「つまり、俺は今能力を使ったばかりだけど、まだ能力を使えるということですか?」
「そうだ。血がある限り……」
血。
そうだ。俺たちミステールはエヴァン・サングリーノに対し、血液を供給することで能力を発動させる。それがミステールの能力発動のプロセスである。
だが、血がある限り……。というのはどんな意味を持っているのだろうか?
俺は訳も分からず、ただ事態を把握しようと躍起になった。
だけど、なかなか上手くいかない。難しいのは分かっている。それでもなんとかしないとならないだろう。それが自分に課せられた使命であると思えた。
「血がある限り、能力を無限に使えるんですか?」
「その通りだ。通常のミステールでは一度のサモン・サーバントで一回の能力の行使だ。これが単発型の特徴だ。だが、混合型は、血があり続ける限り、能力を使えるんだよ」
「便利な力ですね?」
「便利? 本当にそう思うか?」
と、エルザは言った。
彼女? いや、今は彼なのか。男性人格であるエルザの声は、どこか非難するような響きがあった。
「だって」俺は続けて言った。「単発型は三カ月に一度しか能力を使えない。これじゃいくら高い能力があっても、使いづらいじゃないですか? それが混合型ならある程度持続して能力を使える。こんなに良いことはないですよ」
「血のある限り能力を使うというのは、突き詰めると、命を削る行為だ。命尽きるまで能力を使う可能性が隠されているんだよ。これは間違いない。つまり、混合型は使い方を誤ると、実は簡単に死ぬ……」
死ぬ? 誰が? 俺が……。
今まで生きてきて、死は領域外の出来事だった。俺には関係のない話で、もっと遠い未来の話だと思っていた。
それがいきなり話に現れてきたから、俺は些か面を食らった。なぜ、このような展開になっているのだろう? いや、考えても無駄だろうな。考えたところで、何も変わらない。俺が死と言う状況から逃げられるわけじゃない。
「でも、能力を使うかどうかはエヴァン・サングリーノにかかっているわけでしょ?」
と、俺は言った。
微かな希望を込めて……。俺の主であるElzaは決して、ミステールに対して無理をさせる人間ではないはずだ。だから、俺が死ぬまで能力を使うなんてことはありえないだろう。
その位、俺はElzaを信用している。
「Elzaが俺が死ぬまで能力を使うなんてありえないですよ」
と、俺は自分に言い聞かせるように言った。しかし、エルザは納得しているようではなかった。ただしばらく沈黙すると、やがて小さく口を開いた。
「Elzaはな……」
*
「素晴らしいミステールだった」
そう言ったのは、アンカーのミステールであるベルゼブブであった。彼は堕天使であるが、こうしてアンカーのミステールとして活動している。
そして、今、二人は廞杭町から消え、似鳥町のとある廃墟に身を隠していた。
「あのミステールがどうかしたのか?」
と、アンカーは言った。
すると、ベルゼブブが答える。
「アカシックレコードにアクセスする力だ。こんなレアな力は、通常生きていたらまずお目にかからないぞ。私も久しぶりにあそこまでレアな力を見た」
「奴は人間か?」
その問いに、ベルゼブブは一瞬黙り込む。
あの能力者が人であるか否か? その事実はなかなか判断が難しい。
「恐らくだが、人ではないな」
「だが、サモン・サーバントは行っていたようだよ」
「人と精霊、それか魔族の半陽だろう。つまりハーフなんだよ」
「大いなる野望か……」
「大いなる野望の生き残り。その血を引き継いでいるといっても過言ではないよ。あの青年にはまだ隠された秘密がある」
「秘密か? Elzaはどこで彼を知っただろうか? 元から能力を知っていたのなら、奴は犠牲にならなかったはずだ」
奴……。
と、アンカーは言った。
その意味を計りかねると言った顔でベルゼブブは見つめている。
「アンカー?」と、ベルゼブブは言う。「何か知っているな? 話せ」
アンカーは胡乱な目つきで廃墟をぐるりと見渡した。人に聞かれては不味い。とはいっても、ここに人がいるとは思えない。それでも警戒する必要はある。
「髑髏畑魁江。奴を知っているか?」
「知っている。浄瑠璃のミステールだった男だろう」
「だった……。過去形なのは、彼が既にこの世の人間ではないことも知っているんだな?」
「あぁ知っている。奴は死んだ。それも自害したんだよ」
「髑髏畑魁江はね、元はElzaのミステールだったんだ」
一瞬であるが間があった。
ベルゼブブは興味深そうに顔を上げると、先を話すように顎をしゃくった。
「しかし、Elzaは裏切った。ミステールである髑髏畑魁江を捨て、新しいミステールである轆轤川進と契約をするんだよ。それがなぜか? ベルゼブブには分かるか?」
「人は過ぎたる力に憧れる生物だ。Elzaとて例外ではないのだろう」
「いや、Elzaはその点では優秀だよ。決して自分の欲や顕示欲のためにミステールを切り捨てたり、新しく契約したりするタイプではない」
「だが、実際に切り捨てたんだろう」
「そうだ。一度ミステールとの契約を解除すると、二度と同様のミステールとは契約できない。だからElzaは二度と髑髏畑魁江とは契約できないんだ。その事実を彼女は知っているはず。髑髏畑魁江の力〈氷結の魔人〉は良くできた力だ。バランスが良く、使い勝手も良い。式神と対をなす力だから、非常に利便性が高い。通常なら、この能力を手放すなんてことはしないはずだ」
「何が言いたい?」
と、ベルゼブブは言う。
顔は不満そうだ。
人間は言いたいことをなかなか言わず、話を長引かる傾向が強い。この事実にベルゼブブは嫌気が差していた。
「Elzaの中にはもう一人の人格がいる」
「エルザだろう。先ほどの戦闘で現れた。精霊をミステールにしている人格だ。見た目の印象では男性人格であったようだが……。違うのか?」
「そう、確かにElzaの中にはエルザという男性人格がいる。それは確かだよ。だがね、他にも人格がいるとしたらどうだろう?」
と、アンカーは持論を展開する。
多重人格者の中には、複数の人格を持っている人間が多分に存在している
Elzaの中にも、エルザ以外の人格がいたとしてもおかしくはないのだ。
