巣くう
「先生聞きましたよ。研究を完成させることができたんですね」
そう言って私の教え子、私の部屋に入ってきた。
私は椅子に座りながら彼を迎えた。こうやって、来てくれる教え子がいる事は幸せなことだろう。だから私は笑顔で彼を歓迎する。
「おお、ありがとう。この素晴らしい日に、君が祝福しに来てくれたこと私は嬉しく思うぞ」
「僕もこの日に立ち会えた事、本当に嬉しく思います」
私と教え子はどこか芝居がかった会話をする。彼との会話は何時もこんな感じだった。多くの者は彼のこんな態度を良く思っていない用だが、私は彼のこういう態度が好きだった。
しかし、今日の彼はどこか雰囲気が違った。少し心配して彼を観察していると、彼は少し申し訳なさそうな顔をし、少しだけ悩んでから口を開いた。
「先生、失礼ですが聞きたことがあるんです」
その質問にすべて納得がいった。その時初めて、私は実験が成功し、完成した事を確信した。後は確認するだけだった。
私はその彼の言葉に気分が高揚していた。恋人の到着を待ちながら、今日の予定を考える少年のように、私は期待に胸を膨らませ彼の質問を待った。
だからだろうか、ついつい悪戯をしたくなってしまった。
「なんという事だ。君は私の教え子でありながら、そんな事も知らないのか」
私が少しだけ怒って見せると、彼の顔は途端に不安の色に染まる。見てて面白い変化だった。その変化は実に観察しがいがある。
私が黙って彼を見ていると、彼は恐怖で震えだしてしまった。
私はその姿に少々申し訳ない気分になってくる。彼の変化を実験動物を観察するように見ていたことを、私は少しだけ反省する。
だから私は笑いながら、教え子に謝ることにした
「すまない、私の研究の内容を君が知らないのは当然なんだよ」
「そうだったんですか、脅かさないで下さいよ」
彼の顔に安堵の色が浮かぶ。さっきの狼狽が嘘のように、目に見えて明るくなった。そんな様子も私は見逃さないようにする。
そして、興味深そうに彼は口を開く。
「では、先生は何の研究をしているんですか」
「よくぞ聞いてくれた。私は君の質問に答えよう」
私はそこで一拍置く。その間教え子は瞳に期待の光を灯し私を見つめる。
充分に間を置き、私はわざとらしく咳をしてから言う。
「私の研究それは、記憶の操作。つまり君が、私の研究を忘れてしまったことは、私の研究の成果だ」
彼は驚きのあまり、口を開けたまま凍りつく。私はその様子を笑いながら見つめた。
「先生、つまり、私は……」
彼は声を震わせながら、一言、一言紡ぎ出すように言った。
私は黙ってその言葉を聞く。
「私は先生の研究の一旦になれたんですね」
笑いがこらえきれない。彼の満足のいく答えを聞いて私は笑い声を上げる。私の笑い声は狭い研究室によく響く。
そして、私の笑い声に驚いた実験動物たちが鳴きだし、研究室の中は小さなパニックに陥った。
それでも私は笑うのをやめない。こんなに愉快な気持ちは久しぶりだった。
「先生、一つ質問してもいいですか?」
教え子は遠慮がちにそう言った。
「ああ、いくらでも質問してくれ」
「では一つ。どの様な方法で記憶を操るんですか」
そうか彼は覚えていないのか、それがまた愉快でならない。あんな恐ろしい出来事を彼は覚えていないのだ、それは幸せなことだろう。
「あの、聞いてはいけないことでしょうか」
私が急に黙ってしまったのを見て、教え子は心配そうな顔でそう言った。
そんな教え子を見て私は思う、コロコロと表情を変え本当に愉快な教え子だ。
自分の身に何が起こったのか、それを知ってしまったら彼は何を思うだろう。発狂してしまうだろうか、それを観察してみたい気持ちもあった。
しかし、私はその気持ちをこらえることにした。
「実は私は記憶を操る生き物を発見したんだ」
「生き物ですか?」
彼は理解できない。と言いたげな不思議な表情をする。
私はその通りだと思った。私自身もその生き物を発見した時同じことを思った。
だから私は彼の疑問に答えることにする。
「私もそんな生き物がいる事に驚いた。しかし、いたんだよ。そんな生き物が」
そこで言葉を切り手元に置いてあったコーヒーで喉を潤す。
