Case.0
2027年6月。
建築様式が新旧入り交じるロンドン近郊。
スーツ姿の青年はその後ろに1人の金髪美少女を庇いながら、小汚い服装の男と対峙していた。
青年の周囲にも複数の男が倒れ込んでいる。
対峙する男の手にはグロック17が握られているのに対して青年は丸腰。
しかしスーツの上からでも筋肉質なことがはっきりとわかる彼の身体は、見るものを圧倒する威圧感がある。
瞳には炎とも形容出来る覚悟を宿して男を射抜く。
「そ、その女を渡せ!」
街中に異様な光景が生まれていた。
拳銃を持つ男は今にも怖気づいてしまいそうな震える声で恫喝し、脅されている側の丸腰の青年には、その光景を見守る誰の目から見ても余裕が感じられていた。
その証拠に青年は眉を顰めてはいるものの笑みを浮かべている。
「おっさん、そろそろ諦めた方がいいぞ?」
彼の言葉に明らかな困惑を見せる男。
(そうか、日本語通じねーのか)
面倒だなと思いながらも彼は、再び同じセリフをたどたどしい英語で伝えた。
「お前こそ諦めろ! そんな丸腰で一体どうするつもりなんだ!!」
男の返答に対して「やれやれ」と肩を竦めた青年の耳に一瞬のノイズが入る。
『朝日ー、ポジションついたー』
ノイズのすぐ後に女性の軽やかな、しかし無機質な声が届き、彼は――朝日は口の端を歪めた。
「カウント3で頼む」
耳の通信機に手を当てて指示を出した朝日。
そして耳から入ってくるカウントが1から0になろうとした時だった。
『あっ』
(!? なんだその『あ』って!!!)
朝日は自分がそう思うよりも早く身体は勝手に動作し、背後の少女を抱えてその場から身を翻すように高く飛ぶ。
と、同時に乾いた音が鳴り響き、身を翻したことによって上下逆さになっている朝日の髪を何かが掠めた後、石畳の上にそれは着弾した。
この時、終始余裕を見せていた朝日は、初めて額に汗を滲ませて焦りの表情を浮かべ、思わず通信機の向こう側にいる何者かに叫ぶ。
「ぁっぶねぇ!! 風音!!!」
『ごめん、失敗。蟻さんがいて気取られた』
「蟻さんって、お前なぁ! 俺らを殺す気かよ……ったく」
通信機の向こう側から悪びれた様子のない謝罪が飛んでくる。
実際に焦っていた朝日だったが、それでもどこか余裕はあった。
「……狙撃!? くそったれええ!!!」
そうこうしている内に男は自分が狙われていると認識し、追い詰められていることを悟ったのか、朝日たちに向かってマガジンが空になるまで拳銃を連射した。
そして街中には悲鳴が沸き上がる。
しかし、その全てが誰かに到達することはなく、再び静寂が辺りを支配した。
「中々良い腕してんな、おっさん。全部俺の方に飛んできたぞ」
朝日は全18発の弾丸をパラパラと両手から落としながら言った。
「現実なのかこれは……」
男は足元をガクガクと痙攣させ、その場で尻餅を突いた。
まさに男の言う通り非現実的な光景だった。
いくら手に特殊仕様のグローブを装着しているとは言え、全ての弾丸を掴み切るなんて芸当は怪物そのもの。男が腰を抜かして目を疑うのは必然。
しかし朝日の目にはしっかりと飛来する弾丸の軌道が見えていた。
彼にとって拳銃の弾などキャッチボールで玉を掴むのと、なんら変わりはない。
精根尽きた男を、今まで固唾を飲んで見守っていた現地の警官たちが取り押さえ、この騒動は幕を閉じた。
街中で歓声が上がる中、朝日は女性に向き直って膝を付き、まるで騎士然とした態度で声を掛ける。
「Ms.アイリーン、怪我はないですか?」
