第18話 執事は、最後まで忠誠だった
鏡味静臣が狙われた。
その事実だけで、余白の部屋の温度は変わった。
白いマグ。青いマグ。蓮太の絵。安いメモ帳。
高級な作戦ノート。
そこにあるもの全部が、さっきまで俺たちを支える小さな証みたいだったのに、今は一つ一つが人質みたいに見えた。
敵は、俺たちの大事なものを見ている。
灯庭舎。
澪標の丘。
そして、鏡味静臣。
千歳のそばに、ずっといた男。
千歳が子供の頃から、千歳の母を知り、千歳の弱さも強がりも見てきた男。
その人間を、狗飼錆人は狙った。
「地下駐車場」
千歳は端末に写真を拡大しながら言った。
声は冷えている。
いや、冷やそうとしている。
本当は、底の方で震えている。
「床材は樹脂塗装。照明は白色LED。柱番号が一部だけ写っている」
「どこか分かるか」
「候補は絞れる」
「白蝶会の施設?」
「関連会社が使う駐車場が三つある」
千歳の指が画面の上を滑る。速い。
冷静に見える。でも、その指先がほんの少しだけ強すぎる。
スマホを握る手に血が通っていないみたいだ。
「千歳」
俺が呼ぶと、千歳の肩がかすかに揺れた。
さんを外したまま呼んだ。
前に、彼を止めるためにそう呼んだ。
今も、戻すために呼んだ。
千歳は俺を見ない。
「大丈夫だ」
「大丈夫な顔じゃない」
「大丈夫にする」
そういう問題じゃない。
けれど、今は崩れさせる場面でもなかった。
鏡味を助ける。
最優先はそれだ。
俺は螢に電話をかけた。
「螢」
『声怖。何?』
「狗飼錆人の部下筋で、地下駐車場を使ってそうな場所、洗えるか」
『いきなり物騒』
「鏡味さんが攫われた可能性がある」
電話の向こうで、空気が変わった。
『御曹司の執事?』
「ああ」
『場所のヒントは?』
「白蝶会関連会社。黒い石の指輪。地下駐車場。柱番号はB2、たぶん西側」
『分かった。夜の車回しやってる連中に聞く。狗飼の名前、直接は出さない方がいい?』
「出すな」
『了解。マトイ』
「何」
『一人で飛び出すなよ』
「今、千歳さんに同じこと言ってる」
『じゃあ二人で飛び出すなよ』
「……善処する」
『そこは約束しろ』
俺は一瞬黙って、千歳を見た。
千歳もこっちを見ていた。
「約束する」
そう言って、電話を切った。
千歳は低く言う。
「君は、俺を止めながら自分も行くつもりだったな」
「読まれたか」
「分かりやすすぎる」
「お互い様だろ」
「そうだな」
千歳は、少しだけ息を吐いた。
けれど、落ち着いてはいない。
その時、千歳の端末に鏡味の位置情報が一瞬だけ点いた。
「出た」
千歳の声が鋭くなる。
地図上の一点。
港湾地区に近い、古い商業ビルの地下。
白蝶会関連会社の倉庫として登録されている場所。
「ここだ」
千歳が立ち上がる。
俺も立った。
「行くぞ」
「行く」
千歳が俺を見る。
「止めないのか」
「止める。けど、行くのは止めない」
「……」
「一人で行かせないだけだ」
千歳の目が揺れた。
その一瞬だけ、彼は御曹司ではなく、大切な人を奪われかけている男の顔になった。
「纏」
「何」
「俺が壊れそうになったら」
「止める」
「強引にでも」
「強引にでも」
「約束だ」
「約束する」
千歳は頷いた。
俺たちは余白の部屋を出た。
車は千歳が呼んだ別動の運転手が出した。
鏡味はいない。
当然だ。
それが、やけに重かった。
****
車内で千歳は一言も喋らなかった。
端末を見つめ、候補施設の構造図を確認している。
俺は螢からの返信を待った。
すぐにメッセージが入る。
港湾近くの白蝶物流ビル。狗飼の下っ端がたまに使ってる。地下B2、西側搬入口。