「あの轆轤川という人間は死ぬかもしれないな」
と、アンカーは再び言った。
それを受け、ベルゼブブは不満そうに尋ねた。人間の考えることは良く分からない。そんな表情を浮かべている。
「なぜ死ぬんだ」
「ダブルスクリプト……」
「二重契約か?」
「そうだ。同一の人間にだけ許されている、ミステールの多重契約。Elzaの中にエルザ以外の人格がいて、そいつが轆轤川のことを狙っているのだとしたら、二重契約を持ちかけるはずだ」
「だが、私たちには関係のない話でないのか?」
「そんなことはないさ。大いなる野望を突き詰めていくと、轆轤川の力は必要になる」
「螺々と瑠々はどうする。あの二人、能力を限界まで行使したから死にかけているぞ」
「今日が山だろな。死ぬならそれまでだ。既に目的は達した。僕は彼らの力で魂を受け入れられたのだから、既に彼らの力は必要ない」
「他の人形に魂を入れるのに必要じゃないのか?」
「他の人形に? 馬鹿を言うな」
「目覚めさせるつもりはないのか。まぁそれに関しては私は何も言わぬよ。ただ、大いなる野望に向かって進む。それだけだ」
「そのためには悪魔憑きを再開しなければならない。既に準備は進めている。あとは実行するだけだ」
廃墟には月明かりが差し込んでいた。
その明かりは不気味に廃墟内を照らし出し、アンカーの顔に影を作っていた。密やかに笑うアンカー。彼の欲望はとどまることを知らない。
*
一方、螺々と瑠々はどうしているのか? 二人は能力を限界まで使ったことで、かなり体力と精神力を疲弊させていた。疲れ切り、全体的にやつれている。
今、二人がいるのは、廞杭町にある廃墟の一角であった。身を隠すのには適しているが、体力を回復させるのには適していない。かび臭ささが鼻をつき、徒に体力を削り取っていく。このままでは死んでしまうのではないか? 螺々も瑠々もそう考えていた。
だけど、死ぬことはそれほど怖くない。
むしろ逆に肯定的に受け入れられた。死ねばすべての呪縛から解放される。それは螺々と瑠々にとってありがたいことでもあった。
「螺々、聞こえるか?」
古びた床に横になりながら、瑠々は螺々に向かって言った。熱があり、意識はぼんやりとしている。だけど、それほど嫌な気分ではなかった。ふわふわと雲の上で横になっている気がするのである。
「瑠々。聞こえるけど……」
螺々の声も消え入りそうなくらい小さいものであった。
やはり、二人の寿命は近い。
ついそこまで迫っていると言っても過言ではないだろう。問題なのは、この場所には彼らを救おうとする人間の姿がないということだ。だが、救いの手は着実にこちらに向かってきている。
それを螺々と瑠々が知ることはできないし、二人にはそこまでの余力が残されていなかった。ただ、死に向かって、己の精神を鎮静化させ、横になっていたのである。
「アンカーの魂は無事にアンカーに定着したみたいだ」
「それならあたしたちの役目は無事果たせたわけね。良かったわ」
「だけど、俺たちはこのままだと死ぬだろう。螺々。怖くないか?」
「怖くないけど、本当に死ぬの?」
「あぁ、多分な……」
「死ぬとどうなるんだろう?」
「今よりはましに生きられるかもな。来世では幸せになりたいものだよ」
「今は幸せじゃないの?」
螺々はそう言った。
今が幸せか?
一体、自分はどう思っているのか?
瑠々は懸命に考えた。そして、自分が何かこう特別な中、生きてきた人間であると理解できたのである。
螺々と瑠々の二人は、自分たちが精霊と人間のハーフであることを知らない。
つまり、大いなる野望に関しての知識はまるでないのである。だけど、心の片隅ではやはり、特別な人間であるかもしれないと察していたのだ。だが、今となっては、それもどうでもいい。役目は果たし、後は死ぬだけ……。
少なくとも瑠々はそう考えている。
対する螺々はどうだろう。
彼女はどちらかと言うと鈍感でおっとりしたタイプの人間ではあるが、彼女もまた死を恐れてはいなかった。それがやってくるのなら、受け入れるだけ……。まだ、一〇歳にも満たない若年であるのにも拘わらず、二人の精神は酷く老成していたのだ。
「浄瑠璃はどうしているだろうか?」
と、瑠々は素朴な疑問を言った。
浄瑠璃は二人にとってのエヴァン・サングリーノだ。つまり、契約者でもある。そんな浄瑠璃は悪魔憑きの事件を引き起こし、今は捕まっているはずだ。たくさん人を殺したから、もう娑婆に出てくることはないだろう。死刑になるかもしれない。そうなったらもう会えなくなる……。いや、天国や地獄で会えるかもしれない。
「浄瑠璃は捕まったってアンカーが言ってたけど……」
と、螺々は不安そうに尋ねる。
その言葉に瑠々は答える。
「浄瑠璃が捕まったのは、恐らく浄瑠璃が作った人形の方だよ。本体は捕まっていない。第一、浄瑠璃は警察に捕まるような間抜けではないし、頭が良いからね」
「今、どこにいるんだろう?」
「それは分からない。だけど、きっとどこかで身を隠している」
瑠々がそう言った時だった。
突如、廃墟の奥で物音がした。
二人は疲れ切っていたから、立ち上がる気力すらなかったけれど、音には気づいた。
ここは廃墟だから、物音があってもおかしくはない。だけど、今聞こえた音は、誰かが入っている時に発生するような音であった。
それならば、今ここに誰か来たのであろうか? こんな時間に、こんな廃墟に来る時点で、その人物はまともな人間ではないだろう。廞杭町には廃墟が多いが、廃墟散策でも趣味のもの好きが、ここにやって来たのだろうか?
(違う!)
と、瑠々は考える。
彼は聞こえる足音の中に、どこか懐かしさを感じていた。遠い昔……、いやごく最近も聞いたのかもしれないが、その足音は確かに聞いたことがあるのだ。
その音にもちろん螺々も気づく。
倒れ込んだまま、視線だけを足音のする方に向けて、こちらに向かってくる足音に耳を澄ませた。
「浄瑠璃か?」
と、瑠々は言った。
浄瑠璃と言われた足音はやがて沈黙する。少し間、間があって、しんみりとした空気が流れた。
「いかにも私は浄瑠璃梨々花よ」
浄瑠璃はそのように告げた。
あの稀代の人形遣いが、どうしてこんな場所にやって来たのだろうか?