「えぇ……大丈夫です」
彼が守っていた対象ですら、目の前の出来事に困惑を示していた。
しかし差し出された掌の上にアイリーンは自らの手を乗せて、言葉を続ける。
「最初、素手で十分だなんて言い出した時は馬鹿なんじゃないかと思いましたが……強いのですね」
「俺に武器なんて必要ありませんから」
少年のような笑みを浮かべる朝日を見たアイリーンも強張っていた表情を解いた。
「ありがとう、アサヒ。感謝をここに……」
突然身を屈めて朝日の視線に合わせたアイリーンは彼の唇を奪った。
「なっ……」
「うふふ、そんな顔もするのですね」
(とんでもねーことするお嬢様だな……)
アイリーンはイギリス国内でも有数の資産家令嬢で、その金目当てで武装集団に狙われていた。そこに朝日が所属する民間軍事会社へ、彼女の婚約者から護衛の依頼があった。
婚約者がいるというのに、マウスToマウスでのキスは彼にとって予想外の事態と言える。
『あーあ、双葉さん怒るよー』
その様子を何処からか覗いていた風音は、怒られたことによる腹いせなのか、朝日に不穏なことを告げる。
「……絶対言うんじゃねーぞ。パフェ2つでどうだ」
『報告義務がありまーす』
「クソッ!! 3つ!!」
『仕方ない。手を打つ』
日本語での会話はアイリーンに伝わっていなかったが、不穏な空気を読み取ったのか心配そうに「アサヒ?」と声を掛ける彼女に対して、朝日は張り付けたような笑みで「なんでもない」と受け流していた。
◇ ◇ ◇
とあるホテルの一室。
白を基調としたクラシックな調度品で統一された部屋の中央には、煌びやかなシャンデリア。窓際に観音開きのドレッサー、極め付きは天蓋付きのベッドまで備えられている。
まさに高級感溢れる、と言ったところだろう。
「と、まぁ初任務は無事終了だ」
朝日と風音はローテーブルの上に置かれた機械から展開された仮想スクリーンの前に並んで座り、業務報告を行っていた。
その画面に映し出されているサングラスを掛けている男は、張り付けたようなにこやかさを崩すことなく、朝日たちに労いの言葉を掛ける。
『しっかりやってくれたんだねぇ。いやぁそっちは君たちに任せて正解だったよ』
「何かあったのかよ?」
この口ぶりだと他の場所では何か問題があったのか、そう思った朝日はそのまま問うた。
『あー……特に問題が起きたというわけではないんだけど、竜胆さんと壬生君のペアが揉め事ばっかり起こすからさ……ははは』
「そりゃ一華と颯馬をペアにしたタキさんがわりぃよ」
二人の名前を聞いた朝日は、いつも喧嘩ばかりしている二人をペアにしたんだから当然の結果だ、と納得して目の前の男、タキにダメ出しをした。
しかし朝日の上司である彼は、部下から咎められようとも表情は一切崩さなかった。
『そう言わないでくれよ~。あの二人、戦闘となったら息ぴったりなんだし』
(まぁ同じ幼馴染だしな)
『ただ日常的なところであんなに反りが合わないのは知らなかったよ』
トホホと付け足されそうな声色でタキは言った。
そんな彼に哀れみの目を向ける朝日だったが、一つ報告し忘れていたことに気付く。
「そういや、任務は終わったんだけどよ……」
『ん? これ以上問題は止してくれよ……?』
「問題って程でもねーんだけど、明日アイリーンにパーティに誘われたから、そっち戻るのは明後日になるわ」
『それは構わないよ。お得意様になるかもしれないから、くれぐれも丁重に』
「朝日、アイリーンとチューしてた」
(な!? こいつ裏切りやがった!!)
