第2章 女王の意向
「いい、いらない! 絶対に会わない!!」
「どうして? 助かったって言ってたじゃない」
「それとこれとは話が別だ」
この頃のヨシュアは、こんな不毛なやりとりに頭を悩ませていた。
「カミは会ってもいいって言ってくれたのに」
「ティアラ、それ以上近付いたら話しもしないからな」
今度の災難は、婚約者(仮)のティアラだった。
女嫌いの恐怖でパニックになった悲惨なヨシュアを目の当たりにしたにも関わらず、兄王・ファウストの手配で半隔離されたこの部屋に秘密の通路を使って忍んでくるのだ。
訪ねて来なかったのは、暗殺されかけて走り回った後の一夜だけだ。
「わかってる。ここからは動かない」
嫌だと言えばこうして無理強いしてこないのだが、姿を見せない特別な護衛のリーダーであるカミを紹介するのだけは、なかなか諦めてくれそうにない。
今も、膨れっ面で次の誘い文句を探している。
そんなやり取りが、もう四・五日も続いていた。
「今日はおしまいだ」
「もう? じゃあ、また明日」
ティアラは手を振って、あっさり帰って行った。
しつこいくせに、妙なところで素直な少女だ。
「はあ、めんどい」
ヨシュアはごろりと毛布に埋もれた。
ティアラの毎夜の迷惑な面会に、ヨシュアはいくつか約束をさせていた。
その一つが、面会はニ十分だけという決まりだ。
半端なのは、ヨシュアの五分とティアラの一時間との激しい主張の競り合いの結果だ。
今のところ、それらは律儀に守られている。
初日に黙って入ってくるなと言えば、許可が出るまで待っているのがティアラだ。
当然、ヨシュアは許可を出すつもりなどなかった。
ところが、そうすると勝手に壁の向こうから話しかけてくるのだ。
しかも、ティアラしか通れない通路を使っているので簡単に追い返す事ができない上に、いつまでいるのかもわからない。
人の気配に神経をすり減らすヨシュアには堪ったものではなく、仕方なく折れてやった。
その代わりに、やってくる時間帯と制限時間を設けた。
その方がまし、というだけの理由で。
「あれだけファウストが配慮したって、これだもんな。俺にこまごまと制約をつけるより、あいつに鎖でもつける方が、よっぽど効果があるだろうに」
妹至上主義なウェイデルンセンの若き王・ファウストは、普段は優秀な王様の顔をしていながら、妹姫のティアラが関わる件には度が外れた心配症になる。
極端すぎて、どちらの顔とも距離をおきたい人物だ。
現状では、王様業が忙しいらしく、中年貴族の油ギッシュと得体の知れない神官を一緒に見送ってから一度も顔も合わせていないので、そちらに関しては心穏やかにしてられた。
「まあ、いいや。あのお子様も、その内飽きるだろう」
ヨシュアの中では、ティアラは女でも婚約者でもなく、子どもとして認定する事にしていた。
そう決めておけば、仕方なくとは言え、暗がりで長い間繋がっていた熱い手の感触を気持ち悪いと思わなくて済みそうだったから。
* * *
「おはよう、今日もしっかり眠れたみたいだね」
地顔が笑顔のシモンが、ヨシュアに朝食を持ってきた。
「もう大丈夫だから、そんなに心配しないでいいよ」
本当は夜中に何度か目を覚ますのだけど、それはスメラギ家にいる時からの習い性なので言わないでいる。
「だったら、次の心配は何にしようかな」
「だから、心配なんかしなくていいって」
シモンは笑い、ヨシュアも笑顔を返した。
裏事情ありありの婚約の為、全く縁のない異国にヨシュアはやってきた。
誰の助けも当てにしないと強い覚悟をして。
それ程までに家を出たかったのだ。
外面を固めれば何もかも上手くこなせると信じてやり過ごしていたが、全てに歯が立たない自分が悔しかった。
けれど、心を配って側にいてくれていたシモンに気付いた時、ヨシュアは余計な力が抜けた。
「今日はどうする?」
「そうだな、この前言ってた加工場を見てみたいな」
「じゃあ、連絡を入れておくよ。ついでに、名水の飲み場も案内しようか」
あれからヨシュアは、ファウスト王からティアラと接触しないのなら好きにしろと言われていた。
最初は引き込もっている予定だったが、家を出てまで大人しくしているのもバカらしくなって、シモンにウェイデルンセンを案内してもらっている。
他国の一般市民に知られているわけでもないので、のびのびと観光を楽しんでいた。
「そういえば、シモンはカミって知ってる?」
「カミって、山守のカミ様?」
「お姫様は特別な護衛だって言ってたけど」
「だったら、そうだよ。俺は会った事ないな。存在自体、城の中でも知る人ぞ知るって感じかな。伝説的な逸話も多いからね。実際に会ってるのは、ファウストとティアラと、もう一人くらいじゃないかな」
「そうなんだ」
あの一連の騒動で、いくつもの疑問と、いくつもの秘密を仄めかされたヨシュアだが、身の安全の為に一切関与しないと決めていた。
謎の一つであるカミとは、会うべきではないという本能の警告に従っている。
「もしかして、ティアラが何か言ってきた?」
「え、いや、別に……」
心許したシモンでも、夜中にティアラと部屋で会っているのは秘密にしている。
シモンに悪気はなくても、狭い心を開いた相手にはサービス誠心が旺盛な性質だ。
あっという間に、ファウスト王に筒抜けになるだろう。
仲良くできるものならやってみろと鼻で笑ったファウストだが、これを知ればすぐに怒鳴り込んでくるはずだ。
「その気があるなら、デートの日程を組むよ。城下町見学の名目にすれば簡単だしね。もちろん、ファウストには内緒で」
「そんな気遣いは無用だよ。って言うか、シモンは俺が女嫌いだって理解してくれてるんだよね」
「そりゃまあ、あんな場面を見せられたらね。驚きすぎて何もできなかった。ごめん」
「いや、それは別にいいんだけど。だったら、どうしてティアラを推してくるのかと思って」
「ああ、そこか。嫌がらせじゃないよ。ただ、本当のところは克服したいんでしょ」
「どうして、それを?」
ある人は笑い、ある人は同情をする。
実情を知る身内は、接触の機会を減らしてやろうと考える程のヨシュアの女嫌いだ。
それを悪い、どうにかしろと注意するのは幼馴染みしかいなかった。
「それくらい普通にわかるよ。慣らすなら、ティアラは向いてると思う」
「まだ、子どもだから?」
「ふーん、ヨシュアには子どもに見えてるんだ。まあ、子どもっぽいところもあるし、実際、年下だけどね。そうじゃなくて、癒しの力があるからだよ。普段のティアラは誰からも好かれて、相手を緊張させる事がないんだ」
「ついでに妙な輩も惹きつけるようじゃ、世話がやけるよ」
「確かに、多少は弊害もあるけどさ。ヨシュアの方こそ、ティアラの容姿に少しも惑わされない辺り、問題は相当根深そうだよね」
「追々、頑張ります」
「外だと普通に見えるから、全然気付かれないんだよな。それも問題かもよ。もう少し、加減できないの?」
「外面がなかったら、布団の中で震えてるしかなくなるよ」
一緒に町を歩いてシモンは知ったのだが、外にいる時は女性相手でも優しく対応してるのだ。
もちろん、不要な接触はしないが、なまじ爽やかな少年を完璧に演じるものだから、不要な女性に好意を抱かせる悪循環が生じていた。
「ゆっくり克服するしかなさそうだね。ヨシュアは朝食にしてて。加工場に連絡してくるから」
この一時間後。
ヨシュアとシモンは合流するが、予定していた見学は中止になってしまった。