「どうしてここに?」
今度は螺々が尋ねた。
薄暗い廃墟の中に、ライトの明かりが降り注いだ。
今、時刻は深夜の一時を回ったところであった。そのため、電気がまったく通っていない子の廃墟の中は、月明かり以外の明かりがまったくなく、真っ暗闇に閉ざされていたのだ。
そんな中、明かりが螺々と瑠々の二人を照らし出した。
「螺々。瑠々。君たちはもうすぐ死ぬわ」
と、浄瑠璃はいやにあっさりと告白した。
とはいっても、螺々も瑠々もそれほど慌てはしなかった。
死が近いのは既に察していたし、恐怖に感じなかったからだ。ただ、死ぬのであればそれでいい。別に構わない。それくらいにしか考えていなかったのである。
「死んだらどうなるのかな?」
と、螺々が言った。
死に対する恐怖が微塵も感じられず、何か変に達観した印象を与える声でもあった。
「君たちは精霊と人間のハーフなのよ。それを知ってるかしら?」
精霊と人間のハーフ……。
その事実を螺々と瑠々はここで初めて知った。
「精霊ってどう意味だよ?」
と、瑠々が尋ねた。
それに浄瑠璃はしっかりとした声で答える。
「文字通りの意味よ。あなたたちは人間ではないの」
「じゃあ、精霊って何なんだよ?」
「霊界の存在。だけど、あなたたちの場合一〇〇%霊界の存在というわけじゃないのよ。大いなる野望という人体実験の結果生まれた、異形の生命体」
「それが俺たちの特殊な力と何か関係があるんだな?」
「もちろん、多分に関係しているでしょうね。あなたたちの力は生命を吹き込むという力。これは人間の力を超えた力よ。通常、人にはこのような力は宿らない。だけど、あなたたちは違うの。特殊な力が宿る土壌がある」
浄瑠璃は螺々と瑠々に近づき、ライトの明かりを二人の顔に向けた。
突然ライトを当てられたので、螺々も瑠々も酷く眩しそうな顔をしている。
「それは俺たちが精霊と人間のハーフだからなんだな?」
と、瑠々は言う。
浄瑠璃は瑠々の顔をのぞき込み、薄らと笑った。
「そうね。その通りよ。あなたたちはこのまま死んでも良いの?」
「構わない。俺たちはもう生きるのに疲れたんだよ」
とても一〇歳の人間が放つような言葉ではない。
二人が乗り越えてきた環境は、とても厳しく、生半可な覚悟では乗り越えられなかったものであろう。螺々と瑠々は二人で一つ。どんな困難の荒波も二人で乗り越えてきたのである。しかし、それも今日まで……。
そう考えると、どこかホッとする自分がいる。螺々も瑠々も不思議ではあるが、そう考えていた。
「俺たちは役目を果たしたんだ」
と、瑠々は自慢そうに呟いた。
声はだんだんと力を失っていく。酷くか細い声に聞こえた。
「役目を果たした?」
と、浄瑠璃は繰り返して尋ねた。
今度、答えたのは螺々の方だった。
「アンカーに魂を注いだのよ」
浄瑠璃はアンカーという言葉を聞き、少しだけ固まった。
「あなたたちにアンカーが接触したのね?」
「そうよ」
「アンカーは今どこへ?」
「分からないわ。だけど、廞杭町を出て行ったのは間違いないけれど」
「アンカーは私が作り出した最高傑作だけど、最低の作品でもある」
最高傑作でありながら、最低の作品。
こんな矛盾した考えがあるのだろうか?
螺々と瑠々も黙り込み、浄瑠璃の反応を待った。
そんな中、浄瑠璃は言葉を継いだ。
「アンカーはね。危険な人形なのよ」
それを受け、瑠々が答える。
「もう、アンカーは人形じゃない。今は魂を受け継いだ立派な人間だよ」
「そうね。だからこそ、危険なのよ」
「どうして危険なんだ?」
「彼は大いなる野望を引き継ごうとしている」
また大いなる野望という言葉が登場した。
聞けば、精霊と人間のハーフを作り出すための実験とのことだが、それ以上に意味が何かあると、螺々も瑠々も思っていた。
だけど、今の二人にとって、それは意味を持たない。どうなっても自分たちは知らない……、あるいは興味がないのというのが本音である。
何しろ、もうすぐ死ぬのだから、今更この世界で起きている異変を聞いたとしても、もう、どうでもいいのである。
「浄瑠璃、君はどうしたいんだ?」
と、瑠々が尋ねる。
実はいうと、これもあまり興味があったわけではなかったが、死ぬまでの暇つぶしとして、とりあえず聞いておこうと思ったのである。
「私の目的。それはアンカーを止めること。そして、あなたたちの能力を〈コピー〉すること……」
「能力のコピー? 可能なの?」
不思議そうに螺々は言う。
浄瑠璃は速やかに頷くと、何やら呪文を唱えた。
すると、空間に黒い穴が開き、そこが渦巻き状にくねっていく。すると、そこから針金のように細い青年が現れた。
模倣師、プアズル。
浄瑠璃の新しいミステールである。
〈氷結の魔人〉を司っていた能力者、髑髏畑魁江が自害し、ミステールに一つ空きができた。その結果、浄瑠璃が契約したのが、この模倣師という大いなる野望によって生まれた人間と精霊のハーフである。つまり、境遇は螺々と瑠々に近い。
プアズルは螺々と瑠々に近づくと、何やら分厚い辞書のようなものを取り出した。
「それは何?」
と、瑠々は尋ねる。
すると、プアズルは一言告げる。
「アカシックレコード・バイブル。この世界のすべての記憶が収まっている。お主らの能力もここに書き止めよう」
プアズルはペンを顕現させ、そして螺々と瑠々の力をバイブルに書きとっていく。力のコピーはこれにて完了である。あとはアカシックレコードにアクセスすれば、自動的に螺々と瑠々の力が使えるようになる。
つきつめていくと、このような考えである。
轆轤川進の力が『引き出す』力なら。
プアズルの力は『情報を書きこむ』力である。
但し、プアズルに力は紛い物の力である。そう、浄瑠璃は理解している。そして、その事実をあえて言わなかった。浄瑠璃は危険。なぜなら、ミステールを使い捨てることに迷いがないから……。プアズルは浄瑠璃を全く理解していなかった。
轆轤川とプアズル……。
二人の接触はいつになるのであろうか?
