ヴァンパイアの秘密
それは星の綺麗な夜だった。夏の蒸し暑い風の中、俺は夜道を歩いていた。歩き慣れた公園が目の前に広がる。やることは特にない。ただ、なんとなくこの公園に来たくなり、足を運んだだけだ。時刻は午後一〇時。公園内はひっそりとしている。点々と設置されているベンチには誰も座っていない。俺は自動販売機で缶コーヒーを買い、それを飲みながらベンチに座る。ただ、黙って星を見上げていた。普段、こんな風にして星を見る機会はない。ほとんど素通りだ。だから、今日こうしてゆっくりと星を見るという行為に、俺は心のどこかで感謝していた。今、俺は宇宙の暇人だからこんな風にして星を見上げられるのだ。なぜ、宇宙の暇人か。俺は今、二〇歳の青年だ。高校を卒業した後、一応それなりの大学へ進学したが、嫌になって数か月前に退学していた。それからは近所のスーパーでアルバイトをしていたのだが、こちらも辞めてしまっていた。つまり、今風な言葉を使えば、俺は今『ニート』というわけだ。この境遇は結構辛い。自分の所属先がないというのは、基本真面目な性分な俺を随分と苦しめていく。だけど、自分ではどうしようもない。
何がしたいのか? 正直な話、それは分からない。何もしたくないとっても過言ではないだろう。でも、心の片隅では今の状況を変えたいとも思っている。けれど、どうして良いのかが分からないのだ。分からないから悩む。いつの間にか、俺は日中外に出られなくなった。外に出るのは、決まって夜も更けた午後一〇時以降だ。この時間帯を過ぎれば、俺の近所はたいてい静まり返る。都心から結構距離があるから、辺りは閑静な住宅地と、自然の溢れる山があるくらいだ。それに現在は、あまり人が外を出歩かない理由がある。その理由とは何か? 俺は持っていたスマートフォンで、とあるニュースを表示させる。
『似鳥町連続怪奇殺人事件』
俺が住む似鳥町という町では、現在こんな風な物騒な事件が頻発して起こっている。連続で殺人事件が起きているのだ。怪奇と名付けられているのは、被害者の血が吸い取られているからである。皆、血を吸い取られ、干からびた状態で発見されているのだ。現在は梅雨も明け、夏本番を迎えた七月の下旬。七月に入り、既に三名の人間が血を吸い取られて殺されている。ワイドショーでは『怪奇事件』や『吸血事件』として紹介され、お茶の間を席巻しているニュースとなっているのだ。
俺は別にこのニュースに興味があったわけじゃない。ただ、この殺人鬼によって、殺されても、それはそれで良いのかな? と、不謹慎な考えを持っていたのだ。どうせ、人生は上手くいかない。人生は甘くないと、俺の家族は良く言う。確かにそうかもしれない。人生は上手くいかないから人生なんだ。だけど、上手くいかないから、あえて挑戦する気合を奪い取られているような気もする。どうせ上手くいかない。甘くないからやらない。そんな気がするのだ。俺はこのままでいいのだろうか? 行く当てもなく、ただ宇宙の暇人としてニートを続けている。俺の両親は若くして結婚し、俺を育ててくれたから、当分この先も現役で働き続ける。父も母も共働きだから、俺の生活が困窮するわけではないだろう。でも、どこか情けない。もう二〇歳だ。世間の二〇歳はまだまだ子供かもしれないけれど、学生じゃなくなった今、俺は自分の生活費くらいは自分で稼ぎたいと考えている。なのに、それができない。悔しいくらいに俺を苦しめる。
夏の生温かい風が、俺の頬を打った。公園には草木が生い茂り、青々とした香りを運んでくる。既に一〇時を過ぎているというのに、気温は二十五度以上あるだろう。温暖化の余波がこんな田舎の似鳥町まで染み渡っている。この常軌を逸した暑さは、精神的に追い詰められている俺をより一層疲弊させてしまった。缶コーヒーを飲み切る。それでもまだ喉は乾いている。
その時だった。俺の視界にある人物が映り込んだ。身長二メートルに迫る大男が、こちらに向かって歩いてくる。その大男は図体のでかさよりも多くの問題を抱えていた。まず、問題として挙げられるのは、こんな真夏だというのに、スーツに身を包んでいることだ。それも通常のスーツではない。いわゆる執事服というものだろう。次の問題、それは顔面に大きな切り傷があることだ。あれは通常の喧嘩で付くような傷ではない。額から頬にかけて、えぐられたような傷があり、皮膚が引きつっている。歳はどのくらいだろうか? 傷跡があるから、歳を食っているように見えるが、恐らく四〇歳くらいであろう。確実に俺よりは年上だ。大男は着実に俺に向かって歩みを進め、あろうことが、俺の前で立ち止まった。俺は緊張する。もしかしたら世間を騒がせている殺人鬼か? そんな得体の知れない恐怖が身を包む。先ほどまで殺人鬼に殺されても良いと思っていが、いざ、殺人鬼らしい男に遭遇すると、その意志は簡単に挫けてしまった。殺されたくない。その思いがとめどなく心の中に広がっていく。俺は大男を見上げる。背後に顔を出している月が、大男の顔を照らし出し、奇妙な影を作っている。例の大きな傷跡が、不気味に光って見え、俺を一層恐怖に陥れた。
「な、なんですか?」
と、俺は勇気を振り絞って、大男に向かって尋ねた。大男は直ぐには答えずに、俺を凝視している。本当に殺人鬼だったら、俺はここで死ぬだろう。きっと血を吸い取られて……。恐怖はある。そして緊張も。大男は無表情のまま、俺を見下げ、独特の沈黙を保っている。良く見ると、日本人離れした容姿をしている。顔の堀は深く、どちらかというと西洋人の香りがする。
「ここで何をしている?」
大男は言った。声は重鎮で低く響いている。一応日本語は喋れるようだ。俺は少しだけ安心する。
「何って特に理由はありませんよ。ただ、行く当てがないからここにいるんです」
「君はニュースを見ないのかね?」
「ニュースですか?」
「そうだ。最近界隈を騒がせている怪奇殺人事件。似鳥町に住む人間なら、誰だって知っているだろう」
「それはまぁ、知っていますけど……」
「怖くないのか?」
怖いか? そう問われれば、恐怖はあると答えるしかないだろう。だけど、俺は今まで死んでもいいと思っていた。だから、普通の人に比べれば恐怖は少なかったかもしれない。俺はどこか異常者なのかもしれない。自分でそんな風に考え、俺は皮肉に満ちた笑みを浮かべた。その様子を黙って見つめていた大男は、しばしの間を取った後、興味深そうに口を開いた。
「何かあるようだな。話してみろ」
俺は缶コーヒーの缶を固く握りしめる。スチール缶だから、細腕の俺の力では容易に潰れてくれない。
「話すと言っても面白い話ではないですよ。俺、ニートなんですよ。何もしていないんです。だから社会のハグレ者ですよ。それで、いつ死んでもいいかなって思っていて……。あれ、俺何言っているだろう。あなたとは初めて会うのに、どこかで会ったような気がしますね」
「自分の居場所が欲しいのか?」
「まぁ、欲しいですね。居場所と言うよりも、働く場所と言った方が正しいかもしれませんが」
「私がその場所を提供しよう」
「会社でも経営しているんですか?」
「否、私はとある貴族の末裔の執事をしている」
貴族? 俺は話についていけなかった。この日本で貴族なんていう存在がいる事実を信じられなかった。だけど広い世の中だ。貴族がいても不思議ではないのかもしれない。
「アウグスト家を知っているか?」
アウグスト家? 俺は全く心当たりがなかった。少なくとも日本の家系ではないのかもしれない。
「知りません。この近くに住んでいるんですか?」
「似鳥山の麓に屋敷がある。そこで暮らしているのだ」
似鳥町には小さいが似鳥山という山が存在する。小さい山だから一時間ほど登るだけで、山頂に辿り着ける。俺も小学生の頃の遠足で何度か上った経験がある。似鳥町は小さな町だから、噂が広がるのは早い。似鳥山の麓に大きな屋敷ができて、そこで暮らしている人間がいるのを俺は聞いたことがあった。その屋敷の執事をしているのが、この大男なのだそうだ。第一、通常の自宅には執事なんてものはいない。余程の富豪であっても、執事なんて雇わないだろう。日本の家庭は狭いし、執事なんていなくても、ある程度生活を保っていける。好き好んで執事を雇う必要はどこにもない。しかし、例のアウグスト家は違うようである。この顔に大きな傷跡のある大男を執事として雇い、似鳥山の麓で生活をしている。そもそもこのお屋敷には不穏な噂があった。その噂とは、得体が知れないということだ。大きな屋敷なのではあるが、何をしているのか分からない。中で暮らしている人間の姿を、似鳥町の人々はほとんど見たことがないのだ。だから、本当に人が住んでいるのか怪しいと、陰で噂されている。俺の両親もいつだったかの夕食の席で、そんな話をしていたではないか。
「あの屋敷。人が暮らしていたんですね」
と、俺は言った。対する大男は口角を押し上げ、不気味な笑みを浮かべた。
「もちろん住んでいる。実は最近、執事の一人が辞めてね。代わりを探しているんだ。どうせ新しい執事を雇うのなら、若い人間が良いだろうというのが、我が主の切実な希望だ。お主はその条件に合致している。どうだ? アウグスト家に来てみないか?」
仕事が決まるのは嬉しい。しかし、得体の知れないお屋敷での執事になるのは、どうなんだろうか? 俺は自分の中で考えを進める。どうせ、このまま過ごしていても何も変わらないだろう。それならば、この状況を変えるのが大切なのではないか? 俺はそう考える。執事の経験はまるでないが、ある程度社会性は培われるだろう。
「お、俺で良いんですか? その自慢じゃないですけど、マナーとか知らないし、執事としてやっていけるか分かりません」