* * *
「捕まえた! ようやく会えたわね」
王族専用棟の通路を、立ち塞ぐように構えている女性がいた。
「エヴァン様!? こんな所にいらして、どうしたんですか。しかも、リオン様まで一緒なんて」
驚くシモンに無理もなく、女性は生まれて間もない赤ん坊を抱いている。
「だって、こうでもしないと、あの人が会わせてくれないでしょう」
「そんなに会いたかったのですか。言ってくだされば、私がお連れしましたよ」
「あら、そうなの? だったら、素直に頼めばよかったわね」
話にキリがついたとこで、ヨシュアは説明を求めた。
「こちらの女性はエヴァン様。お連れのお子様がリオン様。生まれて二週間ほどになります」
二週間前だと、ちょうどヨシュアがウェイデルンセンにやってきた頃だ。
「はじめまして、エヴァンと申します。王がご迷惑をかけてごめんなさい。私が初産の間際だからと、何も手伝わせてくれなくて。嫌な目に遭わせたと聞いたわ。また何かあったら、今度は私に言ってちょうだい。しっかり釘を刺してみせますから」
「え、まさか」
隣のシモンに、更なる解説を求める。
「はい。まさかのお后様です」
世継ぎの問題があるので結婚していておかしくないのだが、突然すぎるビックリな登場だ。
「はじめまして、スメラギ・ヨシュアと申します。ご挨拶が遅れて申し訳ありません」
「あら、あなたが謝らないで。王が、ヨシュアには会わせない! なんて、勝手に宣言していたのだから」
「はあ……」
ファウストの身内に対する独占欲は相当だ。
「ふみゃ」
ここで、赤ん坊のリオンが目を覚ました。
「あら、あなたもヨシュアにご挨拶したいのね。でも、ここで我慢してちょうだい。あなたも女の子なのだから」
「ご存知なのですね」
「ごめんなさい、王から聞いているわ。ここも絶対に安全だとは言えないけれど、私達は最大限の力であなたを守ります。だから、少しでもヨシュアにとって居心地の良い場所になると嬉しいのだけど」
エヴァンは優しく微笑んで、腕の中の赤ん坊をあやした。
赤ん坊は、癖のある母親の柔らかな髪にじゃれている。
エヴァンの年頃は、ヨシュアより少し上なだけだろう。
いやらしさは少しも感じられなかった。
そして、どこか自分の母親を思い出させた。
「あの、良かったら抱かせてもらえませんか」
この提案はシモンを驚かせ、エヴァンは笑顔をほころばせた。
ヨシュアがリオンを抱きかかえると、ふわりとミルクの匂いがする。母親の手から離れても泣く様子もなく、指をくわえてまん丸な瞳でじっと見つめ返してきた。
「いい子ですね」
「きっと、ヨシュアに抱っこされて喜んでいるのよ」
少年が拙い仕草で赤ん坊をあやす姿は微笑ましく、誰もが笑顔で通りすぎた。
そんな中、運悪く、素通りできない人物が通りすがった。
エヴァンの夫で、リオンの父親のファウスト王だ。
ほのぼした光景が目に入るなり、いろんな意味で驚きすぎて全神経が逆立った。
それでなくても、通りすがる前の時点で、ヨシュアに対する苛立ちは充分に蓄積していたというのに……。
* * *
この日のファウストは前倒した管理区の道路点検が一通り終わったと報告を受け、久々に穏やかな気持ちでいた。
その前が最悪だったので、尚更というものだ。
結婚二年目にして初めて授かった子どもの出産日が迫っているその時に、すっとこどっこいが何を血迷ったのか、大事な妹のティアラにちょっかいを出してきた。
おかげで、血の涙を流しながら方々探し回って、外国のシンドリーまで自ら出向かわなくてはならなかったのだ。
しかも、婚約の契約が済んで安堵し、いざ陣痛が始まったという最悪のタイミングで憎き婚約者としてヨシュアがやってきた。
ファウストは放っておく気満々だったが、陣痛の合間に「きちんと出迎えるまで、抱かせてあげませんからね!」とエヴァンに叱られ、仕方なく対面した裏事情がある。
おかげで、戻った時には生まれていて、産声を聞き逃してしまったショックは計り知れないものだった。
どれもこれもヨシュアに責任などないが、温かく迎える許容は個人の範囲にない。
最も信頼しているシモンが気に入ったようなので様子をみているが、問われればいつでも気に入らないと答えられる。
そんな不幸の連鎖を思い出したファウストが、ヨシュアをからかってストレス解消しようと思いついたのが朝食の事だ。
前に王の顔でつついてやったら、言い返してきた生意気さを思い出したのだ。
余裕で返り討ちにしてやると、いかにも悔しげに顔を赤らめていた。
あの時の顔が見たくなったのだ。
そこで、使用人達にさりげなく評判を聞いてみた。
少しでも不評があれば、大げさに苛めてやろうと考えての事だ。
ところがどっこい、誰にどう聞いてもヨシュアの評判は良かった。
特に、本人が大嫌いだと豪語している女性から、爽やかで礼儀正しいとすこぶる高評価なのだ。
古参者の中には、意地悪をしないで早く正式に結婚させてあげてほしいと訴えられる始末だ。
実に面白くなかった。
なので、ガラッと方向転換を決めた。
あんな男をからかうより、もっと簡単に幸せを感じられる最高の存在に癒してもらいに行こうと。
「エヴァン、リオン、パパですよー」
と、デレデレの顔をしてエヴァンの部屋に向かったのに、残念ながらどちらの姿もなかった。
散歩に出かけたらしいと聞いて、自ら探し歩いていたところで衝撃の光景を目撃してしまったのが事の次第だ。
「おっ前……女が嫌いなんじゃなかったのか!!」
「嫌いですよ」
「なら、どうしてそんなに近い!? 嫌がらせのつもりか!!」
ヨシュアは盛大なため息をついた。
「母親と子どもは女じゃないから平気なだけです」
女性に迫られただけでパニックになって悲鳴を上げていた口から出たとは思えない程さらりと返す。
しかも、ちょっとした問題発言だ。
「お前は、妙な度胸があるな」
「どう意味ですか」
本当に問題なのは、ヨシュアに全く悪気がないところかもしれない。
「もういい、なんでもない。なんでもいいから、リオンを寄こせ」
父親のファウストでさえ、まともに抱いたのは数えるほどしかない。
なのに、初めて会ったはずの男に大人しく抱かれているのが気に食わなかった。
ヨシュアは素直に渡したのだが、ファウストの手に移った途端、リオンは火がついたように泣き始めた。
「な、どうして!?」
「王が意地悪だからですよ」
慌てふためくファウストから、エヴァンが遠慮なくリオンを抱き取った。
すると、あっという間に泣きやんでしまった。
しかも、再びヨシュアの手に収まり、やはり気持ち良さそうに指をしゃぶっている。
「っく、私だって頑張っているのに」
思わず情けない本音がこぼれるほどの衝撃だった。
「ファウスト王、ヨシュアを家族として受け入れてあげてください。遠い異国に一人でやってきているのですよ。歳も近いのですから、兄として相談に乗るくらいの事をしてあげないでどうしますか。リオンにだって、伝わるのですからね」
釘を刺すと宣言していた通り、エヴァンは容赦なく夫に説教してみせた。
が、ヨシュアは他に引っかかる事実を聞き逃さなかった。
「ファウスト王は私と歳が近いのですか?」
てっきり、八つ離れた兄と同じ二十五・六歳だと思っていた。
「ええ、今年で二十歳になったばかりよ。いつもしっかりした王様なのだけど、私が年上だからか、時々、子どもみたいな駄々をこねるのよ。そんなとこも可愛いのだけど」
