10.王立学院録 2
サビ王立学院はサビ王国が運営する、唯一の国立就学機関である。
学院施設は王都サビサにあり、国中の貴族の子どもたちが集まってくる。何故なら、男爵位以上の貴族家に連なる者は、7歳から学院の基礎課程を学ぶことが義務付けられているからだ。
貴族だけでなく、平民でも学院で学ぶ資格はある。ただし学費はかなり高い。
王都でも比較的裕福な商人の家は、将来的な貴族家とのつながりを求めて、我が子を入学させる場合が多かった。また、中途で編入して来る生徒の殆どは、魔法や学問、武芸の才を見込まれ、貴族の推薦と援助を受けた一般家庭の子どもである。
成人する15歳になるまでは、全生徒が基礎課程を履修する。その後、専攻課程に分かれ、3年履修して卒業するのが一般的な流れだ。
専攻課程は四つの科のうち、己の志望する分野をひとつ選択する。それぞれ、「騎士科」「魔法科」「研究科」「学術科」である。
騎士科と魔法科はその名の通りだが、研究科と学術科の違いは科名からは判じ難いかもしれない。結論から言うと、研究科はより深く高度な学習が必要なのに対し、学術科は基礎課程に毛が生えた程度という難易度の差である。
貴族令嬢の殆どは卒業後に嫁ぐため、難しい学問は疎んじられ、ほぼ迷わず学術科へと進む。逆に、女子であっても国の機関に活躍の場を求める一般家庭出身者、また実家の商売に貢献したいという商家の娘は、研究科や、才能があれば魔法科を選んだ。
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長期休暇が終わり、後期の授業が再開された学院で、その日、とある事件が起こった。
王立学院の騎士科には、現国王の三人目の息子である王子が在籍している。全校生徒が承知している有名な話だ。
16歳の王子は王家の特徴である金髪碧眼の見目麗しい優男で、どちらかと言うと国王より叔父の王弟に似ている。
その容姿から学院の内外で人気は高く、とりわけ学術科の女子生徒からは憧れの的として騒がれている。まだ婚約者も恋人と噂される相手もいないため、あわよくばパートナーの座を射止めたいと夢見る令嬢も少なくない。
その第三王子が前触れもなく研究科の教室に現れたのは、帰り支度も始まる放課後のことであった。
放課後、シャルアリーナ・レインとディタ・アルファは教室の片隅で、女子らしく噂話に興じていた。研究科の生徒は勉学一筋の堅物と揶揄されるが、年頃の乙女らしい一面もある。
内容は多分に漏れず色恋沙汰だった。そこそこ人脈のあるディタが、学院の話題を拾ってきたのだ。
「少し前にあったじゃない? 侯爵家と伯爵家の婚約破棄騒ぎ。憶えてる?」
「んー? 食堂であったやつ?」
休暇中の記憶も新しいリーナだが、動揺を僅かにも見せずに受け流す。ディタはうんうんと大きく頷いて首肯した。
「それよそれ。何でもその浮気男が学院を辞めるかもしれないんですって。ガンダイル家の親戚筋の方から聞いた話よ。今更おかしくない? 休暇前は人目も憚らずいちゃついてたのに」
「へえ……」
まあそういうこともあるだろうな、とリーナは内心で納得する。
学院には平民もいるが、殆ど貴族の庭のようなものだ。廃嫡された息子を通わせ続けるなど、恥以外の何物でもない。
「どうしたんだろうねー」
「家の方で何かあったのかしら。ついでにあの清純ビッチごといなくなってくれれば、もっと良かったんだけどね」
「ディタってば口が悪い……」
自分も令嬢らしからぬ言葉遣いなのは棚に上げ、リーナはやんわりと注意した。
「ん? 清純……なのにビッチ?」
「あら、知らない?」