俺は言った。しかし、大男は特に不満そうな顔はしなかった。
「問題はない。お主にはやってもらいたい仕事がある」
「やってもらいたい仕事ですか?」
「うむ。しかし、それは屋敷に到着してから話すとしよう。これから時間はあるかね?」
「これから行くんですか?」
既に時刻は午後一〇時半を回っている。仕事の面接をする時間としては、些か遅すぎる。
「そうだ。話は早い方が良いからな。……」
不意に大男の言葉が止まった。僕はなぜ急に沈黙したのか分からなった。ただ、不穏な空気は感じる。刺すような独特の空気が発生したのである。
「屋敷に行く前に、一仕事する必要があるようだな」
と、大男は言った。そして、俺の背後に向かって指を差した。俺は無言で振り返る。大男が指差した先には、黒いローブを纏った奇妙な人間が一人立っていた。なんなのだ、あのコスプレじみた格好は? しいて言えば中世の魔術師のような風体である。こんな容姿で歩けばそれだけでかなり目立つだろう。
「少年、私の後ろに下がっていろ……」
威圧するような大男の声。僕はその言葉に従った。ベンチから立ち上がり、大男の後ろに隠れるように進んだ。
「グググ……ガァァ……」
声にならない嗚咽を、ローブの人間が放った。否、これはもう人間と言うよりも、物の怪の類である。真っ当な人間ではないことは、どんなに鈍感な人間でも分かるだろう。
次の瞬間。ローブの人間が恐ろしいスピードで襲い掛かって来た。ローブの隙間から、右腕に握られた鋭利なナイフが見える。銀色に光るナイフ。まさかこいつが例の怪奇殺人の犯人なのか? 俺は堪らず恐怖に身を縮ませた。大男は武器を持っていない。素手で応戦するのだろうか? いかに屈強な肉体を持っているからと言っても、丸腰の状態で戦闘に勝てるのだろうか? この大男がやられてしまったら、次の標的になるのは、俺自身かもしれない。今日、俺は本当に死ぬのだろうか? 俺がそんな風に考えた時、大男は何やら呪文を唱えた。呪文を短く詠唱すると大男の手先から炎が生まれた。炎をローブの男を包み込み、焼いていく。辺りに肉の焦げたような臭いが充満し、俺の鼻を鈍らせていく。一体、何が起きているのだろう。俺はただ、じっと戦闘を見つめていた。焼かれたローブの男は「グガァァァ」と、言葉にならない嗚咽を漏らしている。
「どうした? 苦しみ足りないのか?」
まるで拷問するかのように大男は言ってのける。再び呪文を唱え、手先に炎の塊を作る。ローブの男は焼けているものの、全くダメージを受けていないようで、叫び声をあげているが、再び大男にむかって襲い掛かった。火ダルマと化したローブの男は焼けた体ごと大男に突っ込み、大男を焼いていく。しかし、大男の体はダメージを受けなかった。不思議なオーラで守られているかのように、ローブの男の突進を食い止める。
勝負は完全に大男の方に分があるようだ。それでも油断はできない。大男は魔法でローブの男を封じ込めている。
「誰の命令だ?」
と、大男は尋ねる。しかし、ローブの男はそれに答えない。というよりも言葉が通じているのかさえ怪しい。
「オートウィズか、どこかで操作している人間がいるな」
大男はそのように分析する。この近くにまだ誰か敵がいる可能性が高いようである。それはどこにいるのか? 俺は咄嗟に辺りを見渡す。
「とりあえずはこの男を始末するか……」
大男はそのように呟くと、炎を高らかに顕現させ、ローブの男を完全に焼いた。
「グギャァァァ」
ローブの男は悲鳴を上げると、炎に焼かれ、完全に絶命した。
戦闘が終わると、大男は俺に向かって言った。声は神妙で低い響きがある。
「大丈夫か?」
「大丈夫です。でも一体、何者なんですか。あのローブの男は?」
「敵は分かっている。恐らく……」
と、大男がそう言いかけた時、前方の木陰から人影が現れた。ゆらゆらとしている影のような人物は、ゆっくりと俺たちの前に足を進める。忽ち、緊張感の空気が流れる。
「奴が本体か?」
と、大男は言ってのける。影のような男は俺たちの前に足を進めると、声を出した。
「僕の使い魔が形無しだね」
「貴様、何者だ?」
「名乗るなら、まずは自分から名乗ったらどうだい?」
と、影のような男は言う。けれど、大男は答えなかった。ただ黙って状況を見つめている。
「いや、知ってるよ。式神。それが君の名だ」
大男はどうやら式神をというらしい。式神はそう言われ、少しだけど驚いた顔を見せている。
「そう言う貴様は我がアウグスト家の敵だな」
「アウグスト家……。そうかもしれないね。僕はここで君を倒さなくちゃならない。それが僕の役目だからね。悪いけど死んでもらうよ」
冷淡に言う影の男。こいつは一体何者なんだろうか? 式神は手を伸ばし、呪文を唱えようとしている。
「無駄だよ。お前の呪文をすべて見切った。炎の使い手よ。もうお前に勝機はないだろう」
影の男はそう言うと、同じように呪文を唱えた。
「アイスバーン。氷の兵隊を作ろう。式神、覚悟するんだ」
陰の男が素早く呪文を詠唱する。すると、忽ち数体の魔法人形が顕現される。それは氷でできていて、白い冷気を放っている。この暑い空間の中で、氷の兵隊は些か都合が悪いような気がするが、それほど影の男は劣勢さを感じさせない。ただ、氷の兵隊を式神に向かって放った。もちろん、式神は応戦する。直ぐに炎を呼び覚まし、氷の兵隊を溶かしていくが、氷の兵隊は炎を包み込むと、やがて吸収してしまった。炎は氷の兵隊の前では手も足も出ない。それが今こうして判明してしまった。俺は先ほどとは一変し、劣勢状態になった式神の背中を一心に見つめた。
「し、式神さん……。大丈夫なの?」
「……」
式神は答えない。それでも完全な劣勢な中、彼はそれほど慌てているようには思えなかった。何故だろう。俺が考えていると、式神は次のように言った。
「少年、協力してもらうぞ」
「協力?」
「主が力を宿すミステールだということは既に判明している。それを使わせてもらおう」
言っている意味が分からなかった。ミステールというのはどういう意味なんだろうか? それに俺に特殊な力があるというのは本当なのか? 何もかもが分からない。俺は迫りくる氷の兵隊を前にして、ただ体をがちがちと震わせていた。
「へぇ。そっちの少年はミステールなのか? なら、君も始末し、その力をいただこうとするか」
「そうはさせぬ。少年、私のそばへ来い」
式神の言う通り、俺は素早く彼のそばに寄った。すると、式神は俺の手を固く握りしめた。炎を使っているから、それはかなり熱く感じられる。大きな熱を感じていると、式神は次ように呪文を唱えた。
「エル・ラルゴ・スミステス……。大いなる意志よ。彼の力を呼び覚ましたまえ」
次の瞬間、俺の体に何かが流れていくような感覚が走った。しいて言えば、冷水が血管の中を迸るような感覚である。忽ち体に力漲ってくる。何が起こっているのだろう。何となくだけど、負ける気がしない。大量のドラッグを打たれ、精神が肉体を凌駕しているような気分だ。
「念じろ。少年……」
言われるままに、俺は念じた。
心の中のトビラが、ゆっくりと押し開かれていく。真っ暗な空間に、俺は一人立っていた。けれど、視線の先に一点のか細い明かりが広がっているのが分かった。その明かりの方へ俺は進んでいく。戦闘はどうなっているんだろう。あの氷の兵隊は、俺を襲っているのだろうか? そんな風に考えながら、俺は先に進む。そしてやがて明かりが放たれている場所に躍り出る。そこには巨大な鉄の塊のようなものがあり、煌々と光を放っている。そのそばに、一人の少女が立っている。誰だろう? 見たことのない少女だ。大きなサイクリングの用のヘルメットのようなものをかぶり、俺を見つめている。見た目の印象は完全に幼児だ。まだ一〇歳程度だろう。しかし、俺を驚かせたのは、その少女が恐ろしいまでの美少女だったということだろう。白い髪に透き通るような透明感のある肌。西洋のアンティークドールがそのまま飛び出してきたかのように錯覚させる。存在自体がスキャンダラスな印象がある。少女は俺を見るなり、次のよう言った。
「ようこそ。アカシックレコードヘ……」
アカシックレコード……。
俺はその単語に心当たりがなかった。オートウィズ、ミステール、そしてアカシックレコード。次から次へと発生する専門用語の嵐に、俺の頭はパンク寸前であった。しかし、この少女が、今の切羽詰まった劣勢状態を上手く解決してくれるのではないかという、小さな希望はあった。それは恐らく正しい。根拠はまるでないのだけれど、俺はそんな気がしていた。
「アカシックレコードって何?」
と、俺は尋ねる。少女はにっこりと微笑むと、目の前にホログラムを発生させ、そこに何やら打ち込んでいく。すると、巨大な鉄の塊がうおーんと大きな音をあげ、まるで映写機のように変化した。映写機のようになった鉄の塊から、映像が流れていく。宙に映った映像。そこには式神と影のような男が映り込んでいた。影のような男が式神に襲い掛かり、それを式神が懸命に耐えている。
「式神と髑髏畑魁江の戦闘です」
「髑髏畑魁江?」
「そう。あなたが影の男と認識している男の名前よ」
「君は彼を知っているの?」
「いいえ。違います。あなたがアカシックレコードにアクセスしたから、判明したのよ」
「それは一体何なの?」
「アカシックレコードは、この世のすべての記憶が集約されているデータバンクです。あなたはそれに自在にアクセスできる。そのような力があります」
「俺はどうしたら良いの?」
「あなたは式神を救いたいと考えている。それならばアカシックレコードに集約されている記憶にアクセスし、それを改ざんさせるのです」
