三年の余熱と、冷めたコーヒー
第1章:三年の余熱と、冷めたコーヒー
その壁は、いつからそこにあったのだろう。 三年前、付き合いたての頃の私たちは、まるで一つの生き物のように密接だった。駅の改札で別れるのが惜しくて、どちらからともなく「もう一軒だけ」と手を引き合った夜。狭いワンルームで肩を寄せ合い、将来の夢を語り明かした明け方。あの頃、私たちの間に境界線なんてものは存在しなかった。
けれど、いつしかその境界線は、目に見えないほど薄く、けれど決して突き破ることのできない「透明な壁」へと変貌を遂げていた。
六月の、ひどく湿度の高い日曜日だった。 部屋の隅で回っている古いサーキュレーターが、カタカタと乾いた音を立てている。窓の外は今にも泣き出しそうな曇天で、部屋の中にはどんよりとした停滞感が満ちていた。
私は、リビングのソファで読みかけの文庫本に目を落としていた。文字を追ってはいるけれど、内容は全く頭に入ってこない。視線の端には、ダイニングテーブルでノートパソコンに向かっている彼――健吾の背中が映っている。 かつては、その広い背中を見るだけで心が温かくなったものだ。不意に後ろから抱きつけば、彼は少し驚いたふりをして、優しい笑みを浮かべて私を振り返ってくれた。
今は、違う。 彼との距離はわずか三メートル。手を伸ばせば届く距離。なのに、私は彼に触れることをひどく恐れていた。そこに触れてしまったら、自分が積み上げてきた「まだ大丈夫」というまやかしが、音を立てて崩れてしまうと知っていたから。
私たちは、いつからこんなに「他人」になってしまったのだろう。
三年前の熱量は、どこへ消えたのか。 喧嘩をしたわけではない。裏切りがあったわけでもない。ただ、日々の生活という穏やかな波が、私たちの足元にある「好き」という砂の城を、少しずつ、少しずつ削り取っていったのだ。
健吾が立ち上がり、キッチンへ向かった。 冷蔵庫を開ける音。麦茶をグラスに注ぐ音。氷がぶつかるカランという高い音。 それらの生活音さえも、今の私には酷く無機質に聞こえた。彼は私に「何か飲む?」と聞くこともなく、自分の分だけを手に、またパソコンの前へと戻っていく。
意地悪をしているわけではないのだ。彼にとって、私はもう「気を使うべき相手」でもなければ、「喜ばせたい相手」でもなくなってしまった。空気のように当たり前で、けれど空気のように意識されない存在。
ふと、私はテーブルに置かれたままのマグカップに目をやった。 一時間前に淹れたコーヒーは、もうすっかり冷め切っている。表面には、脂分が薄く膜を張っていた。かつては芳醇な香りを放っていたはずのそれは、今やただの苦い黒い液体でしかない。 今の私たちの関係そのものだ、と思った。
不意に、健吾がタイピングの手を止めた。 部屋を支配していたカタカタという音が消え、さらに深い静寂が訪れる。 「……加奈」 低く、抑えられた声。 私は心臓が跳ねるのを感じた。けれど、顔を上げることはできなかった。
「俺たち、もう無理しなくていいんじゃないかな」
その言葉は、刃物のように鋭く私を切り裂いたわけではなかった。 むしろ、ずっと重荷に感じていた鎧を、そっと解いてくれたような、そんな解放感さえ伴っていた。
私はゆっくりと本を閉じ、膝の上に置いた。指先が微かに震えている。 「……無理、してた?」 声が掠れた。自分でも驚くほど、他人事のような響きだった。
「してたよ。お互いに」 健吾は椅子を回転させ、私の方を向いた。その瞳に憎しみはない。ただ、そこには深い疲労と、諦念が滲んでいた。 「一緒にいても、ずっと壁があるみたいだった。隣に座っていても、君が何を考えているのか、今の俺には全然分からない。……いや、分かろうとするエネルギーが、もう残ってないんだと思う」