*
数日後――。
午後一〇時。
アウグスト家ではいつも通りの日常が流れていた。悪魔憑きの事件以来、際立った事件は起きていない。もちろん、アンカーによる襲撃もない。あるのは、平穏な日常だけだった。いや、平穏と呼ぶのには、些か楽観的過ぎるかもしれないが、とりあえずは平和な日常を過ごしていた。
Elzaは吸血鬼であるため、普通の食事をしない。一般的には人の血液で暮らしているのだが、Elzaはサモン・サーバント以外で人の血を吸血するのを避けている。だから、彼女は食事をする感覚がない。
俺は給仕をする必要がないから仕事は楽に感じた。やるのは、アウグスト家の掃除と血の管理だ。これだけで、生計を立てられるくらいの賃金を得られる。
恐ろしく割に合う仕事だ。
そんなある日、俺はElzaの部屋に呼ばれた。
直ぐに行ってみると、Elzaが書斎机に座り、一人何やら考え事をしているようであった。
「何か用ですか?」
と、俺はElzaに向かって尋ねた。
Elzaは俺を見据えると次のように声を発する。「ちょっとこっちへ来て頂戴。話したいのよ」
「分かりました」
俺はElzaの前まで足を進める。
「あなたに言っておく必要があるわね」
「何を言うんですか?」
「残念かもしれないけれど、あなたは人ではないわ」
その事実を俺は既に知っていたから、改めて聞いてもそれほど驚かなかった。Elzaにはそれが意外に見えたのかもしれない。平然としている俺に視線をくべると、静かに言葉を継いだ。
「あまり、驚かないのね」
「エルザに聞いたんです」
「そう。エルザに……。他に何を言っていたかしら?」
「いや、特には。だけど、俺は人間と悪魔のハーフであると言っていました。でも、そんなはずないんです。俺の両親は悪魔ではなく、一般的な人間だし、親戚を探してみたって悪魔なんて人はいない。だから、俺が悪魔とのハーフなんて信じられませんよ」
「悪魔の寿命は人に比べてうんと長い。だから、普通は人と交わってもそれに気づかない場合が多いのよ」
「俺の場合も、大昔の誰かが悪魔と交わっていた可能性があるということですか?」
「分からない。恐らくそうであると思うけれど……」
「俺はどうなるんですか? まさか死ぬんじゃないでしょうね?」
「いいえ。死なないわ。私が守るもの……」
と、Elzaはどこかのアニメキャラが言った名台詞を告げると、俺を安堵させた。
死なないのであれば、別に悪魔であっても変わりないように思えた。
「悪魔だと」俺は呟く。「何か変わるんですか?」
「悪魔に目覚めると、人格の転移があるわ」
と、Elzaは言った。
人格の転移……。
話が見えなかった。俺が俺でなくなってしまうのだろうか? そうだとしたら、それは恐ろしいことであると感じられた。何とかして食い止めなければならないだろう。でもそのやり方が分からない。俺はどうしたら良いのか? 考えるのはそればかりであった。
Elzaは俺の考えを見抜いているのか、俺の方を向き、取り成すように言った。
「人格の転移は、悪魔が残した人格が、自分に乗り移るのよ。つまり、自分が自分じゃなくなる。自分をコントロールできなくなるのね」
「それは多重人格のようなものですか?」
「簡単に言えばね。過去の悪魔の人格が、あなたに乗り移る。問題なのは、あなたの過去に棲む悪魔がどんな存在なのか分からないということね」
俺の中に潜む悪魔。
果たして、その存在はどんなものなのであろうか? 気になることは気になるが、本当に自分の中で起きているのか信じられなかった。遠い異国の物語を、無理矢理聞いているような感覚になるのである。それでも俺は行動しないとならないだろう。アカシックレコードにアクセスできる者として、最低限のことはやっておきたい。そんな風に感じられたのである。
「俺の悪魔を確認する方法はあるんですか?」
と、俺は恐る恐る尋ねた。
聞くならば今しかないだろう。
例え、どんな答えが待っていたとしても、俺はやらなければならないのだ。
「調べてみる?」
Elzaは言った。
俺は当然だと言わんばかりに、
「もちろんです。お願いします」
と、高らかに答えた。
「なら、やってみましょう。私があなたの悪魔が何なのか? その道を開いてあげる」
「道を開く?」
「あなたの中に棲む悪魔を顕現させるのよ。あなたの中には確かに悪魔が潜んでいるのだから、原理的にはそれを呼び出すことは可能なの。だから、やってみましょう」
Elzaはそう言うと、俺から少し離れて、机の引き出しからチョークを取り出した。今時チョークなんて何に使うのだろうか? と、俺が考えていると、Elzaは書斎机から立ちあがり、部屋の中央に向かった。
何もない空間で、Elzaは一人床に魔法陣を書き記した。
見たこともない図面が描かれる。
これが悪魔を呼び出すためのキーポイントになっているのだろうか?
