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透明な壁の壊しかた ―二十八歳、モノクロームの恋直し―  作者: 久遠 睦


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オフィスの視線、三秒の魔法

第4章:オフィスの視線、三秒の魔法


 月曜日の朝、目が覚めた瞬間の感覚がいつもと違っていた。  これまでは、重たい泥の底から這い上がるような気分でアラームを止めていた。カーテンの隙間から差し込む光は、ただ「また長い一日が始まる」ことを告げる無慈悲な合図でしかなかった。  けれど、今朝の私は、アラームが鳴る数分前に自ら意識を浮上させた。


 キッチンでコーヒーを淹れる。  あの日、居酒屋で瀬尾さんが教えてくれた「バニラアイスの甘さ」が、まだ舌の奥に残っているような気がした。沸騰したお湯が粉を膨らませ、豊かな香りが立ち上る。その香りを深く吸い込むと、肺の奥まで瑞々しい空気が行き渡るようだった。


「……何を着ていこう」  クローゼットの前で立ち止まる。  いつもなら、手に取ったものを適当に羽織るだけだった。ネイビーのタイトスカートに、白のブラウス。失敗のない、無難な制服のような組み合わせ。  けれど今日は、少しだけ迷って、淡いラベンダー色のカーディガンを選んだ。  半年間、一度も袖を通していなかった服。  鏡の前で髪を整える。ほんの少しだけ、いつもより丁寧に毛先を巻いた。  そんな自分に苦笑する。「瀬尾さんに会うため」だなんて、言葉にするのはまだ早いし、何より恥ずかしかった。ただ、色のない世界に一滴落とされたインクが、じわじわと私の輪郭を染め始めていることだけは確かだった。


 オフィスは、相変わらずの慌ただしさだった。  キーボードを叩く音、コピー機の唸り声、鳴り止まない外線のベル。  私は自分の席に座り、パソコンを立ち上げる。  営業事務の仕事は、今日も山積みだった。  けれど、画面に表示される数字や伝票の山を見つめながらも、私の意識の数パーセントは、常に背後の「扉」に向いていた。


 私の席からは、商品開発部のエリアが少しだけ見える。  仕切りの向こう側に、彼がいるはずだ。   「佐野さん、おはよう。……あ、なんか今日、雰囲気違う? 明るいね」  隣の席の松原さんが、コーヒーカップを片手に声をかけてきた。 「そうですか? カーディガンを変えたからかもしれません」 「いいじゃん、その色。婚活、やる気になった?」 「いえ、そんなんじゃ……」  私は曖昧に笑って、キーボードに指を置いた。  やる気、ではない。ただ、自分の世界に「色」が戻ってくるのが、ほんの少しだけ嬉しいだけ。


 午前十一時。  資料を届けに、私は席を立った。  行き先は、商品開発部。  胸の鼓動が、少しずつ速くなるのを感じる。  ただの業務だ。これまで何度も行ってきた場所だ。なのに、足取りはどこか不自然に強張っていた。


 仕切りの向こう側に入ると、独特のクリエイティブな熱気が漂っている。  デスクには試作品のパッケージや資料が散乱し、あちこちで小声の打ち合わせが行われている。  その中に、私は彼を見つけた。


 瀬尾さんは、窓際のデスクでパソコンに向かっていた。  居酒屋のときとは違う、真剣な表情。  眉間に少しだけ皺を寄せ、眼鏡のブリッジを指先で押し上げる仕草。  彼がキーボードを叩くリズム。時折、ふっと息を吐いて背もたれに体を預ける動作。    私は、自分の視線が彼に吸い寄せられていくのを止められなかった。  これが「目で追う」ということなのだと、初めて知った。  健吾といた三年間の最後の方は、彼が部屋のどこにいても、視界に入っていても、「見ている」という感覚はなかった。ただ、風景の一部として認識していただけだった。  けれど今の私は、瀬尾さんという存在を、網膜に焼き付けようとしている。


 彼はまだ、私に気づかない。  私は用件のある別のデスクへ向かい、書類を置いた。  「お願いします」と事務的な言葉を交わしながらも、私の神経は一点に集中していた。  帰り際、私はあえて彼のデスクの近くを通る。    そのときだった。  瀬尾さんが不意に顔を上げ、こちらを向いた。


