モノクロームの標本
第2章:モノクロームの標本
別れてから半年。 私の世界からは、劇的な何かが根こそぎ奪い去られた。 それは悲劇的なことのように思えて、実のところ、ひどく快適なことでもあった。
朝、七時。 スマートフォンが鳴らす無機質なアラームの音で、私は強制的に意識を浮上させる。 かつては、隣で眠る健吾の寝息を聞きながら、「あと五分だけ」と彼の腕の中に潜り込む時間があった。冬ならその体温に安らぎ、夏ならその汗の匂いに季節を感じた。 今は、ただ冷たい空気が隣にあるだけだ。 私は迷うことなくベッドから這い出し、機械的な足取りで洗面台へと向かう。
鏡の中にいるのは、二十八歳の佐野加奈。 肌に艶がないわけではない。シワが目立つわけでもない。けれど、どこか「生気」が足りない気がする。瞳の奥にあるはずの光が、曇りガラスの向こう側に隠れてしまったような、そんな顔。 私は慣れた手つきで化粧水を叩き込み、ファンデーションで肌のノイズを塗り潰していく。 アイシャドウは無難なベージュ、リップは落ち着いたコーラルピンク。 誰からも「派手」と言われず、誰からも「疲れている」と思われない、完璧なオフィス仕様の仮面。
クローゼットを開ければ、そこにはモノトーンの服が整然と並んでいる。 ネイビー、グレー、白、ベージュ。 昔はもう少し、明るい色を選んでいた気がする。健吾が「その青、似合うね」と言ってくれたから。今は、自分が何色を好きだったのかさえ、思い出せなくなっていた。
八時十五分。 マンションを出て、駅までの道を歩く。 街は通勤の人々で溢れ、色とりどりの傘や鞄が動いているはずなのに、私の目にはそれらがすべてグレーのグラデーションに見える。 地下鉄のホームに滑り込んでくる車両。扉が開くと同時に吐き出される、無表情な群衆。その中の一人として、私は飲み込まれていく。 吊り革を握り、ぼんやりと窓に映る自分を眺める。 周囲の話し声や、車両の軋む音、誰かのイヤホンから漏れる音楽。それらが遠くの雑音のように聞こえる。自分だけが透明なカプセルの中に閉じ込められ、真空の状態で見慣れた景色を通り過ぎていくような感覚。
「おはようございます」 会社に着き、席に座る。 私の仕事は、食品商社の営業事務だ。伝票を整理し、在庫を確認し、取引先からの電話に対応する。 仕事はできる方だと思う。感情を動かさず、正確に、淡々と処理していく今のスタイルは、ミスを許さない事務職には向いていた。
「佐野さん、これお願いしていい?」 三つ年上の先輩、松原さんが書類を差し出してきた。彼女は最近、婚活に励んでいる。 「また合コン? 大変ですね」 私がそう言うと、松原さんは溜息をついた。 「大変だよー。でもさ、二十八歳ってギリギリじゃない? 三十の大台に乗る前に、なんとか『形』にしとかないと。加奈ちゃんだって、別れて半年でしょ? そろそろ動かないと、一生独身だよ?」
「そうかもしれませんね」 私は微笑んで、書類を受け取った。 一生独身。 以前ならその言葉に、胸がざわついたかもしれない。焦りや不安が、波のように押し寄せてきたかもしれない。 けれど今の私にとって、それは「遠い国のニュース」のような響きしか持たなかった。 誰かと生活を共にし、感情をぶつけ合い、相手の機嫌を伺いながら自分の時間を削る。 あの「透明な壁」に遮られながら、息苦しさを堪えて笑い続ける日々に比べれば、一生一人でいることの静寂の方が、よほど贅沢に思えた。
お昼休み。 私は一人、会社の近くの公園でコンビニのサンドイッチを齧る。 同僚たちは連れ立ってランチに出かけ、流行りのカフェや話題のパスタ屋についてお喋りに興じている。 私はその輪に入らない。 何を話せばいいのか、分からないからだ。 週末に何をしたか。昨夜、何を観たか。 私の週末は、溜まった洗濯物を片付け、部屋を掃除し、録り溜めたドラマを倍速で眺めるだけで終わる。 昨夜の夕飯は、納豆ごはんとインスタントのお味噌汁。 そんな「色のない日常」を曝け出す勇気もなければ、それを装う元気もなかった。
公園のベンチに座り、空を見上げる。 雲ひとつない青空。けれど、その青さが目に染みることはない。 ふと、隣のベンチで若いカップルが笑い合っているのが見えた。 女の子が男の子の腕を叩き、男の子が楽しそうに彼女の頭を撫でる。 その光景を見て、私は胸の奥に小さな、けれど確かな「違和感」を覚えた。 嫉妬ではない。羨望でもない。 ただ、「ああ、昔の私もあんなふうに笑っていたはずなのに、あの感情は一体どこへ行ってしまったんだろう」という、標本箱の中の枯れた蝶を眺めるような、乾いた疑問。
私の「好き」という気持ちは、どこへ行った? 健吾と別れたとき、私は確かに悲しかったはずだ。 けれど、その悲しみさえも、時間の経過とともに脱色され、今やただの「過去のデータ」として処理されている。 今の私には、熱量がない。 怒ることも、泣くことも、心から笑うこともない。 喜怒哀楽の振れ幅が極限まで小さくなり、心拍数さえも一定を保っているような、凪の状態。