「有名な話よ。ディーバ男爵令嬢は天使の顔で小悪魔みたいに男を陥落させるって。貴族のお嬢様方から出た悪口だから、僻みも入ってるわよね」
ディタは辟易として肩を竦めた。
「まあ他の男の話は兎も角、ライトニア伯爵令嬢の名誉を傷つけたのは事実だもの。叩かれてもしょうがないんじゃない」
「確かに、落ち度もないのにね。お気の毒……」
「でも逆に、この騒ぎがきっかけでアリアベル様の学院での優秀さが伝わって、王家との縁談が浮上してるって噂もあったわ」
今度はリーナは本気で感心した。
一日足らずで情報を入手するディタの行動力には、毎度ながら驚かされる。
「王家か……すごいねー」
「まったくよね。そして王家で決まった相手がいない方と言えば」
「……独身の王弟殿下?」
「年齢離れ過ぎでしょうが。渋いわね、貴女って」
自分たちより20歳以上年嵩の人物を挙げられて、ディタは苦笑した。
「もっと身近にいるでしょ? 私たちの年代で王族といえば、第三……」
不意に、ディタが言葉を失う。
驚愕を込めた視線が教室の入口に向かっていた。
リーナもすぐに気がついて瞠目する。
入口の扉付近に、見慣れぬ人影が佇んでいるのがわかった。
まさかとは思うが、あれは確か――。
「……シルヴィ王子」
第三王子シルヴィ・クロゥディル・サビ。
まさに噂の人物そのひとの姿がそこに在った。
「御機嫌よう」
あまりにも突然に研究科の教室を訪れた長身の王子は、驚く周囲を意にも介さず進むと、リーナとディタの目の前で立ち止まった。
「え……?」
「……殿下?」
訝しがる二人を前に、シルヴィは前置きもなく騎士の礼を取って跪く。
まだ残っている他の生徒たちが、何事かと遠巻きに眺める。幸い研究科は女子が少ないため、大きな騒ぎには至らない。
リーナは面喰って隣のディタを見た。
「えー……ええと、ディタ。王子殿下とお知り合い……だったり?」
「まさか」
ディタがぶんぶんと首を振る。
シルヴィはくすりと笑った。
春の陽射しのような柔らかな煌きに、リーナはどきりとする。
「レイン伯爵令嬢シャルアリーナ殿」
「は、い?」
名指しされ、リーナは黒瞳を瞬かせる。
爽やかに微笑んだまま、シルヴィはリーナの手を取り、恭しく唇を寄せた。
「シャルアリーナ嬢、いや、リーナと呼ばせてもらっても?」
「は? え……はあ、はい」
リーナは反応鈍く装いながら、唐突に現れた王子を観察する。
名実ともに騎士科のトップを張る第三王子――。
実力も人望も申し分ないが、王位継承からは一歩引いた態度で、将来は現王弟のような立場で王の補佐役に徹したいと公言している。
人当たりが良く、野心もなく、国家への忠誠も厚く、信奉者は数知れず。勝手に纏わりつく連中はいても、自ら特定の生徒に肩入れをしたことはない。ましてや女子生徒との間に誤解を招く挙動など噂にも上らなかった。
……胡散臭い。
初めて会ったに等しい王子に対し、リーナが抱いた印象は真ん中よりもかなり下の位置付けである。
無論、警戒心や猜疑心は表に出さず、リーナは戸惑う振りを続けた。
「あの……殿下」
目上の人間を見下ろすような体勢に気まずさを覚えながら、リーナは仕方なくシルヴィに尋ねる。
「その、何のご用向きで」
「リーナ」
優しく甘やかに、シルヴィは名を囁いた。
唇が再び白い手の甲に触れる。
「休暇が終わったらと、決めていた」
真剣な眼差しがリーナを捉える。
本能が危険信号を点滅させた。これ以上は聞いてはいけないような気がした。
「殿下……?」
嫌な予感がして、リーナは思わず自由の利く片方の手でシルヴィの口を塞ごうと試みる――が、間に合わない。
シルヴィは淀みなく驚くべき言葉を続けた。
「リーナ、君に望む」
「私は君に結婚を申し込む」