第1章 王の審判
頭脳明晰な父親と兄の言うことに冗談などなかった。
たとえ冗談だったとしても、気分次第で実行してしまえる実力を持っているのが恐るべきところなのだ。
鷹からひよこが生まれたと評判のヨシュアは、突然の宣告通りに家を追い出された。
向かうは見知らぬウェイデルンセンという小さな王国。
目的は面識のないお姫様と結婚する為。
おまけに、息子が初めて婿入り先に向かうというのに、付き添いは父・ロルフの弟である叔父のレナルトだけだった。
「レナルト叔父さん、いつから知ってたわけ」
「ええっと、一週間ほど前かな」
「ふーん。叔父さんだけは俺の味方だって思ってたんだけどね」
荷馬車を操るレナルトの隣に座るヨシュアは、じと目で無言の非難をしている。
「悪かったよ。これでも、私だって仕事の合間にねじ込まれて大変だったんだ」
困りきった叔父を横目で見て、非難するのはやめにした。
世間一般の目で見れば優秀なのに、上にロルフというとんでもない化け物が存在する為に苦労している人で、ヨシュアを理解してくれる唯一の親戚だ。
非難するよりは同情してもらい、愚痴でも聞いてもらう方がよほど益がある。
ヨシュアの気配が和らいだのを察したレナルトは話を続けた。
「それにしても、お前が素直に受け入れるとは思わなかったな。二・三日は逃げ回ると予想してたんだが」
「それも考えたけどね」
昨夜、荷物をまとめながら、幾度も逃げ出せる可能性を模索してみた。
結果、これまでの経験上、二人まとめて本気を出されたら半日もしないで捕獲されるのは確実だった。
「無駄な抵抗はしない。それに、俺にとっても悪い条件じゃなかったから」
「仮面夫婦がか?」
「ああ、偽装結婚よりそっちの方がいいな。俺は一生結婚する気はなかったけど、あの家に居る限り安寧はないだろうから」
「ヨシュア。お前、まさか家から出られるから今回の件を引き受けたのか」
「さっすが叔父さん。わかってくれてるね」
心底清々しているヨシュアを見ると、レナルトはスメラギ家の端くれとして複雑なものがあった。
「そんなに、あの家が嫌だったか?」
「んー、どうだろ。父や兄は別として、スメラギの人は好きだよ。けど……」
しばらく沈黙が漂い、もう続きはないのだろうと思える頃に、ヨシュアはぼんやりと笑ってつぶやいた。
「辛いことを全部切り離してみたかったんだ」
「そうか」
春一番の風が吹き、それから二人はしばらく口を開かなかった。
* * *
断崖絶壁にそびえるスメラギ邸。
当主の書斎からは青い海と青い空、そして静かなプライベート港が見える。
今は来客もないので、自家用の二艘が浮かんでいるだけだ。
「さすがに、少し可哀相でしたね」
長男のミカルは苦笑しながら部屋の主に珈琲を渡した。
「そうでもないだろ。家から出られるんだからな」
さらりとロルフは返したが、ミカルは今朝、弟が出立した時の様子を思い出す。
会うたびに警戒心を全開にしていたくせに、今日に限っては神妙な態度だった。
人生の門出に相応しい様子だったが、妙な淋しさを味わったものだ。
「あれは、二度と帰ってこないつもりでしょうね」
「だろうな」
またもや、ロルフはあっさりしていた。
ミカルは物心ついてから父親が動揺する姿を一度しか見たことがなかった。
将来有望な長男は弟のヨシュアを指先でからかうことは出来ても、未だ父親の考えを読みきるのは難しい。
「今更、心配をするな。誕生日には帰ってくる。結婚までは至らない」
ロルフが言うのならその通りになるだろう。
それが、少し残念でもあった。
ウェイデルンセンのお姫様に最適な物件がヨシュアだった。
しかし、ヨシュアにとっても稀に見る好物件だったのだ。
ミカルは心のどこかで、事が上手く運ぶのを願っていた。
* * *
「おー、高い! 景色いいー」
ヨシュアとレナルトは故郷・シンドリーを抜けて、交易の要である中立地帯・オアシスに入っていた。
ここから更に北に向かい、ボミートを抜ければ目的地のウェイデルンセン王国があるはずだ。
この、はずだ、と曖昧に表現するしかないのは、結婚を宣告された翌日に出立しろという無茶振りのおかげに他ならない。
荷造りをしながら逃げるべきか逃げざるべきかを考えるのに精一杯で、行程を心配する隙間はなかった。
実際にはヨシュアが心配するまでもなく旅の足は準備されていたわけで、その辺の心配が無用なくらいの予測はついていた。
まあ、道中の連れが肉親ではなく、本家を出ている叔父のレナルトだけだとは思わなかったが。
「あ、あれって移動遊園地だろ」
スメラギ邸はシンドリーの南端にあるので、ウェイデルンセンまで道程のおよそ半分まできたところだ。
「ねえ、叔父さん。貢ぎ物くすねて遊んでこない?」
楽しそうなヨシュアを眺めて、レナルトは苦い気持ちに苛まれる。
家を出た頃は別として、その後のヨシュアはずっとご機嫌で、家から離れれば離れるほど笑顔を深めていった。
今も、必要があって近辺で一番の高さを誇る塔に上がっているのだが、はしゃぐヨシュアは実年齢より幼く見えて、本人が望まぬ婿として差し出す為に連れて行く自分が非道な牛飼いになった錯覚を起こす。
「見せたかったのは、それじゃなくてこっちだ」
レナルトはヨシュアを望遠鏡の前に立たせると、小さい子ども相手のように後ろから腕を伸ばし、視線を向ける先を促した。
ヨシュアの視界に、東西に雄大に広がるキャンパスと呼ばれる山脈が入ってくる。
平地でようやく春の芽吹きが始まったばかりのこの時期では、全体的にまだ白い。
綺麗ではあるが、それだけなら場所を選べばシンドリーにいても大自然を感じられる景色は見られる。
「この先の麓がボミート、その先の、山の中に開けたところが見えるか」
「見えてるよ」
人の手など一切受け付けない荘厳な山脈のわずかな隙間に、色の違う空間がある。
それは、単に谷間というより、無邪気な子どもが価値もわからず汚してしまった染みのように見えた。
「何も、あんな所に住まなくてもいいのに」
「そう言うな。間近で見れば、印象は違うはずだ」
「叔父さんは行ったことあるの?」
「一度だけな。鉱石の取り引きで。本当は酒も取り引きしたかったんだが、見事に振られた」
石と酒。
もっとも聞きたくない名詞だったが、名物なのは間違いないらしい。
「どんな所だった?」
「私は城内に入ったわけじゃないから、参考になるかわからないが……神を近くに感じる土地だったな」
「神様ね」
この辺りは万物に神が宿るという昔話が多く、年寄りはなんでもありがたがる傾向がある。
貴族の前に商売人であるスメラギ家は、商売の神と海の神に祈る機会が多々発生する。
それに付き合わされる度に、ヨシュア自身は気休めだと冷めた目で見ていた。
万が一神様が実在するのだとしても、幼いヨシュアは救われなかったのだから。
「目的地はわかったって。だから、移動遊園地に寄って行こう。レースに参加して、買っても負けてもソフトクリームを食うんだ。いいだろ」
無邪気な笑顔を見せてくれる甥っ子と遊び回るのは、さぞかし楽しいだろうと想像する。
それでも、ここでレナルトが情に流されるわけにはいかなかった。
「だめだ。今日は泊まる宿が決まっているから、寄り道は無理」
「別に急ぐ旅でもないんだから、付き合ってくれてもいいのに」
ヨシュアの笑顔が消えると、レナルトは内心で謝った。
レナルトだって気が済むまで付き合ってやりたかったが、そうは出来ない事情を抱えている。
仕事を預けてきているのだ。
レナルトはスメラギ本家を出た身だが、商会を一部を取り仕切る形で頻繁な交流をしている。
そして一週間前、突然ロルフが訪ねて来て、今回の付き添いの話を持ってきた。
最初は当然断った。
ヨシュアを想って時間を稼いでやりたかったのもあったが、事実として仕事が山積みで手離せる状態じゃなかった。
もちろん、商会のトップであるロルフが把握していないはずもなく、「お前の仕事は俺が代わってやる」と提案してきた。
確かに、兄なら引き継ぎなしで任せても困ることはないだろうが、それ以上に困ったことになる可能性が多分にあった。
訝しんでみれば、案の定タダでやるとは言わなかった。
たとえ、そちらからごり押ししてきた案件だとしてもだ。
「出立から一ヶ月、その間はお前の汚点になる仕事はしない。もちろん、自分の仕事を滞らせたりもしない。どうだ?」
どうだ、と問いかけながらも脅迫でしかない。
しかも、一ヶ月。
「荷物があるし、行きに二十日程度はかかるだろう。往復で考えれば無理だ」
「行きはな。帰りは婿も荷物もないだろう。お前なら帰ってこられるよな」
やはりこれも、できないとは言わないよな、との脅しだ。
「……わかりました」
と、結局は引き受けるしかなかった。
中年になったレナルトが今でもこれだ。
ヨシュアの場合は、優秀な兄だけでなく親にそれがついてくる。
甥っ子ながら、本当に不憫でしょうがなかった。
「遊園地は無理だが、夕食は豪華にしよう。焼き肉にするか?」
「だったら海鮮がいい。生で食べられる店ね」
ちゃっかりと予想以上の要求をしてきたが、発言を取り消すつもりはなかった。
ウェイデルンセンは山の王国だ。
今のうちに海の幸を味わいたいのかもしれない。
「じゃあ、行くぞ。日が暮れる前に到着したいからな」
レナルトが塔を下りると、移動遊園地に後ろ髪を引かれつつも、ヨシュアは大人しく従った。
* * *
暦の上ではとっくに春だが、さすがに北方の裾野は空気が違う。
まだまだ冬の最中だ。
「はっくしゅん」
馬車の荷台で揺られているヨシュアは、盛大にくしゃみをした。
「まだ寒いのか」
レナルトは、もこもこになって丸くなっている甥っ子に笑いながら声をかけた。
「誰かが向こうで噂でもしてるんだろ」
対する返事は、ずいぶんむっすりとしたものだった。
あれだけ楽しそうにしていたヨシュアの表情が、ボミートの国境を越えた辺りから硬く戻っていた。
既にウェイデルンセン王国の領地に入っている。
この道を数時間も進めば、目的地に到着する。
「城の中もこんなだったら、布団から一歩も出ないで生活するしかないな」
「はは、それはないだろう。良くしてくれるさ」
「だろうね。可愛いお姫様の為だし、貢ぎ物だって奮発してるんだから」
ヨシュアはあくまで貢ぎ物と呼んだが、正しくは結納品だ。
全部理解した上でそう呼ぶ甥っ子に、レナルトは苦笑するしかない。
けれど、ヨシュア自身が自分もその貢ぎ物の一つだと考えていることはわかっていなかった。
やがて、前方に谷間の最奥に建てられた城が見えてきた。
「……綺麗だ」
それは、硬くしたヨシュアの表情を変えるほど美しい建物だった。
針葉樹の合間に雪を乗せた鋭い屋根が特徴的な、建物自体も雪で出来ているように真白い城が現れた。
「どうだ、考えが変わっただろ」
「そうだね、鳥かごにしては上等かな」
城に着くと門番といくつか言葉を交わして、荷物は全て任せた。
それからすぐに城内の貴賓室に案内され、至れり尽くせりのもてなしを受ける。
心配していた部屋は暖かく、見た目も鮮やかな料理に始まり、優雅な生演奏で歓迎された。
話し相手になったのは王の側近で、シモンと名乗る男だった。
八つ離れたヨシュアの兄より若く見えるが、不快にさせずに途切れもしない会話術は見事だ。
それでも、ヨシュアは決して口を開かなかった。
黙って味のしない食事を腹に入れ、話に耳を傾けつつも窓の外ばかりを見ていた。
食後のお茶もとうに終えた頃になって、ようやく王との対面が叶った。
案内されたのは謁見の間だ。
重厚な両開きの扉が開かれて最初に目に映ったのは、女神の像とその前に立っている背の高い男だ。
それが王だというのは、格好からも一目でわかる。
他は年配の男がいるだけだ。
そして、案内してきたシモンとレナルトとヨシュアが揃った所で扉が閉じられた。
「お待たせして申し訳ない。王のファウストです」
「王自らの歓迎、ありがたく存じます。私はスメラギ家当主の代理として参りましたロルフと申します。お約束通り、こちらのヨシュアを連れて参りました。」
「長旅でお疲れのことでしょう」
「ご配慮ありがとうございます。私は仕事柄慣れていますので問題ありません。ヨシュアの方は大変だったと思います」
「そうでしたか。こちらに入られてからは、不都合はなかったですか」
「そちらについては、何も申し上げる必要がないほど丁寧な扱いを受けました。シモン殿は博識な方ですね」
「ええ、自慢の側近です」
和やかに会話が弾む。
ヨシュアは話を振られないのをいい事に、じっくりと義兄になるであろう王を観察する。
こちらは兄と同年齢のようで、一国を治めるにはだいぶ若い。
それでも、自分の兄を思えば若すぎるとも思わない。
無茶な交渉を持ちかけてきた元凶だが、まともな王に見える。
少なくとも、公の場で失言を繰り返すタイプではなさそうだ。
「正式には明日、ここで重役達に発表させていただきます。外への公表はいずれ時期を見てとなりますが、例の男には明日の時点で伝わるでしょうから、事は足ります。レナルト殿も、ぜひ明日はご参加ください」
「承知しました。それで……お相手の妹姫は?」
「それも明日」