私は言葉を続けようとして、一つの疑問に直面する。
それがどんな生き物か私は知らない。否、私は覚えてないのだろう。
さっきまで、覚えていたのに今はすっかり忘れてしまっていた。
私の顔がどんどん青ざめていくのが分かる。コーヒーカップが私の手からこぼれ落ち音をたて割れる。心臓が早鐘を打つかのように脈打つ。
そんな私の様子を見て。彼が心配そうに口を開く。
「どうしたんですか先生?」
「わ、か……んだ」
震えて言葉がうまくでない。
「先生?」
「わからないんだ。どんな生き物だったのか」
二人の間に沈黙が訪れる。
どうすればいいんだ。分からない、そのために知識が私の中からなくなってしまった。
私が黙り込み顔を伏せていると突然動物の悲鳴が聞こえた。
顔を上げると、彼は猫の頭を踏み潰しているとことだった。
「何をしているんだ」
悲鳴のようにそう叫ぶ。彼の行動が理解できなかった。
「見て分からないですか殺してるんです」
「だから、なぜそんな事をするんだ」
私はすっかり彼の凶行に腰を抜かしていた。何時もなら彼のその行動を冷静に観察し、考察する所だが、今あの私にそんな余裕がなかった。
グチャと音をたて猫の頭を踏み潰した彼が、私の方を向き口を開く。
「此処にいる実験動物に記憶を操る生き物がいるなら殺しましょう。その生き物を忘れてしまったら大変です」
私は少し考える。研究を捨てるのは惜しい。しかし、この研究は私の手に余るのかもしれない。この研究の存在を知っている私が『あの生き物』の存在を忘れてしまったのだ、これ以上この研究を続けられない。それに、もし、世に『あの生き物』が放たれてしまったら。それは考えるだけでも恐ろしい結末だった。
その最悪の展開を想像するなら、彼の行動は正しいのだろう。
私が悩んでいる間も、彼は殺戮を続ける。私はそれを止めることができない。その行動が正しいと心のどこかで納得してしまっている。
諦めきれない気持ちもある。しかし、諦めるなら此処しかないのだろう。
ため息をついてから、私は机の引き出しからカッターナイフを取り出した。
カッターナイフの刃を伸ばしながら一つのケージに近づく。中にいる子犬は何か不穏なものを感じたのか突如騒ぎ出す。私は左手でその子犬の首を掴みケージから取り出す。
かわいそうな生き物だ。実験の被害者となり、その命は観察対象とされ、最後は殺される。
「すまないね」
私は目の前の犬に謝る。それで許されることでは無いだろう。それでも謝らずにはいられなかった。
そして、私は手に持ったカッターナイフで犬を殺した。生暖かい血が私を濡らす。
「その気になってくれたんですね先生」
彼は嬉しそうにそう言った。そういう教え子の足には、何か真っ赤な糸くずのような物が張り付いていた。
その糸くずが何なのか、想像したくもない。
私は彼を無視し次のケージに近づく。一匹殺して決心がついた。殺そう、そして終わらそう。
それから少しの間、私の研究室はまさに地獄のような有様だった。様々な生き物の絶命の悲鳴。飛び散る血液、部屋を満たす鉄の匂い。
「これで全部だ。全部殺した。私の研究は私が殺した」
自分の息子を殺してしまったような絶望感が私を襲う。『あの生き物』が生きていたならこの気持ちを、この記憶を忘れさせてくれただろう。私は思わず彼を見てしまう。彼が羨ましかった。
私は机の上の書類を床に払い落とし、できたスペースに腰掛ける。もはや私には意味のない書類だ。
私が机に腰掛け一息ついてると教え子が言う。
「先生まだ終わってないですよ」
「もう此処にいる生き物はいないぞ。これ以上殺したいなら、君はただの狂人だ。これ以上殺したいなら私の知らないところでやってくれ」
教え子はため息を吐いた。そして、悲しそうな顔をし、私に近づいてくる。
「先生も実験動物の一匹ですよね。大丈夫です。私も実験動物ですから死にます」
彼はそう言って、私の首にカッターナイフを突きつける。
背筋が凍りついた。まさか、私まで彼の標的になるとは思わなかった。
あまりの出来事に声が出ない。体も動かなかった。逃げなくてはと思っても体が動いてくれない。