警備薄いけど、中に三、四人いるっぽい。
警察沙汰にするなら証拠いる。
俺は千歳に見せた。
千歳は頷く。
「警察へは?」
「証拠を取ってから」
「鏡味さんの安全優先だろ」
「もちろんだ」
声は冷静。
でも、目が怖い。
俺はそっと言った。
「千歳」
「何」
「狗飼を見つけても、今日は殺すな」
「……」
「言葉の話だぞ」
千歳は少しだけ笑った。
笑ったというより、刃が薄く光ったみたいな顔だった。
「言葉で済むかは、相手次第だ」
「そういう顔が危ないって言ってんだよ」
「分かっている」
「分かってない顔」
「君は本当にうるさい」
「止めろって言ったの、お前だからな」
千歳は窓の外を見た。
夜の街灯が、彼の横顔を流れていく。
「怖いんだ」
小さな声だった。
「うん」
「鏡味は、俺が子供の頃からずっといた」
「うん」
「母が死んだあとも、父が海外へ行ったあとも、あの人だけは、俺が玻璃宮ではなく千歳でいる時間を覚えていた」
「うん」
「失うのは、怖い」
俺は何も言わずに聞いた。
触れない。
車内だし、今は言葉でいい。
千歳が自分で言えているなら、それを遮らない。
「だから、もしあいつらが鏡味を傷つけていたら、俺は冷静でいられない」
「それでいい」
千歳が俺を見る。
「いいのか」
「怒れ。怖がれ。壊れそうになれ」
俺はまっすぐ言った。
「その代わり、一人で壊れるな」
千歳の目が揺れた。
「君は、本当に」
「何」
「困る男だな」
「知ってる」
千歳は、ほんの少しだけ息を吐いた。
その肩から、わずかに力が抜けた。
それだけでよかった。
今は、それだけで。
****
白蝶物流ビルは、港湾道路沿いにあった。
古い灰色の建物。
夜の倉庫街に溶け込むように、目立たず立っている。
地下駐車場の入口は、ビルの裏手。
照明が少なく、監視カメラが古い。
けれど、その古さが逆に不自然だった。
こういう場所は、わざと目立たなくしている。
千歳の別動スタッフが外で待機し、警察へ出せる証拠映像の確保に回る。
俺と千歳は、地下へ降りた。
本当なら、俺たちが直接行くべきではない。
そんなことは分かっている。
でも、鏡味を一番早く見つけられるのは千歳だった。
そして、千歳を止められる可能性があるのは、たぶん俺だった。
B2。
西側搬入口。コンクリートの匂い。油の匂い。湿った空気。
遠くで何かが落ちる音がした。
千歳の呼吸が少し変わる。
俺は小声で言った。
「合図、覚えてるな」
「両手なら助けろ」
「そう」
「今は?」
千歳は片手で端末を持っていた。
もう片方の手は、コートの横で強く握られている。
「片手でも助ける」
俺が言うと、千歳は一瞬だけこちらを見た。
「ルール違反だ」
「緊急時特例」
「いつ決めた」
「今」
「勝手だな」
「ホストなんで」
「便利な言葉だ」
ほんの少し、いつもの調子が戻る。
それだけでいい。
奥から声が聞こえた。男の声。
低い笑い。
「いやあ、さすがですね。鏡味さん。あの坊ちゃんが泣きつく場所、知らないわけがないでしょう」
別の男の声。
「余白の部屋、でしたっけ?」
心臓が跳ねた。
余白の部屋。
名前が出た。
千歳の顔が凍る。
俺は反射的に彼の腕を掴みかけて、止めた。
触れる理由は明確だ。
止めるため。
でも今は、音を立てられない。
俺は唇だけで言った。
待て。
千歳の目が、燃えるように俺を見る。
でも、止まった。
奥の声が続く。
「そこを教えてくれれば、痛い思いをせずに済むんですよ。あの若様も、ホストくんも」
静かな声が返った。
鏡味だった。
「存じ上げません」
声は弱っている。
それでも、芯がある。
「嘘はよくないなあ」
「存じ上げません」