まるで言っている意味が分からなかった。だが、戦闘を有利に進めるためには、このアカシックレコードとやらの概念に触れる必要があるようだ。俺は何とか状況を理解しようと躍起になった。
「どうしたら、アカシックレコードにアクセスできるの?」
「契約しましょう。私と……」
「契約?」
契約とは一体どういう意味なのだろうか? 俺は考え込む。何か得体のしれない感覚が広がっていく。
「そう。契約をするの。そうすれば、あなたは自在にアカシックレコードにアクセスできるようになります」
アカシックレコードのアクセスできるのが一体どのような意味を持ってくるのか分からないが、この戦闘を優位に進めるためには大切であるように感じられた。俺が黙り込んでいると、目の前に立つ少女は次の映像を見せた。
白い髪の毛に白い肌。西洋のアンティークドールのような容姿を持つ少女の姿であり、それが俺の刺激していく。きっと将来は絶世の美女なるだろう。
「分かったよ。俺は君と契約する。具体的に何をしたらいい?」
「血を分けてもらいます」
「血を?」
「そうです。契約には血が必要になります」
「良いけど、どうやって血を採取するのさ? 何か器具でもあるの?」
俺はそう、素朴な疑問を飛ばした。すると、少女はゆっくりと俺のそばまで歩みを進めると、俺の前に立ち、そして俺の右腕を掴むとそれを口元に持っていって、
「こうするのよ」
と、少女は言い、あろうことか俺の右腕にかみつき、血を吸い取り始めた。
「な? 何を」
俺は少しだけ抵抗を試みるが、それ直ぐに意味のないものであると悟った。たっぷり一分ほど、少女は俺の血液を飲んでいた。やがて俺の右腕から口を離す。そしてうるうるとした瞳で俺を見上げる。そんな瞳で見つめられると、俺はどこか緊張し、居心地が悪くなる。血を吸い取られたけれど、特に気分は悪くない。普通通りである。
「これで契約は完了。後はアカシックレコードにアクセスするだけよ」
「どうやってアクセスするの?」
「こっちへ来て?」
少女は僕の手を引き、そして、巨大な鉄の塊の場所まで足を進めた。うおーんという電子音が鳴り響いている。
「これは何?」
「まぁ強大なデータバンクみたいなもの。触れてみなさい」
言われるままに僕は触れてみる。
すると、温かい感触が手のひらに広がっていく。次の瞬間、俺は狭い部屋の中にいた。いつの間にこんな場所に来たのだろうか?
少女の声が聞こえる。
「あなたは今、アカシックレコードの中にいるわ。自在に記録を引き出し、コントロールできる。今式神と髑髏畑魁江が戦ってる。その戦闘の結果も記録されているはずよ。それを確認してみさない」
確認すると言っても、どうするのか分からない。俺は黙り込み、ただ狭い部屋の中で一人座り込んだ。
「どうしたら良いの?」
「ほしい記録にアクセスするのよ」
「どうやって?」
「目の前に本があるでしょ。それを開きなさい」
確かに目の間に書物がある。巨大な辞書のような代物だ。俺はそれを持ち、ゆっくりと広げる。すると、そこには文字が大量に書き記されており、瞬時に俺はその内容を理解した。
「契約すると、書物に触れるだけで、その内容が一〇〇%理解できるようになる。分かったでしょう。式神と髑髏畑魁江の戦闘の結果が?」
「あぁ。式神は殺される。魁江の氷の兵隊兵によって殺されるんだ」
「それを改ざんするの。記録を捻じ曲げれば、式神は勝てるわ」
「改ざんってどうするんだよ?」
「書物の脇にペンがあるでしょう?」
俺は視線を滑らす。確か書物が置いて会った場所の脇にはペンスタンドがあり、そこに何本かペンが刺さっている。
「うん。何本かペンが刺さっているよ」
「記録を改ざん。つまり、上書きするためには、赤のペンを利用する。赤ペンを取って、本に直接式神が勝つように書きなおすのよ。式神が勝つと書けばいい。勝った内容を書けばその内容どおり、式神は勝てるわ」
「分かったよ。やってみる」
僕は赤ペンを抜き、本に直接式神が勝つように書きなおした。
『式神、炎を魔術で髑髏畑魁江を倒す』
このように書き直したのである。
書きなおすと、持っていた書物が煌びやかに光りはじめ、赤ペンで書いた文字が、書物の中に吸い込まれていく。不思議な感覚が俺の体内に広がっていく。これで式神は戦闘に勝てるのだろうか?
「書いたけど、これでいいのかな?」
俺はそう尋ねた。しかし、もう少女の声は聞こえなかった。いつの間にか俺は例の公園に戻っていた。そこでは髑髏畑魁江と式神の戦闘が今まさに終着しようとしていた。炎の魔術が髑髏畑の氷の兵隊を吸いこみ、消し去ったのである。その姿を見て、髑髏畑は驚いた。今まで圧倒的に戦闘を有利に進めていたのに、突如、氷の兵隊が力を失ったのに疑問を感じたのだろう。俺の方を見つめ言った。
「なるほど、記録を改ざんしたのか? 分が悪いな。ここは一旦引こうとしようか」
「髑髏畑魁江。君は何者なんだ?」
俺は消えようとする髑髏畑に向かってそのように尋ねた。しかし、髑髏畑はその質問には答えず、ただ無言で消えてしまった。こうして戦闘は終結したようである。
「式神さん。勝ったの?」
と、俺はそう尋ねる。式神は疲れ切った表情を浮かべていたが、次のように答えた。
「お前の力だ。ミステールとして高い力があるようだな」
「アカシックレコードにアクセスできるらしいけど」
「アカシックレコードにだと……。素晴らしい力だ」
「だけど、記録を改ざんできるのなら、それって無敵の力じゃないのかな? 何でもできてしまうじゃないか?」
「いいや。何でもできるわけじゃないだろう。能力に高いリスクが発生するものだ」
「リ、リスク?」
「うむ。アカシックレコードにアクセスする力にはリスクがあるだろう」
「どんなリスクなんですか?」
「それはまだ分からぬ。しかし、いずれ分かるだろう。それよりも今はアウグスト家を向かうぞ」
公園を出ると、公園前に黒塗の車が一台停車している。高級そうなその車に式神は乗り込んでいく。それを見た僕も後部席に座り込む。中からは新車のような香りがしてくる。式神は運転席に座らず、俺と同じように後部席に座り込む。俺は彼の隣に座り込んだ。運転席には初老の男性が座っており、白のドライビンググローブをしていた。頭髪が薄くなっており、体も細い。格好も執事服を着ており、全体的に良く似合っている。俺たちが座ったのを見るなり、ゆっくりと車は発進した。高級車であるからなのか、微振動さえしない車内は、どこまでも快適である。式神は車窓からぼんやりと景色を眺めながら、俺に向かって言った。
「どうだ気分は?」
俺はやや緊張しながら答える。
「気分は悪くないですよ。ただ、俺はどうなるんでしょうか? それが不安でたまらないですよ」
「不安はどんな状況でもつきものである。しかし安心しろ。我が主は、信頼できる人物であるからな」
主とは、一体どんな人物なのか? それにアウグスト家とは、何なんだろうか? 似鳥町という、田舎に屋敷を立てて、悠々自適に暮らしているのだろうか? それともまた別の目的があるのだろうか? 今のところ、俺には何も分からない。だた、これから俺は執事として働くことになるのだろう。ニートからの脱却。それはある意味嬉しいが、不安がないわけではない。アカシックレコードと奇妙なデータバンクにアクセスできるようになったが、それにはリスクが発生するようである。まさか死ぬ羽目にはならないと思うが、それでも相応の何かが待っているような気はする。それくらい、アカシックレコードにアクセスし、データを改ざんできるという力は高い能力であると感じられた。一般的に、高い力程、そのリスクも高まるはずだ。ハイリスクハイリターン。投資の世界と同じである。きっと、俺に課せられた使命も生半可な覚悟ではやり通せないものであろう。
車は夜の山道をひた走る。街灯はほとんどなく、進むほどに魔界に足を踏み入れてしまったかのような雰囲気になる。どのくらいだろう。車は山道に入り、やがて停車した。辺りは真っ暗闇に包まれ、車のライトの明かり以外、光はまるでなかった。
「着いたんですか?」
と、俺は式神に尋ねた。式神は車を降りると、俺に向かいながら言った。
「うむ。降りるんだ。ここがアウグスト家の邸宅だ」
闇の中にぼんやりと浮かび上がる。漆黒の屋敷。電気が一切ついていないので、その存在はどこまでも不気味に感じられる。俺が車から降りると、車は屋敷の奥に向かって進んでいった。戻ってくることはなく、俺と式神の二人は闇の中に佇んだ。
「さて、行こうか?」
と、式神は言うと、屋敷の方へ向かって行く。俺はその後に続く。
屋敷は豪奢な二枚トビラでできており、ライオンのノッカーがついていた。重くがっしりとした鉄製のトビラを押し開くと、室内にはわずかだが明かりが灯っているのが分かった。ロウソクの微弱な明かりである。玄関をくぐると、円状のホールがあり、奥の方に階段が見える。壁沿いにいくつかトビラが見えるから、部屋があるのだろう。但し、いかんせん薄暗くて、しいて言えば廃墟に足を踏み入れてしまったかのように錯覚させる。折角豪奢な屋敷なのに、明かりがないだけで、ここまで寂しい世界になってしまうのか? 俺がゆっくりと辺りを見渡していると、式神が俺の肩を掴んだ。俺はビクッと体を震わせた。
「ついてくるんだ」
式神はそう言うと、奥にある階段を上っていく。階段はらせんになっており、二階に上がると、また円状のスペースに出た。どうやらこの屋敷は筒状にできているらしい。建築法に触れる作りではないのか? 俺は建築には全く詳しくないが、何かこう違法な臭いを感じさせる。それでも今ここでそれを言っても何ら意味はないだろう。俺は何も言わずに、式神の後を追う。式神は二階の階段から見て、一番奥の部屋に向かった。そこに誰かがいるというのだろうか?