そんな私の状態など気にしてくれるはずなく、彼の持ったカッターナイフの刃が近づいてくる。
それが目の前に来た時ようやく体が動いた。ずり落ちるように机から床に落ち彼と距離を離す。腰の抜けてしまった私にできる最大の逃避だった。
床に倒れた私に彼は力いっぱいカッターナイフを振り下ろした。
◇◇◇
「酷い部屋だ」
僕は思わず声に出してそう言った。
ゲージの中の動物たちは、刃物で切り裂かれたり、頭を潰されたり、方法は其々であったが、等しく平等に殺されていた。
床はレポートの紙と、何の生き物かも分からなくなってしまった生き物の血が散乱する。
血を踏むのもレポートを踏んで歩くことには抵抗があったが、そんな事を言っていては歩くこともできない。仕方がないと割り切り僕は部屋を探索する。
もとより狭い部屋だ。それほど探索に時間をさく事はないと思っていたが、当初の目論見より、探索は早くに打ち切ることになった。
机の影に隠れるように横たわった先生の死体を見つけてしまったのだ。
僕は慌てて先生に駆け寄った。
「先生大丈夫ですか?」
そう言いながら先生の体を揺する。その拍子に先生の首に突き刺さったカッターナイフが抜け、僕の体を血で汚す。
服が赤く汚れてしまったが僕は気にしない。目の前で人が死んでいるのだ、それくらい気にしてられない。
血の匂いと目の前の先生の死体。突如、吐き気がこみ上げてきて、僕はその場に吐瀉する。
今になって体が震えてきた。体の震えを抑えようと、深く深呼吸をする。腕を強く握り締め、震えを抑えようとする。
次第に震えが収まっていく、落ち着いていく。
一度深く息を吐き現実を見つめる。目の前の光景を直視する。
そうすると見えないものが見えてきた。否、見逃していたものを見つけた。
床に広がったレポートのタイトル。
其処には、『記憶を操る寄生虫』と書かれていた。
まるで骨董無形なファンタジー小説に登場するような、そんな出鱈目な生き物の研究。
普通なら、笑い捨てる様なタイトルが何故か、気になってしょうがない。
どこかで聞いた事でもあるのだろうか、思い出そうとすると、暗闇の中に足を踏み込んでしまったそんな不安に襲われる。
それが何だか怖くて頭を振るう。
その怖さの前では先程の体の震えなんてちっぽけなものだった。そもそも、何故震えていたのか分からない。
その瞬間、どこかで小さな音がした。小さな音だけど、僕にはハッキリと聞こえた。
その音に驚いた僕は驚き辺りを見回す、だが当然誰もいない。
部屋にあるのは無数の動物の死体と目の前の誰かも分からぬ老人の死体。
そういえば、僕はこの部屋で何をやっているのだろう。
思い返す。しかし、思い出す内容は所々欠けていて、全体像が見えてこない。目の前の死体、ショックな光景に記憶が混乱しているのだろう。そう結論づける。
酷い。滅茶苦茶な。破綻した。そんな心理状態にも関わらず僕の精神は何故か落ち着いていた。
まだ警察に連絡していなかった。余りにも突飛な展開にそんな事すら忘れていた。僕は携帯を取り出し、番号を入力する。一番始めの数字を入力して指が止まる。こんな時に警察の電話番号を忘れてしまうなんて。
人を呼ぶしかないか、僕はそう結論付けこの部屋を出ることにした。
扉を開け、部屋の外に出て、扉を閉める。
その時、僕の頭の中で何かが動く音がし、頭がズキリと痛む。
風邪だろうか?それとも過労か、ストレスか。
何にしてもこういう日は家で休むのが良いだろう。
僕は服に着いた血など気にすることなく、帰路についた。
◇◇◇
彼の振り下ろしたカッターナイフは、目標を外すことなく私の喉を貫いた。
その瞬間、初めて彼の目を直視することができた。彼の瞳は正常な物出なかった。
どうやら、私の研究は間違っていたようだ。人間をここまで変えてしまうなんて、死ぬまでそんな事に気がつかないとは、私の研究も杜撰なものだ。
その時小さな怒りが湧いてきた。
この実験動物が……。
声に出すことは出来ただろうか?彼の耳には届いたのか。
分からない。
だが、どうでも良い事だろう。
もし、声に出ていても。もし、彼の耳に届いても。
彼は直ぐにその言葉を忘れるだろう。
それが私にはたまらなく悔しかった。