「こっちへ来て、轆轤川」
と、Elzaは俺を呼び寄せる。
俺は言われるままに彼女の前に行く。すると、ちょうど俺の真下に魔法陣が来るようになった。魔法陣の中で俺は独り立ち尽くす。何か、妙な感覚がする。屋上の柵を超え、断崖絶壁で立っているような気分だ。股がスゥスゥするのである。
「これから……。悪魔を顕現させるわ」
「Elzaさんにはそれが可能なんですね?」
「もちろん。私を誰だと思っているの? 私は由緒あるアウグスト家の一員よ。このくらいなんてことないわ」
「分かりました。お願いします」
「じゃあ始めましょう」
そうElzaは言うと、早速呪文を唱え始めた。
聞いたことのない言語。
俺の耳にゆっくりと溶かし込まれていく。
聞いたことはないのだけれど、どこか懐かしい感覚がある。不思議だ。知らない人間なのに、愛着がある。そんな気分がするのである。
Elzaの呪文を聞いていると、胸の奥から何かが湧き上がってくるような感覚があった。自分の中に潜む悪魔。未だに信じられないことではあるけれど、どうやら真実のようである。
「余を呼ぶのは誰だ?」
不意に言葉が聞こえた。
それは確かに俺の口から発せられた言葉だ。だが、俺自身何かを喋ったという感覚はない。口が勝手に動いたという感じなのだ。
「あなたが轆轤川に棲む悪魔ね。ちょっと出てきてもらうわよ。それが私の役目だから」
Elzaはさらに呪文を進める。
とうとう、完全に悪魔は俺の体内から放出され、この世界へと顕現された。細長い針金のような悪魔で、しいて言うならば、アルベルト・ジャコメッティが制作した代表作『歩く男』に似ていると思えた。
「久しぶりだな。人間界は……」
と、俺から出てきた悪魔は言った。ずっと俺の中にいたのか? その前にはどこにいたのか分からないけれど、出てきたのは久しぶりのようだ。
「あなた、名前は?」
と、Elzaは悪魔に向かって尋ねた。
すると、悪魔はニィっと不気味な笑みを浮かべながら言葉を返した。
「余はロンバルクイナ」
「ロンバルクイナ? 効かない名前ね。悪魔なんでしょう?」
「いや、世は厳密いうと悪魔ではない」
「なら何なの?」
「吸血鬼さ」
吸血鬼と言うフレーズが出て、俺もエルザも固まった。
悪魔だと思っていた生命体が実は吸血鬼。
これほど驚きを与えることはないだろう。
「吸血鬼ロンバルクイナって言うのかしら」
「正式名称は、ロンバルディア家の吸血鬼だ」
「ロ、ロンバルディア家……。吸血鬼の中の名家じゃないの。私はアウグスト家の末裔。名前はElza。あなたと同じ吸血鬼よ」
ロンバルクイナは興味深そうに、視線をElzaに向ける。同じ吸血鬼に出会い、何かを感じているようであった。
「主も吸血鬼か?」
「そうね。あなたと同じ」
「今は何年だ?」
「西暦で言えば二〇一七年だけど」
「じゃあ、あれから一〇〇年が経ったんだな。時間の流れは早いものだ」
「あれからというのはどういう意味かしら?」
「大いなる野望だよ。Elzaといったね。主は知っているか?」
「もちろん知っているわ。人間と精霊のハーフを作り出す実験。その名称よ」
「それなら話は早い。余はその被験者なのだよ。ロンバルディア家は吸血一族の中では由緒正しい家系だが、俺の代の当主は酷く歪んでいてね、特殊な拷問狂だったのだよ。人間と精霊のハーフを作りだし、それで楽園を築こうとしていた。合法的に拷問できるに生命を生み出す。……大いなる野望の背景には、ロンバルディア家の歪んだ野望が隠されている。余はそれを止めるために、自ら被験者となり、大いなる野望を食い止めようとしたわけだ」
「上手くいったの?」
と、Elzaはやや食い気味で尋ねた。
「今、ロンバルディア家はどうなっているかね?」
「あまり聞かないけれど、今でもあるはずよ」
「ロンバルディア家の人間と接触したい。Elza。君にその役目を頼みたいのだが、構わないかね?」
「それは別に良いけれど、あなたの目的は何なの?」
「大いなる野望を止める」
「もう終わったんじゃないの?」
「いいや。まだた、まだ大いなる野望は終わっていない。余がこうして人間の精神に閉じ込められている間にも、進んでいるのだからね。早急にロンバルディア家の人間に会う必要がある」
果たしてロンバルディア家の人間はどこにいるのであろうか? 俺には良く分からない。第一、会って何をするというのだろうか?
それに大いなる野望が終わっていないという発言も気になることである。
「大いなる野望が終わっていないって本当なの?」
と、Elzaが尋ねる。
声は神妙に響く。俺もその答えが知りたくて、視線をロンバルクイナに向ける。
「大いなる野望は終わっていないよ。それは間違いないだろう。例の悪魔憑きの事件がいい例だよ」
「だけど、悪魔憑きを生み出していた浄瑠璃と言う人形遣いの仕業だったのだけど、彼女は既に捕まっている」
「浄瑠璃の本体は捕まっていないよ」
「そ、それはそうかもしれないけれど、大いなる野望なんてものが一人で引き起こせるとは思えない」
「通常は一人では無理さ」
と、ロンバルクイナはきっぱりと言った。しかし、その奥には隠された何かがある。
「それは、浄瑠璃が人形遣いだから可能になっているのかしら?」
「それもあるだろう。人形遣いだから、同じように能力を扱える人形を多数作り出すことができた。それは間違いないだろうね」
浄瑠璃を見つけ、そしてロンバルディア家の人間と接触するのが目的になったようだ。しかし、そんなに簡単に行くのであろうか。
俺がそう考えていると、ロンバルクイナが囁くように声を発した。
「浄瑠璃の居場所は分かるのかい?」
それに答えのはElzaだった。
「分かっているわ。轆轤川の能力で既に浄瑠璃の居場所は判明している。廞杭町に浄瑠璃はいるわ」
「なるほど、それならいつだって行けるわけだ。なら問題はないだろう。今はロンバルディア家に会おう。コンタクトを取ってくれるかね」
「分かったわ」
Elzaはそう言うと、来栖を呼び、ロンバルディア家にアポを取るように命じた。来栖は速やかに頷くと、電話にてロンバルディア家に連絡を取った。
その結果、これから会うという約束を取り付けたようである。
これからというと些か急には感じるが、なるべく早く事態を動かした方が良いだろう。そう考えたElzaは支度を済ませると、俺と式神の二人を護衛とし、さらにロンバルクイナを車に乗せた。
夜の道をひた走り、俺たちはロンバルディア家に向かう。
ロンバルディア家があるのは、不幸にも廞杭町の一角であり、この街のどこかに浄瑠璃が隠れているのである。そう考えると、やはり気が気ではなくなる。
大いなる野望が進んでいるのだとしたら、早く浄瑠璃を止めなければならないだろう。そのために、俺たちができることは何なのか? まずはロンバルクイナをロンバルディア家に引き合わせることだろう。問題はその後だ。
俺たちを乗せた車は、やがてロンバルディア家に辿り着く。廃墟の多い廞杭町の一角にあるということで、ロンバルディア家も寂れた印象のある邸宅だった。
「ここがロンバルディア家ですか」
と、ロンバルクイナが呟く。「時の流れは残酷ですね。ここまで衰退するとは」
昔のロンバルディア家のことを、俺は知らないが、彼が言うには衰退したようである。吸血鬼がこの世界で生き残っていくのは、少し難しいのかもしれない。
アウグスト家だって、名家ではあるのだろうけれど、それほど大きな家ではないし、何しろ、吸血鬼は夜しか動けない。人間に比べると、この辺の機動力は見劣りしてしまう。
ロンバルディア家の大きなトビラをノックすると、中から使用人である初老の男性が置現れた。彼にはElzaから事情が話された。初老の使用人は話を聞くなり、すぐに視線をロンバルクイナに向けて、目を見開いた。
「ロンバルクイナ様でいらっしゃいますか?」
と、初老の執事は言う。
それを受け、ロンバルクイナは答える。
「そうだ。久しぶりだ。曙」
どうやら、この執事の名は曙と言うらしい。
曙は懐かしそうな顔を作ると、次のように語った。
「ロンバルディア家は変わりました。いいえ、衰退したと言っても良いでしょう。ロンバルクイナ様が消えてしまったからです」
少しだけ非難するような響きが感じられる。
「私が消えたからか……」
と、ロンバルクイナは物思いにふける。昔を思い出しているように感じられる。ロンバルディア家の衰退は、このロンバルクイナの失踪にあるようだ。だけど、このロンバルクイナは俺の中にいたんだ。俺が生まれてからずっといるのだろうか? だけどロンバルクイナが生きていた時代は一〇〇年前だ。俺は当然だけど生まれてはいない。そんな時代背景があるのに、どこでロンバルクイナは俺の体内に紛れ込んだろうか?