奥の部屋のトビラはどういうわけか鉄製であった。かなり強固にできており、どこか牢獄のような印象を与える。色々とおかしな屋敷だな、と俺が感じていると、式神はトビラをノックした。
「ごおん」
という低い音が界隈に鳴り響く。しばしの沈黙が訪れるが、やがて中からくぐもった声が聞こえてくる。
「入りなさい」
小さな声であったが、どこかで聞いたことのある声であると感じた。それもつい最近聞いた声だ。この声は確か?
「轆轤川。入るんだ」
式神は俺の名前を言い、室内に入るように指示を出した。俺は言われるままに、室内に足を踏み入れる。室内も屋敷内と同じでかなり薄暗い。ロウソクの微弱な明かりがあるだけで、他に明かりは無いようであった。俺が入ると、トビラは閉じられた。どうやら式神は入らないようである。彼は部屋の外で待機している。俺は一人、部屋の中を進む。
「轆轤川進ね」
声が闇の中から聞こえた。
「ど、どうして俺の名前を?」
俺は闇の中に向かって言った。すると、闇の中から再び声が返ってくる。
「あなたがミステールだからよ。少し調べさせてもらったわ。今はニートみたいだけど」
俺がニートであると知っている。しかし、俺がミステールであると、どうして分かったのだろうか? そもそも俺はつい最近までミステールなどと言う奇妙な概念はまるで知らなかった。今日、初めて知ったのである。アカシックレコードという巨大なデータバンクも十分奇妙な存在であるが、俺自身がミステールという不可思議な存在であるのは、かなり不思議な印象を与える。
やがて、室内に煌々とした光が広がっていく。オレンジ色の柔らかい明かりが天井から降り注ぎ、室内を明るく照らし出した。俺の目は闇に慣れていたから、突如光輝いた室内の明かりが、かなり眩しく感じられた。
俺はそこでありえない光景を見てしまった。ありえない光景。俺の視界の先にはほとんど裸の少女が一人立っているのである。
「な、何を……」
俺は慌てて口ごもる。少女の白い肌が、俺の目に焼き付く。俺に見られているというのに、少女はほとんど慌てた素振りを見せない。むしろ逆に、今の状況を楽しんでいるようにさえ、感じられる。
「どうかした? 轆轤川?」
「ふ、服着てください。ど、どうしてそんな恰好をしているんですか? お、俺は男ですよ」
「私、服って嫌いなよね。でもあなたが着ろって言うのなら着るけど、でもこういう女の子の方が良いんじゃないの? 若い男子にとって」
「な、なに言ってんですか? とにかく服を着てください、話はそれからですよ」
俺はとにかく慌てた。対する少女は、裸のまま俺の目の前まで進んでくると、不思議そうに俺を見上げた。吸い込まれるような赤い瞳が俺の視界に飛び込む。俺は直ぐに視線を逸らすが、その少女が、アカシックレコードの中で出会った少女とそっくりであるとわかった。否、これはもうそっくりというよりも、恐らく本人であろう。白い肌に白い髪。そして独特の赤い瞳が、アカシックレコードの中で出会った少女であると告げている。
少女は上目遣いで俺を見つめている。まだ幼児の姿だから、胸の高さはない。平坦である。しかし、何を考えているんだ俺は……。こんな小さな子に興奮したら人間として失格だ。否、かなり罪深いんじゃないだろうか? 何か急激に背徳感を得ながら、俺は早くこの場から立ち去りたくて堪らなくなった。居ても立ってもいられない状況で、ようやく少女は、俺の前から離れ、部屋の奥へ進んでいく。小さなチェストが置かれており、そこから衣類を取っているようだ、白のガウンを一枚羽織ると、ようやくそのスキャンダラスな肉体は影を潜める。
「さて、これで良いかしら?」
と、少女は言った。ガウン一枚しか着ていないが、何も着ていないよりはましだろう。俺は少女には視線を合わせずに、室内を見渡した。室内は多分二〇帖ほどの空間であるだろうが、かまぼこ上の形状をしている部屋で、独特な作りをしている。そして、恐ろしく物が少ない。あるのは室内中央に置かれた天蓋付きのベッドと、奥にあるチェスト。それだけである。普通の部屋にあるような窓がなく、これでは光がまるで入らないであろう。
「あ、あなた誰なんですか?」
と、俺は尋ねた。すると少女はベッドに腰を下ろし、俺にもそばに来るように言うと、そこでようやく名前を名乗った。
「エルザ・デ・アウグスト。それが私の名前。但し、今はElzaだけど」
『エルザ』と『Elza』若干であるがイントネーションが違う。一体どういう意味なのだろうか? 俺が考えると、Elzaは次のように言った。
「あなたは私と契約したの。それは覚えているわよね?」
契約。それはつまり、あのアカシックレコードの中で行われたものであろうか?