ふふと笑い、さりげなくのろけたエヴァンを眺めてから、娘に泣かれて落ち込んでいるファウストに視線を移す。
エヴァンが無邪気すぎるせいか、ファウストが出来上がりすぎてるせいか迷うところだ。
「王として威厳があるなら構わないって言ってるけど、本当はちょっぴり気にしているのよ。だから、気軽に接してあげてね」
なんて、小声で追伸されても、本人が目の前にいるのだから答えようがない。
しかも、どう転んだところで、ファウストは王様だ。
接し方に年齢は関係ない。
どうやら、エヴァンは天然な性質のようだ。
それでも、何かあれば苦情を訴える先としてヨシュアは心にメモをしておく。
エヴァンは再びリオンを抱き取ると、離れていじけているファウストのもとに向かった。
「ヨシュアに優しくしてあげてくださいね」
「う……出来る範囲でなら」
言わされた感バリバリだったが、今度はリオンも泣かなかった。
少しむずっただけで、欠伸をして父親の腕の中でうとうとしている。
「王様、お時間があるのなら、部屋でお茶にいたしませんか」
「う、うむ」
にこりと微笑むと、エヴァンはヨシュアに向き直った。
「ヨシュア、またリオンを抱いてあげてちょうだいね」
「あ、はい」
こうして、人騒がせな王様一家は仲良く去っていった。
ウェイデルンセンの最高権力者も、家庭ではかかあ天下なのだ。
やはり、女には気を付けるに越した事はないのだと、改めて胸に刻むヨシュアだった。
予定外の出来事だったが、大きく時間を取られたわけでもないので、ヨシュアとシモンは町に出かけるつもりでいた。
ところが、外に出たところで更なる障害に阻まれてしまった。
「何か騒がしくないか」
最初に気付いたのはヨシュアだった。
「本当だ、西門の辺りだね。ちょっと見てくるよ」
駆け出したシモンに遅れて見に行けば、すっかり人だかりが出来ていた。
女性もいるので頭を突っ込む気にはなれず、見える隙間を探っていたら服の裾を引っ張られた。
何かに引っかかったくらいに思ってみれば、その先にティアラがいた。
認識した途端、ヨシュアはすかさず距離を作る。
服だろうと、触れられれば鳥肌が立つ。
「何してんだよ!」
「早く逃げて」
なぜだか小声で、差し迫った忠告をしてくる。
「何があるんだ?」
「叔母様がきた」
ヨシュアはティアラの青い顔を初めて見る。
そして、間もなく戻ってきたシモンも同じ顔をしていた。
「ヤバイ、今すぐ隠れて!」
「え?」
なんの冗談かと思ったら、本当にとんぼ返りで部屋に戻された。
おまけに、しばらく出歩かないようにと言い置かれて、ヨシュアは一人にされてしまった。
「なんなんだ」
珍しい事に、サービス誠心旺盛なシモンが少しの説明もなしにいなくなってしまった。
やって来たのは、よほどの人物らしい。
叔母様と呼ぶからには女性のはずで、それだけでヨシュアは憂鬱になってしまう。
「事情は知らないけど、隔離するくらいなら会わせたくないんだろうな」
そこに文句はないので、大人しく従っておくつもりだ。
と、気楽に構えていたヨシュアが、考えているより深刻な事態なのではと心配になったのは、自室に隔離されてから三日目の事だ。
隔離策は徹底されていた。
部屋から一歩も出られない上に、シモンが全く顔を出さなくなった。
やってくるのは部屋付きの使用人だけで、最低限の食事を運んでくる程度だ。
それに、毎夜押しかけてきたティアラまでもが寄りつかなくなった。
そちらはむしろ喜べきなのだが、唐突すぎて戸惑いの方が大きかった。
誰の気配もなく、夢にまで見た静かな夜だというのに、実際に叶うと不安でしかない。
「どうして来ないんだよ」
夜中に、こんなつぶやきまでこぼすくらいヨシュアは淋しくなっていた。
もう、何を言われてもシモンを呼んでもらおう。
どうしても来ないのなら、こっちから会いに行ってやる!
そう決意した四日目の朝、ヨシュアの部屋を訪れる複数の気配がした。
何度目かの幻かと疑ってみるも、今度の気配は確かな手応えがあった。
束の間は素直に喜んでみたが、近付いてくる足音に縁のないハイヒールが混ざっていた。
気持ちは人恋しいピークに達していたものの、様々な危険をくぐり抜けてきた本能が、会うべき人物ではないと判断を下す。
ヨシュアは慌ててクローゼットに身を隠した。
そこまでする必要はないのに、とにかく体が動いていた。
そして、その感覚は正解だった。
幾度かノックが繰り返され、おそらくヘルマンだと思われる声がした。
どうやら引き留めているらしい。
それなら、困った事にはならそうだと安心した直後だ。
突然、ドアが蹴破られるような騒々しい音がして、カツカツと遠慮のない足取りでヒールの主が乱入してきた。
荷物の少ないヨシュアは私室を飾り付けていないので、生活している痕跡などパッと見では気付かないはずだ。
しかし、ハイヒールの主は楽観的な予想をあっさりと裏切って、いきなりクローゼットを全開にした。
まさかと思ったヨシュアは、突然の展開に動けなかった。
おかげで、散々身を潜めていた挙げ句、クローゼットで膝を抱えたまぬけな状態が初対面となってしまった。
「ふ。ファウストが見つけてきたくらいだから、どんな男か楽しみにしていたんだけどね」
見下ろしてくる女性は一筋の乱れなく髪をまとめあげ、シックなスーツに真っ赤なハイヒールで仁王立ちをしている。
三十前後だろうか。
にっこり微笑めば、にやける男が多そうな妖艶さの持ち主だ。
「ついてきなさい」
自己紹介もなく、従う理由もないのだが、逆らうには身の危険、いや、精神の危険を感じて素直に従う事にした。
「あの、どちらへ」
勇気を出して尋ねてみたのは、付き添ってきたヘルマンだ。
真面目で実直、妙な物真似で人を惑わせるくらいのヘルマンが戸惑う側にいるのはあまり例を見ない。
「決まっているだろ。私を謀ろうとした莫迦な甥っ子にお仕置きをするんだよ」
「……」
返事を受けて、それ以上ヘルマンが余計な口を利く事はなかった。
王族専用棟を抜け、すれ違う役人や使用人がざわめくのを尻目に、一同は王の執務室にやってきた。
中に目的の人物がいると確信したヒールの女性は、ノックもしないで扉を開いた。
「ごきげんよう、ファウスト坊や」
ご機嫌な女性に対し、現状を突きつけられたファウストは口をぱくぱくさせて言葉もなかった。
「互いに紹介がまだだ。当然、お前がしてくれるのだろう」
女性が艶やかに微笑めば、仕事をしていたであろう人達が全員一斉に引き上げた。
残っているのは機能していない口ぱくファウストと、顔を引きつらせているシモンだけだ。
「お茶の用意が必要ですね。シモン、頼みます」
現状を受け入れるのが早かったのはヘルマンで、指示されたシモンがぎくしゃくと動いた。
その際、ファウストのわき腹を幼馴染みのよしみでガスっと突つき、なんとか王も我を取り戻すという連携プレーが行われた。
そうして、みんなでテーブルを囲み、温かいお茶が出てきたにも関わらず誰も手をつけないという緊迫した状況が出来上がった。
「さて。ファウスト、紹介しておくれ」
妙に迫力のあるヒールの女性は、笑顔一つでこれでもかとプレッシャーをかける。
覚悟をしたのか、ファウストは王の顔で綺麗に動揺を隠した。
だが、すでに全員に伝わるほど喉を鳴らした後だったので、あまり意味がなかった。