浅く微笑んだ王の瞳には、剣呑な気配が潜んでいた。
「では、明日の発表が済み次第、私はシンドリーに戻ります」
「大切な甥子さんの心配をするなと言っても無理でしょうが、不自由はさせないつもりですので、ご安心ください」
「よろしくお願いいたします」
王との面談はそれで終わった。
何を言ってくるかと待ち構えていたヨシュアには、去り際に明日はよろしくと微笑みかけただけだった。
その後、使用人の案内で移動する。
ここで生活するようになるヨシュアには奥に私室を用意しているとの話だが、今日のところはレナルトと続きの客室をあてがわれた。
王の側近であるシモンはいくつか説明を済ませてから、後ほど明日の打ち合わせに戻ると言い置いて出て行った。
使用人もいなくなり、二人きりになったのを見計らってヨシュアは尋ねる。
「叔父さんはどう思う?」
「正直、私が帰った後が心配だな」
率直すぎる意見だったが、ヨシュアも同じ感想だ。
謁見の間に入った瞬間と妹姫の話題が出た一瞬、ヨシュアはファウスト王の笑顔の下に殺気に近い憎悪を受け取った。
よほど、妹姫が可愛くて仕方ないらしい。
「ま、なんとかなるでしょ。こっちの話を聞いてるなら心配は不要だって理解してるはず。だからこそ、俺が選ばれた意味があるんだから」
当人はそっけなく返したが、レナルトは尚更心配になる。
ヨシュアのトラウマは、実情を知らない人には笑い話にしか聞こえない。
「それより叔父さん、明日には帰るんだね」
「そうだな」
淋しさを隠しきれていない甥っ子に胸が痛くなる。
「真っ直ぐ帰るの?」
「そのつもりだ。オアシスの知り合いに馬車を預けて、単騎に乗り換えて戻る」
「最後まで馬車を使わないんだ」
「のんびりしていられなくてな」
でなければ、留守を引き受けているロルフが刻限を分刻みで過ぎるごとに大変な方向に導いてくれる手筈になっているからだとは告げなかった。
これ以上、父親の印象を悪くする必要はないのだから。
* * *
ヨシュアが城に入った翌日。
ヨシュアとレナルトが王と再び対面したのは、ウェイデルンセンの身内に公表する身仕度が整った頃だ。
「ヨシュア殿、似合っていますよ」
衣装は城で用意された物で、全てがウェイデルンセン仕様だ。
ファウストは微笑んでいるが、やはり目の奥は笑っていない。
チリチリするものを感じながらも、ヨシュアは失礼のない表情で会釈して応えた。
「説明したように、今日はあくまで内輪の発表。書類や贈り物の交換は行わず、それが済めばヨシュア殿には王族専用棟に入ってもらい、しばらくは城の生活に慣れるだけに専念してもらうつもりです。要望があれば、遠慮なく申し出るように」
「ご配慮、ありがとうございます」
と、上っ面だけの会話をして面会は終わった。
レナルトは自分が会話するよりも緊張をして、どっと冷や汗をかいた。
「ヨシュア、大丈夫か」
「大丈夫だよ」
返事の通りだと笑って見せた。
レナルト相手だからそうしたが、本当なら大丈夫じゃなくたって、どうしようもないだろうと喚きたかった。
ヨシュアには決定権どころか、選択肢すらない。
それでも、あの家にいるよりましという一念でなんとか自分を保っている。
どれだけ敵視されていようと、ヨシュアの身に何か起きれば困るのは王であり、少なくともここでは命を狙われる心配はいらないないのだから。
「レナルト叔父さん」
ふと、ヨシュアはレナルトに呼びかけた。
「今までありがとう。あの家で、まともでいられたのは叔父さんがいたからだと思ってる。ここまで付き添ってくれたのが伯父さんで良かった。おかげで、楽しくしていられた」
「そんな、最後みたいな言い方をするな」
「たぶん最後だよ。もう、あの家には帰らない」
帰れないではなく、ヨシュアの意思で帰らない。
「それでもな、永遠の別れみたいに言うな。二度と私と会わないつもりか?」
「だって……」
「お前が呼んだら、私はいつでも駆けつける。だから、お前も私が呼んだら会いにきてくれ」
「俺が行くの?」
「そうだ。私は時々、無性にヨシュアに会いたくなる」
きょとんとしたヨシュアだが、意味を理解してじわりと心を動かされた。
「ありがとう、レナルト叔父さん。俺、実家には帰らないけど、叔父さんの家には行くよ」
「よし、絶対だぞ」
レナルトは、もう小さくはない手を握りしめた。
もう少しだけ身内の暖かさを味わわせてやりたいと願ったが、ドア越しに移動を指示される。
次の瞬間、ヨシュアは何者にも心を動かされない外面仕様になっていた。
「じゃあね、レナルト叔父さん」
心配は要らないと笑顔で部屋を出て行った。
その後、レナルトが甥っ子の姿を目にしたのは婚約発表のわずかであり、直接会話をする機会もなくウェイデルンセンを出立した。
* * *
「以上の説明に質問はありませんか」
「今のところはありません」
「では、しばらくは私、シモンがヨシュア様付きとしてお仕えしますので、何事もお申し付けください。明日は城内の案内を予定しています」
「わかりました。さすがに今日は疲れたようなので、休ませていただきます」
「そうですね、どうぞゆっくりお休みください。では、失礼いたします」
誰一人部屋からいなくなって、ヨシュアは対外用の表情を崩した。
「ろくなもんじゃなかったな」
レナルトと別れてからの一連を思い出して、早くもうんざりしてしまった。
内輪の婚約発表と聞いていたが、控え室に一人で散々待たされた挙句、ようやく始まった発表の場はものの数分で終わった。
集まった人達は食事会に流れたようだったが、ヨシュアはそこからまた延々と一人で待たされ、次に待っていたのは王と二人きりの夕食だった。
ファウスト王は笑顔でいながら、いくつもの要求をさりげなく押し付けてきた。
どれもこれも妹姫に手を出すな、という意味でしかない。
黙って聞き入れていたヨシュアだが、そもそも、肝心の結婚相手である姫がどんな顔をしているのかさえわかっていないのに、手を出すも何もないだろうと思っていた。
発表の場に現れた姫君は、繊細な刺繍の施された薄緑のドレスで現れた。
だが、すっぽりとベールで覆われていたので何も見えなかった。
あれでは誰がやってきても構わない。
「それならそれでいいけどね」
顔も知らないのに夫婦をやっていく。
仮面夫婦、ぴったりではないか。
現在ヨシュアが知る結婚相手の情報は、ティアラという名前と二つ年下の十五歳だという事。
それから、ヒールを履いてヨシュアより少し低い背丈というたわいもない事実だけだ。
「あー、疲れた」
ベッドに倒れるように横たわって、すぐに半身を起こした。
人の気配を感じたのだ。
けれど、いくら確認しても誰もいなかった。
「変に緊張してるせいかな。大丈夫、大丈夫なはずだ。ここはまだ大丈夫」
ヨシュアは自分に言い聞かせながら、嗅ぎ慣れない匂いの部屋で眠りに落ちた。
* * *
婚約発表から一週間。
ヨシュアはウェイデルンセンをおとぎの国のようだと思う。
山に囲まれた、世間から切り離された小さな王国。
北国なので冬季は作物が見込めず、流通から切り離されれば生活は成り立たない。
水や鉱石という資源はあるが、他国から見れば不便の方が勝っている。
それでも、不思議と国民に不満は少ない。
限りがあるからこそ助け合い、穏やかで礼儀正しい人が多いのだ。
世話役として付いているシモンも敵意はなく、ただひたすらに案内役を全うしようと尽くしてくれている。
それなのに、国を代表するファウスト王が、残念ながらそこからもれてしまっていた。
ヨシュアの部屋は王族専用棟の一角にあるのだが、かなり外れに位置している。
別荘地と呼んでもいいくらいだ。
聞けば昔、節操のない王が身籠らせた身分の低い愛人を囲う為に建て増しされた部屋だと、シモンがこっそりとしっかり教えてくれた。
出来る限り、全力で要望に応えてくれる世話係である。
「ま、いーけどね」
ファウスト王の態度さえ目をつぶれば、半隔離状態だろうが、結婚相手の顔をろくに知らなかろうがヨシュアは構わない。
だが、それも間もなく、事態の方から動きだした。
笑顔を絶やさないシモンが、珍しく顔をしかめてやってきた朝だった。
「油ギッシュがやってきます」
「なんですか、それ?」
ヨシュアの疑問は即日解消された。
「明後日、オーヴェのプリンタ・リチャルド様が婚約のお祝いにいらっしゃるそうです」
ファウストと同席した朝食で、王のもう一人の側近であるヘルマンが告げた事で判明した。
つまり、油ギッシュとは件の困った中年求婚男・リチャルドの事であり、何ではなく誰、が正解だった。
「動くのが早いな。外に公表したわけでもないのに祝いに押しかけて来るとは、迷惑も甚だしい」
ファウストは取り繕わずに、心底嫌な顔をする。
「根掘り葉掘りと追求しに来られるでしょう。少しでも隙があれば、自分を対抗馬としてねじ込んでくるつもりなのでは」
ヘルマンの解釈に、ファウストは鼻を鳴らす。
「ふん、ぐうの音も出ないように追い払ってやるわ。その為に、こちらは血の涙を流して婚約者を迎え入れているのだからな」
この世に、これ以上憎い者はいないという目つきでヨシュアは睨みつけられる。
ヨシュアの方は、王のどんな憎悪も簡単に受け流せた。
実際に危害を加えられる心配がなければ、痛くも痒くもない。
「それで、私は何をすればよろしいのですか」
「中々察しがいいな。お前がティアラの婚約者でなければ、喜んで迎えたところだ」
だったら、ここにいる必要はないだろうという反感は置いといて、ヨシュアは話を促した。
「設定は頭に入っているのだろうな」
「お望みならば、頁数までお答えできますよ」
まずは城に慣れるだけに専念させると言われたはずなのに、合間に覚えろと分厚い書類の束を渡されていた。
内容を確認してみれば、ティアラと接する際に注意する長い禁止事項と共に、事細かな婚約設定が記されていた。
誰に何を聞かれても困らないようにしておけとの指令だった。
暗記は苦手ではないし、手持ち無沙汰だったので素直に従ったが、ここにきて成果を発表する機会が訪れたようだ。
「ヘルマン、後でテストをしてやってくれ」
「承知いたしました」
「お前もそれで構わないな」
「はい」
ヨシュアは素直に了承したのだが、なぜかファウストは肩を怒らせ、今にも般若に変わる寸前に見える。
それを堪えて絞り出されたのは「私からは以上だ」と一言だけで、後は姿を消してしまった。
こういう時は、全力で要望に応えてくれるシモンの出番だ。
「どういう意味なのですか?」
「会わせたくない! けど、そういうわけにもいかないし……でもでも、やっぱり会わせたくない!! という葛藤の表れです」
「それってつまり……」
ヘルマンがその先の言葉を引き継いだ。
「本日の午後、ティアラ様とご対面していただきます」
ようやく、婚約者の顔合わせが叶うらしい。
「良かったですね」
シモンはそう言ったが、ヨシュアとしては面倒な性格でなければいいと願うだけだ。
午後になり、お姫様との対面にあたりヨシュアが真っ先にさせられたのは、全身を綺麗さっぱりと清める事だった。
しかも、どこからどう見ても清潔感あふれる仕上がりになっているのに、呼ばれた部屋に入るなり出会い頭にファウストから消毒液をこれでもかと霧吹きかけられる徹底振りだ。
それでもファウストの顔には、まだ気に入らないと書いてある。
「ファウスト王。いつまでも、こうしているわけにはいきませんよ」
兄王がお茶を三杯飲み干した辺りで、さすがにヘルマンから助け船が出て、妹姫の登場となった。
「ティアラと申します。よろしくお願いいたします」
しずしずとやってきて、しずしずと挨拶をした。
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
ヨシュアは立ち上がったものの、禁止事項により手を触れずに済んだ。
そして、やっと拝見できた肝心の婚約者は、予想に反していまいちだった。
艶やかな長い髪が顔にかかり余分な影を落としている。
頬の横一線にそばかすが浮いていて、分厚い眼鏡は度がきついのかレンズが歪んでどこを見ているのかわからない。
これなら、ベールの方がだいぶ印象は良かった。
どう見積もっても、ファウストが可愛くて可愛くて、心配で心配で堪らない姫君だというのは同意し難い。
女嫌いなヨシュアだが、貴族の家に生まれた以上、着飾った人達に出会う機会はわんさかとあったので、真っ当な審美眼を持って判断する。
イコール、ファウストは過剰な妹バカと決定した。
「ヘルマン、後は任せる」
「はい、承知いたしました。では、お二人ともお座りください。面会の予習をさせていただきます」
ファウストが部屋を出ていき、ヘルマンに促されて初対面を果たした二人が着席する。
それからは、迷惑お貴族様が仕掛けてくるだろうと想定された質問が矢継ぎ早に繰り出された。
それも、執拗で嫌みったらしく、相手を不愉快にさせる為だけの言い回しを駆使されて。
ヨシュアが、これは何の我慢大会だと思うくらいのいやらしさだ。
ヘルマンがそういう口調でも性格でもないので、油ギッシュことリチャルドの真似なのだろう。
シモンが全力で要望に応えてくれる側近なら、ヘルマンは完璧主義といったところだ。
