タイトル未定2026/03/15 08:24
第5章:エレベーターの中の二分間
オフィスビルの廊下に響く、自分のヒールの音。 かつてはその音さえ、私を追い詰めるメトロノームのように感じられた。規則正しく、冷徹に、二十代という限られた時間を刻み続けていく装置。 けれど今の私にとって、その響きはどこか弾むようなリズムを伴っている。
あの日、オフィスで目が合った「三秒間」の余熱が、まだ指先に残っていた。
午後三時。 午後の集中力が途切れ、オフィス全体にわずかな倦怠感が漂い始める時間帯だ。私は資料のコピーを取るため、少し離れた共有スペースへと向かっていた。 エレベーターホールを通りかかったとき、ちょうど上から降りてきた箱の扉が、静かに左右に分かれた。 そこには、一人の男性が立っていた。
「……あ」
瀬尾さんだった。 手には分厚いファイルと、飲みかけのペットボトルの水。 彼は私に気づくと、驚いたように眉を上げ、それからすぐに、あの氷を溶かすような柔らかな微笑を浮かべた。 「佐野さん。奇遇ですね」 「お疲れ様です、瀬尾さん。これから外出ですか?」 「いえ、一階の受付に荷物を取りに。……もし良ければ、一緒に降りますか?」 私は一瞬、躊躇した。コピー機はすぐそこにある。けれど、私の足は私の意志を追い越して、エレベーターの箱の中へと踏み出していた。 「お願いします。……ちょうど、一階の自動販売機に用があったんです」 咄嗟についた嘘は、自分でも驚くほど滑らかだった。
扉が閉まる。 ガタン、と小さな振動と共に、箱が下降を始めた。 密閉された、わずか二畳ほどの空間。 そこには、私たち二人しかいない。 それまでの人生で、エレベーターの中の時間は「無」だった。スマホを眺めるか、鏡に映る自分の身だしなみをチェックするか、あるいは到着階の数字がカウントダウンされるのをじっと見守るだけの、空白の時間。 けれど今、この二分間は、私の人生で最も密度の濃い時間に変わろうとしていた。
瀬尾さんとの距離は、五十センチほど。 彼の肩越しに、微かに清潔な石鹸の匂いと、淹れたてのコーヒーのような香りが漂ってくる。 エレベーターが下がる独特の浮遊感のせいか、それとも彼の存在感のせいか、足元がふわふわと覚束ない。 「……昨日、言いかけたこと」 不意に、瀬尾さんが口を開いた。 低く、落ち着いた声が、エレベーターの壁に反射して私の耳元をくすぐる。 「はい」 「もし良かったら、今度の週末、時間ありますか?」
心臓が、跳ねた。 私は彼の方を向けなかった。正面にある、磨き上げられたステンレスの扉を見つめる。そこには、緊張で強張った私の顔と、少しだけ照れたように視線を落とす瀬尾さんの姿が、ぼんやりと映り込んでいた。 「週末、ですか」 「ええ。近くの美術館で、古い写真展をやってるんです。佐野さん、以前飲み会で『モノクロの写真が好きだ』って言っていたでしょう? あれを聞いて、きっと気に入るんじゃないかなと思って」 ……覚えていてくれた。 あの騒がしい居酒屋の片隅で、私が漏らした小さな独り言。 自分でも何を話したか覚えていないような些細な言葉を、彼は心の抽斗に大切に仕舞っておいてくれたのだ。
健吾といた頃、私の言葉はいつも、空中に消えていく煙のようなものだった。 「来週、あそこに行きたいな」と言っても、彼はスマホを見たまま「ああ、分かった、いつか行こう」と答えるだけ。その「いつか」が訪れることは、二度となかった。 私の願いや好みは、共有されることのない「標本」として、自分の中だけで枯れていった。 けれど、瀬尾さんは違う。 彼は私の「色」を、私以上に鮮明に見つけようとしてくれている。
「……嬉しいです。ぜひ、行きたいです」 声を震わせないように、私は精一杯答えた。
「良かった。実は、誘うのに結構勇気がいったんですよ。佐野さん、いつも仕事中は完璧なバリアを張ってるから」 瀬尾さんはくすりと笑い、ファイルを抱え直した。その動作に伴って、彼の腕が私の肩に微かに触れた。
熱い、と思った。
分厚いカーディガンの上からでも分かる、彼の体温。 その瞬間、半年間私の心を守っていた「透明な壁」が、粉々に砕け散る音が聞こえたような気がした。 壁は、私を守っていたのではなかった。 ただ、私を孤独の中に閉じ込めていただけだ。 エレベーターの表示が「3」から「2」へと変わる。 あと数十秒で、この夢のような時間は終わってしまう。
「瀬尾さん」 「ん?」 「……ありがとうございます。誘ってくれて」 私は意を決して、彼の方を向いた。 至近距離で見る彼の瞳は、思っていたよりもずっと深くて、優しくて、そして少しだけ悪戯っぽく揺れていた。 「お礼を言うのは、展覧会が終わってからにしてください。もし退屈だったら、すぐに連れ出しますから。……美味しいカフェラテを飲める店、知ってるんです」 一階に到着し、ピン、という涼やかな電子音が鳴る。 扉が開くと同時に、外の世界の喧騒が流れ込んできた。 瀬尾さんは「じゃあ、また連絡します」と短く言い、颯爽とエントランスへと歩いていった。
私は一人、エレベーターの前に立ち尽くしていた。 自動販売機に行くという嘘さえ忘れ、自分の胸に手を当てる。 トクン、トクン、という鼓動が、全身に新しい血を送り出しているのが分かる。 二分間。 それはカップ麺ができるよりも短い時間。 けれどその二分間で、私の二十八歳の冬は、決定的な「熱」を帯びた。
もう、モノクロームの毎日に未練はない。 色がつくことは、確かに怖い。 誰かを好きになれば、またあの「見えない壁」に絶望する日が来るかもしれない。 けれど、今の私は知っている。 冷め切ったコーヒーを捨てたあの日の自分よりも、今の自分の方が、ずっと息がしやすいということを。 私はエレベーターの「上」ボタンを強く押した。 戻るべきオフィス。やるべき仕事。 けれどそこは、さっきまでとは違う景色に見えるはずだ。 二十代、最後の淡い恋愛。 その幕が、今、静かに、けれど力強く上がった。 鏡に映った自分の顔は、ラベンダー色のカーディガンによく映える、ほんのりとした赤みが差していた。 それは、春を待つ蕾のような、希望の色だった。