「ヨシュア、こちらは亡き父の妹で、私の叔母にあたるレスターだ。若輩の私のサポートをしてくれていて、主に外交関係を担ってくれている。そのせいで、城を空けている事が多くてな。申し訳なくもあるのだが、叔母のおかげで、私は安心して民の為に励んでいられる。日頃から感謝しても足りないくらいだ。先日なんかは……」
そこで止まったのは、紹介されているレスターが片手を上げたからだ。
決して叔母とは目を合わさず、最大限に話を引き延ばそうとした見え見えな作戦は、片手で簡単に破られてしまった。
「私の紹介はそれくらいで充分。今度は、彼の紹介を頼むよ」
これにも気合いで微笑み返したファウストだが、もはや顔面蒼白だ。
「叔母上、こちらはシンドリーから留学生としてやってきたスメラギ・ヨシュアです。彼の父親が外国で学ばせたいと希望しているとの事で、縁があって手を貸しています。私の一存で決めてしまった個人的な遊学なもので、紹介が遅れてしまって申し訳ありませんでした。しばらく城に逗留させるつもりですので、よろしく頼みます」
真っ白な顔色の割りに王は滑らかに嘘をついた。
おそらく、前もって考えてあったのだろう。
しかし、レスターには全く通用していなかった。
「お前は愚かだね。真実を白状すれば、許してやったものを」
「……は、まさか」
「当然、何から何まで知っているよ、脇の甘いファウスト坊や。ここにいるのは勤勉な学生ではなく、ティアラの婚約者なのだろう」
紅い唇が優雅な三日月をかたどると、もはやファウストは王の威厳を保てなかった。
「本当に情けない。一体、いつからお前は私を騙そうだなんて考えるようになったんだ。王なのだから、せめて上手に嘘をつきなさい。まったく、オアシスでこの件を知った時にはめまいがしたものだ。衝撃的すぎて、思わず自分の足でシンドリーまで調査に向かってしまったよ」
「んな!?」
「お前と違って、自分で情報を集めたからね。多角的な事情を仕入れている。ああ、そうだ。ヨシュアの親友だという少年から手紙を預かってきた」
唖然として手紙を受け取れば、見慣れた文字で「ヨシュアへ」とある。
「何か言ってましたか?」
「近い内に殴りに行きたいと言っていたから、紹介状を渡しておいた」
そろりと開いた手紙には「覚悟して待ってろ!」と記してあった。
「ご迷惑をおかけします」
そう返すのが精一杯だ。
「どうしてお前が謝る。だいたい、元はと言えば、うちの莫迦な甥っ子のせいだ。どうして事を複雑にするのか知れないね。まぬけ面の男がティアラに求婚してきたからってどうする必要もない。はっきり断ればいいだけのものを」
「ですが、あの男は春先の種の流通をちらつかせて揺さぶりを……」
「それとこれとは別の話だ」
レスターは、きっぱりと否定した。
「こんなくどい手で断るくらいなら、ティアラ本人と会わせてやって、あなたは好みじゃないので結婚出来ませんって振らせてやればよかったんだよ。面と向かって振られても、しつこく取り引きを盾にしてくる野郎なら、その時は私が女達の笑い者になるようコテンパンにしてやったんだ。私に内緒で片付けようとするから困るんだろう。お前も王なら、利用出来るもの全てを手駒として考えられなければ早々に国を滅ぼすぞ」
ぐうの音も出ないとはこの事だった。
上には上がいるものだと、ある種の感動を覚えたヨシュアだ。
「ファウスト、わかっているんだろうね。お前は自分で自分の首を絞めたんだよ。内輪だけのお披露目にしろ、はっきりと婚約を示したんだ。簡単には取り消せないし、ヨシュアが同意しなかったとしても、結婚の意思表示に代わりはない。それが嫌なら、お前が王としてではなく、兄バカとして妹が可愛いから誰の嫁にもしないと堂々宣言するだけで良かったんじゃないか。これなら、相手が誰だろうとティアラが嫁に行く日は近いな」
「あ、あ……」
怒濤の猛追撃で気付いていなかった事実を突きつけられ、ファウストは底無し沼に沈んだ。
「それに比べて、ヨシュアはしっかり者のようだな」
ここでレスターの標的が変わった。
ちょっとくらい褒められてみても、ぺしゃんこに潰されたファウストを目の当たりにしたばかりでは緊張感しか湧いてこない。
「事情はどうあれ、二度と実家に帰らない覚悟で来たのだろう。うちの莫迦より肝が据わっている」
身構えていたが、どうやら本当に感心してくれているらしい。
「ありがとうございます」
「真実を言ったまでだ。さて、お仕置きが済んだところで、次に行こうか。ああ、ヘルマンはもういい。ヨシュアはついておいで」
嫌だと思った。
「あの、どちらへ向かうのですか」
「決まっている、ティアラの所だ。はっきりさせないと、いけないだろ」
「お、叔母上、それだけはもう少し……」
自分の計画を乗っ取られそうになって、ファウストが沼から這い上がってきた。
「これ以上莫迦な事を言うんじゃないよ。先がないなら、置いておくのは危険に晒すだけだ」
「ですが、もうしばらくは双方の為にも様子見が必要なはずです」
「いいや、必要ない。私の本来の役割を忘れるな。お前が口を挟む余地はない」
ヨシュアは、あれだけへこまされたのに這い上がり、なんとか粘っているファウストに驚いたが、それ以上に王に対して上位の態度を示したレスターに驚かされた。
王と言えども、年配者の身内には敵わないようだ。
「行くよ、ヨシュア」
「はい」
つい反射で返事をしてしまった。
いつだって、ヨシュアが希望する選択肢は与えてもらえないのが定めらしい。
ヨシュアは、レスターに言われるがままに王族専用棟に戻ってきた。
磨きあげられた通路を、レスターは優雅な足運びで進んでいく。
ヨシュア以外にお供はいない。
「私が恐いか?」
人が途絶えると、レスターは唐突に質問をしてきた。
「お前は女が嫌いなのだろう」
やはりとも、当然とも思う。
ある程度の事情はしっかり把握しているようだ。
ヨシュアは改めてレスターという女性を眺めた。
派手と思わせない凝った化粧で整えて、ピタリと貼りつくようなタイトなスーツで豊かな凹凸を強調し、膝上丈のスカートから伸びた腿には艶かしさを漂わせている。
さぞかし男にもてるのだろう。
また、本人もそれを自覚している自信が垣間見える。
そんな、妖艶さをたっぷりまとった女性らしい女性なのに、威圧感は充分に感じても、嫌悪する感覚はさっぱり持てなかった。
「あなたは綺麗にしているので、恐くないです」
「ほう。女嫌いのくせに、着飾っているのが好みとはね」
「そうではなくて、あなたは肌が弱いようなのに丁寧な化粧をしています。外交を担当しているからですよね。仕事や立場に合わせて努力している人は、男女関係なく嫌いではありません」
レスターは不思議そうに立ち止まった。
「どうして肌が弱いとわかる?」
「その香水、母の商品として覚えがあります。天然由来の成分で、敏感肌の顧客の為に特別に受注生産しているブランド商品ですから」
「なるほど、本当にうちの莫迦とは違うようだ。しかし、時と場合によって、私は女を武器にする。その為に美容には常日頃から気を使っている。それでも、お前は嫌いでないと言えるのか?」
「……その容姿は、確かに武器になると思います。ですが、あなたは相手から搾り取る為ではなく、自分の力で得る為に磨いているのでしょう。そういう人を、単純に嫌いとは言いません」
レスターは意外な言葉に瞬きをする。
ヨシュアにお世辞やご機嫌伺いのつもりは一切なかった。
勤勉に働く女性も、子どもを慈しむ母親も心から尊敬している。
ただ、自分には近付かないでくれと思うだけの話なのだ。