完璧すぎて、気持ちが悪くなってくる。
そんな拷問状態の中、ティアラに関して収穫があった。
ヘルマンの問いかけに答えるだけなので直接会話をしたわけではないが、頭の回転が良さそうな気配には好感が持てた。
分厚い設定資料にわざとだとしか考えられない情報の欠如がいくつかあって、ティアラはそれらのどれにもヨシュアが補完した方向と違わない返答をしていた。
仮面夫婦を貫くなら、言葉が通じる理性的な相手がいいに決まってる。
「お二人とも、完璧でございました」
粗方、底意地の悪い質問が出尽くすと、ヘルマンはころっと生真面目な口調で頭を下げた。
あまりの落差に、ついていけないほどあっさりと切り替わる。
「それでは、私の役目はここまでとなります。シモン、後は頼みます」
「はい、お任せください」
ヨシュアが不気味な者を見たようにヘルマンを視線で追っていたが、さっきまで神妙に付き合っていたシモンがどっかりと椅子に腰かけたので、目の前に意識を戻した。
「あー、疲れた。毎回思うんだけど、あれって練習してるんだと思う?」
喋り方まで、がっつり崩れていた。
「これが素なんだ。ねえ、ヨシュアって呼んでもいいかな」
シモンは悪びれずに、ニコっと笑った。
「……どうぞ」
いつもの従者らしい丁寧さとのギャップに、ヨシュアは戸惑ったまま答える。
「ヨシュアもさ、時には気楽な方がいいかなって思ってたんだ。こっちも、気を張ってばかりだと肩こるしね。それでなくても、あちこちに王の耳が目を光らせてるから」
「今は大丈夫なわけ?」
「この部屋は王よりティアラに分があるから。あの過保護ぶりに引いてる使用人達で構成されているんだ」
だからと言って、妹姫の前でその態度は問題がある気がしてならない。
「平気だよ。俺とティアラとファウストは、いわゆる幼馴染みだから」
なるほど、と思う。
それから、ふと、自分の幼馴染みがこの件を知ったらどう思うだろうかと想いを馳せてみる。
他人から聞けば、水臭いと怒るだろう。
痛い引っかかりを胸に覚えるが、全てを切り捨てたヨシュアにはどうする資格もなかった。
「ヨシュア、ちゃんと立って」
束の間、考え事をしてシモンの話を聞いてなかった。
流れもわからないまま立ち上がらされたヨシュアは、広く開け放ったテラスから淡い緑の庭園に押し出される。
「後は、若い人同士でごゆっくり。もちろん、人払いしてあるからね」
親指を立てたシモンは、白い歯を光らせて見送った。
どんな気遣いなのか、窓は完全に閉めきられ、レースのカーテンまで閉じられた。
そうして、庭園には婚約関係にあるヨシュアとティアラだけが突っ立っている。
みつめてくるティアラの表情は、鬱陶しい長い髪と分厚い眼鏡で計り知れない。
ヨシュアはじわりと脂汗を垂らした。
女嫌いのヨシュアには、ここをどう乗り切るかが最初の試練だ。
気持ちを落ち着ける為に目を閉じて、深い呼吸を意識する。
次に目を開いた時には、さっきと変わらずじっとみつめてくるティアラがいた。
何を考えているのか、さっぱりわからない。
それでも、結婚相手として付き合っていく必要があるのだ。
「ティアラ様、案内していただけますか」
「はい」
ティアラは口元で微笑んで、先頭に立って歩き始めた。
滑り出しは順調だ。
ところが、あまりにもティアラが黙って歩くので、不本意にもヨシュアの方から質問せざるを得ないほど静かな時間が続いた。
そんなやりとりを経て、どうにか案内らしい説明で会話が成立し始めた。
和やかな雰囲気を作りつつ、ヨシュアはさりげなく婚約者の観察に努める。
そして、ティアラは仮面夫婦として都合のいいタイプかもしれないと分析をした。
呼びかけなければ口を開かないほど内気で、変に興味を示してけないところが好ましかった。
それでも心を開く予定はなかったし、なるべく顔を会わせないで過ごすつもりだ。
ちょっとした印象だけで気を許せるほど、ヨシュアは女という生き物を信用していない。
「本日はありがとうございました。楽しかったです。また、ティアラ様とお話する機会を楽しみにしています」
別れ際にリップサービスで声をかける。
サービスではあるが、婚約者でありながら、たまに話すくらいしか関わるつもりがないと皮肉を込めていた。
ところが、その日の夜。
ヨシュアはこのサービスをたっぷりと後悔するはめになる。
* * *
「明日は、面会の為の予備講座だっけ」
近頃のヨシュアは部屋で独り言をつぶやくようになっていた。
そうでもしないと、外面ばかりで本音を吐き出す場所がなくなりそうだからだ。
靴を放り出してベッドに飛び込む。
家を出るのが最大の目的なので何も期待していなかったが、ベッドの心地だけは儲け物だと思う。
レナルトと再会する機会には、どこの商会の製品なのか教えてあげようと考えてるくらいだ。
「あー。ヘルマンの奴、また物真似するのかな。……勘弁してほしい」
「同感です」
枕に顔をうずめながらのぼやきに、ありえない賛同を返された。
「は!?」
慌てて顔を上げれば、ランプに照らされて立っている人物が見えた。
声も輪郭も女だと示している。
ヨシュアは、思わず悲鳴をあげるところだった。
「あの、騒がないでください。ティアラです」
これまたとんでもない返答だったが、控えめな口調と、壁際から少しも近づいてこない様子で、なんとか自分を取り戻した。
「色々言いたい事はあるのですが、とりあえず確認させてください。俺の話、どこまで聞いていますか」
「何も。知っているのは設定だけです」
やはりと思う。
「だから、お話がしたくてお邪魔させてもらいました。昼間は楽しかったですし、またお話したいとおっしゃってくれましたので」
ヨシュアは頭痛がした。
これだから女は恐ろしいし、油断がならない。
社交辞令さえ通じないのだから。
「この際だからはっきり言いますが、俺は女が嫌いなんです。だから、あなたの婚約者に選ばれました。なので、これ以上近寄らないでください」
「それは……」
苦手ではなく嫌い。
こう告げると、たいていの女は笑うかどん引く。
でなければ――
「男の人が好きなのですか?」
と、くる。
「違います。男はあくまで友情の対象です。そうじゃなくて、女性全般が気持ち悪いんです。外ではなんとか我慢できますが、私室に入られるのはきつい。第一、どうやって部屋に入ったんですか」
夫婦になるのだからと合鍵を持たされているのなら、即座に返還要求をしなければならない。
「秘密の通路から」
「は?」
「ファウ……兄も知らない通路がありまして、そこを通ってきました。そうでもしないと、ゆっくりお話もできないと思いまして」
申し訳なさそうな態度をしてるが、さっきからぺらぺらとよくしゃべっている。
昼間のしずしずキャラは完全に作り物だと判明した。
「話なら、昼間にいくらでもできたでしょう」
「気付きませんでしたか? 後ろからも横からもぞろぞろと覗かれていたのを」
ヨシュアは沈黙した。
当然、気付いてはいた。
いたけれど、目の前のティアラは何も言わずに覗かせていたのだ。
おそらく、覗きの筆頭はシモンだろう。
「あなたの幼馴染みでしょう。どうにかしようとは思わなかったのですか」
「申し訳ありません。シモンに悪気は無いものですから。それに、ファウストに伝える気がないのも本当なのです。ただ、サービス精神が旺盛で、聞かれれば精一杯の全力で答えてしまうのはヨシュア様も気付いているのでしょう」
あれはサービス精神なのかと初めて知った。
知らなくても構わない情報だったが。
「ちなみに、兄は口外禁止を厳命するくらいなら、シモンには黙っていると決めているみたいです」
それも、全くどうでもいい情報だった。
「なんでもいいので、とにかく出て行ってください」
さっきから、少しでも距離が縮まれば吐いてしまいそうな胸焼けがしている。
「わかりました、今日は帰ります。ですが、一つだけ。本当は真っ先に謝りたかったのです。リチャルド様との結婚は少しも望みませんが、その為に巻き込んでしまった事を。ヨシュア様が望んでいるならまだしも、そのご様子なら……兄に利用されたに過ぎないようですし」
薄暗い部屋の中、髪に隠れてティアラの表情は見えない。
もとから見える表情などなかったが、完全に見えない方が感情が伝わってくる気がした。
少なくとも、謝りたいという気持ちは受け入れてもいいと思えた。
少しも近付いてこないところが、話せば通じる相手だと認識させられたから。
「謝罪は受け入れます。ですが、これは俺にも利点があったので引き受けた話です。そこまで、あなたが気にしないでください。これ以上近付かないでくれるのなら、好きにしてくれて構いません。ただ、勝手に私室に入られるのは困ります。もう絶対、二度とこんな事はしないでください」
「はい、ごめんなさい」
ティアラはしおらしく頭を下げた。
「では、次からは訪ねる前に必ず声をかけます」
「は?」
いやいやいや、ちょっと待て!
それは違うだろう!!
と、苦情を入れる前に、ティアラはするりと姿を消してしまった。
「なんなんだ、あの女は」
あまりのことに、今頃になって身震いしてしまう。
寒くなったので布団に頭から包まったが、安眠はできなかった。
* * *
「おはようございます。今日は午後からヘルマンの予習復習講座ですよ」
天然で笑顔を振りまくシモンが眩しくてしょうがなかった。
ヨシュアは起きていたが、見るからにぐったりしている。
「大丈夫? あ、もしかして、昨日ティアラと会って興奮しちゃったとか。ダメですよ、そういうのは結婚するまで我慢しないと。生粋の箱入りお姫様ですからね」
指摘された元凶は合っていたが、理由は百八十度間違っている。
昨夜の、お姫様の突撃お部屋訪問! のおかげで、神経質なヨシュアはろくに眠れなかった。
そんな状況で始まった一日は、何もかもにイライラさせられた。
忙しいくせにわざわざ講座見学に現れたファウスト王に敵意むき出しのオーラを向けられ、妹にどういう教育をしているんだと言い返してやりたい気持ちを根性で抑え込まなければならず、昼からは元凶のティアラと二人きりにされるが、前回と同じく野次馬のわかりやすい覗き見にさらされて余計に神経をすり減らした上に、元凶が目の前にいながらも晴らせない鬱憤がむくむくと膨らんで大変な気苦労だった。
「はあ、思ったより疲れるな」
部屋で一人になったヨシュアは、ようやく素に戻れた。
さすがに、私室以外の全てを外面で過ごすのは辛い。
「でも、まあ、明日が峠だからな」
油ギッシュ対策が済めば、疲れたからとしばらく引きこもるつもりでいる。
外聞が悪くても、あの妹バカの王様なら喜んで閉じ込めてくれるだろう。
ベッドにぼんやりと寝転がっていると、廊下で動く気配がした。
耳を澄ますと、こちらにやって来る存在を確信する。
歩き方で、シモンでないのはわかる。
今日はまだ外面を外せそうにないらしい。
予定にない訪問者は部屋の前でぴたりと止まり、規則正しいノックを鳴らした。
「夜分に申し訳ありません。明日の警護に関する事で、いくつか確認をお願いいたします」
ヨシュアは眉間にしわを寄せる。
声が女だからだ。
周囲の誰一人として、ヨシュアが女嫌いだと把握していないらしい。
明日の務めが終わったら、ファウストの認識を確認する必要がありそうだ。
ため息がもれないよう、心を落ち着けてからドアを開けた。
「はじめまして。明日の警護を任されているリラと申します」
その人は護衛官の制服を身につけていた。
背が高く、立ち姿に隙がない。
それでも、一つにくくった明るい髪と、細面の柔らかい線が女である事実を隠していなかった。
「若い方なんですね」
責任者という割りに、少し年上くらいにしか見えない。
「頼りないですか? これでも、見習いから数えれば十年は勤めているのですよ」
ヨシュアは、ちらりと刀に視線を向ける。
任務中とはいえ、王族の私室区域に帯刀を許されているのなら実績と信頼があるのだろう。
仕事に関しては男女の偏見はない。
「王がお任せしているのなら構いません。用件をお願いします」
では、とリラは説明を始めた。
薄暗い通路での会話なので、自然と距離が近くなる。
平静にしていられるのは、相手が警護官だからだろう。
芯の通った背筋、無駄のない口調、仕事でしかない雰囲気に余計な警戒は必要なかった。
「わかりました。ご苦労様です。明日はよろしくお願いします」
挨拶をしてドアを閉めるほんの寸前、頑丈なブーツが隙間に入り込んできた。
ぎょっとしてヨシュアが顔を上げると、一変したリラが間近で微笑んでいた。
「仕事は終わりました。ですから、明日なんて言わずに、今からよろしくしませんか」
リラが首を傾げると、束ねられた髪がさらりと揺れる。
瞬間、ヨシュアの全身の産毛が逆立ち悪寒が走る。
即座に逃げようとするが、相手が悪かった。
ヨシュアが足を押しやりドアを閉めるより早く、リラがヨシュアを部屋に押し込めた。
「ふふふ、可愛い顔でラッキー」
舌舐めずりするリラに、後ろ手で鍵をかけられる。
ヨシュアは逃げようにも、抵抗しようにも力が入らなかった。
それどころか、押し込められた衝撃のまま、立ち上がれずにいる。
