7.婚約破棄された令嬢の依頼 7
郊外とはいえ貴族の屋敷を売却すれば、賠償金100万ネイを支払ってもお釣りがくるだろう。
ただ金銭の返済に困り邸宅を処分したとでも噂が広まれば、侯爵家の権威は地に落ちる。社交界で敬遠され、事業にも悪影響を及ぼすことは想像に難くない。比較すれば婚約破棄による悪評などささやかなものだ。
固唾を呑んで成り行きを見守っていた使用人たちからも、さすがに非難の声が上がる。この別邸に勤める彼ら、彼女らにとっては、状況次第で失職の危機になる。
「無茶を言うな……屋敷を手放すなどできぬ。常識的に考えてあり得んだろう」
「賠償金を支払わないのは常識的とでも?」
銀狼は肩を竦め、もう飽いたと言わんばかりに黒羊を促した。
「茶番はもう良いだろう、黒羊」
「堪え性のないこと。でもまあ、そうね」
ドレスの裾を翻すと、黒羊は徐に両手を広げる。
何かの魔法が発動したのが、今度は誰の目にもはっきり見て取れた。
「……『検索』」
「イブリス様!」
ルルティエが驚いて叫ぶ。
魔法はイブリスに対して向けられていた。鈍い光が一瞬だけ身体を包み込む。
「な……?」
イブリスは己の身に何が起こるかと警戒を強めたが、特に危害を加えられた様子はなかった。
「な、なんだ。大丈夫だ、ルル。別にこんな虚仮威し……」
「地下ね」
手を翳したままの黒羊が、不意に足下を見遣りながら言う。
「金塊と宝石。ほぼ見合いでしょう」
「!?」
「な、何故それを……!」
隠し財産を言い当てられ、イブリスは再び蒼白となった。虚勢を保つ余裕もなく、だらだらと汗が流れる。
黒羊は両手を収めて、前に組み直した。
「これは『検索』の魔法」
「なんだと?」
「あまり一般的ではございませんから、ご存知ないのも無理はありません」
「執行課が独自に扱っている固有の魔法だ。なんてことはない、単に他人の持っている財産をつまびらかにするだけのつまらん術だが」
「まさか……」
魔法の概要を聞き、イブリスは改めて取立人の力を思い知る。
大貴族が私財管理局に届出のない財産を有しているケースは珍しくない。特に現金や不動産と異なり、動産の所有権は証明が困難なものもある。購入履歴や元手を調べれば不可能ではないが、それなりに時間と手間がかかる。
その労力も必要なく、距離も場所も無関係に、「検索」の魔法は債務者の資産を追いかける。イブリスの持ち物だと自他共に認識している対象は何なのか、何処にあるのかはもちろん、その資産価値すらも黒羊は容易に把握できた。
だからこそ彼らは取立人と呼ばれるのだ。
相手の身ぐるみを剥がすまで回収の手を抜かない。その能力の一端が固有魔法に現れている。
黒羊と銀狼は今一度イブリスに向き直った。
「さて」
「そろそろ選んでもらおうか。この邸宅を差し出すか、地下にある金目の物で支払いを済ませるか」
捕食者は獲物を逃さない。
崖の淵に立たされ、イブリスは錯乱した。
「……う」
「うぁああああああ!」
「イブリス様!?」
きゃあ、とルルティエはか弱く悲鳴を上げて尻餅をつく。
イブリスは腰の剣を鞘から抜き放った。機敏ではないものの一応専門の訓練を受けただけあり、常人よりはずっと素早い動きで踏み込んでくる。
至近距離から切り掛かってくる相手と、瞬時に自分の剣を構えた銀狼を交互に確認して、黒羊は僅かも動かなかった。
「あらあら」
「愚かな」
「……がっ」
剣戟の音は一瞬で消えた。
猪突してきた剣先を軽くいなしてイブリスを床に転ばせると、銀狼は脅すように刃を首先近くに突き付ける。
「イブリス様!」
ルルティエは床にへたり込んだまま、菫色の瞳を大きく瞠く。
恋人の声に気力を奮わせて、イブリスは唸った。
「き……さま」
「正気の沙汰とは思えんな」
「貴様! ぼ、僕に剣を向けてただで済むと思うのか? お前たちは未来のガンダイル侯爵を敵に回したんだぞ!?」
ここまでに漏らした嘆息の数を、すでに黒羊は数え切れない。
「……まったく、しょうがないこと」
貴族社会に生きて、よもや執行課の独立性を知らぬなど、いったい学院で何を学んだのだろう。
「執行係は貴賤身分を問わず、手段も問わず、債権の回収を何より優先することを、国により許されております。むしろそれが職責です」
「貴様がどれだけ身分を笠に着ようと、我々を咎めることなどできぬ」
だからこそ取立人は国中から恐れられ、忌避される存在なのだ。
「……くっ」
イブリスは悔し気に表情を歪めた。
半ば自棄的にイブリスは考える。
もはや、どうあっても抗う術はないのか。
邸宅も金塊も宝石も、これからルルティエと二人、愛の生活を送る上で必要な財産だった。
正式に後を嗣ぐまで、侯爵家の資産はイブリスの自由にはならない。
伯爵家の令嬢を捨てて貧しい男爵令嬢を選んでから、父のガンダイル侯爵の態度もかなり厳しくなった。援助も多くは期待できまい。
このまま何もかも奪われる絶望の未来しかないというのか。
ただ婚約を破棄しただけで。
いや――。
何を失っても自分には支えがある。
そう……ルルティエがいれば。
真実の愛さえあれば、一時は苦しくとも耐えられよう。少なくとも侯爵位を継承するまでの辛抱だ。
そう思えば屈辱もやや緩和された。
しかし、イブリスの甘い見通しを裏切るかのように、追い打ちをかけて黒羊が告げた。
「ああ、そうそう」
ベールの奥の双眸は、イブリスだけでなくルルティエも観察する。
「お父上、ガンダイル侯爵は貴方様を廃嫡なさるそうですわ」
「……え?」
「な……に」
空気が凍る。
黒羊が無遠慮に投げつけた衝撃は、イブリスがこの先、貴族社会の表舞台から消え去る未来を指し示していた。