六話目
国が管理している範囲から、少し入った森の奥。
光が僅かに届くものの、うっそうと茂った木によって薄暗くなっているその場所から、ひーんという情けない悲鳴が聞こえてきた。
「やだやだ、こっち来ないでー!」
まるで家の中で虫を見つけた女の子供みたいに、一人の少年が逃げ回っていた。
その後ろには、少し大きな……と言っても抱っこ出来そうなくらいのウサギが跳ねている。
その光景を目の前で見ていたリンは、小さく溜め息をついた。
「なぁイオ、お前ほんとに魔術も武術も駄目なのか?」
呆れたように放たれた言葉に、イオはウサギから逃げつつ返す。
「それどうやって使うの⁈」
出来るものならやってますとでも言いたげな表情を見れば、それ以上の質問は必要無かった。
頭を抱えてその場にしゃがみ込むと、リンは「マジかよ」と呟いた。
魔術師でないなら、武道家までとは言わないでも武術の基本くらいは何か出来るのではないか、と期待した分、落胆を覚えた。
……自分がやるしかない。
何故か湧いてきた妙な自信によって、右手が動いた。
「火」
指先から小さな火の玉が飛んで、
「キュッ⁈」
ウサギの目の前で落下した。
地面には、少しの焦げ跡が煙を発している。
ウサギは直ぐ様何処かへ逃げて行った。
「リン、色んな技が使えるんだね!」
さっきまで涙目で逃げ回っていた奴が笑顔になっている。
なんだこいつ。ガキか。
「俺が使えるのは九種魔元素全域だからな。組み合わせ次第で色々出来る」
「きゅうしゅまげんそ?」
イオの質問に、またかと思いつつ説明する。
「魔術師が使える魔術には、元になる元素ってのがある。自分の持ってる魔力っていうので使える元素が決まってくるんだが、それが主に九種類あるんだ。四大元素の火、風、水、土が大体基本で、後はそれの組み合わせで五つ元素がある。そんなところだ」
「難しいんだね」
難しいも何も、大体の人間なら知っている基礎知識なのである。
しかしイオが何も知らないと解っている今、いちいちそんな事を言っている暇は無かった。
「今のは火の基礎魔術だ。魔術ってのは、世界中の全てのものに決まって存在する″式″に何らかの変化を与えて現象を起こす事を言うんだ」
もう少しで着くはずの湖に向かって、二人は歩き続ける。
リンは説明を続けながら、イオはそれを聞きながら。
「魔力を持ってる奴は、意識を集中させる事によって″式″……自然存在式って言うんだが、それが見える。それに魔力を使って干渉し、上書きする事で物を燃やしたり、形を変えたりといった変化を起こせる。自然存在式に上書きして変化を与えたその式を、魔動変化式って言う。皆、幼い時から色々な式を見たり学んだりして覚えて、更に上手く上書きする技術も身に付けていくんだ」
大分進んでいるはずなのだが、中々湖が見えてこない。道が開ける予感も無かった。
「魔力持ちは、身体から直接変化を起こせる直接可能系と、杖や指輪みたいな物に魔力を通して間接的に変化を起こす伝導物使系、そのどちらも出来る双方可能系に分けられてる。俺は一応双方可能系だけど、あんまし物を通してやる魔術は得意じゃねぇ」
段々混乱してきたイオが、何かを言おうとしたその時、二人の視界が急に開けた。
「……っと、此処が湖かな」
リンが説明を止めて目を細めた。
そこには、大きな湖が太陽の光に照らされて輝いていた。
「驚いたな。こんなとこに湖があるなんて」
「リンでも来たこと無いの?」
「無かった」
始めて見る光景に、暫しぼんやりしていると、
少し離れた湖の畔に、何か落ちているのが見えた。
「……何だ?」
駆け寄って見てみると、何かの袋である事が解った。
拾って中身を確かめる。そこには、小さな似顔絵が入っていた。
「…これ……」
その絵は、先程の依頼人によく似ていた。肩までの髪に、皺の無い目元。女性であることは一目で解る。
「此処を通った事は確かだな」
二人で顔を合わせて頷く。
まず間違い無く、彼女の夫の物だろう。
二人で手分けして湖の周りを探索した。
暫くしてイオが、
「ねぇ、こっちの岩に大っきい穴空いてる!」
と叫んだので、リンが駆けて来て確認した。
「此処っぽいな」
穴は広く深いのか、風が妙な音を立てている。奥までは暗くて見えなかった。洞窟とでも言おうか。
リンは中に入ろうと一歩踏み出した。途端、その手をイオが掴んだ。
「イオ……?」
何だ怖気付いたのか、と思い振り返る。
そしてぎょっとした。
真っ青だった。
その表情を、リンは見たことがある。とてつもない恐怖に対面した時の人間の顔。イオは心の底から怯えていた。
その異常さに、リンは思わず、
「おいイオ、お前此処で待ってろ。直ぐ出てくるから」
と言ったのだが、イオは首を横に振った。
「大丈夫……何でも無い」
明らかに嘘だと感じ取れた。
その状態では、真面に洞窟内を進む事は出来ないのではないか。
しかし此処に一人置いていくよりは、一緒に行った方が安全かもしれないとも思った。イオには、己の身を守る魔術も体術も無いのだ。もし彼一人で居て、何か襲って来たら、それこそ危険である。
「……無理すんなよ」
そう言って、リンは先を歩いた。
イオが着いて来ていることを確かめながら。