「大丈夫、恐い事なんてしないから」
自ら制服のボタンを外しながら、リラは歩み寄る。
「いい事しましょ」
腰の抜けてるヨシュアに跨ると、リラは顔を近付けて口づけを迫った。
残り数センチの鼻先、リラが目を閉じようとした時に異変は始まった。
「キャー」
甲高い、聞いただけで不安になるような悲鳴が響いた。
「え?」
一番に駆けつけたのは、秘密の通路から現れたティアラだった。
「どうしたの!?」
「えっと……」
困っていたのはリラの方だ。
馬乗り状態のリラの前で、ヨシュアが耳を塞いで悲鳴を上げている。
「何をしたの」
「あー、言っときますけど、王の指示ですからね」
リラが両手を挙げて言い訳をする。
ティアラは、それ以上の追求しなかった。
ヨシュアは未だに悲鳴を上げ続けているからだ。
叱られた子どものようにぎゅっと丸まって、短い呼吸を挟んで奇声に近い叫びが止まらない。
聞いている方が辛くなってくる。
助けに来たつもりのティアラは、まずリラを引き離しにかかった。
「ヨシュア様、ヨシュア様!」
離れて呼びかけてみるが、一切返事がない。
「ヨシュア、聞いて! もう嫌な事は何もないから。落ち着いて、ヨシュア!!」
精一杯大声で叫んだけれど、やはり応答はなかった。
「何事ですか!?」
ここでシモンとヘルマン、そして王であるファウストが駆けつけてきた。
ファウストはヨシュアの部屋に愛しのティアラがいた事に驚いたが、それ以上にヨシュアの様子に目を見開いた。
「リラ、何があった」
「あなたの言いつけ通りに行動しただけです」
「私は噛みつけと言った覚えはないぞ」
ファウストは軽く誘って反応を見てくれと頼んだだけだった。
リラを信頼して任せたのだが、うっかり命でも狙ったのかと疑いたくなる怯えようだ。
「お兄様、話は後です。私達は出るので、彼をお願いします」
ティアラは切羽詰まった表情でリラをつれて出て行った。
それを見て、即座に対応できたのはヘルマンだった。
「ヨシュア殿、私はヘルマンです。わかりますか」
叫び狂うヨシュアの前に屈み込むと、腕を掴んで強引に視線を合わせた。
「もう大丈夫です。この部屋に女性はいません。私は男です。ヨシュア殿、安心していいんですよ」
徐々に悲鳴が治まり、浅い呼吸が落ち着いてくると開ききった瞳孔がヘルマンに定まった。
「わかりますね」
優しい調子で呼びかければ、小さく頷く反応があった。
「とりあえず、大丈夫でしょう」
ヘルマンは振り返り、呆然としているファウストとシモンに声をかける。
「そのようだな」
部屋はホッとした空気に包まれた。
「ヨシュア殿、立てますか?」
「はい、ご迷惑をかけて申し訳ありませんでした」
手を差し出したヘルマンは、すでに自分を取り戻している様子に驚いた。
「初めてではないですから」
ヨシュアは無表情で返答し、ファウストに向き直った。
「ファウスト王、お聞きになっている話が作り話でないのは、これで確認できましたでしょう。でしたら、今後、二度と、こういうおふざけはおやめください。」
「わ、わかった。いや、本当にすまなかった」
「信じていただけないのは、よくある事ですから。理解していただけたなら構いません。もう、休ませていただいてもよろしいでしょうか」
「ああ、もちろんだ。ゆっくり休んでくれ」
動揺を隠しきれていない王とシモンが出て行くのを眺めていると、最後に続いたヘルマンは痛ましげな視線と共に深く頭を下げた。
それらを見送って、震える手でドアに鍵をかける。
ため息と一緒にせり上がってきた吐き気をどうにか押し込めて、力なくベッドに座る。
寒いので毛布を体に巻きつけた。
それでも震えは止まらなかった。
ヨシュアの女嫌いを疑われていたのだ。
そんなところだろうと推察していたが、まさか家を出てもこんな目に遭うとは思わなかった。
恐い、恐い、恐い。
どれだけ淡々と自分に言い聞かせても、この恐怖は乗り越えられるものではなかった。
* * *
リチャルドとの面会当日。
当然、ヨシュアの気分は最悪だった。
一睡もできそうになかったので、朝焼け前からむくみ防止のマッサージをして時間をつぶしながら万全に近付けるよう整えていた。
なので、恐る恐るやってきたシモンが部屋を訪れてきた時には、昨夜の錯乱は夢幻だったのではないかと思ってしまうくらいヨシュアは平然としていた。
「おはよう、シモン。例の貴族様は昼頃に来るのだろう」
「そうです」
「なら、ぎりぎりまで一人にしてもらえないかな」
「わかりました……って、言ってあげたいとこなんだけど、その前に会ってもらいたい人がいるんだ。いいかな」
どうせファウスト王か、代理でヘルマン辺りが謝罪してくるのだろうとあっさり承諾した。
そして、シモンではなくヘルマンに案内された部屋には、びっくりドッキリのティアラが待ち構えていた。
ヨシュアは体を硬くした。
それでも、根性で社交的な顔を作る。
これから隣に並んで、仲睦まじい婚約者を演じなければならないのだ。
こんなところで挫けているわけにはいかなかった。
「どうぞお座りください」
ティアラは自分から一番遠い席を勧めた。
広い部屋には案内役のヘルマンと呼び出したティアラ、そして呼び出されたヨシュアだけだ。
「この度は、兄が本当に申し訳ありませんでした」
ヨシュアが席に着くなり、ティアラはいきなり謝った。
それはもう、テーブルにゴンと音が響く勢いで。
「……あなたに謝られる覚えはないのですが」
それに対して、ヨシュアは実に冷静だった。
「いえ、私のせいには違いないですから。兄……ファウストは、両親が亡くなってから過保護が度を越すようになりました。城の者は慣れたものですが、普段は冷静沈着な王なのに、私が絡むと迷惑極まりない言動になるのです。おかげで、私にはろくに友人がいません」
ここまでを、テーブルに額を擦り付けたままで話した。
状態も発言もツッコミどころ満載である。
ヨシュアは咳払いをして答えた。
「こちらは気にしてませんから。それに、あなたもわかってくれましたでしょう。ですから……」
妙な気遣いなどしなくていいので、共に仮面夫婦を貫きましょう。
と、告げるつもりだった。
ところがだ。
「わかりました。でしたら、無理に夫婦になる必要はありません」
うんうんと、ここまでは頷けた。
「私とお友達になってください」
うん?
ヨシュアは首を捻った。
今、なんて言った?
「あなたが嫌がる事はいたしません。安心してお付き合いください」
いやいやいや、違いますよ。
お付き合い自体が嫌なんですよ。
とは、さすがに率直すぎてお姫様に言えない。
そこで、助けを求めてヘルマンに無言で救援要請を送る。
ヘルマンは昨夜の的確な対処のように即座に要求を理解した。
理解した上で、こう返答した。
「こういう方ですから、ご辛抱ください」
今度はヨシュアの方が突っ伏してしまった。
ああ、そうか。
ここは鳥かごなんかじゃない。
猛獣が暮らす檻の中だったのだと、今になって気付いてしまった。
* * *
部屋に戻ったヨシュアは、よりぐったりとしていた。
このまま油ギッシュを迎えるのなら、文句のつけどころがない婚約者を演じきる自信は揺らぎまくっている。
休んで回復するにしても、これまでのティアラの言動がぐるぐる渦巻いているし、時間もない。
けれど、結果的には一眠りをして心も体も休められた。
なぜなら、お祝いに押しかけると宣言してきた迷惑貴族のリチャルドが「ごっめーん、遅れて行くから夕飯を用意しといてね」なんて、ふざけた連絡を寄越したからだ。
どこまでも勝手な男である。
おかげで休めたのだが、感謝したいとは少しも思わなかった。
夕方、ヨシュアは上質な肌触りのウェイデルンセン仕様の服に着せ替えられていた。
今は、控えの間でファウストに呼ばれるのを待っている。
すでに迷惑な貴族様の到着の知らせを受けていて、隣には同じく控えめに着飾ったティアラが待機している。
当然のようにベールを身につけて、静かにしていた。
この国では姫君は顔を見せないしきたりでもあるのかと思ったが、わざわざ尋ねてみるほど興味はなかった。
雑談もなく、ただただ呼ばれるまでの時間を過ごしていると、間もなく迎えが現れた。
やってきたヘルマンは、微かに浮かない顔をしている。
「ティアラ様、お客様が増えました」
「誰ですか」
「オーヴェの神官です」
「サイラス様ですか」
「ええ」
ヨシュアはオーヴェに詳しくもないが、帝国主義の傾向があり、帝王は絶対であり神だと崇められているのは知っていた。
神官ならば、城勤めの上役だ。
それがどうして、はた迷惑なお貴族様と一緒なのだろう。
神官とは名ばかりで、金でも積んで職を得た、同種の人間なのかもしれないと憶測してみる。
「ヘルマン、心配しないでいいわ。婚約を確認すれば、どうする理由もないはずだから」
「そうですね。ティアラ様、くれぐれもお気を付けくださいませ」
頷いて返事にするティアラを確認し、ヘルマンは頭を下げて後ろに立った。
「さあ、ヨシュア様。仲の良いところを見せつけてあげましょう」
ティアラは明るく呼びかけた。
「そうですね」
対するヨシュアはそっけなく返事をしてから、外面の愛想を強化した。
「では、参りましょう。ティアラ様」
次の瞬間には、笑顔を深めたヨシュアが差し出した手に、そっとティアラの白い手が乗せられる。
脂汗と震えを抑えて、いざ、仮面夫婦の出動である。
「おお、おお、お久しぶりですね、ティアラ様!」
応接間に入った途端、ヨシュアは吹き出しそうになった。
「それにしても、どうしてベールなんかを? せっかく、麗しいあなたを拝顔できると、それだけを楽しみにこーんな山奥までやってきたというのに」
大げさな口調と、自覚がなさそうな失言を織り交ぜて、小太りな中年男性が立ち上がった。
ヘルマンの物真似は確かに似ていた。
しかし、全身が紳士的でスマートなヘルマンに比べて、本物のリチャルドは生え際が前線離脱した髪を撫でつけ、体全体で肥満をアピールしながら、こんがりした肌は脂性なのかどこもかしこも艶々している。
見るからにこいつが油ギッシュ、素晴らしく的確なあだ名だった。
横に並ぶティアラは、お久しぶりですと、しずしずと挨拶をしていた。
ティアラの外面はそういうキャラのようだ。
とても、真夜中に突撃訪問してきた人物には見えない。
「プリンタ殿、ご紹介いたしましょう。こちらが、ティアラの婚約者であるスメラギ・ヨシュアです」
ファウストの紹介に合わせて、ヨシュアは爽やかな笑みで応える。
「ヨシュア、こちらはオーヴェの貴族で、わが国と交易関係のあるプリンタ・リチャルド殿だ。そして、隣が同じオーヴェで神官をしておられるサイラス殿だ」
それを受けて、ヨシュアは見事に油ギッシュなリチャルドに笑いを堪えて目礼し、サイラスに視線を移した。
サイラスは文人のようにすらりとした優男だが、背が高く、癖のない長い髪が映えている。
むっくりしたリチャルドと並べば、尚更優雅さが際立って見える。
オーヴェの神官は独身を貫く聞いて羨ましく思った覚えがあったが、この容姿なら勿体ないと嘆く人がいるはずだ。
「失礼ですが、サイラス殿の家名は?」
「神官は神に仕える身なので、家名は神に返上しております」
「そうでしたか。勉強不足で失礼いたしました」
本気で興味を持ったわけでもないのに質問したのは、リチャルドを相手にすると吹き出しそうだったのもあるが、突然入り込んできた情報のない人物を探る為でもあった。
「ところで、ベールは外してくださらないのですか。ティアラ様が、今更私に遠慮する必要などないでしょうに」
リチャルドは挨拶もそこそこにコレだ。
そもそも、お前は婚約を祝いにきたのではないかと問いたい。
「プリンタ殿、申し訳ありません。これは、婚約者であるヨシュアが、他の男には見せたくないと言うものですから」
ファウストは苦笑の中にうっすらと嫌味な笑みを含ませて、とんでもない返答をしてくれた。
おかげで、顔を隠すのが風習でもしきたりでもなく、単にヨシュアに見せたくないだけだとわかった。
ついでにリチャルドにも見せたくないのだろうが、いきなり設定にない発言は嫌がらせ以外の何物でもない。
これで、油ギッシュの憎々しい感情は全てヨシュアに向く事だろう。
「ほお、それはそれは。ずいぶん独占的で心の狭い男ですね。少しもティアラ様を信用していないようですな。今からそれでは、ティアラ様がご苦労するのでは? 私でしたら、そんな狭量でせこい真似はいたしませんのに」
ギラついたリチャルドが、ここぞとばかりに自分を推してきた。
さて、どう切り返そうかとヨシュアが思案していると、話題のベール下から返答があった。
「リチャルド様、私は嬉しいのですよ。それほど大切に思ってくれているのなら、少しも苦にはなりません」
「それはいけません、いけませんぞ! 今は良くても、何年か経てば嫌になるに決まってます。やれ、アレをしろ、コレは駄目だと口煩いだけの存在になるんです!!」
そこだけ、やけに実感が込もっていた。
それもそのはずで、リチャルドは一度結婚に失敗しているのだと事前に聞かされている。
だというのに、二度目は遥かに年下の少女にアタックしようとするのだから、かなり積極的な男だ。
