三話目
ねぇ、仕事を作ってみない?……そうだなぁ、色んな人の悩みを聞いてあげるのなんてどうかな?他の国の事が聞けるかもしれないし、外に出るきっかけになる情報だって見つかるかもしれない。
帰り道、リンとイオはそんな感じの話をしていた。
魚を町のお得意先に引き渡して金に変えてきた時も、二人はその会話を続けていた。
リンは、良いかもな、と頷きつつ、簡単に言うけど色々大丈夫か、と不安を感じた。
ちなみに何処でやるのか聞いてみたところ、
「此処で!」
とリンの家を指差して言った。
……こいつ正気か。お前にとっては他人の家だぞ。
呆れや驚きを通り越して、むしろ感心を覚えたくらいだ。
てか、いつまで居座る気だ。今日だって湯を浴びたら速攻ベッド占領しやがったし。何なんだアイツほんと。
溜め息を漏らして、昨日と同じポジションに座り空を眺める。
「結局訊きそびれたし……」
イオの正体。
気持ちを振り切るように目線を上げる。
暗い夜空に広がる星が、世界を包むように覆いかぶさっていた。
暫くの間ずっと夜の星空を、じっ、と見つめていると、
後ろでカタッ、と扉の開く音がした。
「リン、此処に居たんだ」
眠そうな目を擦りながら、イオが出てきた。
ベッド占領した奴が何を言うか、と思ったが、悪気無さげなイオを見ているとその気も失せた。
「起きたのか?」
隣にちょこんと座って、リンの質問に質問で返す。
「リンこそ、眠れないの?」
「……いや、別に」
眠れない、というより。
何と無くそれが習慣だったのかもしれない、外にいると落ち着くから。理由なんて特に無かった。
「そういえばお前、何で海に居たんだ?」
何となく、訊いてみた。
「え?えぇーっと……何か、お船に乗ってて……お魚が綺麗だったから、覗いてたんだけど……そしたら、ドボンって」
……船から落下したってか。
どう反応して良いかたっぷり悩んでから、そうか、とだけ切り返した。
「てかお前、本当にこんなとこ居て大丈夫なのか?旅人でも修行でも無いなら、家族とか心配してんじゃねぇのか?」
ふと思い出したように、再びリンが問う。
今しか無いと直感で思ったのだ。
しかし。
その瞬間、イオの顔がうっすら翳ったのが解った。
しまった、まずい事言ったかな、とリンが口を噤むと、イオは少し俯いてから、ぽつりと呟いた。
「昨日、この島の事解らないって君には言ったけど……」
とても、とても小さな声だった。
「ほんとは、覚えてないんだ……何も」
「…え……?」
漏れた一言は、意識したものでは無かった。
聴こえた声が、微かに震えている。
「覚えてないんだよ。解らないのは島の事だけじゃなくて、何処から来て何処に行くべきなのかも。生まれた所も、家族も、自分だって何なのか」
イオらしくない掠れた小声が、ゆっくりと暗闇に染み渡るように響く。
いや、もしかしたら、此れが本当のイオなのかもしれないけれど。
らしくない、でなく、これが彼らしい、かもしれない。
リンは自虐的になる。
自分だって、イオの事は何も解らないのだ。
「だから帰れないし、行く当ても無いんだ」
イオが、苦々しく笑った。
垂れ目が少しだけ悲しそうに見えた。
記憶喪失か……?もしくは魔術で記憶を縛られているのか?
どちらにせよ、今の彼は不安で満たされた存在である事は明らかだった。
昨日あんなに直ぐ泣いたイオが、今目の前でひたすら笑おうと努力している。いや、泣いたら良いのか笑ったら良いのか解らない、といった感じだった。
「……」
記憶が無いとは、どんな感じなのだろう?何も知らない所で、誰だか解らない人間が存在している。帰る場所も解らなければ、頼れる相手も居ない。
……とても耐えられるものではないだろう。
「……ごめん、こんな不気味な奴と一緒に居たくないよね。ちゃんと出て行くから、安心して」
不器用な笑顔でリンに笑いかける。声だけで無く、手許も小さく震えていた。
きっと、今迄誰もが彼を突き放してきたのだろう、と思った。
記憶喪失なんて、ロクなことが無いと。不気味だと。
だからそんなことを言ったのだろう、なんて事は理解できた。
きっと彼がいつもみたいに純粋な笑顔でそう言っていれば、リンも他の人間と同じようにイオを見送った事だろう。
彼の手許を、見なかったならば。
「……お前さ、」
リンは不意にイオの片方の手首を掴んでいた。
「本当はそんな事思ってないんだろ?出て行きたいのかよ?俺と関わるのは嫌ってか?」
「そ、そうじゃないよ!でも、僕なんかといたら面倒だろうし……」
手首を握る力が強くなる。
イオが驚いてリンの目を見た。
焦り、怯えたような顔。
其の顔は、気に食わない。
「じゃあ何なんだよこの手は⁈」
イオが何かを言う前に、リンは叫んでいた。
夜だろうと知ったものか。
どうせご近所さんなど居ない。
「言葉と身体合ってねぇんじゃねえの?突き放されても仕方ないって思いながら、本心はそれは嫌だって言ってんじゃねぇのか⁈そうじゃ無いなら何で震える?俺が嫌なのか出て行きたくてしょうがないのかどっちだ⁈なぁ本当はどう思ってんだよ!言ってみろよ!!」
叫び声が、遠くに消えていく。
夜の静けさが戻ってくる。
時が止まったように感じられた空間の、その地面に、水滴が滴り落ちた。
「…ゃ……ないよ……」
握られた手首から、力が入った感覚が伝わった。
「そうじゃ、ないよ……っ」
涙声になりながら、イオはそう言っていた。
リンは黙ったまま次の言葉を待っている。
「僕は、……もう独りぼっちになるのは嫌だ…不安でいるのは……嫌だよ……!それだけなんだ……!」
いつもの純粋な言葉だった。
先程の苦々しい笑顔は何処へやら、目からは涙が溢れ、鼻を紅く染めて、彼は泣いていた。
リンは手を離して、それから控えめに、口許に笑みを浮かべてみせた。
「それが本心なんだろ?」
「うん……うん」
えぐっ、えぐっ、と涙を拭いながらイオは何度も頷いた。
「こんなとこで良いなら好きなだけ居て良いから。お前が俺に言ってくれたみたいに二人で考えようぜ?記憶探すのだって手伝わせてくれよ」
優しい言葉がゆっくりと伝わっていく。
イオは、まだ止まらない涙を拭うのをやめて、また頷いてみせた。
「……有難う」
泣き顔を覆すように、不器用に笑おうとしながら。