「お、覚えていますけど、それが何か?」
「轆轤川。あなたはアカシックレコードにアクセスできる稀有な力を持つミステールなの。それだけにあなたの力には期待しているわ」
「あの、アカシックレコードって何なんですか? 記憶を自在に改ざんできるのなら、かなり無敵な力だと思うんですけど、それにあの式神っていう執事が、能力にはリスクがあるっていましたけど、まさか死ぬなんてことありませんよね?」
「いいえ。十分死ぬ可能性はあるわ。それに精神崩壊だってありえる。過ぎたる力はそれだけ強大な分、リスクも跳ね上がる」
「どんなリスクがあるというのですか」
「まず、アカシックレコードにアクセスするためには私の力が必要になる。つまり、自分の好きな時間帯に能力を使えないのよ」
「なるほど。そうなんですか」
「次のリスクは一回のアカシックレコードへのアクセスに、血を四〇〇ml必要になるとと思っていいわ。だから、一日に何度も使えないのよ。一日に一〇〇〇mlの血液を抜くと、少しずつ健康被害が出てくる。一五〇〇mlで命に関わってくる」
「確かにそれじゃあまり使えないね」
「献血の場合、一度献血すると、次に献血できるまで、男性なら十二週間。女性なら十六週間必要になるのよ。だから、あなたは今日、アカシックレコードにアクセスしたから、次にアクセスできるのは、今から十二週後が適している。まぁこれはあくまで健康に留意した期間だから、もっと速いペースで使っても問題はない。ただ、毎日は使えないと言えるでしょうね」
「まぁ、毎日は使いませんよ。俺はそんなに頻繁にアカシックレコードにアクセスして何かを調べたいわけではありませんし」
「そう。だけど、どうなるかしらね」
意味深にElzaは語る。能力を使う可能性が今後もかなり高確率であるのだろうか? それが事実だとしたら、削られてしまうだろう。
「君の目的は何なの?」
と、俺は尋ねる。このアウグスト家の目的とは果たしてどんなものなのか。すべては謎に包まれていて、俺を不安にさせる。ようやく手にして就業と言うゴールにたどり着いたと思ったら、そのゴールは暗黒に包まれている。
「あなたたちの目的は?」
「私の目的はミステールの管理よ」
「ミステールの管理?」
「そう。私にはミステールを管理する理由があるの」
「僕の他にもミステールはいるの?」
「いるわ。あなたが会った式神もミステールの一人。私と契約したことで、炎の魔術
『サン・オブ・ムーン』が使えるようになったの」
「契約ってことは式神さんも血を吸い取られる必要があるの?」
「そう。血を吸い取る必要はある」
「じゃあ、彼もまた頻繁に戦闘はできないんだね」
「そうね。少なくとも毎日、血を抜かれると、血液の生成が追いつかないから、毎日は使えない。でもそこで有効になるのが『輸血』という手段よ」
「輸血? そんなことが可能なの」
「ええ。血液を輸血すれば、毎日でも能力を使えるわ。まぁこれはあくまでも最終手段だからおすすめはしていないけどね」
そう言うと、Elzaは立ち上がり。俺の手を取った。柔らかいElzaの手の質感が俺の握られた腕に広がっていく。Elzaはまだ小さいのに、何か大人びた雰囲気がある。血を必要とする不思議な人間。それがElzaだ。否、エルザ。どっちが本物なんだろう。俺はそう考える。
「ね、ねぇ。エルザとElza。二人はどう違うの? 同一人物なんでしょう?」
「同一人物だけど、人格が違うのよ。多重人格。その言葉を聞いたことがあるでしょう」
多重人格。自分の中に複数の人格がいる精神疾患か。俺はそれ知っていた。だがまさか当事者に会うとは思わなかった。
「知ってるけど、君も多重人格なの?」
「そう。アウグスト家はね、古くから多重人格者が生まれる家系なの。血がなせる業ね。私はその血を引き継いだというわけ」
「エルザになるとどうなるの?」
「……それはいずれ知るわ。今は知る必要がない。それよりも今後の仕事について話しましょう」
Elzaはそう言った。エルザとは一体どのような人格なのであろうか? 今目の前にいるElzaとは全く違う人物なのか? それとも近い人物なのか? 何となくだけど、俺は二つの人格は違うような雰囲気があると察していた。それが多重人格の特徴であると理解していたからだ。
仕事ができたのは嬉しいけれど、やはりこのアウグスト家に仕えるというのは、なかなか骨の折れる作業であると感じられた。
「今後の仕事ってどういう意味なんですか?」
と、俺は尋ねた。閉鎖的な空間にElzaの声が染み渡っていく。
「あなたには夜仕事をしてもらうわ」
「夜ですか?」
「そう。具体的には午後六時から次の朝六時まで。もちろん休憩などの時間は十分にとるから心配しないで」
「待って下さいよ。どうして夜なんですか?」
「それは私が夜型の人間だからよ。私はね、夜しか活動できない体質なの。だから、行動するのは夜。良いわね?」
「嫌だと言ったらどうするんですか?」
「契約を反故にするというわけね。もちろん不可能じゃないけれど、あなたはいろいろ情報を知ってしまった。記憶は消去させてもらうわ。もちろん、アカシックレコードへのアクセスも不可能になる」
「ミステールじゃなくなるって意味ですか?」
「いいえ。ミステールであるわ。それは変わらない。だけど、悪意ある人間に利用される可能性はある。ミステールはそれだけで価値のある人間だから、あなたのアカシックレコードにアクセスする力を欲しがっている人間は多くいるのよ。だから、アウグスト家のそばにいた方が良いわ」
「だけど、君が俺を利用していないという理由だってないだろう」
「そうかしら。私は能力についてのリスクをすべて説明したわ。普通、あなたを利用しようとするなら、リスクなんて説明しないで、バンバン能力を使うはずでしょう。それをしなかったというのは、信頼できる証拠だと思うけれど……」
確かに言う通りだと思えた。
俺はElzaの言う通り、アウグスト家の執事として働くと同意した。どうせ、何もしていなんだ。夜働くのは少し億劫だけど、働いていないという劣等感を覚えるよりは幾分かましだ。その内慣れるだろう。要は働く場所があるかないかが重要なのだ。
「分かりました。俺、この屋敷で働きますよ。よろしくお願いします」
Elzaはにっこりと笑みを浮かべた。ローブの裾の隙間から真っ白な細い肉体が見える。俺はサッと視線を逸らす。あまり見ていると精神衛生上よろしくない。それを面白おかしそうにElzaは見つめている。
「どうかした?」
「い、いえ。なんでもないです」
「そう? 顔がかなり真っ赤だけど」
「そ、それは」
君がそんな恰好をしているからという風には言えなかった。ただ、漫然としながら状況を見守っていく。何かこの場の空気を変える何かが欲しい。何でも良いのだ。そんな時だった。俺の願いが通じたのか、部屋のトビラがノックされた。
「Elza様」
声の主は式神。彼の声がElzaの部屋に広がっていく。Elzaはベッドから立ち上がると、トビラの方へ向かう。そして、鉄のトビラをゆっくりと押し開く。
僅かだが、二人の会話の声が聞こえてくる。
「Elza様準備が整いました」
「分かったわ。今すぐ行くわ」
「轆轤川はどうします?」
「今日は残して行く。連れていかないわ」
「承知しました」
そのような声が聞こえてくる。俺はどうやらこの邸宅に残るようだ。それにしてもこんな時間に何処に行くのだろうか? 俺がそう考えていると、Elzaが再び、俺のそばにやってくる。
「轆轤川。私はこれから少しここを離れる。あなたはここに残りなさい」
と、Elzaは言った。先ほどまでの人を食ったような態度が消えている。どこまでも真剣な表情。俺はそれを見て、Elzaが何をするのか激しく気になった。
「どこへ行くんです?」
「少しね。いずれ話すわ。今は何も聞かないで」
「分かりました。じゃあ俺はここに残りますよ」
「あなたの部屋に案内しましょう。ついてきて」
そう言い、Elzaと俺は部屋を出た。前方を歩くElza。円状のホールを抜けて、ちょうどElzaの対面の部屋の前にやってくる。
「ここがあなたの部屋。自由に使いなさい」
トビラはElzaの部屋とは違い、木製の通常のものであった。室内はかまぼこ型の作りで、恐らく一〇帖ほど部屋だろう。Elzaの部屋に比べると、やや小さめの作りである。室内の中央にはベッドがあり、後は小さな棚があるだけの小ぢんまりとした部屋だった。それでも自分の部屋があるだけマシだろう。
「言い忘れていたけど、アウグスト家に仕えるものは、住み込みだからね」
と、Elzaは言った。
「そうなんですか。ま、まぁ良いですけど」
住み込みであるのは若干の躊躇があるが、仕事ならば仕方ない。両親には説明すれば、承諾を得られるだろう。そう考え、俺は室内のベッドに腰を下ろした。それを見たElzaは入口の方に進み、
「それじゃ行ってくるわ」
と、一言述べ、そして室内から消えて行った。
Elzaのお供として式神が、一緒に行動するようであった。二人、どこかへ消えて行った。屋敷に残された俺は、手持ち無沙汰になった。この広い部屋に一人残されても、やることが何もないため、酷く落ち着かない。屋敷の中でも探検するか? この屋敷には自分と式神、そしてElzaの他に誰かいるのであろうか? それが激しく気になった。俺はゆっくりと屋敷内を歩く。まず向かったのは、一階のスペースである。一階は円状に作られたホールがあり、壁沿いに点々と部屋が見える。俺は自分の部屋に置いてあったカンテラを手に持ち、それに火を灯した。この屋敷はあまり光がないため、酷く薄暗い。そのため、このようなカンテラが必要にある。恐らくどこかに電気があるのだろうが、それがどこにあるのか分からない。カンテラの中には太さ五㎝程度のロウソクがあり、さらに部屋の棚の上部にジッポーライターが置かれていた。それでロウソクに火をつけると、ある程度の光量になった。これで探検はできるだろう。俺は屋敷内を一人進む。
玄関から見て対面の部屋は食堂であった。広さ二〇帖ほどの広々した食堂が広がっていた。長い食卓。奥にはキッチンがあり、ある程度の規模がある。しかし、誰もいなかった。ひっそりと静まり返り、不気味な印象を与える。キッチンには大型の冷蔵庫があり、そこを開く。冷蔵庫というと、通常の食べ物が収納されているはずであるが、アウグスト家の冷蔵庫の中には食べ物は入っていなかった。代わりに瓶詰された赤い液体が大量に保存されている。
(これ。何だろう?)
冷たい。そして、これは冷蔵庫ではなく、巨大な冷凍庫であることが分かった。赤い液体は完全に凍り付いている。臭いを嗅いでみるが無臭だ。不思議な印象を与える空間である。キッチンがあるのに、食べ物が何と言うのはどこまでも不可解である。何も食べないのだろうか? 料理人の姿もないし、色々不穏さを感じ、俺はキッチンを出た。どうやら一階にはキッチンを含めて四部屋あるようで、食堂の右側の壁沿いに、二部屋。左側の壁沿いに一部屋あるようだ。
次に向かったのは、左側にある部屋だ。鍵はかかっていない。通常の木製のトビラを開くと、そこは倉庫のようであった。倉庫といっても、しまってあるものは常軌を逸している。甲冑、サーベル。そして中世で使われていたような拷問器具がいたるところにしまわれている。俺はごくっと生唾を飲み込む。拷問器具はかなり手入れをしっかりされているようで、埃一つかぶっていなかった。鉄製の椅子で、背中と座る部分に鋭利な棘が施された椅子がある。ここに座れば、皮膚は裂け、簡単に傷つくだろう。それ以外にも牛革でできた鞭や、仮面、水瓶がある。こんなものを使って何をしているのだろうか? まさか人を拷問でもしているのか? そうだとしたら、それはかなり不気味であると思えた。
俺は部屋を出る。そして今度は右側にある部屋に向かう。右側には二つの部屋があり、まずは玄関に近い方から入ってみる。こちらも同じで木製のトビラで鍵はかかっていなかった。この部屋は何もなかった。ただ、がらんと何もない部屋が広がっているだけである。電気がほとんどついていないので、薄暗いが、壁には電気のスイッチがあり、それを押すと、僅かに電気がついた。煌々とした明かりが室内に広がっていくが、やはり何もない。誰も使っていない空間なのかもしれない。俺はキッチンの隣にある部屋に向かった。その部屋には地下に向かう階段があった。電気がついていないので、カンテラの明かりだけが頼りだ。俺は恐怖を感じながら、階段を下っていく。階段を下っていくと、異臭がする。血の臭いと形容できるだろう。地下に降りると、そこは牢獄だった。鉄製の柵で覆われた牢獄がある。牢獄の中には、何か異物がある。俺はカンテラでその異物に向かって光を注いだ。
(……、う、嘘だろ)
俺は開いた口が塞がらなかった。牢獄の中には人の死体が横たわっていた。それも普通の死体ではない。全身萎んでいる。つまり血を吸い取られているのだ。その死体を見て、俺は一つの考えに辿り着く。それは似鳥町で起きている吸血事件だ。あの事件で殺された人間はすべて血を吸い取られていたという話だ。きっと今俺の目の前にいる死体と同じだろう。俺は気分が悪くなったが、牢獄の柵に手をかけた。すると、牢獄が「ごおん」と音を上げて開いた。
(どうする?)
