二十九歳の足音
第8章:二十九歳の足音
二月の風は、まだ肌を刺すように冷たい。けれど、駅の売店に並ぶチューリップの鮮やかな色や、カフェの看板に躍る「桜」の文字が、春がすぐそこまで来ていることを告げている。 カレンダーのページをめくる指が、ある数字の前で止まった。
三月三日。桃の節句。そして、私の二十九歳の誕生日。
二十八歳から二十九歳へ。数字が一つ増えるだけなのに、その重みはこれまでの誕生日とは全く違って感じられた。二十代という、何者にでもなれる気がしていた魔法の時間が、あと一年で終わってしまう。 かつての私なら、この数字を「絶望へのカウントダウン」として受け止めていただろう。健吾と別れて色のない世界にいた頃は、歳を取ることはただ、自分が標本のように乾いていく過程でしかなかったから。
けれど、今の私は違う。 スマートフォンの画面に映る、瀬尾さんからの短いメッセージ。 『明日の昼休み、屋上庭園へ行ってみませんか。早咲きの桜が咲き始めたみたいです』 その文字をなぞるだけで、私の二十九歳の足音は、軽やかなワルツのように響き始める。
オフィスでの私たちは、相変わらず「仕事のできる他部署の二人」という顔を崩していない。 けれど、給湯室ですれ違う瞬間のわずかな視線の交差や、エレベーターで偶然二人きりになったとき、彼がそっと私の小指の先をかすめるように触れていく、その一瞬の「共犯関係」が、私の日常を鮮やかに彩っていた。
「佐野さん、最近本当に綺麗になったね。やっぱり恋? 恋なの?」 松原さんが、給湯室で私の顔を覗き込んできた。 「……そんなんじゃないですよ。肌の調子がいいだけです」 「嘘おっしゃい。その『肌の調子』を引き出してるのは、間違いなく誰かの視線でしょ」 松原さんは茶化しながらも、少しだけ羨ましそうに溜息をついた。 「いいなぁ。二十九歳か。一番楽しい時期だよね。三十になると、また別の重圧が来るけど、二十九歳はまだ『無敵の二十代』のラストスパートをかけられるから」
無敵の二十代。 私は、自分が無敵だなんて思ったことは一度もなかった。 健吾といた三年間は、むしろ自分の無力さを知るための時間だった。愛しているはずなのに心が離れていく。一緒にいるのに壁を感じる。そんな「透明な壁」に守られながら、私は自分自身の感情を殺し、無色透明な人間になろうとしていたのだ。
昼休み。約束通り、私は会社の屋上庭園へと向かった。 風は少し強いけれど、日差しは確かに春の気配を孕んでいる。 ベンチに座って遠くを眺めていた瀬尾さんの背中を見つけたとき、私の足は自然と速まった。
「瀬尾さん」 「……あ、佐野さん。お疲れ様です。ほら、見てください。あそこ」 彼が指差した先には、まだ葉も出ていない枝に、数輪の濃いピンク色の花が力強く咲いていた。 「河津桜ですね。気が早いけれど、綺麗です」 「ええ。冷たい風の中で、自分だけ先に咲こうとする。少し、不器用で、でも美しいと思いませんか」
彼はそう言って、私の隣に座った。 適度な距離。けれど、風に乗って運ばれてくる彼の匂いが、私の理性を優しく溶かしていく。 「……瀬尾さん。私、もうすぐ誕生日なんです」 不意に、言葉がこぼれた。 「二十九歳になります。二十代の、最後の一年です」
瀬尾さんは、ゆっくりと私の方を向いた。 その瞳は、河津桜よりも深く、温かい。 「……知っています。人事のデータを見たわけじゃないですよ。去年の今頃、商品開発部が営業部に配ったサンプルアンケートの備考欄に、佐野さん、書いていたんです。『来年の誕生日は、自分へのご褒美に何か新しいことを始めたい』って」
驚いた。そんな些細な、一年前の私の言葉まで。 「……覚えていてくれたんですか」 「佐野さんの言葉は、なんだか記憶に残るんです。事務的で、完璧で、でもどこか寂しげで。だから、こうして隣にいる今のあなたが、あの頃よりもずっと楽しそうに笑っているのを見られるのが、僕は嬉しい」
瀬尾さんは、少しだけ躊躇うような仕草を見せてから、私の手を優しく握った。 手袋越しではない、直接の温もり。 「二十九歳。三十歳。ただの数字ですよ。僕なんて、三十の大台に乗った瞬間に何かが変わるかと思ったけれど、結局、コーヒーの好みが少し深煎りになったくらいです」 彼の冗談に、私はふふっと声を上げて笑った。 「でも、不安なんです。また、あの『透明な壁』を作ってしまうんじゃないかって。幸せになればなるほど、いつかそれが失われるのが怖くて、自分で自分にブレーキをかけてしまうんです」 瀬尾さんは、私の手をさらに強く握りしめた。 「壁なんて、僕が全部壊しますよ。……いや、壊す必要さえないかもしれない。佐野さんが僕を受け入れてくれるなら、壁なんて最初から無かったことになる。僕が欲しいのは、完璧な佐野加奈じゃない。笑ったり、悩んだり、二十九歳の足音に少しだけ怯えたりする、そのままのあなたです」
胸の奥が、熱いもので満たされていく。 健吾との三年間で、私は「ありのままの自分」を出すことを忘れていた。 嫌われないように。失望させないように。 けれど、瀬尾さんは、私の弱ささえも「彩り」として受け止めてくれる。
「……瀬尾さん」 「はい」 「二十九歳の誕生日、一緒に過ごしてくれますか?」 「もちろんです。最高のプレゼントを用意しておきますね。……と言いたいところですが、僕が用意できるのは、あなたが今まで見たこともないような、色鮮やかな景色だけかもしれません」
その日の午後、オフィスに戻った私の目には、いつもの風景がまるで違って見えた。 白黒のコピー機も、無機質なデスクも、すべてが物語の一部。 私は、二十九歳という数字を愛し始めていた。 それは、瀬尾さんと出会った私に与えられた、新しい勲章のような気がしたから。
二十代の幕引き。 それは終わりではなく、瀬尾さんと歩むための新しいプロローグ。 三月三日。 私は、どんな色の服を着て、どんな笑顔で彼に会うだろう。 モノクロームの標本箱は、もう開いたままでいい。 そこから飛び出した感情が、春の風に乗って、どこまでも高く飛んでいく。 二十九歳の足音は、今、確かなリズムで未来を叩いている。