「それも、夫婦の形なのではないですか? 私は、ヨシュア様と喧嘩をするのも楽しみにしているくらいなのです」
リチャルドの意見を全否定して、ティアラはベール越しに笑っていた。
本気で言っているようで、ヨシュアは驚いた。
真意はともかく、リチャルドは真っ赤になって悔しがっている。
「いくら婚約者殿のお望みでも、祭典や公の行事で巫女のお勤めの際に、顔を隠しているわけにいかないでしょう。それは、ご存知なのですか」
憤慨していても言い返す発想のないリチャルドを横目に、サイラスがヨシュアを相手にしてきた。巫女ねえ……と、婚約者設定を思い出す。
ウェイデルンセンでは山の神を崇め、季節の折々に祭典があり、神に通じる事ができる乙女として巫女が仕切るのだと記してあった。
その筆頭が王族のティアラで、結婚をすれば裏方に回るが、総取締として関わり続けるらしい。
「まだ巫女としての姿を拝見していませんが、話には聞いています。それに、ベールの件は最初から長く続けさせるつもりではありませんので。そちらの、プリンタ殿から婚約の話が持ち上がった事があると知って、ささやかですが妬いてしまったのです。私以外には見向きもしないようにと、ちょっとしたお仕置きをしてしまいました」
悪びれずに微笑むヨシュアに当て付けられて、誰もが目を見張った。
何より、仕掛けたはずのファウストが一番ショックを受けていた。
「お二人は大変仲睦まじいのですね。ところで、ヨシュア殿はティアラ様のどんなところがお気に召したのですか。ベールの件から、よほど外見がお好みなようですが」
サイラスは穏やかな微笑みを絶やさないが、どこか底意地の悪さを感じる問いかけだった。
「そうだ、そうだ。そんな男は認められん!! ティアラ様、こんな見かけしか興味のない男と結婚するなど言語道断。不幸の始まりですぞ!」
歯噛みして悔しがるしかなかったリチャルドは、ここが反撃のチャンスと知るとすかさず便乗してきた。
ついさっきまで、しつこく顔が見たいと執心していた自分はすっかり天井裏に棚上げしている。
ヨシュアはちらりと婚約者に視線を送った。
誰もがティアラの容姿をもてはやしているのは汲み取れるが、国によってこんなに好みが違うものかと考えてしまう。
見ようによっては天然、もしくは純朴と呼べるのかもしれないが、数々の手間暇をかけて磨かれた女達を見ているヨシュアには評価できるところが見つけられない。
だからといって、中身を褒められるほど相手を知らない。
当たり障りのない返答でもいいのだが、できればガツンと衝撃を与えておきたかった。
すでに、まともに相手にしているのが嫌になってきている。
「そうですね。特に見た目を重視するつもりはないので、ベールにこだわりはありません。それより、人の話に耳を傾け、相手を理解しようとする姿勢に惹かれました。ファウスト王に大切にされてわがままに育ってもおかしくないのに、自分中心で物事を考えないのです。ああ、ですが、見た目と言うなら、瞳がとても綺麗だと思います。不思議と見入ってしまうのは、瞳が何よりも心を映すからかもしれませんね」
微かに頬を緩める器用な演技力で、初々しくもガツンとした返答を披露してみせた。
誰もが感心する中、やり遂げた当人は愕然としたリチャルドを眺めて自己満足している。
サイラスだけは平然と微笑んでいて、念の為なのかティアラにも同じ問いかけをした。
ヨシュアとしては、せっかくガツンと凹ませたのだから下手な発言はするなと念を送りつつも、どう返すのかには興味があった。
ティアラはこちら以上に婚約者の情報がないはずだからだ。
設定以外に知っているのは、極度の女嫌いという役に立たない事実くらいだろう。
「私は、まだヨシュア様をよく知りません。ですが、一緒にいると何をしていても楽しくて、今はそれだけで充分に思っています」
しずしずと、それでもしっかり意思を示した返答は、完全にリチャルドを叩きのめした。
それを確認すると、ファウストが締めにかかる。
「リチャルド殿、サイラス殿、この度は妹の為にわざわざお越しくださりありがとうございました。ティアラも年頃になり、リチャルド殿のように先行きを心配してくださる方がいて、大変ありがたく思っています。ですが、昔からこのように似合いの相手が候補に上がっていましたもので、そろそろ公表した方が良さそうだとおもいきって決断した次第です。ですから、今後、ティアラに関してはどんな心配も配慮も一切不要になりました」
ファウストは最上級な微笑みでいながら極悪で清々しい。
直訳すると「金輪際ちょっかい出すなよ、このすっとこどっこい!」となるからだろう。
誰もが肩の荷を降ろしたところで、迷惑な要求通りに夕飯を共にする。
しおしおとおかわりを訴えるリチャルドも、二度と会う事のない面白生物だと思えば気に障らなかった。
そういう意味では、誰もがリチャルドを甘く見ていた。
簡単にやり込められるし、返す言葉も自力では見つけられないような中年男だ。
そのくせ立ち直りが早く、一度はまるとしつこいのもリチャルドの厄介な特性だった。
「ファウスト王、少々よろしいでしょうか」
食事の途中でヘルマンがやってきて、王に耳打ちをした。
「どうかなさったのですか」
尋ねたのはサイラスだ。
リチャルドは凹んでいる様子ながら、ベールをしたまま器用に食事するティアラにちらちらと未練がましい視線を送っている。
「城下に通じる道で、土砂防止の網が外れてしまったようです」
「怪我人はいなかったのですか」
「幸いにもいませんでした。来週から点検の予定でしたが、今年は雪解けが早かったので間に合わなかったようです」
ヨシュアは、ふーんと思っただけだ。
だが、ここでなぜかリチャルドが元気を吹き返した。
「それはもしや、まさかとは思うのですが、オーヴェに通じる大通りの事では?!」
「……そうですが、何か?」
ファウストは鬱陶しいと言わんばかりの顔を隠しもしなかった。
「ならば大変だ! ああ、大変だとも!」
どこの子ども劇団よりへっぽこな演技力で、リチャルドは大げさに嘆いた。
しかも、滲み出る笑顔を抑えきれていない。
「どういう意味でしょうか」
もはや、ファウストは不愉快を前面に押し出していた。
「道が通れなければ帰れないではないか。うむ、それは困った。ならば仕方ない、今日は泊まっていくしかないですな」
王はぴくりと顔を引きつらせた。
「リチャルド殿のおっしゃるように、大通りは通行止めにしています。ですが、もう一本、通るに困らない通りがあります。そちらの方がオーヴェに近いくらいですし、不安にならばこちらで案内をお付けしますよ」
「いやいやいや。それがですね、今日は大きな荷車を使ったもので、他の道では通れないでしょう。なにせ、我が商会で一番の大きさを選んできましたからね」
ファウストは青ざめた。
慌ててヘルマンに確認させれば、残念ながらリチャルドの言う事が正しいと証明されてしまった。
「失礼ですが、なぜそんな荷車でお越しになったのですか」
すぐには王が再起できそうになかったので、ヨシュアが時間稼ぎに話題を振った。
「それは、こちらの訪問後に、私が携わっている修道院に寄進していただく予定になっていたからです。孤児院も併設しておりますので子ども達へのお土産を用意してくださったのですが、まさかこんな事になるとは……」
サイラスは、嘘か本当か見破れない演技力を持っていた。
「わかりました」
ここで、ファウストが復活して会話を引き受けた。
「でしたら、お急ぎでしょうから代車を用意させていただきます。大荷物でもいくつかに分ければ運び出せますよ。なあに、心配は要りません。通行止めはこちらの不手際ですから、全てお任せください」
王のどや顔を見て、思惑通りにならないと知るや、リチャルドは目に見えて狼狽えた。
「え、いや、その、それはちょっと……」
ファウストは危うい寸前で見事にやり込めた。
しかし、上には上が存在した。
「ファウスト王、それには及びません。わざわざお手を煩わせていただくほど急ぎではありませんので。その分の男手を大通りの復旧に優先させてください。一本道でなくとも、不便には違いないでしょうから」
サイラスは、さらりと三倍返しをお見舞いした。
急ぎでないと伝えるばかりか、こちらを思いやる発言だ。
これでは要求を突っぱねる方が非難されてしまう。
「それは……それでは、今夜はこちらにお泊まりください。すぐに部屋を用意させます」
外交上、ファウストは敗北宣言するしかなかった。
「ええ、ええ。是非ともお願いしますよ。こちらは全然、全く、少しも急ぎませんからね」
リチャルドは、まるで自分の手柄のように胸を張っている。
「大丈夫ですよ、リチャルド殿。絶対に朝一番で出立できるように復興いたしますから」
ギリギリとした笑顔を保ったまま、王は部屋を後にした。
そんな様子を見て、ヨシュアは初めてファウストに心から同情した。
* * *
食事が終り、シモンがリチャルドとサイラスを客室に案内する。
何もなくても笑顔のシモンが事務的な愛想を張り付かせていたので、ヨシュアは妙な感心をしてしまった。
それほど不愉快な客人だったのだと改めて思い知らされる。
ともかく、ヨシュアに課せられていた役目は果たした。
アクシデントがあったものの、後はファウストの担当だ。
「ヨシュア様、お部屋にご案内します」
馴染みのある使用人の呼びかけに喜んで応える。
今日こそは、ぐっすりと安眠できりというものだ。
そのはずだったのに……。
「ココハドコデスカ?」
連れられた先は見覚えのない部屋の前だった。
嫌な予感に入るのを拒んでいると、まるで部屋が手招きをするように勝手にドアが開いた。
びくっと体を引くが、実際に手招きしている人物が中で待ち構えていただけだった。
「ヨシュア殿、少し話をしようじゃないか」
不気味な笑顔で凄むファウストがにょっきりと顔を出す。
当然、ヨシュアに拒否権はない。
「一体、どういうことだ!!」
ドアを閉めるなり怒声が鳴り響いた。
響かせたのはファウストだ。
「それは、こちらが聞きたいのですが」
対するヨシュアの温度は低い。
「お前はティアラと大した接触をしてないはずだろう。なのに、どうしてあんなに口からラブラブビームが飛び出すんだ!? もしや、私の知らないところで何かしてるんじゃないだろうな!」
詰め寄られたヨシュアは呆れた。
妹バカだと、どんな事実も鳥頭のように忘れてしまうらしい。
「昨夜の出来事をお忘れですか」
「う……。だが、ティアラは特別に可愛いから、万が一があるかもしれないではないか」
徹底した妹至上主義は感心するが、ヨシュアにとっては迷惑でしかない。
「ありませんよ。誰が相手だろうと、私にとっては女という性別の忌避したい存在でしかありません」
「そ、そうか」
きっぱり否定されると、それはそれで複雑なファウストだ。
「まあ、その件はいい。よくやってくれた。しかし、予想外が起こった」
「それですよ。どうして部屋を移らなければいけないのですか」
「今日だけだ。まさか、大切な婚約者をあんな離れに置いていると知られるわけにはいかないからな」
そりゃそうだろうと思う。
「だとしても、客室は離れた区画なのですから、王族の私室事情なんて関係ないはずです」
「甘い、甘いぞヨシュア。相手はサイラスを装備したすっとこどっこいだ。まったく、やってくれたものだ。どうせ、網の破壊もあいつらの仕業だろう。証拠を掴んだら復興代金に慰謝料も足して請求してやるわ」
「……それなんですが、あのサイラスという神官、どうしてもあんな男に黙って従うタイプに見えないのですが」
「だろうな。あれは、自分の都合で動いているはずだ。利用されているのは、すっとこどっこいの方だろう」
「理解しました。明日には、自分の部屋に戻っていいのですよね」
「ああ、当然だ」
「ならいいです。おやすみなさい」
「……おい、こら。もう寝るつもりか」
「はい」
ここのところ寝不足が続いて、食後な事もあって眠気はピークに達している。
今なら、二十四時間でも余裕で眠っていられそうな勢いだ。
「私の話はこれからだ。しっかり起きていろ」
「まだあるんですか」
眠気の為に、ヨシュアは外面を保つ気力がなくなってきていた。
「ここからが肝心なんだ! いいか、この部屋の隣にはティアラがいる」
ファウストは立ちながらこっくりしてきたヨシュアの胸ぐらを掴んだが、それよりも話の内容にぎょっとした。
「なんでまた、そんな近くにしたんですか」
「したくてしてると思うな! あの男なら、夜這いくらい平気でする。警備強化は当然だが、サイラスがついている以上、油断はできない。だから、いざという時はお前に託す」
胸ぐらを掴んだままの姿勢で、到底、人に頼む態度ではなかった。
だが、距離が近い分、冗談でないのは伝わってくる。
「部屋の前に護衛を置いたら済む話なのでは?」
「警戒はするが、証拠があるわけでもないのに大げさにはできない。下手に付け入る隙は作りたくないからな」
「なら、いっその事、ファウスト王ご自身が付き添ってらしたらいかがですか」
兄妹なら、一緒の部屋で過ごすのも可能だろう。
