診療所A ②
②
「彼女は魔女かもしれません」
最近四月が終わったばかりなのになんだかもう夏みたいだね。暑いね。
「彼女は僕に魔法をかけたのかもしれません。彼女のことしか考えられない魔法。彼女がどこにいても見つけられる魔法。彼女を見つけると勝手に身体が動く魔法。自分の家に帰れない魔法。だから僕は広い中庭の端にいる彼女を校舎の二階の窓越しに見つけて彼女に頬を染めながら話しかける男が見えた瞬間に教室を飛び出して走って男を殴って彼女の腕を引いてまた走って彼女の家まで走って合鍵で玄関を開けて扉がしまった瞬間に彼女をきつめに抱きしめてしまってゆっくり僕のシャツの背中を握って『昨日のカレーの残りがあるから今日も明日の朝も食べていくよね、』と訊く彼女に『はい』なんて従順に頷いてしまった。彼女はたぶんカレーかなにかに魔法をかけて僕に食べさせたんです。こんな魔法があるなんて知らなかった。僕は魔女かもしれない僕の彼女がとってもおそろしいです」
「さあ、どうぞ」
「いただきます」
怯えていたはずの彼はお手伝いさんの力作チーズケーキをぺろりと食べると満足した様子で帰った。魔女の彼女はきっと彼のそういうところが好きなんだろう。
彼を見送ったあと、待合室で常連の老爺が座っているのを見つけた。
「まささん」
「やあ先生」
いつもどおり上質の着流しにハットといういでたちである。粋だなあ。
「どうしたんですか」
まささんが親指で分娩室を差す。なるほど。まだ時間がかかりそうなので自室に招いてお茶を出した。
「さて、どんな名前にしようか」
「候補はあるんですか?」
緑のお茶にチーズケーキは案外合う。
「なんかこう色気が香り立つような……」
「安直ですけど、かおるとか」
「それね。女でも男でもいいよね。俺もそれ思ったんだけどさあ。こないだ産まれただろ恭一。あれの母親がカオルなんだよね」
「ああそれは、なるほど」
「うん。どうしようかね」
「こういうときはこれっすよ」
机に置いてあった漢字辞典をひらく。
「いいね、漢字辞典」
「いいですよね」
パラパラとめくり、ふたりで見つめる。
「にしても、このチーズケーキ美味いね」
「ですよね!」
「こりゃあ魔法だな」
「まほうですか」
「うん。LOVEのね」
「らぶ……」
「女の子は全員魔法使い、魔女だからね」
「まじょ……」
ふたりでお茶をすすった。
「お、この字いいね」
まささんが辞書の一文字を指差したとき、部屋の外が騒がしくなった。
「産まれた」
うちのカリスマ医師が院内放送で告げた。まささんと僕は部屋を飛び出す。初夏の日差しのように元気な男の子です。母子ともに健康です。赤ん坊を見つめるまささんの顔はそれはそれは嬉しそうでやさしかった。
「よし決めた。としきだ。十に色で十色」
まささんは十色くんのお母さんの頭を撫でて、
「ありがとう」
と頭を下げた。
「先生、やっぱり女は魔法使いだろう。さすが俺の魔法使いだよ」
診療所をあとにする背中はルンルンしていた。そうだ。魔法はひとをしあわせにするんだ。
「あいかわらず元気なじじいだよ」
「うらやましいよね」
「何人オンナがいるんだか。俺がとりあげたのはこれで四人目で全員ちがう母親だから、少なくとも四人か」
「うらやましいねえ」
「元気さはな。風呂沸かしていい?疲れた」
「はいはい」
名子は眠そうだ。また寝不足なんだろう。
「お手伝いさんさ、めっちゃテンパってたぜ」
「はじめてだしね。そのうち慣れるよ」
「お産なんかあのじいさんがハッスルしねえ限りうちではないんだけどな」
「じゃあまた近いうちにあるだろうね」
「ちがいねえ」
お手伝いさんにお風呂を沸かすのを頼むついでに、まささんがチーズケーキをほめていたことを話した。「LOVEの魔法」だと。顔を真っ赤にしていた。まさか、まささんのこと……それは全力で否定していた。あやしいなあ。いいなあ、みんなばっかり。僕も魔法をかけられたい。漢字辞書で愛という字を引いて、筆立てから蛍光マーカーを取った。
つづく。