「本当に忠犬だ。ご主人様の秘密は守る、と」
「私は執事ですので」
その声を聞いた瞬間、千歳が動きかけた。
俺は今度こそ、千歳の手首を掴んだ。
「触れる」
小声で言う。
「理由は、止めるため」
千歳は振りほどかなかった。
ただ、息だけが荒い。
俺は続ける。
「まだだ。鏡味さんは生きてる。今飛び込むより、証拠を取る」
千歳の目が俺を刺す。
怒り。恐怖。悔しさ。全部ある。
でも、止まった。
俺は千歳の手首から手を離す。
奥で、鈍い音がした。
何かがぶつかる音。
千歳が今度こそ飛び出しかける。
俺も止めきれない。
いや、止める必要はもうない。
証拠は取れた。
「行くぞ」
俺が言うより先に、千歳は駆け出していた。
「そこまでです」
千歳の声が地下駐車場に響いた。
その一声だけで、空気が変わった。
奥のスペースにいた男たちが一斉に振り返る。
三人。
一人は黒い石の指輪。
その足元に、椅子に座らされた鏡味がいた。
手首に拘束の跡。
頬に傷。
スーツは乱れている。
それでも、背筋は伸びていた。
鏡味静臣は、傷ついてなお執事だった。
「坊ちゃま」
鏡味の声が、かすかに震えた。
千歳の顔が崩れた。
ほんの一瞬。
それから、氷みたいに冷えた。
「その呼び方はやめろと、言ったはずです」
鏡味は小さく笑った。
「失礼いたしました」
そのやりとりが、余計に痛い。
黒い指輪の男が笑った。
「これはこれは、玻璃宮様。お早いお着きで」
千歳は男を見た。
その目は、見たことがないほど冷たい。
「鏡味から離れろ」
「おや。命令ですか?」
「最後の忠告です」
空気が張りつめる。
俺は千歳の半歩横に出た。
「千歳」
「下がっていろ」
「嫌だね」
「纏」
「一人で壊れるなって言っただろ」
黒い指輪の男が、俺を見て笑った。
「噂のホストくんか。いいねえ。忠犬の次は情夫連れとは、玻璃宮もずいぶん堕ちた」
その瞬間、千歳の表情が消えた。
本当に消えた。
まずい。
俺は千歳の腕に触れた。
「触れる。理由は止めるため」
「離せ」
「離さない」
「纏」
「俺を見ろ」
千歳は男から目を離さない。
俺は声を低くした。
「こいつは、お前を怒らせたいだけだ」
「分かっている」
「分かってる顔じゃない」
黒い指輪の男がさらに笑う。
「怖い怖い。御曹司様がそんな顔をしていいんですかね。全部撮ってますよ」
天井の隅に、小型カメラ。
やっぱり。
挑発して、千歳に暴力的な場面を撮らせる気だった。
千歳が暴れれば、映像は編集される。
男に溺れた御曹司が、執事を巡って暴走した。
白蝶会の欲しがる醜聞ができる。
俺は千歳の腕を握る力を強めた。
「カメラ」
千歳の目が一瞬だけ動く。
冷静さが戻った。
ほんの少し。
「……そういうことか」
「そういうこと」
俺は前へ出た。
「どうも。撮ってるなら、角度気をつけてくださいね。俺、右からの方が顔いいんで」
黒い指輪の男が眉をひそめる。
「何を」
「いや、どうせ映像作るなら画質いい方がいいでしょ。白蝶会って、意外と演出が雑ですよね」
「ホスト風情が」
「そのホスト風情に段取り読まれてる時点で、かなり雑ですよ」
男の顔が歪む。
千歳が隣で小さく息を吐いた。
怒りではなく、少しだけ戻ってきた呼吸。
よし。
俺は続けた。
「ちなみに、こっちも録ってます」
男たちの顔が変わった。
外のスタッフが押さえている映像。
螢から共有された位置情報。
千歳の端末も記録中。
完全ではないが、十分な牽制になる。
「違法監禁、暴行、脅迫。ついでに財閥関係者への強要。盛りだくさんですね」
黒い指輪の男が舌打ちした。
その隙に、千歳は鏡味へ近づく。