「できるものならやってるわ。だが、ここ最近、あのすっとこどっこいのせいで公務が滞っている。今日の面会後に一気に片付けるつもりのところへ、大通りの問題が追加だ。とてもじゃないが、手が離せん」
ああ、と思う。
そこまで全てが計算の上なら、しっかりした警戒が必要だ。
ヨシュアが納得の意を示すと、ようやく胸ぐらは開放された。
「そこのドアはティアラの部屋と直接つながっている。鍵はティアラが持っている。お前には渡さない。いざとなったら、お前が助けろ」
発言にいくつもの矛盾が散らばっているものの、ファウストは至って真面目に言っている。
ヨシュアはため息をついた。
「あのですね、何を期待されているのか知りませんが、壁を挟んだ隣の部屋ですよ。面と向かって助けを求められれば出来る限りの手は貸しますが、任せてくださいとは決して答えられません」
相手が真剣に頼んでいるなら尚更だ。
「いいや、やれ。お前なら出来るだろう」
真顔のファウストから、最初に出会った時の殺気に近い鋭さが感じ取れた。
「……家を出る少し前に偵察されていたのですが、もしかしてあなたの指示ですか」
「そうだと言ったら?」
ヨシュアは反発するのを諦めた。
「わかりました、引き受けましょう。ですが、対象が自分ではないので自信はありません。それに、眠いです」
「それでもいい。眠いなら、超絶効果の眠気覚ましを用意してやる」
「普通に珈琲でいいです」
「わかった、すぐに運ばせる。くれぐれも頼むぞ」
ファウストが去り、一人になったヨシュアはうなだれた。
「まさか、護衛の当てにもされてたなんてな」
家を出る対価として、引き換えになる犠牲の方がかなり大きい気がしてきて、比較するのは途中でやめておいた。
間もなく濃厚な珈琲が運ばれて、ヨシュアは味わいもせず一気に飲み干した。
それから、ベッドに寝転がる。
さすがに使用人が歩き回る時間帯に夜這いを仕掛けにくるとは思えないので、仮眠を取るつもりだ。
カフェインを入れたので深く寝入る心配はないし、念の為、運んできた使用人に三十分後にカップを下げにきてほしいと頼んである。
すでにゆらゆらしていたヨシュアは、横になるだけで簡単に眠りに落ちた。
* * *
異変があったのは、日付を越えたばかりの真夜中だ。
慣れない部屋に、慣れない気配。
ヨシュアがファウストの手配した定期的な夜回りをする護衛に神経を研ぎ澄ましていると、コツコツとはっきりした音が聞こえた。
はっきりしすぎて、靴音ではありえない。
「まさか……」
繋がっていてほしくないドアに目を向ける。
「ヨシュア様? 起きていらっしゃいますでしょうか」
案の定、隣の部屋のティアラだった。
今のところ、ヨシュアの本能に引っかかる不審な気配はない。
「何かありましたか」
「いえ、まだ」
「それなら、話かけないでください」
ティアラの為に睡眠時間を削って神経をすり減らしているのに、いい気なものだと思う。
「早く寝たらどうですか。夜更かしは美容に悪いですよ」
「それが、もうすぐリチャルド様がやってくると護衛から連絡がありましたので、お教えした方が良いかと思いまして」
「なんだって?」
ヨシュアは聞き間違えだと信じたかった。
「ですから、私の部屋にリチャルド様が浸入しにいらっしゃるようなのです。今夜の護衛はヨシュア様に任せてあると聞きましたので、どうやって撃退しようか相談したいのですが」
「でしたら、こちらに相談する前に、教えてくれた護衛にどうにかしてもらってください」
「いえ、その護衛は特殊なので簡単には動きません」
「使えない護衛ですね」
「そんな事ありません! すごく優秀なんです!」
いくら力いっぱい反論をされても、即座に動いてくれないのなら、ヨシュアにとっては意味のない神様と同列だ。
「さっき、撃退するとおっしゃってましたが、護身術に自信があるのですか」
「いいえ、まったく」
「……」
実に使えないお姫様である。
「どうするつもりですか。このままじゃあ……」
ティアラは油ギッシュの餌食だ。
そう考えた途端、様々な場面蘇って気持ち悪くなる。
「ヨシュア様、そちらにお邪魔してもよろしいでしょうか」
「……」
嫌だと即答したかった。
けれど、この状況で捨て置くわけにもいかない。
たとえ、助けを求めてくるのがこの世で最も恐ろしい女という性別なのだとしても。
「どうぞ」
充分にドアから離れて、渋々ながら許可を出した。
「お邪魔します」
ひょいと顔を覗かせたティアラを見て、ヨシュアは騙された気分になる。
同時に、ファウストの徹底ぶりに感心してしまった。
「夜分にごめんなさい。それと、これが本当の私です」
あれだけ鬱陶しくまとめられていた髪は真っ直ぐ背中に流れ落ち、分厚い眼鏡と横一線のそばかすがなくなっている。
ティアラは、好奇心旺盛の大きな瞳で不安げにヨシュアの機嫌を窺っていた。
「それが素顔なわけね」
どこからどう見ても美少女の部類に入る。
ファウストの過剰な心配と、リチャルドの気持ち悪いくらいの執心が腑に落ちた。
だからと言って、ヨシュアの心は微塵も動きはしなかったが。
どうしてこうなったのかと暗く沈んでいると、肌寒いのか、ティアラがガウンの上から体をさすっていた。
「いつまで突っ立っているつもりですか」
「近付くと困るのでしょう」
「だからって、そこにいられても困ります。そっちにソファがあります。あなたなら、余裕で眠れる広さがありますよ」
自分が寝転がったベッドを譲る気はさらさらないヨシュアだ。
「いいの? ありがとう」
それでも、ティアラは全然気にせず、嬉しそうに跳ねていった。
ヨシュアは仕方なく毛布を取り出してやる。
近付きたくないので半分放るように渡すと、上手に受け取っては喜んでいた。
「のんきなものだな。状況を理解してないんだろう」
言葉と共に向ける視線は冷たい。
「……わかっています。私事に巻き込んでしまって申し訳ないと思ってます」
ティアラの表情は一気に沈んだ。
「恐くないのか」
ヨシュアは離れた場所で椅子に座り、肘をついた。
「恐くはないです。私には特別な護衛がついているから」
「何かあるまで動けない護衛だろう」
「それは……」
外交問題に響くので簡単に動けないのは理解できる。
最後には助けてくれるのかもしれない。
それでも、未遂だろうと味わう恐怖に変わりはない。
「危ない目に遭わないのが一番だろう。ここにいて構わない。俺は起きているから、安心して寝てろ」
「ありがとう、ヨシュア」
気楽に呼んでくれるものだと思ったが、言い返すのはやめた。
人の気配を感じ取ったからだ。
「来た」
目を閉じ、のたのたした足取りに集中していると、気配がピタリと隣の部屋の前で止まった。
何をしているのかまでわからないが、しばらくすると鍵を開けて中に入ったようだ。
侵入者は奥まで一直線に進むが、そこで足踏みをして狼狽える。獲物に逃げられたと気付いたらしい。
しばらくは諦めきれずに家捜しし、最後にティアラが通ってきたドアの向こうに立った。
そこからティアラが避難したと予測できても、蹴破ってまで追えるわけがない。
実にわかりやすく地団駄を踏んで悔やしんでから、迷惑な夜這い男はどすどすと部屋を出て行った。
ヨシュアは張りつめていた警戒の糸を緩めた。
「引き返してくれたようだな。明日になったら鍵を換えてもらえ。ついでに、部屋中消毒してもらっとけよ」
今度こそ、ヨシュアの出番は終りだ。
「出てけとは言わないの?」
「言ってもいいけど、あんな男に入られた部屋に戻るのは気持ち悪いだろ」
「うん。それなら、ここに居させてもらう」
ティアラはホッとした様子で毛布を巻きつけた。
それから、じっとヨシュアを見つめる。
「寝ないのか」
「そんな気分じゃないから。ヨシュアは寝てていいよ。今度は、私が見張っててあげる」
いつだって女は自由で気ままな生き物だと実感する。
それとも、お姫様という環境がそうさせるのだろうか。
考えてみたが、どちらにしても迷惑で恐ろしいという結論に変わりはなかった。
「私ね、嬉しかったんだ。見た目じゃなくて、ちゃんと話を聞いてるって言ってもらえて。その場凌ぎの出任せでも、私は嬉しかったの。私が言った気持ちは全部本当。あなたの事は全然知らないけど、一緒にいると楽しいから」
ティアラは肘をついて微笑んだ。
「外国人が物珍しいだけじゃないのか」
「かもしれない。だけど、嫌じゃないのはヨシュアだからだと思う」
それを聞いて、ヨシュアは嫌悪感を隠さなかった。
「もちろん、あなたにとって婚約が凄く不本意なのは理解してるつもりだけど」
小さくなったティアラは、気まずそうに視線を外した。
ヨシュアは、ティアラという少女が不思議でならなかった。
兄王の言いなりでもなければ、場に応じて対応を変える事もできる。
決して頭の悪い感じはしない。
なのに、理不尽な結婚話は全面的に受け入れているのだ。
「安心していいよ。私は巫女だから、本当にあなたと結婚はしないから」
そうつぶやいたティアラは、もそもそと横になった。
「もう寝ろ」
ヨシュアは会話を打ち切る事にした。
「うん、おやすみなさい」
目を閉じたティアラを確認して、ヨシュアは軽くないため息をついていた。
* * *
ハッとしてヨシュアは目を覚ました。
そうしてまず、自分が眠っていた事実に驚いた。
薄暗さに目を凝らして見れば、すやすやとソファで眠るティアラが確認できる。
女の子と同室で眠るなんて、ヨシュアにとっては驚天動地の衝撃だ。
激しく動揺する現実だが、今はそんな場合ではなかった。
目が覚めたのは、はっきりした殺気を感じたからだ。
気になるのは、誰を狙っているかという問題だ。
リチャルドの夜這い失敗を把握しているなら、普通はこの部屋にティアラがいると考えるはずだ。
ティアラにも狙われる理由があるのだろうか。
ともかく、今ある情報だけでは、あの二人が仕掛けたのではない可能性を否定しきれない。
だが、相手が誰であれ、ヨシュアの本能はピリピリと身の危険を訴えている。
すぐに逃げる必要があるのに、誰が狙いかよりも重大な問題がヨシュアにはあった。
未だぐっすり夢の中にいるティアラの存在だ。
たとえ、狙いがヨシュアだけなのだとしても放置はしておけない。
さっさと起こせば済む話なのに、それが何よりの難問だった。
声をかけるにしても、敵に勘付かれるのはまずい。
かと言って、直に触れて揺すり起こすのは以ての外だ。
毛布を剥がすという手も思いついたが、自分がされたくないので即座に却下した。
見えない敵に神経を研ぎ澄ましつつも、脇差しを手にソファの回りを情けなくうろうろするしかないヨシュアだ。
それも、起きろ起きろと効果のない本気の念を送りながら。
しかし、それが通じたように、ティアラは唐突に目を見開いた。
「……起きたのか?」
「六人です」
主語も述語もなく告げると、ティアラはすっと身を起こした。
ヨシュアは問い返さないで、左手に下げた刃物を意識する。
「お前も狙いのうちなのか」
「たぶん」
その予想していた答えに、ヨシュアは緊張を高める。
自分の身を守る為に戦った事は何度もあったが、戦力外の誰かを守りながらとなれば経験はない。
ファウストは騒ぎにしたくないのだろうけど、人の目につく場所に出るしか確実に助かる方法が思いつけない。
ゾクっと悪寒が走ると同時に、暗がりから黒ずくめの侵入者が姿を現した。
目に見えても静かな気配に、手慣れていると感じる。
「邪魔になるなよ」
ティアラに遠慮なく警告したものの、返事はなかった。
代わりに、手を掴まれて隣の部屋に連れ込まれる。
色んな意味でぶっ飛んだ行動だ。初めて入るティアラの部屋は、リチャルドに引っ掻き回された毛布と全開にされたクローゼットが目についた。
「どこに逃げるつもりだ」
「秘密の通路」
「あいつらだって使ってただろ」
「それとは違う。いいから、構えて」
「人数が多すぎる、俺一人じゃ無理だ」
「宣告する時間が欲しいだけ」
ふざけていないのはわかるが、ティアラが何をしたいのかさっぱり不明だ。
すぐに侵入者が部屋を移ってきた。
確実に狙う為か、大差を確信しているからか、勢いでかかってこないのがせめてもの救いだ。
「ここから先、私達を追ってくるのなら命がないものと覚悟してください」
ティアラにしては低い声で宣告をした。
「嘗められたものだ」
侵入者の一人がマスク越しに笑う。
硬くなったティアラは、わずかに苦い感情を混ぜていた。
横目で成り行きを見守っていたヨシュアは、これは時間稼ぎかはったりで、危険に追い込まれただけだと焦る。
壁際にティアラを下げると、返事をした侵入者だけが迫ってきた。
残りは動かないが、近付いてくる男がリーダー格だというのは肌で感じている。
そうして、二人の真正面で細身の刃をゆっくりと振り上げて見せた。
ヨシュアの手は震えている。
男の目が三日月に笑った。
勝負は一瞬だ。
男はためらいなく、脳天に真っ直ぐ刃を降り下ろした。
おかげで、ヨシュアは軌道を読みやすかった。
右手で脇差しを抜いて、綺麗に半円を描いて振り払う。
その流れを殺さずに左手の鞘で脇腹叩き、突き放す形で胸に衝撃を与える。
これで、少しは呼吸を乱せたはずだ。
