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透明な壁の壊しかた ―二十八歳、モノクロームの恋直し―  作者: 久遠 睦


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雨降る夜の、傘の距離

第7章:雨降る夜の、傘の距離


 土曜日の朝、カーテンの隙間から差し込む光は、私の心を見透かしているかのように穏やかだった。  普段なら昼過ぎまで惰眠を貪るはずの休日。けれど、今日という日は、アラームが鳴る一時間も前から私の意識は覚醒していた。


 鏡の前で、先日購入したばかりのピスタチオグリーンのニットに袖を通す。  鏡の中にいる自分は、数ヶ月前の、あの灰色の毎日を送っていた女とは別人のように見えた。頬には自然な赤みが差し、瞳には小さな、けれど確かな光が灯っている。  誰かのために、そして自分のために装うこと。その行為がこれほどまでに心に栄養を与えるものだとは、二十八歳にして初めて知ったような気がする。


 待ち合わせは、代官山にある小さな美術館の入り口。  予定の十分前に着いた私は、少しだけ肌寒い冬の空気を吸い込みながら、彼を待った。   「佐野さん」    聞き慣れた、けれどオフィスで聞くよりも少しだけ深く、リラックスした声。  振り返ると、そこにはネイビーのロングコートを羽織った瀬尾さんが立っていた。  私服の彼は、職場の時よりもどこか少年のような瑞々しさを纏っていて、私はまた、心臓が大きく跳ねるのを感じた。


「お疲れ様です、瀬尾さん」 「……ああ、やっぱりその色、よく似合ってますね。今日の天気みたいに、優しくて明るい」    彼は真っ直ぐに私の目を見て、そう言った。  お世辞ではない、確かな確信を持った響き。私は恥ずかしさを隠すように、美術館の入り口を指差した。 「……行きましょうか。写真展、楽しみにしてたんです」


 美術館の中は、外界の喧騒が嘘のように静まり返っていた。  展示されているのは、一人の写真家が長年撮り続けてきた「街の記憶」。  モノクロームの世界が、壁一面に広がっている。    かつての私なら、この白と黒の世界に自分の孤独を投影していただろう。色を失った日常、陰影の中に隠れる感情。  けれど、隣を歩く瀬尾さんの歩幅に合わせてゆっくりと作品を眺めていると、不思議なことに、モノクロの写真の中に「色」が見えてくるような感覚があった。


「佐野さんは、この写真、何色に見えますか?」  瀬尾さんが、路地裏で微睡む猫を映した一枚の前で足を止めた。 「……セピア色。それも、夕暮れ時の、少し切ないけれど温かい色です」 「面白いな。僕は、冬の朝の、澄み渡った青に見えました。……人はきっと、自分が見たい色をそこに投影するんでしょうね」


 彼と話していると、自分の価値観が新しい酸素を得て、瑞々しく更新されていくのが分かる。  健吾といた頃は、何を言っても「そうだね」と聞き流されるか、「それは違うよ」と否定されるかのどちらかだった。私の感覚は、共有されることなく、私の中だけで腐食していった。  けれど瀬尾さんは、私の感覚を面白がり、慈しみ、そして彼自身の世界と混ぜ合わせようとしてくれる。


 展示を見終えた頃、外はすっかり日が落ちていた。  そして、予報にはなかった小さな異変が起きていた。  美術館の重厚な扉を開けた瞬間、冷たい風と共に、アスファルトの匂いが鼻を突いた。


「……雨だ」    瀬尾さんが空を見上げて呟く。  細かな、霧のような雨が、オレンジ色の街灯に照らされてキラキラと舞っている。  私は傘を持ってきていなかった。


「困りましたね。駅まで少し距離があるし、タクシーも捕まりにくそうだ」 「……私、雨、嫌いじゃないんです。でも、このニットが濡れるのは少しだけ悲しいかも」    私が冗談めかして言うと、瀬尾さんは「それはいけませんね」と笑いながら、自分の鞄から一本の折り畳み傘を取り出した。   「一本しかありませんが、これで行きましょう」    パサリ、と傘が開く。  それはごく普通の、紺色の質素な傘だった。  けれど、その下に招かれた瞬間、私の世界は一変した。    瀬尾さんの肩が、私の肩に触れる。    これまでの人生で、誰かと傘を共有したことなど何度もある。  けれど、これほどまでに相手の体温と気配を濃密に感じたことはなかった。  

傘という小さな円形の屋根が、私たちの間に立ちはだかっていた「透明な壁」を、強制的に排除してしまう。   「少し、失礼します」    瀬尾さんが、私を雨から守るように、ぐいっと自分の側に引き寄せた。  彼のコートの袖が、私の腕に重なる。  石鹸のような、そしてほのかに混ざる煙草のような、落ち着く大人の匂い。    私たちは、雨の音に包まれながら、駅へと続く坂道を歩き出した。  アスファルトを叩く雨の音、遠くを走る車のエンジン音。それらがすべて、遠い世界の出来事のように聞こえる。  傘の中という、二人だけの小さな宇宙。  


「……瀬尾さん」 「はい」 「さっき、美術館で言ってくれましたよね。『色鮮やかな場所にいてもいい人だ』って」 「ええ。本心ですよ」 「私、ずっと、自分の生活にはもう色なんて戻ってこないと思ってたんです。誰かを好きになって、そのせいで自分が壊れていくのが怖くて、ずっと心の窓を閉めてました」    不思議だった。  この密閉された空間のせいだろうか。誰にも言えなかった本音が、淀みなく言葉になって溢れ出す。   「でも、今日、瀬尾さんと一緒に歩いていて気づきました。色がつくのは、怖いことじゃないんだって。……隣に誰かがいてくれるなら、その変化さえも愛せるのかもしれないって」    瀬尾さんは、しばらく何も言わずに歩き続けた。  傘を打つ雨の音が、少しだけ激しくなったような気がする。  

不意に、彼が足を止めた。    人通りの少ない、街灯の影。   「佐野さん」    彼は私の方を向き、傘を少しだけ後ろに傾けた。  視界が広がり、雨に濡れて光る彼の瞳が、至近距離で私を捉える。   「僕は、佐野さんに無理をして『色』をつけてほしいわけじゃないんです。あなたが灰色の世界にいたとしても、その隣で一緒に濡れていたい。……そう思わせる力が、今のあなたにはあるんですよ」    その言葉は、私の胸の奥に溜まっていた最後の「壁」を、優しく、けれど力強く押し流した。    


涙が込み上げてくる。  悲しみではなく、あまりにも深い安堵。  私は、自分の指先が彼のコートの袖を、ぎゅっと掴んでいることに気づいた。   「……私、瀬尾さんのことが……」    言いかけた言葉は、唇の震えに阻まれた。  けれど、彼はすべてを察したように、空いている方の手で、私の頭を優しく撫でた。   「分かってます。……ゆっくりでいいんですよ。二十代最後、焦る必要なんてない」    駅のホーム。  電車が入ってくる轟音の中でも、私の手首に残る彼の温もりは、消えることなく私を支え続けていた。  

「じゃあ、また月曜日に」 「……はい。また、月曜日に」    閉まるドア越しに、彼が小さく手を振る。  遠ざかっていくホームを見つめながら、私は自分の顔が、雨のせいではなく、恋の熱で火照っているのを認めた。    窓に映る自分の顔。  そこには、もうモノクロームの標本などいない。    雨降る夜、一本の傘の下で縮まった距離。  それは、私の新しい人生が、鮮やかに脈打ち始めた瞬間だった。    

二十八歳、冬。  私は今、人生で一番美しい「色」の中にいる。



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