そろりとレスターの反応を窺ってみれば、気持ち良くころころと笑っていた。
「面白い子だね。私は気に入った。ティアラと上手くいかなかったら、私が婿にもらってやろう。肉体関係は求めないから心配するな。話相手になってくれるだけでいい」
と、どこまで冗談なのかわからない誘いを受けた。
とりあえず、即座に遠慮しておいた。
「ところで、肝心のティアラとはどうなっているんだ。話すくらいはしているのだろう」
再び歩き出したレスターは、尚も質問を続ける。
「えっと……」
これには、ヨシュアも言い淀むしかなかった。
ほぼ向こうからの一方通行ながらも、会話はしている。
家に帰らない覚悟もある。
けれど、本気の夫婦になる気はない。
仮面夫婦を貫くつもりだからだ。
なのに、提案者であるファウストに婚約だけの契約だと告げられ、どこかホッとしている自分に気付いていた。
正直に話すべきなのかもしれないが、下手な言い訳をすればコテンパンに言い負かされそうで、簡単には答えられない。
まごまごしている内に、二人はティアラの私室に着いてしまった。
ドアもノブもすっかり新しくなっている。
「さあて、こっちのお莫迦はどうしてくれようか」
どうしようかと言いながら、またもやレスターはノックもなしに乱入してしまった。
遠慮なく家捜しを始めたので、ヨシュアは中に入らずひっそりと様子を見守るだけにしておく。
「ふむ」
レスターは一通り探し回ったが、誰も見つからなかった。
ひとまず、話し合いは先延ばしになりそうだと安心したのも束の間、レスターがおもむろにクローゼットを引き開けた。
「ひっ!」
ヨシュアからクローゼットの中までは見えないが、恐ろしさに満ちた悲鳴が聞こえて、ティアラが隠れていたのだとわかる。
さっきヨシュアが経験した通りの事が起こっているのだろう。
「お前達兄妹は本当に莫迦だね。ヨシュア、お前も入っておいで。いくつか確認しておきたい事がある」
ヨシュアに辞退する選択肢はなく、白いテーブルを三人で囲んで座った。
丸いテーブルに均等な間隔で座っているのに、気持ちとしてはレスターVSヨシュアとティアラだ。
ヨシュアには好き勝手なお姫様も、叔母に対しては苦手意識があるようで、若干怯えて見える。
「パッと見には、そこそこお似合いに見えるのね。で、ヨシュア」
「はい」
自然と背筋が伸びた。
女性の関わり合いを極力避けてきたヨシュアに、仕切り屋の姉御肌と接した経験がゼロに等しくとも、本能は逆うなとガンガン警告を鳴らしている。
「ここで暮らしていく気があるのか」
「……」
「今の状況はファウストが招いたものだが、私は悪い事ばかりだとは思っていない。ティアラは普通の結婚をするべきだ。お前はお前で、家を出たかったのだろう。後継者でないのだから、いずれは来るはずの機会だ」
それは同感だった。
「ティアラは莫迦だが、悪い子ではない。私は城に常駐してないが、心が決まっているなら守る用意はしてある」
ヨシュアは不思議に思った。
遠い異国の地で、嫌悪感と過剰な警戒を抱かないで済む二人の女性と出会い、どちらも守ると宣言してくれた。
上手くは言えないが、ウェイデルンセンに来て良かったかもしれないと、初めて考えられた。
「私はニ・三日滞在する予定だから、その間にしっかり考えなさい」
「はい、わかりました」
「さて。お次はティアラ、お前だよ」
自分の番だと宣告されたティアラは、全身を硬くしている。
「まず、どうして私を避けているのか教えて欲しいのだけどね」
「えっと、お忙しそうだったので遠慮していただけで、避けていたわけではありません」
「ほほう。野生児のお前が、そんな気を使えるようになったのか。知らなかったよ」
野生児とはかけ離れた印象のティアラだが、否定もせずに冷や汗をかいている。
「そもそも、なぜお前がファウストの莫迦な提案に乗ったんだ」
「それは……あのおじさんと結婚するのが嫌だったからで」
「ティアラ、それだけじゃないだろう」
妙な成り行きに、自分のターンが終わったヨシュアは興味深く眺めていた。
ちらりと前にも考えたように、今回の婚約話にファウスト王とヨシュアのメリットはそれなりにあるのだが、ティアラが大人しく従う理由は未だ見当たらない。
「それは……」
「言いにくいのなら、私が当ててやろうか? ティアラはあいつに会うのに、いちいちファウストに申請していたんだろう。それを撤廃する条件で了承したね」
「な、んで知ってるの」
「やっぱりか。単純すぎるんだよ」
あいつとは誰なのだろう。
気になったものの、女の会話に口を挟むべからずとヨシュアは心得ていた。
なんにせよ、これでティアラにも婚約によるメリットがあったのだと判明した。
どうりで、けろっと受け入れているはずである。
「で、お前はヨシュアと結婚する気はあるのかい」
「……」
ティアラは答えられなかった。
「あるわけないよな。どうせ、ファウストから婚約など形だけで、先の心配はしなくていいと言われてるのだろう。お前にとっては、ごっこ遊びを楽しんでるつもりか? あいつがいると思って、高をくくっていたな」
ティアラは完全にうつむいて黙った。
ヨシュアにとっては、初耳の真相だ。
子どもすぎて結婚に興味がないのだと見当をつけていたが、まさか全くその気がなかったとは気付いてなかった。
これが異国から遥々と入り婿に来た側と、来られた側の違いなのだろうか。
はたまた、ファウストの徹底した妹至上主義のせいだと考えるべきなのか。
「ティアラ、反省するなら、少しは周りの目を考えなさい。さあて、どうしたものかね」
考え込むレスターは、ふと、一つの提案を思いついた。
「ヨシュア、家に帰りたくないのなら私に付いてみるか?」
「いえ、それは……」
さっきの婿にもらってやろう発言を思い出して苦くなる。
「そんな顔をするな。私の元で働かないかと誘ってるんだ」
提案を理解するのにワンテンポかかった。
「レスターさんの仕事って、外交でしたよね」
「そうだ。城内より安全の保証は出来ないが、入り婿よりやりがいはある。貴族の家系なら礼儀作法の心得はあるだろうし、頭も悪くなさそうだ。何より、見栄えする容姿がいい。女嫌いで苦労もするだろうが、多少なら私が防波堤になってやってやろう」
「その話、興味があります!」
十七年の災難続きなヨシュアの人生で、初めて希望の光が射した。
反射と意志が統一した即答だった。
「そんな!?」
辛いばかりの人生が開けるかもと胸踊るヨシュアの隣で、ティアラが何か反応したような気がしたのだけれど、次の発言に影もなく紛れてしまった。
「ごめん、今のなし」
すぐさま、レスターが提案を翻したのだ。
「へ?」
「気が変わった。ヨシュア、やっぱりティアラと結婚してやって」
「はあ!?」
どんなびっくり手品を見せられても、こんなに驚きはしないだろう。
仕掛けがすごすぎて、何が起きたのかもわからない。
「よし、善は急げだ。二人ともついておいで」
「「……」」
説明は一切なしで、ヨシュアだけでなくティアラまでもが呆然としている。
「いいから、おいで!」
強い口調で指示が飛び、ヨシュアの体は意思に反して立ち上がっていた。
ステップでも踏んでいるようなレスターは、カツカツとリズミカルに先頭を歩き出す。
やや後ろに、何も言い出せないヨシュアとティアラを引き連れて。
ヨシュアは嫌な予感がひしひしと強くなるのを感じながら、見えない圧力で逃げ出せずにいた。
「さあ、どうぞ」