正直な言葉だった。 そしてその正直さが、何よりも残酷だった。
私も、同じだった。 彼が疲れて帰ってきたとき、「お疲れ様」と言う言葉が喉に引っかかることが増えていた。彼が仕事の愚痴をこぼしても、適当な相槌で済ませてしまう自分がいた。 嫌いになったわけじゃない。 大切に思っていた時間は、確かにあった。 けれど、その記憶だけでは、冷え切ったコーヒーを温め直すことはできなかった。
「……そうだね」 私はようやく、彼の方を見た。 視界が少しだけ潤んだ。けれど、涙がこぼれ落ちることはなかった。 「私も、同じことを思ってた。……ごめんね。ちゃんと、向き合えなくて」
「謝るなよ。どっちが悪いわけでもないんだから」 健吾は立ち上がり、私の隣に歩み寄った。 そして、三年前と同じように、私の頭にそっと手を置いた。 けれど、その掌から伝わってくるのは、かつての熱烈な愛着ではなく、古い友人を労るような、静かな慈しみだった。
それが、私たちの終焉だった。
ドラマのような激しい言い争いも、泣き叫んで引き止めるシーンもない。 ただ、二人で積み上げてきた三年間を、丁寧に畳んで仕舞うような、そんな静かなお別れ。
「好き」という気持ちが、どこかへ消えてしまったわけではない。 ただ、その「好き」は、どこか見知らぬ場所に置き去りにされてしまった。 私たちはそれを取りに戻る気力もなく、ただ、別々の道へと歩き出すことを選んだのだ。
その日の夕方、彼はいくつかの荷物をまとめて部屋を出て行った。 「残りの荷物は、また後日。鍵は、ポストに入れておくから」 「分かった。……元気でね」 「ああ。加奈も」
玄関のドアが閉まる音。 ガチャン、という軽い金属音が、私の人生のひとつの章が終わったことを告げていた。
一人になった部屋は、驚くほど広かった。 私はキッチンへ行き、冷め切ったコーヒーをシンクに捨てた。 黒い液体が排水口へと吸い込まれていく。 明日からは、自分のためだけにコーヒーを淹れることになる。
それから、半年が過ぎた。
私の生活からは、完全に色が消えていた。 朝七時にアラームで起き、洗面台の鏡に映る代わり映えのしない顔に、事務的な手つきでメイクを施す。 二十八歳。若くはないけれど、老いてもいない。 職場では「落ち着いた中堅」として重宝され、後輩のミスをフォローし、上司の機嫌を伺う。
仕事が終われば、駅ビルの惣菜コーナーで値引きされた弁当を買い、地下鉄の揺れに身を任せる。 帰宅して、テレビをつけて、スマホを眺め、眠くなるのを待つ。 悲しくはない。苦しくもない。 ただ、自分の輪郭が少しずつ、灰色の景色の中に溶け込んでいくような、そんな感覚。
友達からは「新しい出会いを探しなよ」と言われる。 マッチングアプリを勧められたり、合コンに誘われたりもした。 けれど、私の心は凪いだままだった。 誰かを好きになるために必要なエネルギーが、どこを探しても見当たらないのだ。
あの日、冷めたコーヒーと一緒に捨ててしまったのは、飲み物だけではなかったのかもしれない。 誰かを愛し、誰かに期待し、誰かと傷つけ合う。 そんな瑞々しい感情のスイッチが、どうしても「オン」にならない。
これも、悪くない。 波風の立たない毎日は、何よりも安全で、穏やかだ。 けれど、ふとした瞬間に、胸の奥がチリりと痛む。 窓の外を流れる季節の色が、自分だけを置き去りにして鮮やかに変わっていくのを見るのが、時々、たまらなく寂しかった。
二十八歳の冬が、もうすぐ終わろうとしていた。 私の人生は、このままモノクロームのまま、静かに幕を閉じていくのだろう。 そう信じて疑わなかった。
あの日、あの飲み会に行くまでは。