と、俺は考える。こんなところに死体があるのなら、それを黙っているわけにはいかない。警察に通報するべきだろう。俺は携帯電話を手に取った。しかし、ここは圏外であった。チッと舌打ちをすると、遺体の首元に二つの傷跡があるのが分かった。ここから血を吸い取られたのであろうか? となると、この死体は首から血を吸いとられたことになる。首から血を吸う。それはまさに吸血鬼である。そこまで考えると、俺はElzaが契約の際に自分の手首から血を吸いとったのを思い出した。サッと手首を見つめる。すると、死体の傷跡と同じで、二つの小さな傷が見えた。きっと牙が皮膚に刺さったため、このような傷がついたのだろう。
Elzaは吸血鬼で、もしかしたら、似鳥町を騒がせている吸血事件の犯人なのではないか? 俺はそう考え、堪らない恐怖で覆われていった。あの女は超絶的な美少女であるが、得体が知れない。何か重要なことを隠しているような気がするのだ。
(と、とにかく警察に連絡しないと)
俺は一階に戻り、電波の入るところまで行くと、一一〇番に通報しようとした。すると、それを見計らったかのように俺の携帯電話が震えた。非通知の着信が入っている。
(だ、誰だよ。こんなときに……)
俺は若干躊躇したが、電話に出る。
「もしもし」
「轆轤川ね」
声の主はElzaであった。
「Elzaか?」
「もう一つ言い忘れていたの。一階に地下へ行く部屋があるのだけれど、そこに入っちゃダメよ」
「なぜです」
「それはいずれ説明するわ」
また『いずれ……』と来たか。だけど俺はもう足を踏み入れてしまった。
「それは血を吸いとられた死体があるからですか?」
俺は正直に告げた。
Elzaの声が止まる。
「見たのね?」
「見ました。あれは一体なんなんですか?」
「今のあなたには関係ないわ。そのままにしておくのね」
「そんなことはできませんよ。警察に連絡しなければなりません」
「今日、仕事が終わり次第、帰るからその時まで大人しくしていなさい。警察に連絡するのはそれからでも良いでしょう」
「で、でも、そんなことできませんよ」
「今、警察に連絡しても意味はないわ」
「どうしてですか?」
「第一、警察に言っても信用しないでしょうに」
果たしてそうだろうか? きちんと連絡し、実際に現場に来てもらえば、嫌でも信用するだろう。Elzaの言っているのは正しくないように感じられる。俺は早く警察を呼び、楽になりたかった。
「とにかく、警察に連絡するのは待ちなさい。良いわね」
「で、ですが……」
「これは主としての命令よ」
「で、できません」
俺はきっぱりと言った。「どう考えても、この問題は無視できるようなものではない。しっかりと警察に連絡し、しかるべき処置をしてもらうのが先決であると思えて。Elzaさん。あなたあの死体の血を抜いたんですか? 俺から血を抜いたように……」
「私じゃないわ。といっても、今のあなたには信用してもらえるとは思えないけれど」
「似鳥町では今、吸血事件が起きていますよね? その事件とElzaさんは関係があるんじゃないんですか?」
「関係がないわけじゃない。でも私が犯人ではないのよ。犯人は別にいるの。それを私は追っているよ」
「今、何をしているんですか?」
「簡単に言うとね、似鳥町で起きている例の怪奇事件は『悪魔憑き』によるものなの」
「悪魔憑きですか? それって映画とかである悪霊に魂を乗っ取られっていう、アレですか?」
「まぁ感覚的には近いかもね。その悪魔憑きを解決するために私は動いている」
「じゃあここにある死体は何なんですか?」
「悪魔憑きの被害者であり、犯人でもある」
「犯人?」
「『リビングデッドダンス』これが今回の悪魔憑きの犯人の能力よ」
いかがわしい名前の能力。『はい、そうですか』と言って、簡単には信じられない。そもそも能力と言うことは、この犯人はミステールなのだろうか?
「つまり、犯人はミステールなんですか?」
「そう。ミステールが犯人」
「それならば、ミステールを動かすElzaさんのような人間が背後にいるわけですよね? ミステールは契約しないと能力を使えない。俺自身、アカシックレコードにアクセスできますけど、それはあなたに血を受け渡して初めて可能になる。ミステールが能力を使うためには、それを管理するあなたのような人間が必要になるはずです」
「理解力があるわね。確かにミステールは私のような管理者がいないと能力は使えない。あなたの察した通り、この事件にはミステールを管理している、通称エヴァン・サングリーノが関係しているのよ」
「エヴァン・サングリーノ?」
「そう。私のような人間。ミステールを管理する人間をエヴァン・サングリーノと呼んでいるのよ」
「きゅ、吸血鬼じゃないんですね」
「は? 吸血鬼?」
俺は言った。この事件に関わっているのは、もしかしたら吸血鬼なのではないかという考えが捨てきれないからだ。エヴァン・サングリーノという名の吸血鬼。第一、ミステールを管理するからといって血が必要になる時点で少し不可解な話であると思えた。
「そうです。人間の血が必要になるから吸血鬼。この屋敷、少し調べました。キッチンはあるのに、食べ物が一切なかった。冷凍庫のようなものの中には、凍った赤い液体がありました。あれはきっと人の血液なんじゃ」
「……。まったく困った使用人ね。勝手に調べ回るなんて」
「教えてください」
「あれは私が使うって言うよりも、むしろあなたたちのためよ」
「俺たちのため? どういう意味ですか?」
言っている意味が計りかねた。俺は血を必要としない。普通にごはんを食べる一般人だ。吸血鬼とは無縁の生活を送っているはずなのに。それが俺にとって必要なものであると、Elzaは告げている。何故、自分に必要なのか? 懸命に考える俺は一つの結論に辿り着く。それは前回Elzaと話したときに、聞いた内容がヒントになっていた。
「ゆ、輸血ですか?」
と、俺は言った。受話器の向こうから、Elzaの息遣いが聞こえてくる。
「そう。主に輸血用。能力が必要になった場合、どうして使わなければならない時の最終手段として血がストックされているのよ。だけど、それも何度も使えないわ。通常、能力は三カ月に一度が一サイクルになる。そのサイクル中に、どうしても血が必要になった場合、一度だけ輸血が可能になる。輸血は複数回行えないの」
「どうして複数回行えないのですか?」
「体に負担がかかるからよ。頻繁に人間の血を入れたり、抜いたりする行為は、酷く負担がかかる。だから、エヴァン・サングリーノはミステールの能力をある程度計画性を持って使わなければならない」
計画性……。しかし今回俺はほとんど無計画にアカシックレコードにアクセスしてしまった。これで三カ月は能力が使えない。もっと慎重になって能力を使うべきだったのではないか? 俺はそう考える。だが、今更そういってもすべては遅いのではあるが……。それに、能力を使ったのは、俺だけじゃない。式神の同じように能力を使ったはずだ。確か、能力名は『サンオブザムーン』。炎を使った超能力だ。仮に式神の役目がElzaの警護なら、今回能力を使えない彼は、ほとんど役に立たないのではないか? これも無計画に能力を使ったための弊害であると思えた。
「俺は無計画にアカシックレコードにアクセスしてしまいましたよ」
と、俺は言った。Elzaはそれを聞くと、速やかに言った。
「いえ、計画を持って行われた。最初の能力はなるべく早く使う必要があるのね。車のアイドリングと同じ、ある程度能力を慣らしておかないと、いざ必要な時に使えないケースがあるから、ミステールとして能力を開花させたら、まずすぐ能力を使う。これが鉄則」
「式神さんはどうなんです? 彼は能力を使ってしまったでしょう?」
「彼の能力はまだ『エゴシーノ状態』が続いている」
「エゴシーノって何です?」
「本を読むとき、途中で栞を挟むでしょ。それに近い状態。例えば一度の吸血行為で、能力が一時間使えるタイプのミステールの場合、エヴァン・サングリーノは能力を持続させる時間をコントロールできる。つまり、十五分だけ能力を使い、栞を挟み(エゴシーノ状態)、能力を一旦止め、また必要な時に、今度はエゴシーノを解放し、能力を使えるようになるのよ。式神は、一度の吸血行為で九〇分の超能力を使える。これは彼が鍛錬し、能力の持続時間を伸ばしたからに過ぎない」
「なら、俺も訓練次第では何度もアカシックレコードにアクセスできるんですか?」