男の一人が止めようとした。
千歳の目が冷たく光る。
だが、殴らない。
手を出さない。
ただ、言葉で斬った。
「その手を伸ばせば、あなたの勤務先だけでは済みません。親会社、関連法人、資金の流れまで全部開けます」
男が止まる。
千歳は鏡味の拘束を外した。
手が震えている。
それでも、丁寧だった。
「鏡味」
「はい」
「立てますか」
「問題ございません」
鏡味はそう言って立とうとしたが、膝が崩れた。
千歳が支えた。
その瞬間、千歳の顔が歪む。
「問題ない顔ではありません」
「坊ちゃまのお手を煩わせるほどでは」
「黙りなさい」
声が震えていた。
怒りではなく、泣きそうな声だった。
鏡味は、それでも微笑んだ。
「ご無事で、何よりです」
「それはこちらの台詞です」
千歳の指が、鏡味の肩を支える。
この二人の間にあるものを、俺は初めて真正面から見た気がした。
主従。家族。記憶。忠誠。
言葉にすると軽くなるくらい、長い時間。
黒い指輪の男が後退する。
「今回はここまでにしておきましょう」
「逃がすと思うか」
千歳の声が戻る。
鋭すぎる。
俺はすぐに横から言った。
「追うな」
千歳が俺を見る。
「なぜ」
「鏡味さんが先」
千歳は息を呑む。
「……」
「敵を捕まえるのは後。今は、鏡味さんを出す」
千歳は、ほんの一瞬だけ迷った。
そして、頷いた。
「分かった」
その判断ができただけで、十分だった。
外のスタッフと合流し、鏡味を車へ乗せる。
警察へ出す証拠は一部押さえた。
黒い指輪の男たちは完全には捕まえられなかったが、顔と音声は残った。
今はそれでいい。
千歳は車内でずっと鏡味の手を握っていた。
いや、手袋越しに手を包んでいた。
鏡味は何度も「私は大丈夫です」と言った。
千歳はそのたびに「大丈夫ではありません」と返した。
俺は向かいに座り、何も言わなかった。
言葉を挟む場所じゃない。
鏡味がふと、俺を見た。
「架橋様」
「はい」
「坊ちゃまを、止めてくださってありがとうございました」
千歳が顔を上げる。
「鏡味」
「私は、坊ちゃまが私のために御身を傷つけることを望みません」
「……」
「架橋様がいらして、よかった」
千歳は何も言えなかった。
俺も少し困った。
「俺は、止めるって約束しただけです」
「約束を守る方は、信頼できます」
その言葉に、胸が痛んだ。
最初に嘘をついた俺には、少し重すぎる言葉だった。
でも、今は受け取るしかない。
「ありがとうございます」
鏡味は静かに頷いた。
そして、千歳へ向き直る。
「坊ちゃま」
「その呼び方は」
「今回ばかりは、お許しを」
千歳は黙った。
鏡味は、血の気の薄い顔で微笑む。
「余白の部屋の場所は、申し上げておりません」
千歳の呼吸が止まった。
「当然です。私は、玻璃宮千歳様の執事ですので」
その瞬間、千歳の目が揺れた。
大きく。
崩れそうになるほど。
「……あなたは」
「はい」
「本当に、馬鹿です」
「存じております」
「忠誠心も、限度があります」
「申し訳ございません」
「謝るくらいなら、二度と一人で動かないでください」
「善処いたします」
「善処ではなく、約束です」
鏡味は、少しだけ目を細めた。
「約束いたします」
千歳は、やっと息を吐いた。
その息が、震えていた。
****
余白の部屋には戻らなかった。
鏡味を安全な医療施設へ送る必要があったからだ。
玻璃宮側の信頼できる医師が手配され、鏡味はそのまま処置を受けることになった。
大きな命の危険はない。
だが、軽傷とも言えない。
それを聞いた瞬間、千歳はまた壊れそうになった。
医療施設の廊下。
白い壁。
消毒液の匂い。
