15.天使は再び踊る 2
リーナはガンダイル家別邸での一幕を思い出す。
項垂れるイブリスをよそに、へたり込んでいるルルティエ自身の賠償について、執行係の黒羊としてリーナは問うた。
「私、は……」
ルルティエはのろのろと立ち上がった。
「私は……分割でお支払いいたします。お許しいただけますか?」
イブリスに対して完全に背を向けたルルティエは、覚悟を決めたように告げる。はっきりとした声音だった。
「とは言っても学生の身。卒業後に働きますので、時間を頂戴したく存じます」
清廉な少女が不幸にも婚約者のいる男性と恋に落ちてしまった。甘んじてその裁きを受ける姿勢と真摯さは、冷酷な取立人でなければ許しを与えたくなるほど健気に見えた。
「ル……ルル」
「イブリス様」
ルルティエは振り返らずイブリスの名を呼んだ。
「私は貴方に相応しくありません」
「こんな私と出会ったばかりに、貴方は侯爵家から廃されてしまった。私はもう、貴方と一緒にいることはできない」
「そんな……ルル、君は悪くない。僕が……」
「誰が許しても、私自身が許せません。これからの人生はすべてアリアベル様への贖罪に捧げます」
「君の負債も僕が払う。地下の金品をすべて引き渡せば、その程度の余力はあるはずだ」
「駄目です」
縋るイブリスの手を取らず、ルルティエはきっぱりと拒絶する。
「これは私の罰です。イブリス様にご迷惑はおかけいたしません。どうかイブリス様、私のことは忘れてください」
有無を言わさず、あまりにも淀みなく言うルルティエに不審を抱いたのは、このとき黒羊――リーナだけだった。
後に聞いたところによると、「下手に借りなんか作って未練がましく付き纏われたら困る」からという理由で、イブリスの申し出を辞退したらしい。
泣き真似をして恋人から去るルルティエの本性を、イブリスは最後まで気づけなかった。
跡継ぎの位を失い、財産を失い、社会的信用を失い……そこまで犠牲にして得た恋人まで、結局のところイブリスは失った。そしてただひとつ、真実の愛の幻想だけは失わずに済んだのだ。
ルルティエ曰く、せめてもの慈悲なのだそうだが、逆に残酷に思えるのはリーナだけだろうか。
+ + +
「あーあ、早くいい殿方が見つからないですかね」
一度失敗したにも拘らず、ルルティエは全く懲りていない。
見習いになってからのルルティエは、リーナたちに本音で接してくる。目当ての男の前以外では猫を被るのは無駄だと判断したのだろう。
それを微笑ましく感じるか馴れ馴れしいと取るか、或いは汚らわしいと唾棄するかは個人の嗜好によるが、少なくともリーナは比較的肯定的だ。
「魔法科の勉強とかこの仕事に時間を取られるのは、正直痛いんですよ」
「あら、だったらどうして引き受けたの?」
「えー?」
ルルティエは当たり前のように返答する。
「そんなの無理ですよ。だって怖いじゃないですか、王弟殿下」
「怖いかしら?」
「黒羊さんだって知ってるくせに」
肩を竦めて、ルルティエは苦笑した。
「見た目は優しそうですけど、実は相当な狸でしょう、あの方。断ったらどこに売られるかって思いましたもん。私、そういう匂いはわかるんですよ」
世間では人当たりがいいと評判の王弟ハミルに対して、一度会っただけで的確に裏を読める嗅覚はさすがである。
「王族って皆ああなんですかね。学院にも王子様がいますけど、あの方もきっと同類だと思います」
いきなり件の第三王子を出されて、リーナは内心で僅かに動揺する。止むなくして関わり合いが生じたとは言え、日常に厄介事を持ち込んでくる相手の話題など、まったく面白くない。
「王子……ね」
「見た目は爽やか超絶美形なんですけどね」
「貴女は狙わないの? 王子様なんて一番の優良物件じゃなくて?」
「まさか。勘弁してくださいよ」
けらけらと、決してお上品とは言えぬ笑い声を立てて、ルルティエは即座に否定した。
「そこまで身の程知らずじゃないです。どんなにお金積まれても、あの手の内面真っ黒そうな男には近寄らないのが身のためです」
概ね同意だが、不可抗力で相手から寄って来られたリーナの心境は複雑である。
「尤も王子様は、最近どこかの伯爵令嬢に夢中だそうだから、言っても関係ないですけどね」
ルルティエは黒羊の素性を知らないため、気に留めるでもなく口にした。基本的に執行係同士でも、互いの正体は隠匿しているのが普通なのだ。
第三王子シルヴィのことを考えると、リーナは陰鬱となる。
求婚騒ぎから幾度となく顔を合わせているものの、その真意は未だ知れない。
裏があるのはわかっているが、あちらも警戒しているのか、正面から切り込んでも口を割ろうとしなかった。或いは、余程面倒な――否、重大且つ危険な事情でも抱えているのか。
ファンのご令嬢も中庭での揉め事から少しは大人しくなったとはいえ、下手に注目を浴び続けるとこちらの仕事に支障がで兼ねない。
そろそろ王弟にでも相談して、背後調査をお願いするべきかもしれない。あの上司に借りを作るのは気が進まないが……。
無駄なお喋りと考え事をしているうちに、馬車は目的地へと着いた。
そこは王都の外れ――とある商会の、あまり使用されていない古びたぼろ倉庫が置かれている場所だった。