今まで朝日の隣で会話を聞いていただけの風音は、タキが言葉を言い終えるかどうかという時、突然爆弾を投下した。
その問題発言に『えっ?』と初めて表情を崩したタキだったが、それ以上に気になるのは向こう側でドタンガタンと騒音が立っていることだ。
パフェ3つも奢ってやったのに! という朝日の心情は誰にも伝わることなく、状況は刻一刻と変化していく。
『瀧村さん退いて下さい!』
女性の声と同時にタキ、もとい瀧村はスクリーンから姿を消し、代わりに出てきたのは一人の少女だった。
ふんわりした栗色の髪を束ねた少女の瞳には明らかな怒りを灯している。
しかし幼い顔つきも相まって、怒っていると言ってもあどけなさすら感じられる彼女は、机をダンッと叩いて口を開いた。
『風音ちゃん! どういうこと!?』
「あ、双葉さんだ。やっほー」
『やっほ~!』
風音の淡々とした口調に釣られたのか、彼女が双葉と呼んだ女性は笑顔で手を振って挨拶を返したが『じゃなくて!』とすぐに怒りを取り戻した。
『どういうこと!?』
「ほら、双葉さん怒ってるよー?」
「う、羽衣、落ち着け」
その場から逃げようとしていた朝日だったが、風音に首根っこを掴まれて阻止された彼は、撤退は諦めて少女の、羽衣の怒りのボルテージを下げようと試みた。
『……朝日君の口から説明してくれるの?』
羽衣は少し落ち着きを取り戻しはしたが、完全に目が座っていることに気付いた朝日は、やばい、と確信めいたものを感じて、恐る恐る口を開く。
「あのな、よく聞いてくれ。俺は何もしてない。向こうから急に……」
『ふーん。で? キス、したの?』
「それは……」
『したんだ?』
「……あぁ」
羽衣の瞳から光が消えた瞬間だった。
満面の笑みだというのに、その目は全くと言っていい程に笑顔とは掛け離れている。
『明後日帰ってくるんだっけ? 楽しみだねぇ』
「ちょ、聞いてく……れ」
朝日はなんとか釈明しようとしたが、一方的に通信は終了してしまった。
「どうすんだよ、これ……って、もういねえし」
そんな朝日の言葉は既にバスルームへ消えていった風音にすら届かない。
(大体なんで風音と同室なんだよ……どうせタキさんが何にも伝えてなかった所為だろ)
当初、風音1名で任務に就くことを聞かされていた先方が用意したホテルは1部屋。
しかし直前になって複数犯による計画であることが判明した為、狙撃主体の風音だけでは厳しいだろうと、瀧村は別の任務の予定だった朝日を急遽こちらに回したというのに、肝心の先方に人員を増やすことを伝えていなかった結果、二人は同室になってしまった。
これにより女性のボディガードが来るとだけ知らされていたアイリーンは、突然やってきた朝日に不信感を抱くという副産物も生み出してしまっていた。
(当然俺はソファだわな……)
一床しかないベッドをチラリと見て、深く項垂れた朝日は昼間の疲れからそのままソファで眠りについた。
翌日、と言ってもまだ日が昇る前に目が覚めた朝日は日課のランニングに出掛けた。
次第に明るくなっていく見慣れない風景を眺めながら走るのは、思いの外良いもので、彼はいつもよりも1時間多く走り続けた。
ホテルに戻って来た時には完全に日が昇っており、晴れやかな気分で部屋の扉を開けると、ベッドの上で体を起こして、どんよりとした空気を纏う風音の姿があった。
「お前ホントに朝弱いよな」
「……ねむい」
「夜まで空き時間だし、折角だから観光でもしようぜ」
「……お腹空いた」
朝日は話が噛み合ってない風音に苦笑を浮かべ、まだそっとしておこうと決めてバスルームへ静かに入った。
彼が15分程でシャワーを浴び終えて部屋に戻った時には、風音もパジャマのままではあるが、ベッドからは出てぼーっと椅子に座っていた。
「お? 起きたか」
「……うん……昨日の疲れがまだ残ってるけど」
お前は時計塔を階段で上って狙撃失敗しただけだろ、という言葉はぐっと飲み込み「それで今日どうする?」と話題を変える朝日。
「俺は夜まで観光しようと思うけど」
「……じゃあついていく」
「よっしゃ、んじゃとっとと着替えて準備しろ……って、おおおい!! ここで着替えんな! 向こう行け!!」
バスタオルで頭をガシガシと拭きながらだった朝日にはよく見えていなかったが、突然その場で着替え始めた風音から咄嗟に目を逸らし、バスルームを指差して叱咤する。
まだ完全に目を覚ましていなかった風音は「あっ」と漏らして、バスルームへ消えていったが素肌を見られたことなどは全く気にしていない様子に、朝日は再び苦笑いを浮かべた。
風音の準備が終わるのを待つ1時間半くらいの間で、朝日は暇潰しがてら観光出来そうな場所をリサーチしていた。
(とりあえず朝飯だよな~)
丁度良さそうな場所を発見したところで風音の準備も終わり、荷物を纏めてホテルを出た。