レスターが立ち止まって、ドアを開いて手招きをする。
「ここは?」
「私の私室だ。理由はすぐにわかる」
威嚇を意味する笑顔を向けられて、黙って従うしかない少年少女だ。
中に入ると、愛用しているらしい使い込まれた大きめの鞄がいくつかと、膨大な書類が積み上がっていた。
ここでレスターが何をするのかと思えば、鏡の前で念の入った身だしなみチェックだった。
その後は、暖炉の横に立てかけてあった松明を手に取る。
部屋に松明があるだけでも異様なのに、おもむろに火を灯したから謎で仕方ない。
「まさか……」
ティアラの方は、この時点で何かを察した様子だ。
「まだ、対面させていないのだろう。私が直々に紹介してやるんだ、文句はないな」
冷えた視線で言い捨てると、レスターは壁にある隠し扉を開いた。
「これって、秘密の通路ですか」
「ああ、ヨシュアは知っているんだったね。ティアラを助けてくれてありがとう。やたらに怯える必要はないが、ティアラ、お前は念の為に後ろを歩きなさい」
それを前置きにして、レスターは赤々と燃える松明を掲げて暗い道を進んでいく。
おっかなビックリのヨシュアが頑張って付いて行くと、見えない時に想像していたのと風景が違っていた。
てっきり地下や洞窟みたいな場所だと思っていたのに、今いるのは明らかに城外だった。
外壁に沿って通るに困らないよう一人分の道が均されている。
外壁に相対するのはそびえる崖で、頭上にせり出してくるような岩や、うっそうとした木々が競って光を遮っている。
天然なのか人造なのかは見極められない。
ヨシュアはそんなのどちらでもよかった。
それよりも、さっきから肌を刺してくるいくつもの視線が恐ろしくて堪らなかった。
ちらりと振り返ったレスターは、その様子に気付いていた。
「敵意と色気のある駆け引きに敏感なのは本当らしいな。私も少々鬱陶しい。どれ、追っ払ってやるか」
レスターは立ち止まると、山に向かって声を張った。
「お前達、私の連れに威嚇するつもりか。そんな暇があるなら、あいつにお茶でも用意して待ってるよう伝えておけ。うるさいから、もう散れ」
誰もが圧倒される物言いだった。
おかげで、気味の悪い気配はあっという間に遠ざかった。
ヨシュアはレスターを女王気質なのだと思った。
そして、それは外れていなかった。
「ヨシュア、ウェイデルンセンには巫女がいるのは知っているね」
再び歩き出したレスターは、おもむろに巫女について語りだした。
「山の神を崇めるウェイデルンセンは、季節の変わり目や冠婚葬祭を巫女が取り仕切る。巫女は山神に通じる存在で、民に代わって祈りや感謝を神に伝えるのが役目だ。とは言っても、若い娘が結婚するまでに礼儀作法を身につける場だと考えてる者が多い。実際、現状はそうなっている。だが、王族の巫女はそれとは違う」
そこで区切ったレスターがヨシュアを振り返る。
「巫女の総取締が役名だが、それが本質ではない」
見つめられるヨシュアには、かちりかちりと嫌な予想の欠片が着々とはまっていく音がした。
「この国の要は、山に囲まれた要塞のような地形ではない。真の護りは山守の存在だ。今では知る者も少ないが、小さく厳しい土地が国として成り立っているのは彼らのおかげだ。王族の巫女は彼らの血を引き、脈々と受け継がれた唯一の繋がり。王は表の顔にすぎない。ウェイデルンセンの真の王は、山守に通じる巫女なんだよ」
ヨシュアは、やはり自分には選択する権利も抵抗する力もないのだと絶望する。
それとも、絶望的に運が悪いと思うべきなのだろうか。
どちらにしても、されるがままに流されるしかないのは一緒だろう。
洞窟のような通路に入り、突き当たりを右折したところで、覚えのある匂いがした。
そちらへ進むと、水の流れを確信する。
やがて、うっすらと光がもれてくる穴ぐらの前でレスターは足を止めた。
「ぎゃふんと言わせてやる」
かすかにつぶやくと、やけに胸を反らせて中に入っていった。
ため息と共にヨシュアも続こうとして、後ろが何かに引き止められた。
振り向けば、ティアラが服の裾を掴んでいた。
ぞわっとする。
けれど、今度は振り払いはしなかった。
情けないほど眉を下げた上目遣いで、なんとも言えない不安感が漂っているからだ。
「この先にカミがいるんだろう」
ティアラは小さく頷いた。
「ずっと会わせたがってたんだ。よかったじゃないか」
「でも……」
「もういいよ、覚悟するしかないんだから。せめて、印象が悪くならないように紹介してくれ」
ヨシュアは服を掴まれたまま歩き出した。
だから、つられて歩くティアラが曇ったままなのに気が付かなかった。
「久しぶりだな。お前からここにやってくるとは、珍しい事もあるもんだ」
中で待ち構えていたカミは、レスターを見るなり声をかけた。
「そっちこそ、私がいない間に、ずいぶんティアラを甘やかしてくれたみたいじゃないか」
「それは前からだろう。お前は、そんなつまらん忠告をする為にわざわざ来たのか」
「ふん、まさか。私はそんなに暇じゃない。今日は、お前に立場を思い知らせてやる為に訪ねてやったんだ。ヨシュア、おいで」
レスターが呼んだのに、ヨシュアちっとも応えなかった。
「何してるんだ。こっちへおいで」
それでも、ヨシュアは反応できなかった。
しなかったではなく、出来なかったのだ。
「な……」
ヨシュアの視線は、舞台のような岩の上に王さながらに優雅にたたずむカミに固定されていた。
「平然を装ってくれるものだと思っていたんだが、見込み違いだったか。しょうがない、先に向こうの紹介をしてやるか。あれが山守のリーダーで、犬っころのカミだ」
さらりと紹介されたところで、ヨシュアは自分を取り戻す。
「いやいやいや、犬って言うか……思いっきり狼じゃん!!」
自分は取り戻したが、外面を取り戻すまではいかなかった。
「え、何? まさか、カミって狼のカミとか言う!?」
目の前にいるのは、どこからどう見ても野性味あふれまくりな獣の狼だ。
人の倍以上ある体格で、その上しゃべる。
強固な外面を持つヨシュアも唖然として、どうでもいい名前なんかにツッコミを入れてしまった。
「言っておくが、俺のカミは神様のカミだからな」
どうでもいいと思うヨシュアに反し、当の狼はこだわって否定する。
「狼のカミでいいだろ。少なくとも、私はそのつもりだ」
レスターも、どうでもよさげに口を挟んだ。
「おい、狼のカミって単純すぎるだろう。だいたい、さっきの犬っころって紹介はなんだ!」
「犬だろうが狼だろうが、獣に変わりはない。どっちでもいいだろう」
「大きく違うだろ! 第一、俺は神様のカミだって言ってんだ。俺のおかげで平和を保っているんだから、少しは敬ってみろ」
「はあ!? だったら、立場が逆だ。私達のおかげで、のんきな山神ライフを送っていられるんだ。そこの酒だって、貢いでやる王族がいるから呑めるんだ。そっちが頭を下げて、感謝すべきだろう」
この会話で、小川の水以外に漂う匂いが判明した。
カミが横たわる岩のくぼみに、なみなみと注がれているのがそれだろう。
酒呑みの山犬、もとい狼がいる。
神様だと思えば酒好きも頷けるが、ふさふさの毛並み姿を目の当たりにしては、なんとも複雑な心境だ。
脳内大混乱のヨシュアに構わず、人間(女王巫女)VS狼(神様)の様相は白熱していく。
カミはすっかり毛を逆立てて、言い返す言葉に腹の底にまで響いてくる唸りが混じっている。
