14.天使は再び踊る 1
もう2年も前のことだ。
その日、シャルアリーナ・レインは伯爵領にいた。すべては偶然であり、運命ではない。
成人前の貴族令嬢には相応しくなく、リーナは屋敷を出て単独で散策をしていた。妾腹――平民のため公には結婚ができなかった母親の娘であり、実父の正妻が亡くなるまで市井で育った彼女には、貴族社会の決まりごとはとかく息苦しい。
そもそもリーナの実父自体が四男で、本来であれば伯爵家を嗣ぐ立場ではなかった。幾つかの不運に見舞われ、祖父母や伯父にあたる人々が揃って同時期に亡くなったため、望むべくもなく転がり込んできた地位だった。
レイン伯爵はリーナに貴族の礼儀作法を身に着けさせた以外、あまり口煩くしない。若かりし頃、実家の圧力に負けて、身分違いの恋人だった母を捨てた負い目でもあるのだろう。
やや特殊な環境とはいえ、貴族でなくともそれなりに生きてきたリーナは、特に実父を責めるつもりはない。婚姻前の恋愛の結果であっても、正式な妻の地位が優先されるこの国で、黙秘せざるを得なかった実父の立場も承知している。
ただ、それが理由で勝手が許されるのであれば、利用させてもらうまでだ。
リーナは単身で馬を駆ける。乗馬はまあ、ぎりぎり貴族令嬢にも許される趣味のひとつだろう。
広い草原を数刻も時間をかけて進み、自領でも境の方まで行き着くと、リーナは馬を止めた。
「……嫌な感じ」
周辺に隠し切れない物騒な気配を感じ、馬もリーナも緊張を走らせる。
背の高い草の影に、何人かの手練れがいる。
領地の者でないことは明らかだった。
厄介事の匂いに、リーナは巻き込まれまいと気づかれぬよう踵を返す。馬の進行方向を変えるべく手綱を引いた。
――その直後、だった。
刺客から身を隠して叢に蹲る、ある人物の姿を目に留めてしまったのは。
後に雇い主となる王弟ハミル・エルハディル・サビと、稀な育ち方をした伯爵令嬢シャルアリーナ・レインは偶然に邂逅した。
この出会いはやがて、リーナと他の幾人かの未来に影響を与えることとなる。
◆ ◆ ◆
からからと揺れる馬車は王都の外れに向かってゆっくりと走っている。
曇天は厚く重く、この先の憂鬱を予告しているかのようで、執行係の黒羊に扮したリーナはやや気が滅入った。
馬車の座席にはリーナのほかに、もうひとりの人物がいた。
白いフード付きのローブを頭から被った小さな肢体は、それが細身の女のものであることを示唆している。鼻から口元は白いストールで覆われており、傍からは顔立ちすらわからないが、リーナは彼女が同年代の少女であることを知っていた。
初仕事の緊張もなく、少女はゆったりと寛いでいる。なかなかに胆が座っている言えよう。尤も、そうでなければこの職には就けないだろうが。
「まだかかりますか、黒羊さん?」
少女は馬車に揺らされるのに飽きたのか、つまらなそうに尋ねた。
「もう少しでなくて、白翼」
「ふふっ……変な呼ばれ方」
リーナから「白翼」と呼ばれた少女は、愛らしくも毒々しく笑う。
「本名や顔がバレないようにって、面倒くさいですよね。私は黒羊さんと銀狼さんしか知らないけど、他のひとたちもそうなんですか? 真面目にやってるなんて尊敬しちゃうわ」
弱々しく控え目、可愛らしく清らかな初期の印象はすでに失われている。その風貌から学院の男子生徒の一部からは天使の渾名で呼ばれる少女だが、生来は強かで勝気な性格のようだ。
彼女の名は――ルルティエ・ディーバ。
つい先日、ガンダイル侯爵家より廃嫡されたイブリスとともに執行課の請求対象となった男爵令嬢は、執行課に多額の借金を抱えた。
僻地にある実家の経済力では負担が厳しい。そこを王弟ハミルに付け入られ勧誘され、なんと執行係の見習いとして従事することになったのだ。
「貴女も仕事は真面目にやってほしいものね」
「わかってますよ。当面は地道に借金返済に勤しみます」
「当面……ね」
「もちろん。3万ネイくらい軽く貢いでくださる殿方が見つかるまでは」
彼女の指導係を任されたリーナは、その逞しさに苦笑する。
「懲りないこと」
「懲りてますよー。今度は下手を打たない堅実な方がいいですよね」
ルルティエは悪女のように言った。
より条件のいい結婚相手を探す下位の貴族令嬢には、特有の必死さと意気込みがある。学院にいれば目の当たりにすることもあった。どこか遠い対岸の出来事と軽視していたが、ここまで裏表が激しい人物も珍しいのではなかろうか。
元より見た目通りのか弱い少女ではないと予想はしていた。ルルティエと初めて会った夜にはその片鱗が見て取れた。
蓋を開ければ想像以上の性格の悪さである。
執行課はその職務の内容から、精神的にタフであり、酷薄、或いは多少ふてぶてしい性格でないと続けることができない。ルルティエはある意味で素質があった。彼女と同じく表面を取り繕うのが得意な王弟にとって、見抜くのは容易だったのだろう。
「でも魔法科なんかに編入させられたから、婚活は難しくなっちゃったなあ」
「それは残念ね」
「いずれ魔法省で出世しそうな相手を探すから、いいんですけど。当初の目標とは違いますが、まあ折角なので」
「魔法科だと高位貴族は少ないから?」
「ええ、だから本当は騎士科のお坊ちゃんの方が都合が良かったんです。彼みたいに馬鹿……いえ単純な方も多いから」
とてもイブリスの後ろで震えていた娘と同一人物には思えない。菫色の瞳は冷ややかに恋人だった男を貶している。
「仮にも恋仲だったのでしょう?」
「侯爵家の跡取りだったんですよ。多少の難は目を瞑ります。確かにちょっとあれかなとも思ってたんですけど、そこは私が焦って見誤りました。本能的には察してたのに、地位に目が眩んだんですよね」
ルルティエは自嘲するのも上から目線である。
ただ、思い返すも彼女の引き際は悪くなかった。最後まで決して本性を悟られずに幕を引いたのも、自身を顧みて冷静に反省することができるのも、それなりの資質なのだろうとリーナは考える。
あの日の夜、ルルティエ・ディーバは選択を迫られた。
庇護されるべき清純な少女と思われたルルティエは、しかし絶望の淵にある恋人を見捨てるのに、殆ど何の躊躇もしなかった。
健気を装いながらも強い瞳を返す姿を、リーナは思い出していた。