番外編 ローシャ・エヴァの場合
私は決して裕福な暮らしはできなかったし、頭だってそんなに良くなかった。しかし、それを不幸だと思ったことは一度もない。この国――チャートキタン国は世界的に見て治安の悪い国だと言われているらしいが、私は他国のことを知らないわけで、優しい母としっかり者の父に、愛情をたっぷり注がれながら育ってきたということこそが重要だと思う。そりゃあ私だって不満に思う所はある。私の住んでいるトコナヒは果物の生産が盛んで、私の家も果樹園農家なのだが、何しろこの仕事は天候に左右されるため、収入が安定しない。地区を上げて農業しかやっていないトコナヒは地区全体として収入が不安定だった。毎年一定の税金を国に納めているというのに国から降りる支援金はわずか。私の通っていた学校も、運営できているのが不思議なくらいだ。そんな国の対応を不満に思わないわけがない。しかしそんな状況においても私は普通に生活できていて、幸せな時を親しい人と共に過ごせている。それで充分なのだ。
だから、その幸せな人生を、平凡に過ごしていけるだけで私は良かったのに。高望みなんてしていないはずなのに。
私の人生の歯車はいつからか狂ってしまっていたのだった。
私の初恋は高校二年生の夏だった。それまで色めいた話に全く興味を示したことの無かった私が心惹かれた相手は、シャムエル・クァサナ。クラスメイトだ。一年生の頃から同じクラスだったにも拘らず、何故私の初恋が二年の夏だったのかというと、シャムと初めて話をしたのがその時だったからである。
先ほど、「学校が運営できているのが不思議なくらいだ」と言ったが、そんな学校にも文化祭はあった。都会のような金を掛けた大層なものではないにせよ、とてもささやかな文化祭であるにせよ、その文化祭が私たち生徒の青春には欠かせない大きな行事だった。文化祭の準備の際、同じ係を務めたのがシャムだったというわけだ。シャムがクラスの実行委員長で、私が副委員長。
「ローシャ、だよね。一緒に頑張っていいものつくろうな」
シャムエルという人を、私はそれまで全く意識したことがなかったが、彼の屈託のない爽やかな笑顔に一瞬で心奪われた。目が切れ長でとても凛々しいのに対し、丸い鼻が可愛らしいと思った。彼は本当に生真面目で、一生懸命に自分の仕事に取り組んでいるその姿に、また惹かれた。共に係の仕事をしているうちに自然と学校で接する時間も増え、その流れで私たちは付き合い始めた。その年の冬、私はシャムと共に一夜を過ごした。そういうことはあの日が初めてだったので不安に思う所はあったが、シャムの逞しく暖かな体に包まれていると、そんな不安は消えていった。シャムは私を本当に大切そうに優しく抱きしめてくれた。彼の腕の中で、嗚呼、この人は男の人なのだと思ったし、こんな人と一緒になれたらどれだけ幸せだろうと思った。
翌年の秋、私は知らぬ間に妊娠していた。気づいた時には妊娠三か月ほどで、周囲からは早く下ろせと言われた。私のお腹の子供は明らかにシャムとの子供である。生真面目なシャムのことだ、私が妊娠していると教えたら顔を真っ青にして慌てていた。私がこの子をおろすつもりはないということを伝えると、シャムは「それなら二人で一緒にその子を育てていこう」と言った。
それが、彼からのプロポーズだった。
私の両親は、初めは渋い顔をしていたが、彼の生真面目な人柄と私たちの真剣さを理解してくれ、私たちの結婚を承諾してくれた。私たちはそのまま学校を退学し、彼は私の家に籍を入れた。シャムの両親は彼が幼いうちに亡くなっているらしく、彼は私の両親のことを本当の両親のように慕ってくれたし、家の果樹園で働いてくれるようになった。
翌年、私たちの第一子が誕生した。男の子で、名は『レイシェア』と名付けた。白玉のような真っ白でもちもちとした肌と、つぶらな瞳。本当に可愛らしくて、私は嗚呼、と思った。この子を産んでよかった、と。もしこの子を下ろしていたならば、今頃とても公開していただろうと。
レイシェアはすくすくと育った。初めての子育てで、寝返りを打てるようになったり、少しずつ喋れるようになっていったり、ほんの些細なことがとても嬉しかった。シャムと二人で、この子の成長を見守ることこそが、私の何よりの幸せだった。