「一つ良いかしら?」
と、Elzaがロンバルクイナに向かって尋ねた。
スッと、視線をエルザに向けるロンバルクイナ。その表情はどこか苦しげに見えた。
「何かね?」
「あなたはいつ、轆轤川の体内に紛れ込んだの?」
「私はね、大いなる野望を止めようとしたんだ。その結果、人間の中に閉じ込められることになった。その時、轆轤川の家系の誰かに紛れ込んだのだろう。そして、精神だけが浮遊し、轆轤川進の代で初めて体に定着したのだ。一〇〇年以上の時を経てね」
「轆轤川は選ばれたの? それとも偶然?」
「分からぬ。大いなる野望で、なぜ轆轤川という人間が現れたのかは不明だ。しかし、何らかの理由があるのだろう。大いなる野望を知っていた可能性は高い」
そんな馬鹿な……。
俺の家系は一般的な家庭だ。何も『大いなる野望』とか『吸血鬼』とかそんな意味の分からないものからは最も遠いはずなのに、なぜ巻き込まれているのか? 俺にはそれが理解できなかった。
「轆轤川に家系に何かあるのか……」
と、Elzaは自分に言い聞かせるように言った。
とはいうものの、俺には何も分からない。俺の家系は普通だし、何かあるとは思えない。きっとただ単に巻き込まれただけなんだろう。それしか考えられない。
「Elzaさん。俺の家は普通ですよ」
と、俺は声を絞り出しながら言った。
Elzaはキリッとして瞳で俺を見つめると、顎に人差し指を置きながら、声を発した。
「それは分かっているわ。あなたの家は普通のはず。それは既に調べてあるから安心しなさい。でもね、事実悪魔があなたの中には棲んでいる。これには理由があるのよ」
「どんな理由ですか?」
「ミステリね。一般的な家庭が悪魔憑きに巻き込まれる理由。それが分かれば苦労はしないけれど、悪魔憑きによってあなたの家庭はロンバルディア家と繋がりが生まれた。それは間違いないと思うわ」
「でも、俺は良く分かりませんよ。普通の家なのに、悪魔憑きとか、そんな馬鹿みたいな経験をしているはずがない」
「調査してみる必要がある」
「調査ですか?」
「そう。実はあなたがミステールであると分かって、一度調査をしたのよ。その時は特に変な理由は出てこなかった。不意にミステールは生まれるケースがあるから、家系が一般的であっても問題はないの。だけど、今回は少し事情が違うからねぇ。あなたの家庭とロンバルディア家を繋ぐ秘密を探りましょう」
こうして、俺は自分の家系の秘密に迫ることになる。
自分の家系を知るのは、余程のことがなければありえないだろう。普通に生きていて、自分の家系を調べるなんてもの好きは中々いない。だけど、俺は今調べる必要がある。だから、こうして、俺はElzaと二人、廞杭町にある父方の実家へ足を向けた。ここに来るのは、もう一〇年ぶりくらいになる。祖父と父は仲が悪く、あまり交流を持たない。だから俺もある時を境に、祖父とは会わなくなった。
それから、一〇年以上の時が流れた。
今でも祖父は健在だ。八〇歳を過ぎているが、老人ホームに入ることなく、自分で自分の生活を守っている。恐るべき忍耐力と精神力、そして体力を持つ老人だ。
祖父には事前にアポを取っていた。俺が家系のことで知りたいのだというと、快く話を聞くと言ってくれたのである。だから俺とElzaはこうして廞杭町の祖父の自宅へ向かっている。
祖父の家には築五〇年は経っている平屋であり、かなり痛んでいる。廞杭町には廃墟が多いから、幾分か町の雰囲気にマッチしている。
俺の祖父の名前は轆轤川鴈滋。彼は俺の父が幼い頃に妻を亡くし、男手一つで父を育ててきた。だが、その影響もあり、父の中は悪く、歳を重ねるごとに関係は悪化してしまった。その結果、現在では絶縁状態にあり、今では一人で余生を暮らしている。
俺が朽ち果てた家のトビラをノックすると、鴈滋はゆっくりと姿を現した。
玄関のそばの置いてある棚には、この家にはふさわしくない西洋のアンティークドールが一体置かれていた。球体間接でできた人形で、恐らく一三〇㎝近くの大きさはあるだろう。
それに祖父、鴈滋は八〇歳にしては白髪が少ない印象があるが、やはり、老人の体つきをしている。腰はまがり、顔には無数のしわが入っている。
「進か……。しばらく見ないうちに大きくなったね。もう、大きくなった何て言わないか。立派な大人だものな」
「おじいさんこそ元気そうで何よりだよ」
と、俺は言った。
「元気か……。まぁはたから見ればそうかもしれないな」
と、意味深なセリフを吐く鴈滋。
何となく訝しい印象を持ったけれど、俺は特に突っ込んで聞かなかった。ただ、Elzaだけが横目で俺たちの会話をじっと聞いていた。
「それで進。家系のことで何か聞きたいとの話だったが、何があったんだい?」
さて、悪魔憑きの件を説明するべきなんだろうか?
