オフィスの視線、三秒の魔法
第4章:オフィスの視線、三秒の魔法
月曜日の朝、目が覚めた瞬間の感覚がいつもと違っていた。 これまでは、重たい泥の底から這い上がるような気分でアラームを止めていた。カーテンの隙間から差し込む光は、ただ「また長い一日が始まる」ことを告げる無慈悲な合図でしかなかった。 けれど、今朝の私は、アラームが鳴る数分前に自ら意識を浮上させた。
キッチンでコーヒーを淹れる。 あの日、居酒屋で瀬尾さんが教えてくれた「バニラアイスの甘さ」が、まだ舌の奥に残っているような気がした。沸騰したお湯が粉を膨らませ、豊かな香りが立ち上る。その香りを深く吸い込むと、肺の奥まで瑞々しい空気が行き渡るようだった。
「……何を着ていこう」 クローゼットの前で立ち止まる。 いつもなら、手に取ったものを適当に羽織るだけだった。ネイビーのタイトスカートに、白のブラウス。失敗のない、無難な制服のような組み合わせ。 けれど今日は、少しだけ迷って、淡いラベンダー色のカーディガンを選んだ。 半年間、一度も袖を通していなかった服。 鏡の前で髪を整える。ほんの少しだけ、いつもより丁寧に毛先を巻いた。 そんな自分に苦笑する。「瀬尾さんに会うため」だなんて、言葉にするのはまだ早いし、何より恥ずかしかった。ただ、色のない世界に一滴落とされたインクが、じわじわと私の輪郭を染め始めていることだけは確かだった。
オフィスは、相変わらずの慌ただしさだった。 キーボードを叩く音、コピー機の唸り声、鳴り止まない外線のベル。 私は自分の席に座り、パソコンを立ち上げる。 営業事務の仕事は、今日も山積みだった。 けれど、画面に表示される数字や伝票の山を見つめながらも、私の意識の数パーセントは、常に背後の「扉」に向いていた。
私の席からは、商品開発部のエリアが少しだけ見える。 仕切りの向こう側に、彼がいるはずだ。 「佐野さん、おはよう。……あ、なんか今日、雰囲気違う? 明るいね」 隣の席の松原さんが、コーヒーカップを片手に声をかけてきた。 「そうですか? カーディガンを変えたからかもしれません」 「いいじゃん、その色。婚活、やる気になった?」 「いえ、そんなんじゃ……」 私は曖昧に笑って、キーボードに指を置いた。 やる気、ではない。ただ、自分の世界に「色」が戻ってくるのが、ほんの少しだけ嬉しいだけ。
午前十一時。 資料を届けに、私は席を立った。 行き先は、商品開発部。 胸の鼓動が、少しずつ速くなるのを感じる。 ただの業務だ。これまで何度も行ってきた場所だ。なのに、足取りはどこか不自然に強張っていた。
仕切りの向こう側に入ると、独特のクリエイティブな熱気が漂っている。 デスクには試作品のパッケージや資料が散乱し、あちこちで小声の打ち合わせが行われている。 その中に、私は彼を見つけた。
瀬尾さんは、窓際のデスクでパソコンに向かっていた。 居酒屋のときとは違う、真剣な表情。 眉間に少しだけ皺を寄せ、眼鏡のブリッジを指先で押し上げる仕草。 彼がキーボードを叩くリズム。時折、ふっと息を吐いて背もたれに体を預ける動作。 私は、自分の視線が彼に吸い寄せられていくのを止められなかった。 これが「目で追う」ということなのだと、初めて知った。 健吾といた三年間の最後の方は、彼が部屋のどこにいても、視界に入っていても、「見ている」という感覚はなかった。ただ、風景の一部として認識していただけだった。 けれど今の私は、瀬尾さんという存在を、網膜に焼き付けようとしている。
彼はまだ、私に気づかない。 私は用件のある別のデスクへ向かい、書類を置いた。 「お願いします」と事務的な言葉を交わしながらも、私の神経は一点に集中していた。 帰り際、私はあえて彼のデスクの近くを通る。 そのときだった。 瀬尾さんが不意に顔を上げ、こちらを向いた。
