第1話 父の死と、香りの青年
父の酒蔵を継いだ令嬢が、まさかの「嗅覚チート」で日本酒の精霊たちと関わることになりました。
1話目は出会いのシーンです。イケメン精霊、すぐに登場しますのでご安心ください。
父が亡くなったのは、三月の寒い朝だった。
町の誰もが口を揃えて「名杜氏」と称賛した、桜井酒造の蔵元。しかしその実態は、昔ながらの製法にこだわり、最新の設備投資を頑なに拒んだ、古びた小さな酒蔵だった。
酒造業界全体が厳しい冬の時代を迎える中で、桜井酒造も例外ではなく、父の急逝によって、その命運は私、桜井美咲の手に委ねられた。
友人たちは皆、口を揃えて「やめてしまえばいい」と言った。
「美咲が苦労することはない」「就職先なんていくらでもあるだろう」と、善意からの言葉だとわかっている。それでも、私は頷くことができなかった。
父が愛したこの蔵には、私の知るどんな場所とも違う、特別な空気が満ちていた。
古びた木樽、苔むした石壁、そして何よりも、この蔵から漂う甘く淡い日本酒の香り。それは父が人生をかけて守り抜いた、誇り高き命の匂いだった。
私は酒を飲めば一口で酔い潰れる。二十歳を過ぎても、居酒屋で友人にからかわれ、コップの三分の一ほどで真っ赤になってしまう。しかし、香りだけは昔から異常なほど鮮明に嗅ぎ分けることができた。
酸味、甘味、辛味、渋みといった、酒の味を構成する要素はもちろんのこと、香りの奥底に隠された、造り手の微かな感情や、その酒が育った風土の気配までをも感じ取ることができた。
それは一種の特殊能力であり、父の杜氏仲間からは「天性の鼻」だと驚かれたものだ。
父が亡くなってからというもの、私は毎日欠かさず蔵に足を運んだ。資金繰り、在庫の整理、設備のメンテナンス……。慣れない作業に戸惑いながらも、父が遺したこの場所を少しでも長く守りたいという一心で、ただひたすらに手を動かした。
ある晩のこと。
すっかり日が落ち、月明かりが蔵の窓から差し込む時間まで、私は帳簿の整理に追われていた。そろそろ帰ろうかと立ち上がったその時、蔵の奥から、ふと強い香りを感じ取った。
それは、これまで嗅いだどの香りとも違う、澄み切った清廉な香りだった。
雪解け水のように透明で、それでいて、どこか懐かしい。
私は香りに導かれるように、薄暗い蔵の奥へと足を踏み入れた。
カビ臭い木材の匂いや、古酒の重たい香りが充満しているはずの空間に、その澄んだ香りは一点の曇りもなく存在していた。まるで、香りそのものが形を持っているかのようだった。
「……君か」
沈黙を割って、声が響いた。
透き通るような、しかしどこか芯のある低い声。
驚いて振り向くと、月明かりの中に、見知らぬ青年が静かに立っていた。
彼はそこにいるのに、周囲の空気と見事に調和している。
黒髪は月明かりにきらめき、瞳は冬の湖面のように静かで澄んでいる。雪が溶けて流れる小川のような、清らかな香りが、彼の存在そのものから放たれていた。
その神聖なまでの存在感に圧倒され、私は一歩も動くことができなかった。
「だ、誰……? ここは桜井酒造の蔵です。関係者以外は立ち入り禁止のはず……」
声が震えた。
青年はゆっくりと私に視線を向け、静かに告げた。
「俺の名は田酒。君にしか、俺の姿は見えない」
でんしゅ? 耳慣れない名前に、私は首を傾げた。
しかし次の瞬間、私の嗅覚が、その名前に込められた意味を正確に捉えた。
澄んだ雪解け水のような香りの奥に、稲穂のような力強く温かい香りが混じっている。その香りは、日本の北国、青森の厳しくも豊かな大地を思わせるものだった。
「……田酒って、日本酒の?」
青年は微かに微笑み、頷いた。
「そうだ。俺たちは、この世の酒に宿る精霊だ。酒が造られ、消費されることで、俺たちの命は保たれる。だが、その姿は、全ての人間に見えるわけじゃない」
彼は一歩、私に近づいた。
その瞬間、彼の香りがより強く、私の全身を包み込んだ。
稲穂のような温かさ、雪解け水のような清らかさ……そして、もう一つ。
かすかに混じる、胸の奥をしめつけるような、苦さ。
私は直感した。
──この人は、いや、この精霊は、誇り高くて、そして、とても孤独だ。
思わず、彼の瞳を真っ直ぐに見つめてしまう。
彼は私の心の動きを読み取ったかのように、静かに問いかけた。
「君は嗅ぎ分けるだろう? 俺の香りに混じる、微かな苦さを」
図星だった。胸の奥にしみるような渋みが、確かに彼の香りの奥に隠されていた。
それは、誰も自分の本質を理解してくれないことへの、諦めのような苦さだった。
私の嗅覚は、ただの特技じゃない。
言葉で隠された、心の奥底に触れる力なんだ。
そのことに、私はこの瞬間、初めて気づかされた。
「それは……」
言葉に詰まる私に、田酒は悲しげに微笑んだ。
「俺たち精霊は、人間に忘れられ、消費されなくなれば、やがて消えていく。この蔵も、このままだと、やがて失われるだろう。そうすれば、俺も……」
彼の言葉が、胸に突き刺さった。
父が愛したこの蔵を、日本酒の香りを守りたい。
その一心でこの場所にとどまっていた私にとって、それはあまりにも重く、そして避けられない現実だった。
しかし、同時に、胸の奥で熱いものが込み上げてくる。
そうだ、この香り、この場所を、この孤独な精霊を、守りたい。
私は小さく震えながら、田酒の目をまっすぐ見つめ返した。
「失わせない。この蔵も、あなたも。私が、なんとかしてみせるから」
そう告げた瞬間、田酒の瞳に、ほんの一瞬だけ、驚きと希望の光が宿った。
その夜を境に、私と酒の精霊たちとの、不思議で騒がしい日々が始まった。
孤独な青年との出会いが、私の、そして父の蔵の、新しい物語の始まりだった。
◇
キャラクター紹介
桜井 美咲
本作の主人公。22歳。亡くなった父の酒蔵「桜井酒造」を継ぐことになった。酒は飲めないが、嗅覚が異常に鋭く、香りの奥にある隠された感情や真実まで感じ取ることができる「嗅覚チート」の持ち主。
田酒
日本酒に宿る精霊の一人。黒髪で、雪解け水のように澄んだ瞳を持つ青年。静かで誇り高い性格だが、孤独を抱えている。美咲の嗅覚に興味を持ち、彼女を蔵再建の旅へと誘う。
お読みいただきありがとうございます!
第1話は「酒蔵令嬢の決意」と「田酒との出会い」、そして嗅覚チートの力を明示しました。
次回、第2話では華やかな酒精霊「十四代」が登場します。
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