相手が油断していたから上手くいったが、後はもう逃げるしかない。
そう覚悟した時だ。
ヨシュアの考えが伝わったかのようにティアラが動いた。
鞘を握る左手首を掴んで、隠し扉から秘密の通路に逃げ出した。
わずかに逃げる隙があったが、追っ手はすぐに続いてくる。
全身がチリチリする。
ヨシュアに出来るのは、ひたすら走る事だけだ。
進路は月明かりさえ入らず、あちこちに不気味な気配が漂っている。
頼りになるのは、手を引くひ弱なティアラしかない。
自然と繋がれた手を意識するしかなく、必死に動員する理性とは裏腹に、腹の底からぞわぞわしたものが込み上げてくる。
「我慢して。手を離したら、あなたも殺される」
ティアラの警告を証明するように、後ろから濁った悲鳴が聞こえてきた。
「お前の護衛なのか」
「そう、私を守ってくれてる。彼らの領域に入ったら、巫女以外は全て敵。カミと面識のないヨシュアは、私が何を言っても裁かれる。だから、絶対に離れないで」
「神?」
「彼らのリーダーなの」
そういう名前らしい。
ヨシュアは、神様なのかと考えた自分に苦笑した。
それからしばらくは二人とも無言で走り続ける。
侵入者達の悲鳴は遠く、とっくに聞こえなくなっていた。
距離が開いた為なのか、全員やられたせいかなのは判断できない。
それもしばらくするとティアラは足を緩め、やがては止まった。
ヨシュアは息を整えるのに必死になるが、ティアラは軽い深呼吸で済んでいた。
「意外と体力あるんだな」
「慣れてるから」
簡単に返したティアラは、体を入れ替えてヨシュアを壁にもたれさせた。
暗くてわからないが、どうやら行き止まりに辿り着いたらしい。
しかし、落ち着いてくると、掴まれてる左手から水の流れを嗅ぎ取った。
他にも違う種類の匂いを拾ったが、それが何かまでは思いつかない。
「外に通じてるのか」
「ダメ!」
ただ聞いただけなのに、ティアラは恐い声を出した。
「この先は特別な場所だから、巫女以外が入ってはいけないの」
「……行かないよ」
と、ヨシュアは答えておいた。
どうやら、この国には何かが隠されているらしい。
少なくとも、この城とティアラには間違いなく秘密がある。
けれど、ヨシュアは関わるつもりもなかったので追求しなかった。
「これからどうするんだ」
代わりに現実的な質問をする。
「終わったら戻るだけ。でも、まだ合図がきてないから」
真っ暗な闇の中、表情どころか自分の輪郭さえ見えない。
それでも、繋がっているティアラの手にわずかな力が入るのが伝わってくる。
おそらく、侵入者は全滅だろう。
ティアラが最初に宣告をした時、苦しそうに見えたのは自分が追いつめられたからではなく、侵入者の身を案じたからなのかもしれない。
長い沈黙が続く。
未だに少しも目が慣れず、何も映らない。
現実だと実感させるのは、手首を掴むティアラの手だけだ。
侵入者からの危機は脱したが、ヨシュアには別の危機が迫っていた。
「ヨシュア?」
ティアラが心配になるほど体が冷たくなり、確かな震えが混じりだす。
「まだか」
「わからない。連絡を待つしかないから」
ヨシュアは唇をかんだ。
最悪の状況だけは避けなければならない。
「少し、俺の話を聞いてくれるか」
婚約話を持ちかけたファウストなら事情を知っているだろうが、あんな話をわざわざ可愛い妹に伝えているとは思えない。
出来るなら黙っていたかったが、きっかけは政略で、実態は仮面夫婦だとしても、結婚をするのならいずれは知っておいてもらう必要がある内容だ。
何より、現状で黙っていれば、今にも黒い発作が出てきそうで恐かった。
「俺が女嫌いの理由だ。面白くないだろうけど、聞いてほしい」
ヨシュアは努力して平静を装った。
「わかった。聞かせて」
唐突な提案に、ティアラの戸惑はないようだ。
何も見えていなくても、ヨシュアは目を瞑って語り始めた。
「きっかけは今から八年前、兄の十八歳の誕生日だ。シンドリーでは、この年齢が成人の境目なんだ。スメラギ家は王族に比べたら権限は何もないに等しいけど、シンドリー内ではそれなりの発言力を持ってる家系で、手広く商売をしてるから、利権目当てに寄ってくる人間は多い。だから、兄の祝いにきた人のほとんどは、それぞれに思惑を抱えていた」
「うん、それで」
大人しく聞いているティアラに面白がる様子はなく、穏やかな声音で先を促された。
「大半の興味は兄の行く末だった。嫌味なほど優秀だから、特定の相手がいない兄の伴侶候補が山と来ていた。そんなギラついた会場の中、壇上で挨拶をするついでに、兄はしれっと婚約者を紹介したんだ。直前まで両親も知らなかったし、俺に至っては会場で知ったくらいだ」
「え、婚約ってそういうものなの?」
「驚くだろ。それまで噂はいくらでもあったけど、実際に付き合った人はいなかったはずなんだ。誰もが意表をつかれてた。それも、俺達みたいに保護者が決めたわけじゃなく、自分で見つけてきたんだ。相手は文句のつけようがない貴族のお嬢様で、密かに五年も付き合ってたって言うんだからな」
「すごい人だね」
「ああ。そういう人なんだよ、俺の兄は。……ただ、おかげでしわ寄せの全てが俺に回ってくるなんて、誰にも予想できなかったんだ」
「しわ寄せ?」
「夜這いに遭ったんだ」
「よ、ばい?」
こんなところで、同じ目に遭いかけたティアラが聞きたくもない単語が顔を見せた。
「当時九歳だった俺は、一人部屋で寝ていた。家族は遅くまで来客の対応をしていたし、使用人達は泊まり客や兄の婚約者の警護を気にかけていた。そして、幼くて起きていられなかった俺が、自分の部屋で夜中に目を覚まして見たのは、きわどい下着を身につけた十数人の女達だった。笑えるだろ」
実際、ヨシュアは鼻で笑ったが、ティアラは笑うどころか絶句した。
「あの時の俺には何が起きているかわからなくても、恐怖心だけは鮮明だった。どうにかなる前に悲鳴を上げたから具体的な被害があったわけじゃないけど、それ以来、俺は女の人を見ると強張るようになった。成人の男を相手にしようとしていた女達が、やけっぱちで持て余した色気を全開にしてきたんだ。精神的衝撃は強烈だった」
「……」
返す言葉がティアラにはなかった。
「最悪だったのは、助けにきてくれた母親も拒む対象に入った事だ。晴れの舞台で着飾っていたのが影響したのかもしれない。どういう状況だったのか理解してからは、何もされなければ平然と話せるようになったし、母親も大丈夫だったけど、その頃には向こう側に溝ができていた」
「そう」
ティアラがなんとか絞り出したものは、これだけだった。
「それだけなら、ここまでの女嫌いにならなかったんだろうけどな」
「まだあるの?」
この後に続きがある事に驚いた。
「ここからが本番だ」
ヨシュアは自分の人生を語りながら半笑いしたくなってくる。
「それから三年後、なかなか子どもを授からないシンドリー王の後継者争いが水面下で動き始めた。いくらスメラギ家が静観を決めていても、商会の強力な情報網を持っているから巻き込まれるのは避けられなかった。けど、父や兄は隙がないし、商会の美容部門を取り仕切る母には各地の大物の身内が支持者についているから簡単には手をだせない。そんな中、スメラギ家唯一の弱点として標的にされたのが極々凡庸な俺だった。お得な事に、女っていう弱味までついている。見逃さない手はないだろう?」
語ってみて、改めて自分でもどうかと思う災難っぷりだ。
「その後、王子が産まれるまでの三年間、思春期のど真ん中をハニートラップ込みの数々の恐喝・誘拐・暗殺を一心に受けて俺は育った。その時の後遺症で、人の気配に敏感になって夜中に目を覚まさない日はないし、どう攻撃したら相手に強い衝撃を与えられるか身をもって学んだ。それに……女を再起不能にした事もある」
ここまでくると、ヨシュアは静かに目を開いた。
やはり、何も見えないままだ。
「暗殺者だった。ハニートラップも仕掛けられた。殺気か、いやらしい気配か……ろくに覚えてはいないけど、完全にパニックになった。気付けば、めためたな姿が転がっていたんだ。感触が手に残っていて自覚はできても、制御は無理だから黒い発作って呼んでる。この前のはただの発作だ、大した事じゃない」
あれだけ震えて叫んでいた状態を、大した事じゃないとヨシュアは言い切った。
「だから、俺と二人きりになる事態になったら気をつけてほしい。今はなんとか抑えていられるけど、パニックになればどうなるか保証はできない」
ヨシュアが伝えたいのはこれだった。
自分に危害を加えにきた相手でも情を見せたティアラを傷つけたくはなかった。
「ああ、そうだ。あの時の礼を言っておこうと思ってたんだ」
余計な恐怖心を連鎖反応で思い出すのは避けたくて、ヨシュアは強引に話題を変えた。
「あの時って?」
「発作の時だよ。勝手に部屋に入ってくるのはやめてほしいけど、護衛官を引き離してくれただろう。助かった」
「見えてたの?」
「全部じゃないけどな。ただの発作でも制御はできないし、叫ぶ自分を止められない。あの引き離した後、何か言ってくれてただろ。聞き取れなくても、心配してるのは伝わってきたから。ああ、そう言えば、あの時ずれた眼鏡の隙間から目が見えたんだっけ」
「もしかして、それで瞳が綺麗だって言ってくれたの?」
「それしか知らなかっただけだよ」
ヨシュアは事実を告げたまでだが、ティアラの方はでたらめではなかったのだと受け止めた。
そうして自分もまた、抱えている秘密を打ち明けたいと思った。
けれど、口を開く前にカミから全て終わったと合図があった。
ティアラは黙ってヨシュアの手を引いて歩きだした。
「終わったのか?」
「うん」
ヨシュアは合図に何も気付かなかった。
この真っ暗な状況で迷いもせずに歩ける少女は何者だろう。
ヨシュアは初めて興味に近いものを持ったが、探らない方が身の為だと考える。
暗闇の中で一瞬、ティアラの目が獣のように光って見えた気がした。
戻る道には誰の気配もなく、二人は無事に荒らされたままのティアラの部屋に辿り着いた。
こうして、長い長い一日は終わりを告げようとしていたが、ヨシュアには別の問題がすぐ側まで迫っていた。
* * *
「なんじゃこりゃー!!」
執務に切りをつけたファウストは、明け方の早々にも関わらずティアラの部屋を目指していた。
まだ眠っているとしても、無事な様子を確かめたかった。
ところが、到着してすぐに鍵が機能していないと気が付く。
慌ててドアを開くと、信じがたい事に、乱れたティアラとヨシュアが仲良くぐったりと座り込んでいたのだ。
そして、ファウストは鶏よりも高らかに叫んでいた。
心底ホッとしていたヨシュアは、一難去ってまた一難でどっと疲れが増した。
弁解する気力も残っていない。
「ファウスト、これはね……」
代わりにティアラが説明を試みたが、皆まで必要なかった。
ファウストはティアラの頬を包み、傷などないかと全身をくまなく点検してから優しく抱きしめた。
「無事で良かった」
声が少し震えていた。
「ヨシュア様のおかげです」
ティアラは笑顔で答えた。
ヨシュアにしてみれば、感謝される覚えはなかった。
現実的に守ったのはティアラの護衛だ。
「ヨシュア、お前も無事なんだな」
「はい」
「ありがとう、助かった」
あのファウスト王があまりにも素直に礼を言ったので、否定する機会を逃してしまった。
「疲れているだろうが、ヨシュアは私と来てくれ。シモン、ティアラはお前に任せる。休ませてやってくれ」
ファウストの視線を追うと、ドアの細い隙間から覗いているシモンを見つけた。
あっ、という顔をして、肩身が狭そうに入ってくる。
「部屋の改装を手配しておけ。徹底除菌と、鍵の強化も忘れるな」
「はい、承知いたしました」
かしこまった返事のシモンは、すれ違いざま、ヨシュアに耳打ちした。
「ティアラを守ってくれてありがとう」
どう反応すればいいのか思いつかないまま、部屋を出るファウストの後に続いた。
日頃、礼を言われる経験の少なかったヨシュアは、立て続けの珍しさに戸惑っている。
頼まれて仕方なく、状況的に仕方なく動いただけで、純粋な親切心ではない。
それどころか、経過を見れば、ヨシュアの方がティアラに助けられたと言っても過言ではない。
そんな風に考えている内に、ファウストは立ち止まっていた。
ドアを開いて、中に入るように促される。
執務室や応接間ではなく、プライベートが色濃い書斎だ。
ファウストは上着を脱ぎ捨て、ソファに深く腰を静める。
ヨシュアは立ったままでいた。
「何があったか報告しろ」
それは、命令し慣れてる者の態度だった。
ヨシュアはリチャルドの件も含めて、順番に話した。
秘密の通路で自分が語った以外の全てを。
「侵入者は六人。そして、ティアラの護衛が裁いたのは五人か」
帰り道でティアラが報告してきた事だ。
嘘はないだろう。
部屋の中でヨシュアが対立したのも五人だった。
「もう一人はおそらく……」
「サイラスだな」
ヨシュアは頷いて返事にした。
一度も姿を現さなかったが、侵入者達とは異質な気配があったのは感じていた。