俺がどう会話を進めていくか迷っていると、隣経っていたElzaが口を挟んできた。
「鴈滋さん。似鳥町で引き起こされた悪魔憑きの事件を知っていますか?」
悪魔憑きの事件。
そのフレーズを聞き、鴈滋の体は明らかに硬直した。
「悪魔憑きか……。知っておるよ。ニュースになったからねぇ」
「なら話は早いです。実は、その悪魔憑きの事件と、轆轤川家は何らかのつながりがあります。そして、あなたは何か知っているんじゃないのですか?」
「あなたが何を言っているのか。私には良く分かりませんな」
「入口にあったドールを見ました。あれをどこで?」
「もう昔の話ですよ。昔から家にあるものなんです」
「昔からですか? 轆轤川。あなたには記憶がある?」
と、唐突に俺は問われ、面を食らった。
こんな人形は昔もあっただろうか? あまり記憶に残っていない。だけど、こんな大きな球体間接人形があるのならば、普通は記憶に残るはずだ。
「記憶消去……。あなたはエヴァン・サングリーノなのではないですか?」
鴈滋は止まった。
俺の祖父がエヴァン・サングリーノだと……。ミステールという能力者を従える異形の者。
本当にそんな……。
俺は開いた口が塞がらず、ただ黙って鴈滋を見つめていた。
「なるほど。それを知っておるのか。ならば、隠しておく必要はないね」
俺は慌てて鴈滋に向かって言った。
「おじいさん。どういうことなの?」
「そこのお嬢さんが言った通りさ。私はね、普通の人間じゃない。エヴァン・サングリーノという特殊な力を持った人間なんじゃよ」
「いつの間にそんな人間になったんだよ?」
「もう、ずっと前の話さ」
昔から、鴈滋はエヴァン・サングリーノであった。この事実を俺はまったく知らずに日々を過ごしていたのである。
鴈滋はゆっくりと頷くと、俺とElzaを交互に見渡すと、次のように声を重ねた。
「私がこの人形を引き継いだ時、能力に目覚めたのだよ。この人形にはそれだけの力あるのだから」
それを聞き、俺はElzaに向かって尋ねる。
「Elzaさん。可能なんですか? 人形で超能力が芽生えるなんてことは」
「人形に秘密があるのね。これは特殊な力が働いている人形で、そばにいる人間に力を宿すきっかけを与えてくれるのよ。だから鴈滋さんがこの人形によって能力を得たのは間違いないと思う」
「そ、そうなんですか……」
そうすると、鴈滋が俺に質問を飛ばした。
「進。なぜ、お前さんはエヴァン・サングリーノを知っているのかね?」
「ここにいるElzaさんはエヴァン・サングリーノなんだよ。そして俺はミステール。彼女がいるから俺は特殊な力を使えるんだ」
「そうか。進がミステール。それは意外だよ。だが、この人形がある限り、それも可能なんだろう。お前さんがミステールになったとしてもね」
「あの人形。一体何なのさ?」
と、俺は尋ねる。
鴈滋は何度か目を瞬くと、次のように言った。
「言ったろう。持っている人間に特殊な力を与える人形なんだ。あれのおかげで俺はエヴァン・サングリーノになったのだから」
「おじいさんのミステールは今どこにいるの?」
「今、私は誰とも契約はしておらんよ。その昔、三人の人間と契約したが、皆亡くなってしまった」
「な、亡くなった? ど、どうしてさ」
「戦闘によりね……。例の悪魔憑きにも関係してくる。似鳥町の悪魔憑き事件、実はあれは始まりの事件ではない。もっと昔から事件は存在していたのだよ」
鴈滋は淡々と語る。
思い出が徐々に溢れ出てきて、鴈滋を苦しめているようにも見える。
「昔、といっても五〇年程前の話になるが、この廞杭町でも悪魔憑きの事件が起きたんだよ。その際、調査に乗り出していたのが私だ。三人のミステールを従え、私は調査に乗り出したんだ」
それは意外な告白であった。
俺が知らない祖父の一面が、垣間見えたような気がする。エヴァン・サングリーノとして廞杭町で戦っていた祖父。しかし、その結果ミステールを失ってしまったのだ。きっと心に大きな衝撃を覚えたことだろう。それくらい、心のダメージは大きいような気がするのだ。
「調査に出てどうなったの?」
と、俺は尋ねた。
例の悪魔憑き事件には、浄瑠璃梨々花という人形師が関係している。けれど、梨々花は五〇年前にはいないはずだ。となると、廞杭町で発生した悪魔憑き事件は浄瑠璃によって引き起こされたものではない。
五〇年前に暗躍していたのは、果たして誰なのだろうか?
俺はじっと考えるが、答えは出ない。
では、Elzaはどうか? 彼女は若い外見をしているが、実はかなり歳を取っている一〇〇年前の大いなる野望の時代にも生きていたのだから、五〇年前の悪魔憑きの事件にもなにかしらの情報を持っている可能性は高い。
「Elzaさん。何か知っていますか?」
と、俺はElzaに答えを求めた。
Elzaはにっこりと微笑みを浮かべると、俺に向かって言った。
「確かに五〇年前に廞杭町では悪魔憑きの事件が起きているわ」
「Elzaさんは関係しているんですか?」
「私は直接的には関係していない。だけど、その事件の概略なら説明できるわ」
「教えてください」
「浄瑠璃茉莉花。これは浄瑠璃一族の人形師の名前だけど、彼女が引き起こした悪魔憑き事件なのよ」
「浄瑠璃茉莉花?」
「そう、浄瑠璃梨々花の師匠みたいなものね。当時の人形遣い。そして、エヴァン・サングリーノでもあるわ。そこであなたのおじいさんの鴈滋さんと対決をしたってわけ。鴈滋さん。対決の理由はきっと悪魔憑きを止める理由ではないのですか?」
と、Elzaは鴈滋に向かってそのように言った。
鴈滋は黙って頷くと、少しの間を置いた後、声を出した。
「いかにもその通りだ。私は、浄瑠璃茉莉花を止めるため、戦ったのだが、結果は上手くいかなかった」
「だけど、浄瑠璃一族である茉莉花の野望は止められた。それはなぜですか?」
「簡単な話だよ。私は悪魔と契約したんだ。悪魔を捉えるには、こちらが悪魔にならなければならない。そんな背景があり、私は悪魔と契約し、その結果、浄瑠璃茉莉花を食止められたんだ」
「なるほど、繋がったわね」
と、Elzaは神妙に頷きながらそう言った。
果たして、何が繋がったのであろうか?
