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透明な壁の壊しかた ―二十八歳、モノクロームの恋直し―  作者: 久遠 睦


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置き去りにした「好き」の行方

第6章:置き去りにした「好き」の行方


 エレベーターを降り、自分のデスクに戻るまでの数分間、私は自分がどんな顔をしていたのか全く記憶にない。  ただ、隣の席の松原さんが私の顔を見るなり、「加奈ちゃん、熱でもあるの?」と驚いた顔で身を乗り出してきたから、相当に分かりやすい変化が起きていたのだろう。


「……いえ、なんでもないです。少し、急いで歩いたから」  私は逃げるように席に座り、パソコンの画面を凝視した。  ディスプレイに並ぶ数字の羅列が、今はただの光の記号にしか見えない。脳内を支配しているのは、瀬尾さんが言い残した「週末、美術館に行きませんか」という、あの穏やかな誘い文句だけだった。


 週末。  つい先日までの私にとって、それは「平穏な虚無」を過ごすための時間だった。  金曜日の夜に三割引の惣菜を買い込み、土曜日と日曜日は外に出ることなく、誰とも話さず、自分の心がこれ以上磨り減らないようにじっと静止する。そうしてエネルギーを最小限に抑えながら、月曜日という戦場に備えるためのインターバル。


 けれど、今度の週末は違う。  私は、誰かのために服を選び、誰かのために鏡に向かい、誰かと一緒に「何か」を感じるために街へ出るのだ。


 『人を好きになる能力』


 健吾と別れたとき、私はその能力をどこかに落としてきてしまったのだと思っていた。  三年間、少しずつ、けれど確実に心が離れていったあの時間は、私の「愛情」という名の泉を干からびさせるには十分すぎた。あの日、冷めきったコーヒーを捨てた瞬間、私の内側にあった熱い何かは、排水口へと一緒に吸い込まれて消えてしまったのだと。


 私はキーボードを叩く手を止め、自分の指先を見つめた。  指先は微かに震えている。これは、単なる緊張ではない。半年間、活動を休止していた私の心が、急激な再起動を強いられて悲鳴を上げているのだ。


 定時を過ぎ、足早に会社を出た。  向かったのは、普段なら素通りする駅ビルのアパレルショップだった。  眩いほどの照明、最新のトレンドを纏ったマネキンたち。半年間の「モノクロ生活」を送っていた私にとって、そこはあまりに刺激が強すぎる異世界のように感じられた。


「いらっしゃいませ。何かお探しですか?」  声をかけてきた店員の笑顔に、思わず後ずさりしそうになる。 「あ、ええと……週末に、美術館に行く予定があって。あまり気合を入れすぎず、でも……少しだけ特別な感じが出るような服を」


 店員に勧められるまま、私は何着かの服を試着室に持ち込んだ。  鏡の中にいる自分を見る。  半年間、事務的に選んだ服しか着てこなかった私。  淡いピスタチオグリーンのニット。柔らかな質感のアイボリーのロングスカート。  それらを身に纏うと、鏡の中の自分に、少しずつ色が戻っていくのが分かった。


「……私、まだ大丈夫なのかな」


 不意に、不安が胸を掠める。  こんなふうに浮かれて、また「透明な壁」にぶつかるのが怖い。  最初はこんなふうに輝いて見える世界も、いつかはまた、あのグレーのグラデーションに飲み込まれてしまうのではないか。健吾のときだって、最初はあんなに幸せだったのに。


 けれど、試着室を出ようとしたそのとき、スマートフォンが震えた。    『瀬尾です。週末の写真展、少し調べたのですが、併設のカフェのテラス席が今の季節、とても気持ちいいみたいです。寒くなければ、そこでゆっくり話しましょう。』


 その短いメッセージを読んだ瞬間、私の不安は、どこか遠くへ消えていった。  瀬尾さんは、私の「壁」を壊そうとしているのではない。  ただ、壁の向こう側から、私に手を振ってくれているのだ。 「そこは少し寂しい場所だから、こっちへおいで」と、優しく、静かに。


 私は迷わず、その明るい色の服を買った。


 その夜。  部屋に帰った私は、クローゼットの奥に仕舞い込んでいた、古い一冊のノートを取り出した。  そこには、健吾と付き合い始めた頃の、瑞々しい記憶が断片的に記されていた。  「今日はここに行った」「これが美味しかった」「こんなことを言われて嬉しかった」  読み返すと、当時の自分の熱量が、まるで他人のもののように眩しい。


 別れてから半年間、私はこのノートを開くことを自分に禁じてきた。  過去を振り返ることは、自分が「失ったもの」の大きさを確認する作業でしかないと思っていたから。


 けれど、今の私は違う。  瀬尾さんに出会ったことで、私は「過去」を「現在」から切り離すことができたのだ。  健吾との三年間は、無駄ではなかった。ただ、私たちの物語が、その結末を迎えただけ。  置き去りにしていた「好き」という気持ちは、健吾への未練として残っていたのではない。ただ、私の心が、次の「誰か」を見つけるための準備運動をしていただけなのだ。


 私はノートを閉じ、引き出しのさらに奥へと仕舞い込んだ。  もう、このノートを開くことはないだろう。  私には、新しく書き始めるべきページがある。


 金曜日の夜。  明日の準備を終えた私は、ベッドの中で、瀬尾さんの声を思い出していた。  居酒屋で聞いた、あの穏やかなトーン。  エレベーターの中で聞いた、あの少しだけ真剣な誘い。   「……楽しみだな」


 暗闇の中でこぼれた独り言。  それは、半年間の沈黙を破った、私自身の本当の声だった。    二十八歳。  若さだけで恋をする季節は過ぎた。  けれど、経験を重ねたからこそ、一滴の優しさがどれほど深く心に染み渡るかを知っている。    置き去りにしていた「好き」の行方。  それは、私自身の未来へと繋がる、鮮やかな道標だった。    窓の外、冬の夜空には、冷たくも美しい星が瞬いている。  明日、私は新しい自分に出会うために、あの美術館の門をくぐる。  モノクロームの標本は、もう卒業だ。    心の中に眠っていた、すべての感情を連れて。  私は、二十代最後の恋を、今度こそ大切に育てていこうと誓った。


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