「いいえ、ミステールには、色々なタイプがあるのだけど、あなた場合、持続型の能力者ではない。単発型の能力者。つまり、一度の能力発動で、一度の力しか使えない。このタイプの能力者は、比較的に強い力を持っているケースが多い。あなたのようなアカシックレコードにアクセスできるような力は、ほとんど無敵に近い力だから、その分制約も強い。自在に使えるわけじゃないのよ」
「そ、そうなんですか……。じゃあここにいる死体はミステールとして力を使いすぎたために、このような状態になってしまったわけですか?」
「そう。似鳥町を騒がせているエヴァン・サングリーノは、ミステールを使い捨てにして使っている。これを止めるのが私の役目。だから、警察に連絡しても意味ないのよ」
そうは言っても、俺はなかなか信じられなかった。やがて電話が切れた。横暴なエヴァン・サングリーノを止めるために、Elzaは動いているのだとしたら、俺はそれを信用するしかない。けれど、俺はイマイチ信用できなかった。そこで俺が取った選択は、やはり警察に連絡することだった。警察に連絡すると、直ぐに警察はやって来た。捜査一課の敏腕刑事烏鵲警部であった。烏鵲は四〇歳くらいの男性刑事で、身長は一七〇㎝前後だろう。しかし、屈強な肉体をしており、坊主頭に近い短髪が良く似合っている人物であった。夏場だというのに、式神と同じでスーツに身を包んでいる。烏鵲はやってくるなり、死体に目をむけ、そして言った。
「いつ、死体を発見したんだね?」
「ついさっきです」
「詳しく、司法解剖しないと、厳密には言えないが、この死体は死後三日以上は経っているはずだ。例の吸血事件の被害者である可能性が高いな」
「多分、そうだと思います……」
俺は不思議に感じていた。刑事部からやって来たのが、この烏鵲と言う刑事だけだったからだ。普通、刑事は二人で行動するものだと考えていたから、この状況は不審であった。それ以上に、この烏鵲と言う人間には何かあるように感じられる。そう、どことなくニオイがするのだ。Elzaと同じような……。
「ミステールだな。確実に」
と、烏鵲警部は言った。俺はその言葉を受け、開いた口が塞がらなかった。この刑事はミステールについて知っている。きっと、エヴァン・サングリーノだって知っているだろう。もしかしたら、Elzaが警察に言うと言った時、それほど慌てなかったのは、この烏鵲と言う警部がいたからではないか? 俺はそう察した。
「烏鵲さんは、ミステールを知っているんですか?」
すると、烏鵲はにっこりと笑みを浮かべながら言った。
「知っているも何も、俺がミステールだからな」
「え? あ、あなたがミステール」
「そう。俺には能力がある。まぁ言っても問題ないんだが知りたいか?」
「し、知りたいですけど」
「〈地獄の門番〉。それが俺の能力だ。簡単に言うと、情報が揃うと、犯人を悟る力だ。これにより、俺は吸血事件の犯人を悟った」
「烏鵲さんを管理しているエヴァン・サングリーノって言うのはもしかして……」
「お察しの通り、Elzaだよ。君もここの執事なら、ミステールなんだろう? それは分かるよ。Elzaは今はElzaだ。俺が導き出した犯人を捕らえに行っている」
「は、犯人は誰なんです?」
「人形遣い。浄瑠璃梨々花」
「じょ、浄瑠璃梨々花……」
その名前を俺は聞いたことがあった。似鳥町が生んだ、有名な人形師である。基本的には中世のアンティークドールのような人形を作るが、ハンス・ベルメールの作った奇妙な球体間接人形を作る場合もある。確か、まだ三〇歳くらいの若手人形師だったはずだ。彼女のすべての事件の犯人なのか?
「そう。浄瑠璃梨々花が犯人だ。彼女はエヴァン・サングリーノだが、かなり強引な管理者だ。彼女は人形に生命を与えようとしている」
「人形に生命を与えるですって? それはどういうことなんですか?」
人形に生命を与えるというのは、一体どういう意味なのであろうか? 俺は得体のしれない恐怖のようなものを感じ始めた。似鳥町が生んだ人形師、浄瑠璃梨々花には大きな隠された野望が隠されている。
「浄瑠璃梨々花は何者なんですか?」
「言ったろう。彼女は、エヴァン・サングリーノだよ」
「それは分かります。で、でも……」
俺はなんとかそう言った。すると、烏鵲は答える。
「これから浄瑠璃梨々花の許へ向かう、君も行くかい?」
「もちろん行きます。連れていってください」
俺と烏鵲さんは、烏鵲の運転するミニクーパーに乗り、浄瑠璃梨々花のいるアトリエに向かった。恐怖はある。だけど、謎を解きたいという気持ちが俺を支えている。アウグスト家から浄瑠璃のアトリエまでは車で二〇分ほどの距離であった。俺は浄瑠璃のアトリエには行ったことがない。当然だけど、彼女に会った経験だってないのだ。
車内で烏鵲は俺に向かって言った。
「君はいつ、ミステールになったんだ?」
俺は窓の外の闇を見つめながら、答えた。
「実は本当につい最近なんです。今日なんですよ」
「今日か、それで死体を発見してしまったというわけか、ついていないな」
「俺自身が驚いていますよ。どうして俺がミステールなんてものになってしまったのか? それは不可解で仕方ありません」
「俺だって似たようなものだよ。ある日突然、ミステールになった。君と同じだね」
「烏鵲さんはいつミステールに?」
「ここ一カ月くらいか」
「となると、Elzaがこの似鳥町にやって来てからですね?」
「そうなるね」
「でも、あなたの能力は、まさに刑事にぴったりの力ですよね。〈地獄の門番〉条件が揃うと、犯人を悟る。まさに刑事の鏡と呼べる能力だ」
「まぁ酷く使いにくい力ではあるがね。Elzaがいない限り、俺はこの力を自在に使えない。それに血を抜かれる関係上、頻繁に力は使えないからな。一つ聞いても良いか?」
「何です?」
「君の力は何なんだ?」
果たして、言っても良いものなのだろうか? 決して能力を隠したいわけではないが、秘密にしておきたいという気持ちがあったのは確かだ。けれど、烏鵲さんは自分の能力を惜しげもなく俺に教えてくれた。俺だけが能力を隠しておくのは、不公平だと思えた。
「俺の力」俺は答えた。「アカシックレコードにアクセスするというものです」
「アカシックレコードにアクセス?」
「はい。アカシックレコードって知っていますか?」
「いや、知らない。何なんだ?」
「俺自身も今日知ったんですが、この世のすべての歴史が詰まった情報バンクなんです。俺はそこにアクセスし、記録を改ざんできる力があるんです」
俺は今日、行った能力について説明する。それを聞いていた烏鵲は、酷く驚いた顔をしながら、
「まさに無敵の力だな」
と、言った。
確かに、無敵に近い力なのかもしれない。だけど、頻繁には使えない。単発型の力であり、一度のサモン・サーバントで、一度しかアカシックレコードにはアクセスできない。そして、一度使うと、その後三カ月能力は使えない。いくら利便性が高い力だとしても、三カ月に一度しか使えないのだとしたら、それはかなり使いにくい力であろう。輸血と言う最終手段もあるようだが、それも一サイクルで一回しか使えない奥の手なのである。
「使いにくいですけどね。今日使ったから、後は三カ月使えません」
「エゴシーノ状態にはなれないのか?」
「単発の力なので、栞を挟む行為はできないそうです」
「そうか。俺の力もエゴシーノ状態にはなれない。単発型の力だ。まぁ俺の場合、それほど迷宮入りする事件が多いわけではないから、三カ月一度の能力であっても、十分使える能力になる」
「今回の浄瑠璃梨々花が犯人だというのも、〈地獄の門番〉を使って調べたんですか?」
「そうだ。すべての情報が揃ったからな。浄瑠璃梨々花はエヴァン・サングリーノなんだよ。つまり、吸血鬼のような存在だ」
「やはり、エヴァン・サングリーノは吸血鬼なんでしょうか? Elzaもエヴァン・サングリーノだ。ということは、吸血鬼になる。違いますか?」
「確かに吸血鬼と言えるだろう。サモン・サーバントと引き換えに、能力を得て、それを使う。そんな力が彼女たちにはある」
「もう一つ聞きたいんですが、良いですか?」
今日の俺は質問が多い。だけど、あまりの状況の変化について行けず、今はたくさんの情報が欲しかった。それだけである。同時に突如現れた自身の変化に折り合いをつけるためにも、しっかりと情報を得るのが大切だと感じていた。
「何が知りたい?」
「Elzaです。彼女にはElzaとエルザ。二人の人格がいるそうですね。それって多重人格なんですよね? Elzaは今の状態。では、エルザって言うのはどんな人格なんですか?」
その言葉に、烏鵲は黙り込んだ。その沈黙があまりに不自然であったため、俺は訝しい心象を持った。烏鵲はなかなか答えない。そうこうしていると、ミニクーパーは浄瑠璃のアトリエに到着した。
「さて、着いたぞ。降りるんだ」