俺が考えを巡らせていると、Elzaが俺に向かって言った。
「あなたに悪魔が入り込んだのは、鴈滋さんが悪魔契約したからなのよ」
「おじいさんが?」
「そう、おじいさんの体内に宿った悪魔の想念が、時代を経て、隔世遺伝であなたの体に飛び込んできた。だから、轆轤川。あなたは特殊な力に芽生えることになったのよ」
一体、悪魔憑きの事件には何が隠されているのだろう。
似鳥町で起きた悪魔憑き事件。
廞杭町で起きた悪魔憑き事件。
二つの事件は元をたどると同じきっかけにより発生している。
それを紐解いていくのが大切であろう。そうすれば、俺に宿ったミステールの謎が解けるかもしれないのだから。
「俺はどうしたら良いんですか?」
と、俺はElzaに問いただした。
Elzaは俺を見据え答える。
「今まで通りで良いのよ」
「だけど、俺はこのままではダメだと思うんです。俺の中に潜むあの悪魔。ロンバルクイナを成仏させる必要があるんじゃないですか?」
「ロンバルクイナを止めるのは賛成ね。だけど。それはまだよ。彼にはまだ話をきかなくちゃならないから」
「話……。ですか」
と、俺はゆっくりと息を吐きながら言った。「ここでロンバルクイナを出しますか?」
ロンバルクイナは俺の体内にいる。
呼び出すことは可能だろう。
だけど、今することが正しいのかは分からない。
「今はまだいいでしょう。もう少し、鴈滋さんの話を聞きましょう。それから考えても遅くはない」
「そうですね」
俺がそう言うと、鴈滋が声を出した。
「進。お前の中にも悪魔がいるのだね?」
「そうなるね」
「私の所為だ。謝ろう」
鴈滋は丁寧に頭を下げる。
そんな風にして謝られると、どこか申し訳なくなる。
「ロンバルクイナをここに出してくれないかね」
「どうしてですか?」
と、Elzaが尋ねる。
確かにここでロンバルクイナを顕現させることはマイナス面が多いように感じられる。だけど、鴈滋がこう言っているのだ。反故にはできないだろう。
Elzaは俺の方を向くと、そして俺の肩に手を乗せた。
「ロンバルクイナを顕現させるわ」
「分かりました」
Elzaは床に魔法陣を書き記し、そして、呪文を唱える。
すると、たちまち辺りが神妙な空気に包まれて、いかにも悪魔が出てくるという雰囲気になる。
数秒の間があった後、ロンバルクイナが俺の体が湧き出てくる。
それを黙って見つめている鴈滋。
何を考えるのだろうか?
「再び、この世に呼ぶのは誰だ?」
と、ロンバルクイナは言った。
それを受け、Elzaが速やかに答えた。
「あなたを呼びだしたのには理由があるの」
「理由だと?」
「そう。この老人に心当たりはない?」
Elzaは鴈滋をロンバルクイナに紹介する。
鴈滋は黙ったまま、ロンバルクイナを見つめている。
懐かしいというよりも、驚いたような顔をしている。
「お、お前がロンバルクイナか? ロンバルディア家の末裔……」
と、鴈滋は言った。
すると、ロンバルクイナは鴈滋を見定めながら答える。
「そうだ。お前は轆轤川鴈滋だな。よく覚えている」
「私が悪魔憑きの事件を解決するために、悪魔と契約したんだ。その所為で、進の体に悪魔化が発生してしまった。これは何とかして直さなければならない。ロンバルクイナ。お前には協力してもらいたい」
「余に協力だと?」
「そうだ。進の悪魔化を解除してもらいたいんだよ」
「それはできぬよ」
と、ロンバルクイナは嫌にあっさりと告げた。
「なぜできない?」
「轆轤川進の悪魔は、既に余の手を離れている。今更どうにもならんのだよ」
「そんなことが」
俺は何となく、その答えが分かっていた。
俺は悪魔化しているのかもしれないけれど、アカシックレコードにアクセスする力を持っている。
その力が不意に消えるとはどうしても思えないのだ。
いや、この能力は消えてはいけない。
これからも使う必要がある。
だから……。
俺は鴈滋の方を向き、そして取り成すように告げた。
「おじいさん。俺なら大丈夫さ。悪魔化したとしても、問題なく生きていける。今重要なのは、俺ではなくおじいさんをどうするかだよ」
「進……」
感慨深そうに鴈滋は言う。
鴈滋を救うために何ができるのか? 俺はそれだけを考えていた。とにかく、今は自分よりも鴈滋を優先して考えるべきだと、俺は感じていた。
「鴈滋さんを救いましょう」
と、Elzaは言った。
そして、床に魔法陣を書き始める。俺の中に棲む、ロンバルクイナを顕現させた時と同様、魔法陣によって、鴈滋の体内を浄化させるのであろう。
Elzaは鴈滋を魔法陣の中に立たせる。
鴈滋は魔法陣の中に立つと、ゆっくりと目を閉じた。それを見たElzaが呪文を唱え、鴈滋の体内を浄化させた。これで鴈滋は元の人間に戻ることになるだろう。
「この人形はもらっていきます」
と、Elzaは人形を手に取り、そのように告げた。
鴈滋は特に何も言わず、肯定の意思を示した。
この人形さえなければ、鴈滋は二度と、悪魔に苛まれることはないだろう。これですべては終わったのだ。
しかし、残っていることもある。
それはもちろん進だ。
彼の能力であるアカシックレコードにアクセスする力は健在である。この力はなんとしても守り抜いて行かなければならない。
Elzaと俺はアウグスト家に戻って来た。
Elzaの腕には人形が抱かれ、彼女はそれを部屋に持ち込み、人形の除霊を開始した。この人形には魂が宿っている。そう察したのである。
この人形には魂が宿っている。
それこそ、浄瑠璃茉莉花が生前に残したものであろう。
俺はElzaが人形から魂を抜いている姿を黙って見つめていた。
Elzaは素早く人形から魂を抜くと、その魂を自分の胸に押し当てると、魂がエルザの体内に押し込まれていった。
魂と肉体の融合。
Elzaはそれを可能にしたのである。
俺はその姿を見ていて、Elzaにはまだ隠された力があるのではないかと察していた。そうでなければ……。
いや、今はElzaなのか?
それともエルザなのか?
まだ俺の知らない、第三人格なのか?
その辺のことは判断できないけれど、Elzaは確かに人形の魂を取り込んだ。
それはもう間違いがない。
「Elzaさん。大丈夫ですか?」
と、俺はElzaの背中越しにそのように声をかけた。
Elzaはしばらくの間まどろんでいたが、やがて目を見開くと、俺の方を向き、笑顔になって言った。
「初めましてね……。君に会うのは」
初めまして?
なぜそんなことを言うんだろう。
俺とElzaはもう何度も会っている、決して初めての間柄ではないのだ。なのに、このElzaは俺に会うのが初めてだと言っている。
考えるのはただ一つ。
そう。
このElzaはまだ俺の知らない人格なのだ。
つまり、第三人格。Elzaの中に隠された、新しい人格なのかもしれない。