レイシェアが四歳の時、私は第二子を授かった。次の子は女の子で、その子には『ロチル』という名を付けた。二人目ということもあり少々余裕を持つことができたが、出産の瞬間はやはりつらかったし、無事に生まれてきた子を見た時はとても感動した。
「レイシェアはお兄ちゃんになったんだぞー」
そんな風に声を掛けるシャムがとても微笑ましかったことを覚えている。
ロチルが生まれてから三か月が経った時だった。その日、私は家でロチルの面倒を見ていて、シャムは作物を届けにコウザユルへ行っていた。私の歯車が狂い始めたのは、翌日、シャムが家に帰ってきてからのことである。
「……ただいま」
いつものように家に帰ってきたシャムだったが、声のトーンが明らかに暗かった。私は心配に思い、何かあったのかと尋ねた。声を掛けた時のシャムは顔色も優れず、まるで別人のような顔つきをしていた。
「実は……」
それから、シャムは昨日コウザユルで起こった出来事を私に話してくれた。
「実は昨日、ある人を殺してしまって」
その後、長々とその時の状況を説明されたが、正直あまり覚えていない。ただ彼はとても青ざめていて、取り返しのつかないことをしでかしてしまったのだということを思った。
「変な冗談はよしてよ」
彼の表情からそれが冗談ではないことくらい察しはついたが、その時は「全て冗談でした」と笑いながら言ってほしかった。私のその願いも空しく、彼は長いため息とともに首を力なく横に振った。それだけだった。
そこから、私たちの築き上げてきた幸せな家庭は、音を立てて崩れていった。
今まであんなに愛おしかったはずのシャムが、急に見ず知らずの殺人鬼のように思えてきた。腹を痛めて生んだはずの自分の子供たちが、私に襲い掛かってくるところを想像してしまった。
今はこんなに可愛らしくて無力でも、大きくなったらこの人のようになってしまうかもしれない。
そうなったら私は……
私はその後すぐにシャムと離婚した。その直後、レイシェアとロチルを施設に預けた。両親にはさんざん止められたし説明を求められたが、それに応える気力もなく、私は地元を離れることにした。
それから三年後、新たな相手と再婚したものの、その相手に浮気され、一年も持たずに離婚した。そして私は世界に絶望した。
何もかもが嫌になった。私は神に見放されてしまったのだろうか。何がいけなかったのだろう。私はただ、平凡な日々が過ごせれば、それでよかったのに。
私は電車を乗り継いで、トコナヒ北部のとある海岸へ向かった。電車に揺られながら、私は今までの日々を思い出していた。
もし、シャムと出会っていなければ、私はもっと別な人生を送れていただろう。そうでなくても、あの時大人しく子供を下していれば良かったのかもしれない。それとも、私はあの時、シャムの話をもっとちゃんと聞いてあげるべきだったのだろうか。ちゃんと聞いて、彼を信じてあげるべきだったのだろうか。
考えても答えは出なかった。答えを出そうとする気力も残っていなかった。
電車から降り、私は海へと向かった。砂浜には誰も居らず、波が静かに引いて寄せてを繰り返していた。足を一歩ずつ前へ進める。そのうち、靴の中に海の水がしみ込んできた。そのまま足首、膝……と水位は上がっていく。とても冷たかったし、服が肌にまとわりついて気持ち悪かったが、どうせ今から死ぬのだからどうでもいいことだと思った。
ローシャ・エヴァ。二十七歳。思えば、後悔だらけの日々だった。やはり私は望み過ぎていたのだろうし、自分のことしか考えられていなかったのだろう。
(ローシャ・エヴァの場合――完)
今度は本当にこの話で完結となります。
なんと言っても、この話を書くことはこれ以上無理だと我ながら自負しておりますので。
なかなかに珍妙な世界観の中ぐだぐだの設定で進められていたこの小説ですが、最後の両親たちのエピソードは作者が密かに一番気に入っている設定だったりします。とても間が空いた割に少ししか書かれていなかったのは、大分前に書いて忘れていたものをそのままのっけたからです。物足りなかったらすみません。
さて、なかなか最近は此処での活動ができませんが、今は新たな短編小説(の予定のもの)をのろのろと書き進めているところですので、それが書き終わった際にはまた顔を出しに来ます。その時はまた生温かい眼差しで見守っていただけると幸いです。
最後になりましたが、ここまで読んで下さりありがとうございました。
今後とも宜しくお願い致します。