「まだ答えを聞いていませんが」
「エルザはいずれ知るだろう。そう遠くない未来に。俺の口から話すのは止めよう」
「どうしてですか?」
「俺自身、それほど詳しくないからさ。そのような状態で、不確かな事実を伝えるのは、俺の希望じゃない」
「そ、そんな……、でも」
「大丈夫だ。Elzaもエルザも同じエヴァン・サングリーノなのだから。安心して良いだろう」
そう言ったが、俺はイマイチ信用できなかった。車を降りると、小ぢんまりとした平屋が見えてくる。家と言うよりも小屋。それも廃墟に近いような風体をしている。全体的に朽ち果てた印象があり、本当にここに誰か住んでいるのか怪しい。だけど、人の気配は感じる。少なくとも、この小屋の中には誰かがいる。
俺と烏鵲さんが小屋の中に入ろうとしたとき、突如、小屋が粉砕された。
「ズドン!」
途轍もない巨大な音が界隈にとどろいた。濛々とする煙が辺り覆っていき、その白い煙の中に、複数の人影があるのが分かった。まず俺が確認できたのは、式神の姿だった。表情は真剣で、手には炎の塊を持っている。つまり、戦闘中なのだ。彼の後ろには一人の女のこの姿がある。もちろん、それはElzaだった。否、エルザなのか? 俺には今どちらの状態なのか判断できなかった。さらに式神の対面にも二つの影がある。一人は今日、会ったばかりの氷の兵隊を使っていた青年だ。確か名前は髑髏畑魁江。そして魁江の背後にいるのが、恐らく……。
(浄瑠璃梨々花か……)
俺はそう考える。
浄瑠璃梨々花は、およそ三〇代には見えない美貌の持ち主で、スラッと細長い痩身の肉体を持っている。か弱い女性と言う言葉がぴったりの女性で、こんな女性が本当にエヴァン・サングリーノなのか不思議でたまらなくなる。しかし、口元には僅かに血痕が付着している。きっとサモン・サーバントを行った証なのだろう。
つまり、それは彼女がエヴァン・サングリーノであるのを意味している。魁江が俺の姿を確認する。チラと一瞥し、視線を注ぐ。その視線の揺らぎに、式神とElzaも気づく。
「轆轤川……」
と、Elzaは言った。表情は驚いている。式神をチラっと俺を見た後、自分は戦闘に戻った。式神の目の前には、氷の兵隊を展開する魁江の姿がある。当然であるが、魁江も俺の存在に気付いたようだ。俺を睨みつけると、氷の兵隊を数体こちらに向けた。
「〈氷結の魔人〉。攻撃しろ」
魁江の能力名は〈氷結の魔人〉というらしい。身長一六〇㎝前後の氷でできた兵隊が俺に襲い掛かる。しかし、それを式神が止める。
〈サンオブザムーン〉
式神の能力が発動する。手先から炎が発生し、それを使って氷の兵隊を焼く。氷の兵隊は見る見るうちに溶けていく。それでも〈氷結の魔人〉による兵隊は無限に出てくるようで、次から次へと兵隊が生み出される。俺の周りに数体の兵隊が取り囲み、あっという間に劣勢に陥る。
そんな中、戦闘を見ていた浄瑠璃梨々花が口を開いた。
「手を引けば許してあげるけど、どうする?」
「それは出来ない相談ね。あなたをここで捕らえなと被害は増える一方だから」
答えたのはElzaだ。しっかりとした口調でElzaは言う。戦闘を引く気はまったくないらしい。だけど、式神の力では〈氷結の魔人〉に対抗するのは難しいようである。あまり、相性が良く無いようだ。氷と炎。能力の数を見てみる限り、分は浄瑠璃の方にあると感じられる。
「なら死になさい」
冷たい口調で言い放つ浄瑠璃。その言葉を聞いた魁江が、一歩足を進め〈氷結の魔人〉を放つ。式神は氷の兵隊に取り込まれる。しかし、それほど慌てた素振りは見せない。この場を打開する何か都合の良い作戦でもあるのだろうか? 式神は何やら呪文を唱えた。〈サンオブザムーン〉には、二つの攻撃手段がある。まずは片手を使った通常攻撃。片手から炎が放たれる。片手で炎を使うので、空いたもう一つの手に武器を持つことができる。現在、式神は左手で炎を作り、右腕で大剣を持っていた。大剣を地面に突き刺し、両手を重ね合わせる。
両手を合わせた時に発生する。レベル二の〈サンオブザムーン〉攻撃力は片手で使うレベル一の時に比べると、倍以上の力がある。但し、両手が塞がるので、〈サンオブザムーン〉以外の攻撃手段は使えない。両手から圧倒的な熱量を持つ炎が生み出される。竜の形をした爆炎。その炎が魁江の〈氷結の魔人〉に一気に襲い掛かる。
「ぐおぉぉぉぉん」
強烈な爆風が界隈を襲う。
「へぇ。そんなこともできるんだねぇ」
感嘆したように魁江は言う。魁江は〈氷結の魔人〉によって生み出した兵隊をすべて手中に戻した。生み出す兵隊が多いほど、兵隊一体の力は弱まる。一旦すべての兵隊を回収し、能力を高い兵隊を再度構築する手段を取ったのである。竜の形をした爆炎と、新しく生み出さされた氷の兵隊がぶつかりあう。激しい攻防の中、どちらに勝利の女神は微笑むのか?
俺は必死に戦闘を見つめていた。その脇で烏鵲が何やら呟いている。それを聞き、俺は彼に向かって尋ねる。
「式神さんは勝てるんですか?」
烏鵲は持論を展開する。
「難しいな。魁江の氷の攻撃は式神に炎を包み込んで消滅させてしまう。相性が悪いんだ。このままでは式神は勝てない」
「そ、そんな。ならどうするんですか?」
「ミステールについて、どこまで知っている?」
「ほとんど知りません」
「エヴァン・サングリーノが持てるミステールは三人までだ。つまり、Elzaは俺とお前、そして式神の三人以外のミステールを持てない。Elzaは主に事件を解くタイプのエヴァン・サングリーノだから戦闘向きの力は式神しか持っていない。けれど、その式神が魁江の前では歯が立たない。しかも浄瑠璃は魁江の他にもまだ二人のミステールを所有しているはずだ。それがすべて戦闘向きのものだったら、こちらに勝ち目はない」
「烏鵲さんは戦闘できないんですか?」
「〈地獄の門番〉では攻撃はできない。あくまでも俺の力は事件を解決するための力だ。それに特化しているから、それ以外には期待できない」
「俺も似たようなものですよ。と言うよりも、俺は今能力が使えない。完全に何もできないただの使用人ですよ」
「Elzaではここまでか……」
と、烏鵲は言った。俺には一体彼が何を言っているのか良く分からなかった。Elzaではここまで、それは何を意味しているのだろうか? Elzaにはまだ、戦闘を行うための奥の手が残されているのだろうか? 俺が考えていると式神の竜の形をした炎が、魁江の〈氷結の魔人〉に飲み込まれてしまった。
「これまでだな。式神。覚悟しな」
と、魁江は言った。魁江の指先から、新しい氷の兵隊が生み出される。両手を合わせた式神は両手が塞がっているため防御の姿勢を取れない。〈サンオブザムーン〉のレベル二は、高い攻撃力を持つ分、防御力は低下する。それを分かっていながら、式神は能力を使ったのである。そんな中、そこでようやくElzaが口を開いた。
「式神。下がりなさい」
「は!」
式神は言われたままに引き下がった。式神が破れれば、どうやって反撃をするというのだろう。俺が不安を帯びた視線で戦闘に目を向けていると、Elzaの体がビクンと跳ねた。まるで電流でも暗かったかのように……。
「エルザか……」
と、言う烏鵲の声が僅かに聞こえた。エルザ……。つまり、人格が交代したのであろうか? エルザは先ほどまでの美少女というような顔つきから、どことなくきりっとした美少年のような顔つきに変わった。確実に今の彼女は俺が知っているElzaではない。俺の知らないエルザに変化したに違いない。
「やれやれ、俺の出番か……」
エルザが言った。完全に声がElzaのものではない。少年のような声に変化している。
「何が起きている?」
と、魁江が言った。戦闘を見つめていた浄瑠璃も、突如現れたエルザの変化についていけないようであった。
「分からない。けれど、何か変わったわね」
「どうする? エルザ本体を攻撃するか?」と、魁江。
「そ、そうね。今はエルザを封殺するのが必要なのかもしれないわ」
と、浄瑠璃は言い、魁江に対し、エルザ本人を攻撃するように命令する。忽ち、魁江は〈氷結の魔人〉をエルザ向ける。エルザは現在、式神による警護を受けていない。完全に生身の状態なのである。それなのに、当のElzaは全く慌てた素振りを見せない。式神自身も後ろに下がり、彼女を守ろうとはしていない。俺の中でとめどない不安が流れていく。しかし、その不安は瓦解する。
魁江の攻撃がエルザを襲う。普通なら、Elzaの体は〈氷結の魔人〉の攻撃により粉々になったはずである。しかし、事態はそうならなかった。見えない膜に包まれているかのように、エルザは無傷だ。この不可解な現象に、浄瑠璃も魁江も驚きを覚えているようであった。