口が開く度に尖った牙が鋭く光り、自分に向けられているのでなくても、ぞくりと身の危険を感じる。
それなのに、相対するレスターはガンガン言い返して引けをとらないどころか、言い合いにおいては優勢なくらいだ。
実に恐ろしい女性である。
「カミ、やめて。お願いだから」
一触即発の緊迫を破ったのは、体を張ったティアラだった。
迫力の形相で唸るカミの首根っこに抱きついて止めに入った。
「わかった。他でもない、ティアラが言うのなら引いてやろう」
途端に声音が甘くなり、ティアラに優しく頬ずりをする。
「ところでティアラ、あのちんちくりんは誰だ」
ちんちくりん……認めたくないが、間違いなくヨシュアを指していた。
バカでかい狼様から見れば、人間なんてどれもちんちくりんのはずだ。
「ああ、やかましい獣につられて、危うく本来の目的を忘れるとこだったな。忙しい私が、自ら紹介しにきてやったんだ。たっぷり己との違いを思い知れ。これがスメラギ・ヨシュア、聞いている通り、ティアラの婚約者だ。いい男だろう」
レスターが見せつけるように姪の婚約者の肩を抱く。
ヨシュアはぞわりと鳥肌が立った。
触られておぞましく感じたからではなく、レスターとカミの争いに放り込まれたボールの気分で、恐怖心によってぞくぞくする。
「ふん、それのどこがいい男なんだ。お前の見る目も曇ったものだな」
「獣の分際で何がわかる。ヨシュアは顔がいいだけじゃなく、繊細な女心を理解する。野暮で鈍いお前とは根本から違うんだ。わかったら、ティアラみたいな子どもに手を出すのはやめろ」
「はっ、ティアラが子ども? お前がそれを言うのか」
「うるさい! 余計な事を言ったら、今すぐ毛皮に加工してやるからな。とにかく、お前はティアラに悪影響だ、その尻尾を離せ!!」
「いいや、離さない。ティアラは俺の子を生んで家族になるんだからな」
火の粉が飛んでこないか冷や冷やしていたヨシュアは、奇妙な発言に耳を疑った。
「俺の子って……」
妙な想像に走りそうになって、慌てて頭を振る。
「そこの人間、神を侮るなよ。そもそも、ウェイデルンセンの王族は山守の血を引いているんだからな」
「それだよ。私は、それがおかしいといってるんだ。神様だろうと、正体は獣姿だ。人間と添い遂げようだなんて、思い上がりも甚だしい。さっさと諦めろ」
ヨシュアを掴んでいるレスターの手に力が入る。
「諦めるも何も、これはティアラの望みだ。巫女の願いを叶えて何が悪い?」
「はん。どうせティアラが小さい頃に、ずっと一緒に居たいから結婚する! とでも言っていたんだろう。仮にも神が、そんな話を真に受けてどうする」
ずばりと言い当てられてもカミはちっとも揺らがなかったが、隣のティアラは小さくなっていた。
「レスター、ティアラはお前とは違う。この姿の俺を自然に受け入れている。狭量な人間のお前には理解出来ないだろうがな」
「相変わらず、ティアラは特別なのね」
「ああ、そうだ。お前と違って、可愛げがあるからな。そういうお前は、すっかり誤魔化して生きるのが上手くなったな。そんな格好をして、無知な小僧をたぶらかしてどうする。確か、三十路になったはずだろう。そんな事では行き遅れるぞ」
ヨシュアは、ブチっと切れる音を聞いたような気がした。
見ると、レスターのこめかみにしっかりと青筋が入っている。
「黙れ、ケダモノ!!」
ブンと、持っていた松明を容赦なく投げつけた。
カミは余裕で叩き落とし、下を流れる小川で明かりが消えた。
「私の目が届く内は、誰にも手を出させないからね。ティアラ、戻るよ」
言い捨てたレスターは、強引にヨシュアの手を引いて歩き出した。
通路に入れば松明のなくなったヨシュアの視界は真っ暗で、時折金色に光るレスターの瞳だけがちらついて見える。
ティアラもそうだったが、狼の血の影響なのだろう。
足早なリズムのヒールが高らかに響き、ヨシュアを捕まえている手は汗ばみながらも冷えている。
「レスターさん、もしかして……」
「ティアラに余計な事を言ったら絞めるよ」
「……」
ヨシュアはつくづく、やっかいに巻き込まれたものだと気が重たくなった。
* * *
「あー、ムカつく!」
部屋に戻るなり、レスターは髪をぐしゃぐしゃにして爆発した。
「こういう時は、美味しい物を食べるに限る。あんた達、おごってあげるから付き合いなさい」
素早く髪をまとめ直すと、上着を羽織って出ていってしまった。
ヨシュアとティアラは顔を見合わせ、まだ解放されないのだと確認する。
この時、一瞬だけ、同じ被害者という認識でわかり合えた二人だ。
怒りに任せて城を出たレスターに連れらてこらたのは、街の賑わいから外れた小さな食堂だった。
内装は素朴で、出てきた料理も素朴だったが、素材の味が生きるよう丁寧に調理されている。
レスターに延々と愚痴をこぼされながら説教されていたヨシュアとティアラは、胃に優しい味付けのおかげで心から感謝して黙々と食べられた。
「んー、お腹いっぱい。満足した」
デザートまで頼んでお腹が膨れたからか、言いたい放題で発散したからかは不明だが、レスターは食べ終わる頃にはすっきりしていた。
「さて、私はこのまま仕事に行くか。あんた達はデートでもして仲を深めてなさい。夕方には迎えを寄こしてあげるから」
「え、ちょっと」
驚いて、あっと引き止める間もなくいなくなってしまった。
「いつも、あんな感じなのか」
こんな感想しか思いつかないヨシュアに、ティアラは黙って肯定した。
「強烈だな」
「ごめんなさい」
ティアラはうなだれている。
ヨシュアが謝られるのは三度目だ。
「何が」
「カミの事、今まで黙っていたから」
「ああ、それなら必要ない。むしろ、ずっと黙っててほしかったくらいだから」
関わるべきではないと訴える本能に間違いはなかった。
ただ、それを回避する能力がなかっただけの話だ。
「こうなったら、全部教えてくれよ。あいつが言ってた、その……お前と家族になるとかってのは本気なのか?」
「本気だと思う。……あのね、私がカミと最初に会ったのは夢の中なの」
「夢?」
「そう。七年前くらいかな。両親を事故で亡くしたばかりの頃に。夢の中でも泣いていた私を慰めに来てくれたの。夢の中のカミは人間の姿で、すごく優しくて、ずっと側にいてくれて、すぐに打ち解けられた。それで、夢の中でしか会えないのは淋しいって言ったら、カミは秘密の通路を教えてくれたの」
「あんな毛むくじゃらの正体を見て、なんとも思わなかったわけ?」
「びっくりしたけど言葉も通じるし、優しい目が同じだったから。それに、ふさふさで可愛いと思うんだけどな」
あれを可愛いと言えるのはティアラくらいだろう。
「なら、お互いにその気があるんだな」
「それは……」
てっきり無邪気に頷くのだと思っていたのに、返事にはためらいがあった。
「まあ、相手は狼だからな」
「ううん、それは問題じゃなくて」
「俺には、他に何が問題なのかわかんないんだけど」
ティアラは言いづらそうに見上げている。
「私はね、結構本気でカミと結婚するって約束したの。叔母様の言った通り、子どもだったのもあるんだけど。でも、それも本当には関係なくて、カミが本当に好きなのはレスター叔母様だから」
「レスターさんが、じゃなくて?」
ヨシュアはつい、余計な事を言ってしまった。
「叔母様が? あんなに嫌ってるのに?」
「あー……いや、うん。えっと、カミがレスターさんに気があるって、どうしてそう思うんだ?」
