5.婚約破棄された令嬢の依頼 5
依頼を正式に受ける前のことになる。
黒羊はアリアベル・ライトニアにひとつの選択をさせた。
「執行課への依頼方法は二通りございます」
この先の説明は、如何に学院の才媛でも専門でない以上詳しくはないはずだ。ただ正式な執行依頼には必要な知識だった。
「最も一般的なのは、代理請求という方法です」
「え? ええ……わたくしに代わって、イブリス様やルルティエ様から賠償金を取り立てていただけるのですのよね?」
黒羊は頷き、詳細を続けた。
「代理請求の手数料は債権額の2割です。うち1割は依頼時にお支払いいただき、債務者から全額回収が困難となった場合も返却できません」
アリアベルは納得して頷き返す。
つまり、相手方の資産が不足しており一部しか取り立てできなかった際のリスクは、ある程度依頼者自身が負うのだ。
無論、全額が無事回収されれば、残りの手数料を執行課に支払い、実入りは8割となる。
「もう一つ、債権譲渡という方法がございます」
「譲渡?」
「簡単に言いますと、私ども執行課がアリアベル様がお持ちの請求権を丸ごと買い取らせていただく、という手法です」
聞き慣れない用語に首を傾げるアリアベルに、黒羊は噛み砕いて説明した。
「本件であれば、イブリス・ガンダイル氏への100万ネイの賠償請求権。私どもから50万ネイを受け取る代わりに手放していただきます」
「半分の金額で権利を売れと?」
「左様です。貴女様の利益と損失はこの瞬間にも確定いたします」
アリアベルは当惑した表情で沈黙する。
極端な話、執行課がイブリスに対する回収に全面的に成功した場合、アリアベルが受け取る金額は代理請求で80万ネイ、債権譲渡で50万ネイだ。逆に失敗した場合は、後者は変わらず50万ネイを受け取ることができるが、前者は10万ネイの損失を出す可能性がある。
「殆どの方は代理請求をお選びになりましてよ。むざむざと5割も抜かれるのは惜しいのでしょう」
過去に債権譲渡を選択したのは、余程取り立てが難しいと判断される案件か、当事者が相手から一切の関わりを断つ意向ですべてを執行課に押し付けた事例に限られる、と黒羊は続けた。
説明が済めば、後は依頼者の結論次第だ。机上に用意された二種類の契約書は、令嬢の手がペンを滑らせるのを待っている。
思案した結果、最終的にアリアベルが示した意思は、意外にも少数派に属する方法だった。
「……わたくしは、決して金銭がほしい訳ではありません」
片方の契約書を手に取り、さらさらと迷いなく署名をすると、アリアベルは迷いを断ち切るかのように言った。
「身勝手な振舞には相応の処遇と罰を、と思ったまでです」
「理解します」
黒羊は署名済の譲渡契約書を受け取る。
「では、こちらが代金の50万ネイと1万5千ネイになります。お屋敷にお届けしますか? 夕刻には手配できますけれど」
テーブルにはいつの間にか多量の金貨が置かれていた。
学院の魔法科で学ぶアリアベルにも気配を悟らせぬ素早さに、思わず感嘆の声が上がる。
「今の魔法は、『交換』……?」
「え? ええ」
アリアベルが思わず口にしたのは、持ち物に予め所有印を付け、一定の条件下で場所を入れ換えるという魔法の名称である。
この場合、金貨と契約書に印があり、署名で発動が可能なのだろう。
条件さえ巧く付与できれば、単数対複数や多方向のような複雑なパターンも扱えるが、空間を歪めるほど強固な魔法印を刻むのはかなりの労力がかかる。効果は一度きりなので、手間のわりに使い勝手が悪い術と言われている。
「そういえば、アリアベル様は魔法科に籍を置かれていましたね」
「はい。けれどまさか、魔法省以外でも魔法を扱われるとは存じませんでした」
魔法の才は天賦のものであり、才能が認められれば必ず王立学院に入り、魔法科に進学する。卒業後は、就労の必要がない高位貴族を除き、魔法省に就職するか、貴族のお抱えとして雇われるのが通例だ。どちらも一般の役人とは比較にならぬほど厚待遇と知られている。
逆に言えば、他の省庁に魔法の使い手がいることは大変珍しい。執行課がやはり普通の役所とは一線を画していると知り、アリアベルは自らの選択に迷いがなくなったようだ。
「アリアベル様は、賢明な判断をされました」
黒羊は当初より柔らかく微笑む。
「……わたくしが?」
「不実の輩になど、これ以上関わり合いを持たれぬ方が御身のためです」
艶めくベールの裏側には冷たさも毒々しさもなく、緊張を解けずにいたアリアベルに、ほんの少しだけ安堵を与えた。
+ + +
「宣告します」
依頼者の決断を思い出しながら、黒羊はきっぱりと告げた。
「アリアベル・ライトニアの保有する債権は、今日を以って執行課に譲渡されました。なお、この宣告により当該請求権は正式に執行課が有します」
「何を言って……」
イブリスは理解が追い付かず混乱している。
「今のは……イブリス様、おかしいです。多分、何か魔法が……」
気がついたのはルルティエの方だった。魔法科の所属ではないはずだが、案外才能があるのかもしれない。
「男よりずっと見込みがあるな」
ほう、と銀狼が感心して呟く。
二人に作用している魔法の気配はとても微弱で、常人に察知できるほどあからさまではなかった。
「魔法だと? 何をした、取立人……!?」
「心身に害を及ぼす類いのものではございません」
焦るイブリスに、黒羊は素っ気なく言う。
「契約による縛りを強固にするだけの魔法です」
「効果と言っても、常に貴殿らの居場所が特定できるといった程度だ。約定が履行されれば消失するから全く問題はない。気にするな」
何でもないことのように銀狼が補足する。
逃れられない――ただそれだけのことだと。
恐れか怒りか、イブリスは唇を震わせる。
ルルティエは男の背後で小さくなった。
「ご理解いただけましたか?」
黒いドレスの膨らんだ裾をすっと揺らして、黒羊は歩を進めた。
慄く両名の眼前に右手を翳し、親指と人差し指を折り曲げる。
「あなた方には三つ、選択肢がございます」