プロローグ
「はあ?」
父と兄の連名で書斎に呼び出されたスメラギ家次男のヨシュアは、まぬけにもそう返すのが精一杯だった。
入り江を占領して栄える交易国家シンドリーの貴族であるスメラギ家は、運営する商会が利用する国の港とは別にプライベート港を持つ有力な商売人の顔を持っている。
現当主のロルフは、歴代稀に見る商腕で先祖代々の地盤を磐石にするどころか、理由は様々だが王の命に背いてもスメラギ家に従うと誓いを立てる人脈を多数確保していた。
その長男であるミカルは、鷹の二世は期待できないという世間の法則を軽々と無視して、見事な知性を備えて誕生した。
がっしりとした骨格で少々厳ついロルフに対し、息子のミカルは涼やかで、直に父親を越えるだろうと期待する声が高い。
そんな二人に控えているのが次男坊のヨシュアだ。
みかけは遺伝のおかげで整った顔立ちだが、頭脳も運動神経も並みでしかない。
それでも、幼いヨシュアは自慢の父と尊敬する兄について歩き、少しでも追いつこうと頑張っていた。
小さい頃は、そんな風に可愛いげのある少年だった。
「ふむ。もう一度、伝える必要がありそうだな」
「難しいことを言ったつもりはないんだけどね」
父親はヨシュアの反応をつまらなそうに眺め、兄は器用に片方の眉だけを下げながら唇の片端を上げてみせた。
現在十七歳のヨシュアに、小さな手を精一杯伸ばしていた健気さは微塵もない。
追いかけるたびに無理難題を吹っかけられ、からかう為だけにおかしな要求を突きつけられていれば、自慢も尊敬もとっくの昔に崩壊していた。
それどころか、出来るだけ関わらないように避けるのが常套手段になっている。
「ミカル、仕方がないからもう一度言ってやれ。なるべく、ヨシュアが理解しやすいようにな」
なんて、ロルフが小馬鹿にした指示を出したが、既にヨシュアは充分に理解していた。
していた上での「はあ?」だった。
「ヨシュア。お前に婚約者ができた。向こうは入り婿をお望みだから、行って花婿修行をさせてもらってこい」
「意味がわかんないんですけど」
説明されても、ヨシュアの反応は変わりようがない。
ちなみに、最初の説明は「ちょっとウェイデルンセンに行って結婚してこい」だった。
段々苛立つヨシュアに、優秀な二人は理解しないヨシュアの方がおかしいと指摘する。
どこもかしこもおかしいだろう、と内心でつっこんだところで、ヨシュアの頭が回転してきた。
「なんなんだよ、結婚だの婚約者だのってのは。どうして本人の知らないところで話が進んでるんだ。ウェイなんとかってどこだよ、聞いたこともない。大体、俺はまだ十七だ。成人して結婚できるのは十八からだろ。学校はどうするんだよ。つーか、この俺に結婚しろだなんでよく言ってくれるよな。俺は、女が大っ嫌いだって知ってるだろ!」
一気に捲し立てて反撃を試みたヨシュアだが、出来のいい兄には少しも意味をなさなかった。
「昔から貴族の結婚は政略ありきだから、本人が知らないのは普通だろ。ウェイデルンセン王国はシンドリーより北側、山脈の合間にある小さな国だ。そちらでは十三歳で結婚が可能性だそうだ。とりあえずは婚約という形にしてくれている。学校には休学届けを出せば済む話だ。もちろん、お前が悲鳴を上げるほど女が嫌いなことは充分承知だよ。だからこそ、今回の縁談が決まったようなものだ」
スマートな返答にぐうの音も出ないが、だからの使い方だけは間違ってると反論できた。
ところが、これも大胆不敵な父親ロルフに見事に打ち返される。
「お前のお相手はウェイデルンセン王国の妹姫だ。二人兄妹で、兄君は早くに亡くなったご両親の後を継いで王として務めを果たされている。唯一の肉親である妹君をたいそう可愛がっているところに、隣国オーヴェの貴族から婚約の話が上がってな。さすがに、オーヴェは知っているだろ」