午後。 オフィスに戻り、またパソコンと向き合う。 夕方になると、蛍光灯の光が目に刺さるようになる。 窓の外がオレンジ色に染まり、やがて群青色へと沈んでいく。 定時を過ぎても、急いで帰る理由はない。 誰も待っていない部屋に帰るのが寂しいわけではない。ただ、家に帰っても、この「無」の延長線上が待っているだけだと思うと、足が重くなるのだ。
十九時。 ようやく会社を出る。 駅ビルの地下にある惣菜売り場は、仕事帰りの人々で混雑していた。 色とりどりのデリ、香ばしい匂いの焼き鳥、豪華な刺身の盛り合わせ。 私はそれらを横目に、いつものように三割引のシールが貼られたひじきの煮物と、小さなサラダを手に取る。 自分のためだけに凝った料理を作る気にはなれない。 何を食べているのか、味がしているのかさえ、時々不安になる。 空腹を満たすためだけの、効率的な栄養摂取。
帰宅し、部屋の明かりをつける。 シーリングライトの白い光が、殺風景なリビングを照らし出す。 健吾がいた頃の面影は、もうどこにもない。 彼が愛用していたマグカップも、二人で選んだクッションも、すべて捨ててしまった。 今のこの部屋は、私の心のようだった。 清潔で、整頓されていて、けれど決定的に「温もり」が欠落している。
お風呂に入り、髪を乾かし、ベッドに入る。 スマホを開くと、SNSには友人たちの華やかな投稿が並んでいる。 結婚報告、出産のニュース、海外旅行の写真。 私はそれらを無感情にスクロールし、機械的に「いいね」を付けていく。 彼女たちの世界は、彩度が高い。 それに対して、私の世界は……。
「……色のない生活も、悪くないんだけどな」
暗闇の中で、独り言をこぼしてみる。 誰にも傷つけられず、誰にも期待せず、自分一人の領域を守って生きる。 それは、究極の安全圏だ。 けれど、その安全圏に引きこもれば引きこもるほど、心の中に冷たい風が吹き抜けるような、言いようのない「寂しさ」が溜まっていく。
寂しい、と思うことさえ贅沢な気がしていた。 二十八歳。人生の分岐点。 このまま、標本のように動かない日常を積み重ねて、私は歳をとっていくのだろうか。 透明な壁に守られながら、誰にも触れられず、誰の心にも触れず、薄まっていく。
そんなある日のことだった。 一通のメールが、私の「凪」を揺らした。
『来週金曜、営業部と商品開発部の合同親睦会を行います。全員参加でお願いします』
部長からの、断りづらい一斉送信。 普段なら適当な理由をつけて断るところだが、今回は「新プロジェクトの打ち上げも兼ねる」という一筆が添えられていた。 溜息をつきながら、私はカレンダーに印をつける。 また、あの喧騒の中に行かなければならない。 愛想笑いを浮かべ、適当な相槌を打ち、時間が過ぎるのをじっと待つ、あの苦行。
けれど、その時の私はまだ知らなかった。 その飲み会が、私の世界に一滴の「インク」を落とすことになるなんて。 金曜日。 当日のオフィスの空気は、どこか浮ついていた。 定時が近づくにつれ、女子社員たちは化粧直しに立ち、男子社員たちは足早に仕事を片付けていく。 私は一人、普段と変わらないペースでキーボードを叩いていた。 飲み会なんて、ただの仕事の延長だ。 早く終わって、早くベッドに入りたい。 そう思いながら、私は少しだけ濃いめのリップを塗り直した。 それが、せめてもの「二十八歳の抗い」であるかのように。
会場は、会社からほど近い、落ち着いた雰囲気の創作居酒屋だった。 入り口で靴を脱ぎ、通されたのは奥の長い座敷。 営業部の賑やかな声がすでに響いている。 私はなるべく目立たないように、端っこの席を探した。 隣の部署、商品開発部のエリアだ。 知っている顔もいくつかあるが、ほとんどは名前を知っている程度の関係。
「佐野さん、ここ空いてるよ」 部長に呼ばれ、私は仕方なく中央寄りの席に座る。 乾杯の音頭が取られ、ジョッキがぶつかり合う音。 ビール、ハイボール、カシスオレンジ。 グラスの中の液体が、照明を反射してキラキラと輝いている。
私は最初の一杯を口にし、そっと息を吐いた。 この場所には、熱気がある。 私の持っていない、生のエネルギーが渦巻いている。 それが少しだけ、息苦しかった。 早く帰りたい。 その思いだけが、頭の中でリフレインする。
不意に、隣に誰かが座る気配がした。 商品開発部の……瀬尾さん、だっただろうか。 物静かで、仕事が丁寧だと噂の二歳上の男性。 彼と話したことは、一度もない。
彼は私に気づくと、小さく会釈をした。 「お疲れ様です、佐野さん」 その声は、居酒屋の喧騒をすり抜けて、私の耳にまっすぐ届いた。 低くて、穏やかで、どこか懐かしいような響き。
私は、自分が少しだけ緊張していることに気づいた。 半年間、誰に対しても抱かなかった、小さな波紋。 モノクロームの世界に、一滴。 予期せぬ色が、静かに落ちようとしていた。