千歳は、壁際に立ったまま動かなかった。
「千歳」
俺が呼ぶ。
返事がない。
「千歳」
もう一度呼ぶと、彼は低く言った。
「狗飼錆人を潰す」
声が冷たい。
冷たすぎる。
「潰す」
「うん」
「白蝶会も、瑠璃香も、全部」
「うん」
「今すぐ」
「それは駄目だ」
千歳がこちらを見る。
目が危ない。
「なぜ」
「今すぐ動けば、鏡味さんが守ったものを無駄にする」
「……」
「余白の部屋を守ったんだろ。鏡味さんは」
千歳の顔が歪む。
「俺のせいで」
「違う」
「俺が、あの人を巻き込んだ」
「違う」
「俺がもっと早く」
「千歳!」
声を荒げた。
廊下に響く。
千歳が息を呑む。
俺は一歩近づいた。
「自分を責めて楽になろうとするな」
千歳の目が揺れる。
前に、千歳が俺に言ったことと同じだ。
自分を罰して楽になるな。
今度は俺が言う番だった。
「鏡味さんは、守りたくて守ったんだろ」
「……」
「お前のせいじゃない。敵のせいだ」
千歳は目を伏せる。
「それでも」
「それでも怖かったんだろ」
千歳の肩が震えた。
「うん」
「悔しかったんだろ」
「うん」
「怒ってるんだろ」
「……うん」
「なら、そこにいろ。俺の前で怒れ。俺の前で怖がれ」
俺は低く言った。
「一人で壊れるな」
千歳は、長い間黙っていた。
そして、ぽつりと言った。
「触れてほしい」
息が止まった。
初めてだった。
千歳から、そうはっきり言ったのは。
「理由は?」
俺は聞いた。
声が震えないように。
千歳は目を伏せたまま言う。
「戻りたい」
胸が締めつけられた。
「どこに」
「君の隣に」
もう、耐えられなかった。
でも、キスじゃない。
勢いじゃない。
約束を守る。
俺はゆっくり近づき、千歳の肩に手を置いた。
それだけ。
けれど、千歳は目を閉じた。
深く、深く息を吸った。
「ここにいる」
俺は言った。
「うん」
「鏡味さんも生きてる」
「うん」
「余白の部屋も守られた」
「うん」
「次は、俺たちが守る番だ」
千歳は、ゆっくり頷いた。
「うん」
少しして、千歳は自分の手を俺の手に重ねた。
肩に置いた俺の手の上に。
ほんの短い時間。
廊下で。
誰に見られるか分からない場所で。
それでも、その接触は今までで一番切実だった。
けれど、その温度だけでは足りなかった。
千歳の呼吸はまだ浅い。
目の奥の怒りが、まだ燃えている。
このまま離せば、千歳はきっと一人で自分を責めに行く。
それか、狗飼を壊しに行く。
俺は、肩に置いた手を離した。
千歳が、少しだけ目を見開く。
「纏」
「止める」
俺は言った。
「俺を?」
「お前が自分を壊す前に」
千歳の喉が動いた。
「理由は」
「お前の怒りの行き場になるため」
「……」
「お前が壊れる前に止めるため」
千歳は俺を見た。
「命令か」
「お願いだ」
そう言って、俺は正面から千歳を抱きしめた。
医療施設の白い廊下。
消毒液の匂い。
少し離れた場所に、玻璃宮側のスタッフがいる。
誰かに見られるかもしれない。
それでも、今は必要だった。
千歳は最初、固まった。
腕は宙に浮いたまま。
逃げようと思えば逃げられる。
突き飛ばそうと思えば突き飛ばせる。
俺は強く抱きしめすぎなかった。
けれど、離さなかった。
「離せ」
千歳の声が低く震えた。
「離さない」
「纏」
「怒っていい」
「……」
「怖がっていい」
「……」
「でも、一人で狗飼のところへ行くな。一人で自分を責めるな。一人で壊れるな」
千歳の指が、俺の背中に触れた。
掴むというより、迷っている手だった。
「俺は」
「うん」
「鏡味を、失うかと思った」
「うん」
「怖かった」
「うん」
