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透明な壁の壊しかた ―二十八歳、モノクロームの恋直し―  作者: 久遠 睦


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居酒屋の隅、予期せぬ凪(なぎ)

第3章:居酒屋の隅、予期せぬなぎ


 居酒屋『風の音』の店内は、金曜日の夜特有の、どこか投げやりで、それでいて切実な熱気に包まれていた。  天井の低い木造の空間には、炭火で焼かれた鶏の香ばしい匂いと、何十人もの話し声、そしてジョッキがぶつかり合う快活な音が渦巻いている。  この喧騒は、今の私にとっては「毒」に近いものだった。半年間、静寂という名の硬い殻に閉じこもっていた私にとって、他人の生命力が剥き出しになったようなこの空間は、あまりに眩しく、そしてひどく疲れる。


 私は端の席で、薄まったハイボールのグラスを両手で包み込むように持っていた。  グラスの表面についた結露が、指先をじりじりと冷やしていく。その冷たさだけが、今の私がこの場所に存在していることを辛うじて証明しているような気がした。


「佐野さん、全然飲んでないじゃない。もっといきなよ!」


 向かいの席から、営業部のムードメーカーである河野くんが声をかけてくる。彼はすでに顔を赤くし、ネクタイを緩めていた。 「あ、すみません。ちょっとペースが遅くて」  私はマニュアル通りの微笑を浮かべる。  こうした場での「正しい振る舞い」は、二十八年も生きていれば嫌というほど身についている。愛想よく笑い、適当に相槌を打ち、誰の気分も害さないように、けれど自分の存在感は極限まで消す。  それが、私の「透明な壁」の正体だった。


 不意に、隣の席に新しい気配が滑り込んできた。  営業部の騒がしい連中とは明らかに違う、静かな、けれど確かな存在感。   「……お疲れ様です、佐野さん」


 先ほど、彼が隣に座った瞬間に耳にしたあの声。熱を持った、けれど決して火傷やけどはさせないような穏やかな響きが、再び私の鼓膜を優しく揺らした。  視線を向けると、そこには商品開発部の瀬尾さんが座っていた。  白いシャツのボタンを一つだけ外し、手首の時計を気にするでもなく、彼は自然な動作でメニューを眺めている。


「お疲れ様です、瀬尾さん。商品開発部の方も、今日は全員参加なんですね」 「ええ。部長が張り切っちゃって。本当は、家でゆっくり読書でもしたかったんですけどね」  瀬尾さんは苦笑いしながら、運ばれたばかりのウーロン茶を手に取った。 「瀬尾さんは、お酒……飲まれないんですか?」


 自分でも意外なほど、自然に言葉が出ていた。普段の私なら、自分から他人に踏み込むような質問を投げかけることなど、まずありえない。 「嫌いじゃないんですが、今日はなんだか、酔うのがもったいない気がして」 「もったいない?」 「ええ。たまには、こういう騒がしい場所で、シラフで人間観察をするのも面白いかなと。……例えば、あそこで上司にゴマをすっている彼とか、隅っこで一生懸命に自分の気配を消そうとしている誰かさん、とかね」


 彼は悪戯っぽく微笑んだ。  その笑顔には、営業部の男たちが振りまくような「下心」や「誇示」が一切なかった。ただ、そこに在るがままの自分を許容しているような、不思議な開放感。


 私たちは、しばらくの間、言葉を交わさずにいた。  不思議な沈黙だった。  居酒屋の喧騒は相変わらず背後で荒れ狂っている。河野くんたちは今や一気飲みのコールを始め、向こうの席では女子社員たちが大きな声で上司の悪口を言い合っている。  それなのに、瀬尾さんの隣にいるこのわずかな空間だけは、まるで深い森の奥にある湖のほとりのように、ひっそりと凪いでいた。


 健吾と一緒にいた頃の沈黙は、鋭い針のようだった。  何かを言わなければならないという強迫観念と、何を言っても届かないという絶望。その狭間で、私はいつも息を止めていた。  けれど、瀬尾さんとの沈黙は、柔らかい毛布のように私を包み込んでくれる。  何も言わなくていい。何者かになろうとしなくていい。  ただ、二十八歳の、少し疲れた女として、そこに座っていることを許されているような気がした。


「佐野さん」  瀬尾さんが、低い声で私を呼んだ。 「はい」 「さっきから、あの枝豆の殻を、すごく丁寧に並べてますね」


 言われてハッとした。  無意識のうちに、私は食べ終えた枝豆の殻を、皿の縁に沿って等間隔に、向きを揃えて並べていたのだ。 「あ……すみません、変ですよね。事務職の職業病というか、つい揃えたくなってしまって」  恥ずかしさで顔が熱くなるのを隠そうと、私は慌てて殻を崩そうとした。  しかし、瀬尾さんの手が、それを優しく制した。