「あの連中は、しばらく適当な理由をつけて面会を断るか。入国を制限できないかも視野にいれておいた方が良さそうだな。警備は目に見える強化が必要として、下手に探りを入れるのは危険か? まあ、当分はこの国での動きは封じられるだろうから、その間に対策をしておくか」
今後の対策をファウストがつぶやく。
まるで、この場にヨシュアなどいないかのように。
その姿が兄のミカルと重なった。
ヨシュアの揺れが伝わったのか、ファウストはふと顔を上げた。
片足を上げて組み、肘をついて姿勢を崩す。
そして、ただ黙ってヨシュアに視線を向けた。
見つめられるヨシュアは、ああ、この人は王様だと肌で感じた。
「ヨシュア、聞きたい事はないか」
王は試すように問いかける。
正直、疑問はいくつもあった。
けれど、やはり聞きたいとは思わない。
「いいえ、何も」
王はその答えを吟味し、ふと笑った。
「お前は本当に欲がないんだな」
「もしかして、兄ですか?」
ヨシュアは欲を持たない。
それは兄・ミカルの評価で、何度か面と向かっても言われている。
「お前を婚約者にと話を持ちかけた時、最終判断をしたのはロルフ殿だが、交渉に当たったのはミカル殿だった」
「そうですか」
ヨシュアはそれ以上の興味を示さなかったが、ファウストは気にせず話を続ける。
「ミカル殿は、弟をずいぶん高く評価していた。よほど可愛く思っているのだろう」
「それは思い違いです」
即座に否定した。
それくらい、ありえなかった。
ところが、ファウストは違う角度の感想を持った。
「なるほど、弟に嫌われていると言っていたのは本当のようだな」
「あの、兄とどんな話をしたのですか」
ここにきて、ヨシュアにもどんな内容だったのか興味がわいてくる。
正確には、どう聞かされているのか気になってきたのだ。
「お前に関する話だ。素行調査を省く意味で、向こうから色々と教えてくれた。了承しているだろうが、女嫌いの事情は聞かせてもらっている」
「……それはどうも」
「もちろん、全てを鵜呑みにしていないが、それなりに信じて懸けみようと思えるくらいには、ミカル殿が誠実に語ってくれた」
「そうですか」
とっくに憧れをやめてしまった兄の姿を思い出す。
いつも比べて追いつかなくて、遠く離れて清々していたのに、今になって懐かしく想う自分が悔しい。
「ふむ、これは言わないでおくつもりだったが、今回の褒美に特別に教えてやろう」
ファウストは優雅に微笑んだ。
「今回の契約は婚約者としてだけだ。それは、お前の父であるロルフ殿が決めた。先の事は息子の気持ちを優先させたいそうだ。お前が限界だと音をあげるまでには、条件の合う代わりを用意してくれると加えてくれた」
「な……」
ヨシュアは言葉が出てこなかった。
一体、どれほどの決意でここに居ると思っているのだろう。
バカにするにもほどがある。
「あの様子では、万が一にも結婚が成立するとは思ってないのだろう。ロルフ殿は、ちっともお前を手放す気がないらしい」
「いいえ、違います。自分の手のひらで、思い通りに踊ってくれるのが楽しいだけなんです」
「うん、それはありそうかな。だが、ロルフ殿は少し甘く見ているな」
ヨシュアは目を丸くして驚愕した。
唯我独尊な超人ロルフを甘いと評価した人を初めて見た。
それも、兄と同じくらいの青年がだ。
「どういう意味ですか」
ファウストは含めた笑みをたたえる。
「最初から期限付きで考えていたようだし、お前の女嫌いを当てにして、自分の目でティアラを見なかった」
「それが?」
「お前もまだ、わかってないようだな。おそらく、ティアラはお前を気に入るだろう」
あれだけ殺気を放ち、妹から全力で遠ざけようとしていた人物から出てきたとは思えない発言だ。
「ティアラに気に入られて逆らえるのは、今のところ一人しか知らない。可愛さにほだされて、私も含めてみんなで甘やかして育てたからな。カミさえあいつには甘い」
「……私が気に入らないのではないのですか」
「ああ、気に入らない。私は気に入らないが、シモンが気に入った。だから、様子をみる事にした」
「シモン、ですか?」
トーク術は一流で、聞けば懇切丁寧に答えてくれる。
むしろ、答えすぎると言うべきだろう。
あれで、どうして王の側近なのか不思議な青年を思い出す。
「あいつは、あれでも口が堅い」
「は?」
「ふ、そういう反応をしてくる辺り、すっかり気に入られたな。なんでもかんでも教えてくれるだろう」
「はい、まあ」
「あいつの懐は狭い。笑顔であっても簡単に心を許しはしないし、情報を洩らしたりもない。その反動なのか、ひと度心を許せば隠し事は一切できなくなる極端な奴だ。だから、信用できる人物なのかは、シモンの態度を判断材料にしている」
「あの、特に気に入られる事をした覚えはないのですが」
「そんなのは知らん。私は、特殊能力だと思っているからな」
「……」
どう受け止めるべきか困る話だ。
「少しは認めると言っているんだ。喜べ」
「はあ、ありがとうございます」
ヨシュアは、ちっとも嬉しくなさそうに礼を述べた。
「もう下がっていいぞ、休んでいる時間はないだろうがな。復旧作業は間もなく終わる。あいつらは開通と同時に追い出すから、お前もそのつもりでいろ」
解放されて安堵するも、好き勝手に言い捨てられたまま追い払われるのでは面白くなかった。
「ところでもし、私達がその気になったら、ファウスト王は喜んで結婚をお認めになるのでしょうか」
絶対に有り得ない、ヨシュア自身が一番わかっている展開だ。
そんな有り得ない例え話を使ってでも、いいように転がされた手のひらを揺さぶってやりたくなった。
「ふん、出来るものならやってみろ。万が一合意したとしても、お前があの様子ではどうこうなるまで相当な時間がかかるだろう。それに、ティアラにはカミがついている。下手な真似をすれば殺されるぞ」
ファウストは揺れるどころか、怒りもせずに鼻で笑った。
自分でも、バカな発言だったと恥ずかしくなる。
「部屋に戻ります」
それ以上は王と少しも目を合わせず、逃げるように部屋を出た。
スメラギ家で月一ペースで父親のロルフや兄のミカルにやり込められていた悔しさを、こんな所で味わわされるとは思ってもみなかった。
結局、どこにいてもこれだ。
しがらみを切り離して家を出たのに、何も変わっていない。
「あ、いた。話は終わった?」
振り向けば、シモンが立っていた。
「ティアラは大丈夫だから、こっちにきたよ」
シモンは何も悪くない。
頭で理解していても、こんな気分ではのんきな笑顔は苛立ちを増幅させる作用しかなかった。
「あんたのせいだからな!!」
ヨシュアは叫ぶなり、反対方向に歩きだした。
「……何が?」
後には、首を捻るシモンがぽつんと残された。
* * *
「あー、駄目だ」
ヨシュアは、自分にムカムカして仕方なかった。
こんな状態で油ギッシュなんかと顔を合わせれば、外面を装備していてもどんな暴言が飛び出すかわからない。
何も変われなくても、状況が悪化しているのだとしても、一人で生きる決意をしてきたからには逃げるわけにいかなかった。
「そんな格好で、どうかなさいましたか」
「ちょっとした散歩で……」
反射で外面仕様で応えたものの、相手が誰なのかを知ってびびった。
そこにいたのはオーヴェの神官、サイラスだった。
「サイラス殿、どうしてこちらに?」
「私も散歩です」
「……こちらは王族専用棟になります。客人が散策する場所として相応しくないのですが」
「そうでしたか、申し訳ありません。すっかり迷ってしまったようですね」
誰もが気を許してしまいたくなる優しい笑みに、ヨシュアは寒気を感じた。
殺気がないので声をかけられるまで気付かなかったが、こうして近くにいてもまともな気配がしない。
「ヨシュア殿は、この国の成り立ちをご存知ですか?」
全速力で逃げ去りたいのに、無防備に背中を見せられる気がしない。
「いいえ、そちらも勉強不足です」
背中に冷たい汗が滴る。
自力ではどうしようもなさそうで、誰かが通る事を願ったが、場所も時間もあまり期待出来るものではなかった。
「では、神を信じていますか」
内心がさっぱり読めない脈絡のなさだ。
こうなってくると、災難のストーカー行為はいつになったら気が済むのかと嫌になってくる。
今後も、当然の顔をして新たな難がヨシュアを待ち構えているのだろう。
そう考えれば、これくらいは軽く受け流す余裕がなければいけない気がしてきた。
でなければ、この先、身も心も持たないだろうと苛立ちまぎれに開き直ってみたら、少しだけ肝が座ったヨシュアだ。
「神様ですか」
オーヴェの神は生き神だ。
絶対で唯一の皇帝神。
信仰に関して、迂闊な発言は控えたいところだ。
その反面、怒ってくれれば人となりが見えてくるとも考える。
何を悦び、何に怒るか。
これがわかれば相手を御しやすい。
「私は神の存在を信じていますが、頼りにはしていません」
「そうですか。私も似たような考えです」
こんな事で本性が見えるとは思わなかったが、同意してくるとも思っていなかった。
「神官がその様におっしゃって良いのですか」
「ええ、私の神は気にしません。神の怒りに触れるのは、望みが叶わないと知った時だけですから」
「わがままな神様なのですね」
「そこが魅力的なのですよ」
これにも、サイラスはにこやかに微笑んだ。
「ヨシュア殿も、目の前にある見事な城が手に入ると知れば欲しくなるでしょう」
「いいえ、全く」
今度は即座にキッパリ否定した。
「……全く?」
素直に答えたまでだが、意図せずサイラスの意表をついていた。
「城なんて管理が大変なだけですよ。多くの使用人を雇う必要があって、その分揉め事も起こるでしょう。維持するには定期的に点検しなければいけませんし、無駄に遊ばせておくのは勿体ないので催しを企画するにしても、主としてもてなしに気配りしなくてはなりません。少し考えただけでもこうです。ですから、欲しがる意味がわかりません」
「あなたは欲がないのですね」
本日、二度目の評価をもらった。
けれど……。
「欲くらい誰にでもあります。私にとって最大のそれが、誰にも脅かされないで安眠出来るささやかな家、というだけです」
これを言うと、尚更欲がないと思われることになる。
ヨシュアは本気で何よりの贅沢だと信じているのだが。
「あなたが皇帝神でしたら、オーヴェはさぞかし平和なのでしょうね。代わりに、発展はあまりなさそうですけど」
「では、現在の皇帝神は何をお望みなのですか」
「なんだと思いますか?」
サイラスは平然と質問に質問で返した。
「ウェイデルンセン、とか」
思いきって、ヨシュアは核心をついてみる。
こちらの緊張とは裏腹に、サイラスは愉快そうに笑った。
「私の神は、そんなちっぽけな物を欲しがったりなどいたしません」
小馬鹿にした答えだった。
この国に用があるわけでもないのに、ヨシュアとティアラは命を狙われたのだ。
今頃になって怒りが込み上げてくる。
「へえ、そうですか。それなら、キャンパス山脈でも欲しがっているのではないですか」
からかい目的で言ってやった。
けれど、サイラスは真顔で笑って返事にした。
「まさか」
「現在、一番近い場所にいるのはあなたなのですが、何一つ自覚がないようですね」
「な……」
ヨシュアが絶妙に避けてきた疑問を、妙な形で示された。
「よろしかったら一度、私の神にお会いになりませんか。いくらか考えが変わるかもしれませんよ」
「遠慮させていただきます」
恐ろしい誘いに、迷わず断った。
「そうですか。とても残念です」
サイラスの気配が、かすかに鋭くなる。
ヨシュアは習性で身構えた。
身の危険というより精神的な恐怖で血の気が引き始めるが、ありがたい事に待望の第三者が現れてくれた。
「おや。サイラス様、おはようございます」
ついさっき、八つ当たりをして別れたシモンだ。
「迷子になられたようですね。こちらはお客様がいらっしゃるには相応しくない場所ですのでご遠慮ください。お部屋に朝食の用意が調う頃ですので、こちらで案内させていただきます」
そう言って、後ろに連れていた使用人に簡単に任せてしまう。
あのサイラス相手に有無を言わせる隙がなかった。
「何があったか知らないけど、これでよかった?」
神官の姿が見えなくなると、シモンはいつもの笑顔でヨシュアに確認する。
「ああ、うん。ありがとう。あと……さっきは悪かった」
「いいえ。知らない場所で大変だろうから、俺相手なら遠慮なく発散しちゃっていいからね」
同じ笑顔なのに、さっきと違って温かく感じられる。
ここにきて、シモンは最初から優しく心配してくれていたのだと発見した。
「ありがとう。俺、シモンみたいな兄が欲しかったな」
「二人兄弟なんだって?」
「うん。ちょっとだけ、王様している時のファウストに似てるんだ」
「……それは、なかなか苦労してそうだね」
「うん、大変だよ」
ヨシュアは久々に自然に笑った。
笑えた自分が嬉しかった。
その日、ファウストは宣言通り、大通りが開通すると同時にリチャルドとサイラスを追い出した。
平行して、目に見える形で城の警備体制を強化する。
離れ小島の私室に戻ったヨシュアは、シモンに頼んでしばらく放っておいてもらった。
そうして、心ゆくまで睡眠をむさぼった。