「怖くて、腹が立って、全部壊したくなった」
「うん」
「俺は、玻璃宮なのに」
「玻璃宮でも怖いものは怖いだろ」
千歳の手が、俺の背中の布を掴んだ。
強く。痛いくらいではない。でも、確かに。
「俺は、千歳として怖がる暇がなかった」
その言葉が、胸に刺さった。
俺は、少しだけ腕に力を込めた。
「今は、ある」
「……」
「俺の前では、千歳でいろ」
千歳の呼吸が、崩れた。
泣きはしなかった。涙も落ちなかった。
でも、胸元で一度だけ、深く息が震えた。
それだけで十分だった。
これは、恋人の抱擁ではない。
いや、完全に違うとは、もう言えない。
でも、少なくとも今は、迫るための腕ではなかった。
千歳の怒りが、暴れて彼自身を傷つけないように。
怖さが、刃になって誰かを刺さないように。
正面から受け止めるための腕だった。
しばらくして、千歳が小さく言った。
「……もういい」
「離す?」
「少し待て」
「どっちだよ」
「俺にも分からない」
その言い方が、ひどく千歳らしくて。
俺は笑いそうになって、こらえた。
「分かるまで待つ」
「……うん」
千歳は、まだ俺の背中を掴んでいた。
医療施設の廊下で、傷ついた執事の処置を待ちながら。
俺たちは、短く、でも確かに抱き合っていた。
やがて千歳が自分から少し離れた。
俺も腕をほどく。
千歳はすぐに顔を整えようとした。
でも、完全には戻らなかった。
目元に、まだ揺れが残っている。
「千歳」
「何」
「今の、余白の部屋に戻ったら書くぞ」
千歳は一瞬黙った。
それから、ほんの少しだけ笑った。
「危険物ページだな」
「過去最大かも」
「いや」
千歳は静かに言った。
「必要な記録だ」
胸が熱くなった。
****
余白の部屋に戻ったのは、深夜だった。
二人とも疲れきっていた。
でも、帰る場所のように、自然にそこへ向かった。
ドアを開けると、蓮太の絵が見えた。
白と青のマグ。メモ帳。作戦ノート。
全部、無事だった。
鏡味が守った場所。
その事実が、重かった。
千歳は本棚の横に立ち、蓮太の絵を見た。
「守られたな」
「うん」
「鏡味に」
「うん」
千歳は、そっと絵に触れた。
「今度、礼を言わなければ」
「蓮太に?」
「鏡味に」
「両方だな」
「そうだな」
俺はキッチンで水を入れた。
コーヒーを淹れる気力はなかった。
白いマグを千歳へ。
青いマグを俺へ。
千歳は白いマグを両手で包んだ。
「助ける?」
俺が聞くと、千歳は少しだけ笑った。
「今日は、もう助けられた」
「まだ必要なら言えよ」
「言う」
その返事が、当たり前みたいに出たことが嬉しかった。
千歳は、助けを求める練習をしている。
俺も、頼る練習をしている。
怖いまま、信じる。
そう決めた通りに。
俺たちはメモ帳を開いた。
今日のページ。
手が疲れていて、字はいつも以上に汚かった。
ーー
鏡味さん救出。
余白の部屋は守られた。
千歳、壊れかける。俺、止める。
千歳が、触れてほしいと言った。理由:戻りたい。
医療施設の廊下で正面から抱きしめた。理由:怒りの行き場になるため。千歳が自分を壊す前に止めるため。
執事は、最後まで忠誠だった。
ーー
千歳はそれを黙って読んだ。
そして、ペンを取った。
少しだけ迷ってから、下に書いた。
ーー
俺は、あの人に守られた。君にも、止められた。
正面から抱きしめられた。効果:高。危険度:測定不能。
次は、俺が守る。
ーー
俺はその文字を見て、何も言えなかった。
千歳の字は、少しだけ乱れていた。
それが、今日のすべてだった。
「測定不能って」
俺が言うと、千歳は静かに頷いた。
「数字にできない」
「御曹司様が?」