「いえ、綺麗だと思って見ていました。几帳面な性格なんですね。でも、それって、自分を追い詰めちゃう原因にもなりませんか?」


 心臓が、ドクンと大きく波打った。  その一言は、私がこの半年間、誰にも見せないように、自分自身でさえ気づかないように蓋をしてきた「核」の部分を、見事に射抜いていた。


「……追い詰める、ですか」 「型からはみ出すのが怖かったり、正解のないことに不安を感じたり。佐野さんの仕事ぶりを見ていると、時々、呼吸をするのを忘れているんじゃないかって心配になることがあるんです」


 彼は、私のことを見ていたのだ。  同じオフィスの、別の部署の、ただの同僚としてではなく。  一人の人間として、私の「息苦しさ」を感じ取っていたのだ。


「……瀬尾さんには、敵いませんね」  私は自嘲気味に笑った。 「私は、ただ、平穏に過ごしたいだけなんです。波風を立てず、誰にも期待せず、自分一人の領域を守って。そうすれば、これ以上傷つくこともないから」


「それは、『平穏』じゃなくて『停滞』って言うんですよ、きっと」  瀬尾さんの言葉は厳しいはずなのに、不思議とトゲがなかった。 「傷つかないことは、何も感じないことと同じです。佐野さんは、もっと……色鮮やかな場所にいてもいい人だと思うんだけどな」


 色鮮やかな場所。  その言葉が、私のモノクロームの心に、小さな火を灯した。


「瀬尾さん、私……」  何かを言いかけて、言葉が喉に詰まった。  彼に何を伝えたかったのだろう。元彼のこと? 自分が空っぽになってしまったこと? 二十代が終わるのが怖くて、でも何も変えられない自分への苛立ち?


「無理に話さなくていいですよ」  瀬尾さんは、私のグラスが空になっていることに気づき、店員を呼んでくれた。 「温かいお茶をもらえますか? あと、この人が少し落ち着けるような、甘いものを何か」


 運ばれてきたのは、湯気の立つほうじ茶と、小さなバニラアイスだった。  居酒屋には似つかわしくないそのセットが、今の私には何よりも贅沢なご馳走に見えた。  温かいお茶を一口飲むと、強張っていた肩の力がふっと抜けていく。  バニラアイスの甘さが、乾ききっていた心に染み渡っていく。


「美味しい……」 「でしょう? ここのアイス、実は開発部の連中の間では評判なんです」


 瀬尾さんは嬉しそうに目を細めた。  その顔を見て、私はふと気づいた。  私は今、笑っている。  マニュアル通りの愛想笑いではなく、心の底から湧き上がってくる、微かな、けれど確かな喜びを感じながら。


 それからの時間は、魔法のように過ぎていった。  瀬尾さんは、自分の仕事の失敗談や、最近ハマっている古い映画の話を、淡々と、けれど魅力的な口調で語ってくれた。  私はそれを聞きながら、時折質問をし、時折自分の小さなこだわりを話した。  驚くほど、言葉がスムーズに出てきた。  彼と話していると、自分の内側に眠っていた「感情の辞書」が、一ページずつめくられていくような感覚があった。


「そろそろ、お開きみたいですね」  瀬尾さんが周囲を見渡して言った。  気づけば、二時間が経過していた。  泥酔した社員たちが立ち上がり、千鳥足で出口へと向かっている。


「今日は、ありがとうございました。瀬尾さんとお話しできて、なんだか……少しだけ、空気が美味しくなった気がします」  私がそう言うと、瀬尾さんは少しだけ驚いたような顔をし、それから本当に嬉しそうに笑った。


「こちらこそ。佐野さんの、殻を並べる仕草、忘れませんよ」


 居酒屋を出ると、冬の夜風が頬を刺した。  けれど、さっきまでの冷たさとは違う。今の私には、その冷たささえも心地よい刺激に感じられた。


「佐野さん、駅まで一緒に行きましょう」  瀬尾さんが隣に並ぶ。  アスファルトを叩く二人の足音が、静かな夜の街に心地よいリズムを作っていく。


 駅の改札の前で、私たちは立ち止まった。 「じゃあ、また月曜日に。会社で」 「はい。また月曜日に」


 瀬尾さんが背中を向けて、人混みの中に消えていく。  私はその背中を、彼が見えなくなるまでじっと見つめていた。


 胸の奥が、トクン、と鳴った。  それは、半年間忘れていた、懐かしいリズム。    帰宅し、いつものように暗い部屋の明かりをつける。  鏡の前の自分を見る。  少しだけ上気した頬、緩んだ口元。  そこには、間違いなく「生きた人間」がいた。


「あ……」  私はベッドに倒れ込み、天井を見上げた。  心の中の、あの「透明な壁」に、小さな、けれど消えないヒビが入っているのが分かった。


 翌朝。  土曜日だというのに、私はいつもより早く目が覚めた。  コーヒーは、熱かった。  そして、驚くほど美味しかった。


 月曜日が、待ち遠しいなんて。  二十八歳の冬、私の世界に、初めての一滴が落ちた。


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