 目が合う。    一秒。  二秒。    ……三秒。    オフィスの中の音が、すべて遠のいた。  キーボードの音も、電話の声も、エアコンの唸りも。  ただ、彼の深い色の瞳と、私の瞳が、透明な糸で結ばれたような錯覚。  三秒という時間は、オフィスで交わす会釈にしては長すぎた。  けれど、逸らすにはあまりに惜しい、魔法のような時間だった。


 瀬尾さんの表情が、ゆっくりと和らいでいく。  眼鏡の奥の瞳が、優しく細められた。 「……おはようございます、佐野さん」    周りに聞こえるか聞こえないかのような、小さな声。  居酒屋のときと同じ、温度のある声が、私の中にすとんと落ちた。 「……おはようございます、瀬尾さん」  私も、ようやく声を出す。  それだけで、精一杯だった。


「そのカーディガン、いい色ですね。よく似合ってます」    彼はそれだけ言うと、また穏やかな微笑を浮かべて画面に目を戻した。  私は、熱くなった頬を隠すように、足早に自分の部署へと戻った。


 席に戻っても、心臓の音がうるさくて仕事にならない。  三秒。  たったそれだけの接触で、私の世界は完全に作り替えられてしまった。   「あ……私、恋してる」    認めざるを得なかった。  この半年間、私が「平穏」だと思い込もうとしていたのは、ただの「麻痺」だったのだ。  傷つくのが怖くて、何も感じないように心のスイッチを切っていただけ。  けれど瀬尾さんは、そのスイッチをいとも簡単に、そしてこの上なく優しく、入れてしまった。


 二十八歳。  もう、十代のような情熱的な恋ができる年齢ではないと思っていた。  酸いも甘いも噛み分けて、冷静に相手を見定めて、条件や将来を考えて選ぶのが「大人の恋愛」なのだと。  でも、今私が感じているのは、もっと根源的で、もっと淡くて、けれど抗いようのない「ときめき」だった。


 午後。  私はまた、無意識に彼を探している自分に気づく。  会議室へ移動する彼の後ろ姿。  同僚と笑い合っている横顔。  給湯室でコーヒーを淹れている、長い指先。    今まで見えていなかったものが、鮮やかに立ち上がってくる。  オフィスの景色に色がついていく。  誰かが飾ったデスクの上の小さな花。窓から見える冬の空の、透き通るような青。  すべてが、瀬尾さんという存在を通じることで、輝きを増していく。


 これが、恋。  二十代の最後に訪れた、予期せぬ、けれど待ち望んでいたかもしれない奇跡。    夕方。  退社時間のチャイムが鳴る。  私は荷物をまとめ、エレベーターホールへ向かった。  扉が開くのを待っていると、背後から足音が聞こえてきた。    振り向かなくても分かる。  その歩幅。その気配。   「お疲れ様です、佐野さん」  隣に並んだ瀬尾さんが、柔らかく言った。 「お疲れ様です、瀬尾さん」 「今日は、月曜日から飛ばしすぎませんでしたか? 事務方の方も、月始は忙しいでしょう」 「ええ、少しだけ。でも……今日はなんだか、あんまり疲れてないんです」    嘘ではなかった。  心の中に新しいエネルギーが充填されている。   「それは良かった。……あの、もし良かったら、今度」    エレベーターが到着し、扉が開く。  彼が言いかけた言葉は、中から出てきた大勢の社員たちの声にかき消された。  私たちは流れに押されるように、箱の中へと入り込む。    密閉された空間。  肩が触れそうなほどの近さ。  瀬尾さんから、微かに洗剤のような、清潔な匂いがした。  私は息を止める。  彼が何を言いかけたのか、聞きたかった。けれど、聞くのが怖かった。    一階に着き、扉が開く。 「じゃあ、また明日。佐野さん」  瀬尾さんは軽く手を挙げて、夜の街へと踏み出していった。    私は、駅へ続く階段を下りながら、自分の指先が微かに震えているのを見つめた。  色のない生活。それは、確かに楽だった。  けれど、この震えるほどの感情を知ってしまった今、もう元の世界には戻れない。    二十八歳、冬。  モノクロームの標本だった私の毎日に、鮮やかな色が溢れ出そうとしていた。    透明な壁の壊しかた。  それは、誰かに壊してもらうのを待つのではなく、自分からその向こう側に手を伸ばすことなのかもしれない。    私は、少しだけ早足で歩き出した。  冷たい夜風が、今の私には、何よりも心地よかった。



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