目が合う。 一秒。 二秒。 ……三秒。 オフィスの中の音が、すべて遠のいた。 キーボードの音も、電話の声も、エアコンの唸りも。 ただ、彼の深い色の瞳と、私の瞳が、透明な糸で結ばれたような錯覚。 三秒という時間は、オフィスで交わす会釈にしては長すぎた。 けれど、逸らすにはあまりに惜しい、魔法のような時間だった。
瀬尾さんの表情が、ゆっくりと和らいでいく。 眼鏡の奥の瞳が、優しく細められた。 「……おはようございます、佐野さん」 周りに聞こえるか聞こえないかのような、小さな声。 居酒屋のときと同じ、温度のある声が、私の中にすとんと落ちた。 「……おはようございます、瀬尾さん」 私も、ようやく声を出す。 それだけで、精一杯だった。
「そのカーディガン、いい色ですね。よく似合ってます」 彼はそれだけ言うと、また穏やかな微笑を浮かべて画面に目を戻した。 私は、熱くなった頬を隠すように、足早に自分の部署へと戻った。
席に戻っても、心臓の音がうるさくて仕事にならない。 三秒。 たったそれだけの接触で、私の世界は完全に作り替えられてしまった。 「あ……私、恋してる」 認めざるを得なかった。 この半年間、私が「平穏」だと思い込もうとしていたのは、ただの「麻痺」だったのだ。 傷つくのが怖くて、何も感じないように心のスイッチを切っていただけ。 けれど瀬尾さんは、そのスイッチをいとも簡単に、そしてこの上なく優しく、入れてしまった。
二十八歳。 もう、十代のような情熱的な恋ができる年齢ではないと思っていた。 酸いも甘いも噛み分けて、冷静に相手を見定めて、条件や将来を考えて選ぶのが「大人の恋愛」なのだと。 でも、今私が感じているのは、もっと根源的で、もっと淡くて、けれど抗いようのない「ときめき」だった。
午後。 私はまた、無意識に彼を探している自分に気づく。 会議室へ移動する彼の後ろ姿。 同僚と笑い合っている横顔。 給湯室でコーヒーを淹れている、長い指先。 今まで見えていなかったものが、鮮やかに立ち上がってくる。 オフィスの景色に色がついていく。 誰かが飾ったデスクの上の小さな花。窓から見える冬の空の、透き通るような青。 すべてが、瀬尾さんという存在を通じることで、輝きを増していく。
これが、恋。 二十代の最後に訪れた、予期せぬ、けれど待ち望んでいたかもしれない奇跡。 夕方。 退社時間のチャイムが鳴る。 私は荷物をまとめ、エレベーターホールへ向かった。 扉が開くのを待っていると、背後から足音が聞こえてきた。 振り向かなくても分かる。 その歩幅。その気配。 「お疲れ様です、佐野さん」 隣に並んだ瀬尾さんが、柔らかく言った。 「お疲れ様です、瀬尾さん」 「今日は、月曜日から飛ばしすぎませんでしたか? 事務方の方も、月始は忙しいでしょう」 「ええ、少しだけ。でも……今日はなんだか、あんまり疲れてないんです」 嘘ではなかった。 心の中に新しいエネルギーが充填されている。 「それは良かった。……あの、もし良かったら、今度」 エレベーターが到着し、扉が開く。 彼が言いかけた言葉は、中から出てきた大勢の社員たちの声にかき消された。 私たちは流れに押されるように、箱の中へと入り込む。 密閉された空間。 肩が触れそうなほどの近さ。 瀬尾さんから、微かに洗剤のような、清潔な匂いがした。 私は息を止める。 彼が何を言いかけたのか、聞きたかった。けれど、聞くのが怖かった。 一階に着き、扉が開く。 「じゃあ、また明日。佐野さん」 瀬尾さんは軽く手を挙げて、夜の街へと踏み出していった。 私は、駅へ続く階段を下りながら、自分の指先が微かに震えているのを見つめた。 色のない生活。それは、確かに楽だった。 けれど、この震えるほどの感情を知ってしまった今、もう元の世界には戻れない。 二十八歳、冬。 モノクロームの標本だった私の毎日に、鮮やかな色が溢れ出そうとしていた。 透明な壁の壊しかた。 それは、誰かに壊してもらうのを待つのではなく、自分からその向こう側に手を伸ばすことなのかもしれない。 私は、少しだけ早足で歩き出した。 冷たい夜風が、今の私には、何よりも心地よかった。