「あんまり教えてくれないんだけど、私と出会う前は叔母様と夢で会ってたみたいだから。それに、私が叔母様の話をするといつも嬉しそうなの。だけど、レスター叔母様はあんな感じで、会うのも嫌だって邪険にしてるでしょ。私の結婚話が進んだら、何か変わるんじゃないかって考えてたんだけど、難しいみたい」
期待通りに好転するどころか、最悪の状況になっちゃったというわけだ。
「なんとなく状況は理解した。ティアラが、少しは考えていた事もわかった」
「ヨシュアはどうしたらいいと思う?」
答えは決まっていた。
「どうもしない。人の色恋沙汰に関わる趣味はないから。そんな事より、なんとかしてレスターさんの元で働けるように考え直してもらわないと」
十七年の人生で初めて射した光を、狼相手の好いた惚れたの問題で台無しにされるなんて堪ったものじゃない。
どうやって交渉しようか思案していると、妙な視線を送ってくるティアラに気が付いた。
「なんだよ」
「どうして叔母様は平気なの」
「ん?」
「肩を抱かれても、手を繋いでも平気だったじゃない」
「全然平気ってわけじゃないけど、あの人は変な気を起こさないだろ。そういう意味なら、エヴァンさんとリオンの方が平気だな」
「二人に会ったの!?」
「うん、リオンを抱かせてもらった。ぷくぷくで可愛かったな」
思い返せば、二人に会ったのも今日の出来事だった。
レスターに振り回されたのが衝撃すぎて、すでに遠い過去のようだ。
「私は?」
「私?」
「そう、私の事も平気?」
やけに前のめりで質問される。
正直、ヨシュアは戸惑った。
あのレスターを知った後では、約束を守って夜にちょっと会いにくるくらい可愛いものに思える。
二人きりだと自然に素でしゃべっているし、極限まで関わりたくないと拒否する気持ちは薄れてきている。
だからといって、エヴァンのように安心して近くで話せるかと聞かれれば、それは違う気がするのだ。
「んー、微妙」
結局、ヨシュアはこう答えた。
極力近付くなと容赦なく切り捨てたわけではないので、ティアラは満足してくれるものとばかりに考えていた。
ところが、ティアラにはどの角度からもふくれっ面にしか見えない不満げな顔を返される。
ティアラにすれば、当然の反応だった。
女性に気を使う事を放置する素のヨシュアには、誰が相手でも自分を微妙と評価されて喜ぶ人はいないという簡単な感情にも思い至らない。
妙な雰囲気の中、片付けたいのに噛み合わない空気を察して素通りするしかなかった店員のため息は、お互いに納得のいかないヨシュアとティアラの視界には全く入らなかった。
* * *
夕方に迎えが来て城に戻り、濃厚な一日の幕が下りようとしている時分になって、ヨシュアの部屋をレスターが訪ねてきた。
もちろん、表の通路から普通にやってきた。
「デートはどうだった」
勧めた席に着く前に、レスターから質問が飛んできた。
「どうもこうもないです。あれがデートだって言い張るなら、俺が相手じゃなくたって振られますよ」
言い返すヨシュアは、体がぎしぎしして足取りがもたついている。
あれから、店に長居をするわけにもいかないので、ヨシュアとティアラは間もなく外に出た。
迎えが来るまで辺りを案内するというティアラに任せたまでは良かったが、連れられた場所が酷かった。
先を歩くティアラはどんどん人里を離れ、道なき道を分け入った。
必死に後を追ったヨシュアが見せられた景色は綺麗だった。
しかし、同じ分だけ険しい帰り道は辛さしかなかった。
相手がお姫様でもなければ、正座をさせて説教したいところだ。
「あの子は野生児だからね」
昼間のレスターの発言に嘘はなかったのだ。
「ティアラはカミに育てられたようなものだ」
レスターの顔には、後悔と淋しさが読み取れる。
「ヨシュアも少しは話を聞いたんだろう」
「あいつの両親が亡くなった時、カミが慰めてくれたって聞きました」
「そうだね、悪い事ばかりだとは思っていない。兄夫婦が亡くなって、ファウストは必死に頑張っていたし、私はそんな甥っ子のサポートに付きっきりだった。一人になったティアラの側にいてくれた事は感謝してしている」
いくら妹バカで小さな王国だと言っても、一国の王である以上、責任は重大だ。
ましてや、幼い時に突然の就任だ。
二人はさぞかし大変だったのだろう。
「まあ、だからって、背中に乗せて山を駆け回るのはどうか思ってるけどね。おかげで、未だにこちらの世界に興味がない。のんきなものだよ」
「……ティアラは、あなたを心配してました。いつも忙しそうだって。だけど、嫌われてるから何も言えないそうです」
山の険しい道のりで、ティアラは自分についてを語った。
部屋に押しかけてくる時は、要望を全面に主張してくるか、ヨシュアの話を聞きたがってばかりいたので初めてのことだった。
先に立って顔を合わせなく済むせいか、ぽつりぽつりと告白するようにしゃべっていた。
「そう、あの子がそんな事を」
これ以上首を突っ込むのは性分でないけれど、黙っているのも悪い気がした。
「あなたの居場所を取ったと言ってました。どういう意味なんですか」
「別に、取られたわけではないよ。私の方から拒否しただけだ」
昔を思い出すように目を細めたレスターは、覚悟を決めた様子でヨシュアに向き合った。
「巫女の総取締は一人だ。神は一人の巫女にしか真の姿を見せない」
「でも……」
「そう、ティアラは特別だ。あの子は最初から特別だった」
レスターは感慨深げに視線を伏せた。
「ティアラの先代巫女は私の従姉で、次は私だと言われていた。すでに、カミは私の夢に現れていたからね。夢の話は聞いたんだろう」
「はい、夢の中だと人の姿をしているって」
「そう、そうなんだよ」
何を思い出したのか、レスターの顔面が思いっきり歪む。
「言いたかないけど、夢の中じゃ苛つくくらいに綺麗な面してんのよ! 正体はただの毛むくじゃらな毛玉のくせに!」
ダンと足を踏み鳴らす迫力に、ヨシュアは思わず体を引いた。
「おかげで、幼い私は簡単に騙されて夢中になった。そんな関係が続いた十一年後、兄夫婦が亡くなった事故で先代巫女も亡くなった。私には茫然としている暇もなかった。わずか十三歳で王になるファウストの近親は私しかいない。ろくな引き継ぎもないまま、国事に追われてる毎日だった」
小さな吐息を挟んで、話は続く。
「まともに悲しむ時間もなく、うとうとしていた合間にあいつが久しぶりに夢に現れた。そして、とうとう現実で会おうと言ってくれた。私は教えられた場所に飛んで行ったよ。そこで待っていたのが、あの獣だ。疲れきった体で衝撃を受けている私に第一声、あいつはなんて言ったと思う?」
表現し難い表情を向けられ、ろくな発言でなかっただろう事だけはヨシュアにも推測できた。
「あの莫迦はね、この姿も悪くないだろう、ってドヤ顔で言ったのよ! 信じられる!? 大切な人を亡くして、神経張り詰めて采配している私に向かって、優しい言葉一つかけないでそれよ!! ありえない!! これだから、種族が違う奴とは根本的に合わないのよ」
完全にカミの自業自得なので、ヨシュアは乾いた笑いしか出てこなかった。
「腹が立ったから夢から追い出してやったら、その足でちゃっかりティアラの夢に潜り込んでんのよ。節操がなさすぎるにも程がある。だから、私の目が黒い間は、絶対に誰にも手を出させないって決意したのよ!!」
鼻息も荒く捲し立てられたヨシュアは、やはり関わるべきじゃなかったと後悔していた。