「俺にもできないことはある」
「そっか」
「そうだ」
俺たちは少しだけ笑った。
笑えることが、ありがたかった。
「隠すか?」
俺が聞くと、千歳は首を横に振った。
「余白の部屋に置く」
「鏡味さんが命懸けで守った場所だもんな」
「命懸けにさせたくはなかった」
「次からは、させないようにする」
「二人で?」
「全員で」
千歳は、少しだけ笑った。
「そうだったな」
深夜。
余白の部屋の窓の外に、遠い街明かりが見えた。
千歳はソファに座り、目を閉じていた。
眠ってはいない。
ただ、少しだけ呼吸を整えている。
俺は向かいの椅子に座っていた。
触れない。
でも、さっきよりずっと近い。
「纏」
千歳が目を閉じたまま呼ぶ。
「何」
「今日は、君がいなければ危なかった」
「俺も、螢たちがいなけりゃ何もできなかった」
「そうだな」
「一人じゃ無理だ」
「うん」
「これからも」
千歳が目を開ける。
「一人でやるな」
俺は言った。
「俺もやらない」
千歳は、静かに頷いた。
「約束だ」
「約束する」
その言葉を、最近何度も使う。
でも、使うたびに軽くなるどころか、重くなる。
それが嫌じゃない。
****
翌朝まで、俺たちは余白の部屋にいた。
何も起きなかった。
キスはしていない。
それ以上のことも、もちろんしていない。
ただ、同じ部屋で、交代で短く眠った。
白いマグと青いマグは、テーブルに並んでいた。
蓮太の絵は、本棚の横でそのまま笑っていた。
朝になり、千歳のスマホに鏡味からメッセージが届いた。
『ご心配をおかけいたしました。
本日も通常業務に戻るつもりでしたが、医師より叱られましたので、少しだけ休みます』
千歳はその文を見て、しばらく黙った。
そして、小さく言った。
「馬鹿だ」
声は震えていたけれど、少し笑っていた。
俺も笑った。
「生きてる馬鹿でよかったな」
「本当に」
そのあと、もう一通届いた。
『余白の部屋は、最後まで申し上げておりません
ただし、私の尾行経路から何らかの推測をされた可能性があります。念のため、十分にお気をつけください』
空気が変わった。
千歳の顔が強張る。俺も、背筋が冷えた。
余白の部屋は守られた。
でも、完全ではない。
敵は近づいている。
かなり近くまで。
千歳はゆっくり顔を上げた。
「場所を移すべきかもしれない」
「ここを?」
「安全を考えれば」
俺は部屋を見回した。
メモ帳。
作戦ノート。
マグカップ。
蓮太の絵。
この場所に積もったもの。
ここは、ただの部屋ではない。
逃げない場所だ。
けれど、守るためには離れることも必要かもしれない。
「千歳」
「何」
「逃げるんじゃなくて、守るために動くなら、俺は従う」
千歳は俺を見た。
「そうか」
「でも」
「でも?」
「この部屋のものは、全部持っていく」
千歳の目が、少しだけ柔らかくなった。
「もちろんだ」
その時、スマホが震えた。
差出人不明。
写真はない。
ただ、一文。
『余白は、燃えやすい』
俺と千歳は、同時に画面を見た。
次の瞬間、千歳が立ち上がった。
俺も立った。
白と青のマグが、テーブルの上で小さく揺れた。
余白の部屋は、守られた。
でも、敵はもう扉のすぐ外まで来ている。
狗飼錆人は、次にこの場所を狙う。
俺たちが本当を残してきた場所を。
千歳が低く言った。
「すぐに移す」
「全部な」
「ああ」
俺たちは、メモ帳を手に取った。
蓮太の絵を外した。
作戦ノートを閉じた。
白と青のマグを包んだ。
守るべきものが、また増えた。
怖い。
でも、もう増やさない生き方には戻れない。
執事は、最後まで忠誠だった。
次は、俺たちが最後まで守る番だった。