ヨシュアは地図を思い浮かべて頷いた。
シンドリーに隣接する国ではないが、近辺では大国のひとつとして知られている。
それを笠に着て貴族や商人があちこちで弱小国に無理難題を押しつけるともっぱらの評判だ。
「私も知ってる男なのだが、なかなか個性的な面構えの上に、姫とは二倍以上の年の差がある。そんなのが可愛い妹の相手では、お兄さんが賛成できるはずないだろう」
自分が関わるのでなければ同情できる話だ。
けれど、どうしてそこで自分が対抗馬に選ばれるのかが納得できない。
「まあ、聞け。そもそも、お兄さんは妹さんが大切すぎて、嫁に行かせる気などさらさらなかった。しかし、お前みたいな男はお断りだ! と断ってしまえば、山間の小さな国の流通に支障が出かねないお貴族様だ。そこで、お兄さんは決意した。あんな奴に取られるくらいなら、どれほど断腸の思いでも自分が相手を選んでやらねば、とな」
だから結婚してこいと勧める父親に、ヨシュアはほんの欠片も納得しなかった。
「なんだ、まだ理解しないのか。鈍い奴だな」
「鈍いも何も、会ったこともない人間に選ばれる意味なんかわかるか!」
「条件1、王位継承権はなくとも王族の婚姻なので、それなりに地位と名誉のある家の出身であること。条件2、年頃は十五歳である妹姫の前後三歳差まで。条件3、見栄えのする容姿であること。条件4、人並み以上の知性と品があること。条件5、妹姫に絶対手を出さない理性的な人物であること。と、これらが兄王が絞りに絞った条件だ」
いやいやいや、最後の条件はちっとも結婚を決意できてないだろうとツッコミを入れたかった。
だが、ヨシュアは口をつぐんだ。
なぜなら……。
「ぴったりだろう」
極上の笑顔でミカルが言う通り、人並み以上の知性と品は微妙なところだが、兄王的に一番重要であろう妹姫に手を出さないという点においては、ヨシュアを置いて他はないと断言できる当てはまりぶりだ。
言い返さなければと焦るヨシュアを制して、ロルフが畳みかける。
「考えてもみろ。お前も半年後には成人だ。このまま何事もなく独身を貫けると思うか? 俺は構わないが、周りが放っておくはずがない。向こうは、あくまでオーヴェの貴族対策だ。それが継続している内は丁重にもてなしてくれる。どうだ、少しは考える価値があるだろう」
「……ちなみに、うちの利益は?」
確かにピンポイントで狙ったかのような条件の一致だが、それだけで、取れるところからは限りなく利益を貪る悪魔な商売人のロルフが受け入れるとは思えなかった。
「ほほう。珍しくいい勘をしてるな。石と酒だ。来年はシンドリー王の結婚十周年だろ。丁度、贈り物を探しているところだったんだ」
「は、石と酒……」
まさか、そんな物の為に自分が身売りされるだなんて知りたくなかった。
「ウェイデルンセンの石は質が高い上に粒が大きい。それに、水が綺麗な地域の酒は格別なんだ。なのに、輸出量が極端に少なくてな。通の間では、幻の酒として珍重されている」
商売人の息子として旨味が大きいのは理解したが、代償として自分がお婿に行かされるのは全然納得できない。
しかし、そこまで話がついているならヨシュアがいくら足掻いても無駄なことも、悲しいかな、即座に理解してしまった。
「それで、行くならいつになるわけ」
素直に承知しないものの、これが事実上この件を受け入れた返事になる。
ロルフとミカルの親子は見合って頷くと、揃ってヨシュアに答えた。
「「明日」」
「はあ!?」
徹頭徹尾おちょくられ、何一つ自分の意思は反映されずにスメラギ・ヨシュア、十七歳の春、意に反して結婚が決まってしまった。