置き去りにした「好き」の行方
第6章:置き去りにした「好き」の行方
エレベーターを降り、自分のデスクに戻るまでの数分間、私は自分がどんな顔をしていたのか全く記憶にない。 ただ、隣の席の松原さんが私の顔を見るなり、「加奈ちゃん、熱でもあるの?」と驚いた顔で身を乗り出してきたから、相当に分かりやすい変化が起きていたのだろう。
「……いえ、なんでもないです。少し、急いで歩いたから」 私は逃げるように席に座り、パソコンの画面を凝視した。 ディスプレイに並ぶ数字の羅列が、今はただの光の記号にしか見えない。脳内を支配しているのは、瀬尾さんが言い残した「週末、美術館に行きませんか」という、あの穏やかな誘い文句だけだった。
週末。 つい先日までの私にとって、それは「平穏な虚無」を過ごすための時間だった。 金曜日の夜に三割引の惣菜を買い込み、土曜日と日曜日は外に出ることなく、誰とも話さず、自分の心がこれ以上磨り減らないようにじっと静止する。そうしてエネルギーを最小限に抑えながら、月曜日という戦場に備えるためのインターバル。
けれど、今度の週末は違う。 私は、誰かのために服を選び、誰かのために鏡に向かい、誰かと一緒に「何か」を感じるために街へ出るのだ。
『人を好きになる能力』
健吾と別れたとき、私はその能力をどこかに落としてきてしまったのだと思っていた。 三年間、少しずつ、けれど確実に心が離れていったあの時間は、私の「愛情」という名の泉を干からびさせるには十分すぎた。あの日、冷めきったコーヒーを捨てた瞬間、私の内側にあった熱い何かは、排水口へと一緒に吸い込まれて消えてしまったのだと。
私はキーボードを叩く手を止め、自分の指先を見つめた。 指先は微かに震えている。これは、単なる緊張ではない。半年間、活動を休止していた私の心が、急激な再起動を強いられて悲鳴を上げているのだ。
定時を過ぎ、足早に会社を出た。 向かったのは、普段なら素通りする駅ビルのアパレルショップだった。 眩いほどの照明、最新のトレンドを纏ったマネキンたち。半年間の「モノクロ生活」を送っていた私にとって、そこはあまりに刺激が強すぎる異世界のように感じられた。
「いらっしゃいませ。何かお探しですか?」 声をかけてきた店員の笑顔に、思わず後ずさりしそうになる。 「あ、ええと……週末に、美術館に行く予定があって。あまり気合を入れすぎず、でも……少しだけ特別な感じが出るような服を」
店員に勧められるまま、私は何着かの服を試着室に持ち込んだ。 鏡の中にいる自分を見る。 半年間、事務的に選んだ服しか着てこなかった私。 淡いピスタチオグリーンのニット。柔らかな質感のアイボリーのロングスカート。 それらを身に纏うと、鏡の中の自分に、少しずつ色が戻っていくのが分かった。
「……私、まだ大丈夫なのかな」
不意に、不安が胸を掠める。 こんなふうに浮かれて、また「透明な壁」にぶつかるのが怖い。 最初はこんなふうに輝いて見える世界も、いつかはまた、あのグレーのグラデーションに飲み込まれてしまうのではないか。健吾のときだって、最初はあんなに幸せだったのに。
けれど、試着室を出ようとしたそのとき、スマートフォンが震えた。 『瀬尾です。週末の写真展、少し調べたのですが、併設のカフェのテラス席が今の季節、とても気持ちいいみたいです。寒くなければ、そこでゆっくり話しましょう。』
その短いメッセージを読んだ瞬間、私の不安は、どこか遠くへ消えていった。 瀬尾さんは、私の「壁」を壊そうとしているのではない。 ただ、壁の向こう側から、私に手を振ってくれているのだ。 「そこは少し寂しい場所だから、こっちへおいで」と、優しく、静かに。
私は迷わず、その明るい色の服を買った。
その夜。 部屋に帰った私は、クローゼットの奥に仕舞い込んでいた、古い一冊のノートを取り出した。 そこには、健吾と付き合い始めた頃の、瑞々しい記憶が断片的に記されていた。 「今日はここに行った」「これが美味しかった」「こんなことを言われて嬉しかった」 読み返すと、当時の自分の熱量が、まるで他人のもののように眩しい。
別れてから半年間、私はこのノートを開くことを自分に禁じてきた。 過去を振り返ることは、自分が「失ったもの」の大きさを確認する作業でしかないと思っていたから。
けれど、今の私は違う。 瀬尾さんに出会ったことで、私は「過去」を「現在」から切り離すことができたのだ。 健吾との三年間は、無駄ではなかった。ただ、私たちの物語が、その結末を迎えただけ。 置き去りにしていた「好き」という気持ちは、健吾への未練として残っていたのではない。ただ、私の心が、次の「誰か」を見つけるための準備運動をしていただけなのだ。
私はノートを閉じ、引き出しのさらに奥へと仕舞い込んだ。 もう、このノートを開くことはないだろう。 私には、新しく書き始めるべきページがある。
金曜日の夜。 明日の準備を終えた私は、ベッドの中で、瀬尾さんの声を思い出していた。 居酒屋で聞いた、あの穏やかなトーン。 エレベーターの中で聞いた、あの少しだけ真剣な誘い。 「……楽しみだな」
暗闇の中でこぼれた独り言。 それは、半年間の沈黙を破った、私自身の本当の声だった。 二十八歳。 若さだけで恋をする季節は過ぎた。 けれど、経験を重ねたからこそ、一滴の優しさがどれほど深く心に染み渡るかを知っている。 置き去りにしていた「好き」の行方。 それは、私自身の未来へと繋がる、鮮やかな道標だった。 窓の外、冬の夜空には、冷たくも美しい星が瞬いている。 明日、私は新しい自分に出会うために、あの美術館の門をくぐる。 モノクロームの標本は、もう卒業だ。 心の中に眠っていた、すべての感情を連れて。 私は、二十代最後の恋を、今度こそ大切に育てていこうと誓った。




