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無害な女

作者: 森川 紗英

「それじゃあ元気でね。また連絡する。」

彼は私の頭をポンポンと軽く撫で、部屋を後にする。


2025年6月2日月曜日の朝6時、彼の平和で充実した日常が始まる。

同日の朝6時、彼がいなくなった部屋で私の平凡で退屈な生活がまた続いていく。


私はソファに寝転がって、その日彼が私に質問したことを反芻する。


「もしも外で僕に出会ったら君はどうする?」


「それはあなたが友達と一緒にいる時のこと?それとも彼女と一緒にいる時?」


「じゃあ、まずは友だちと一緒にいる時。」


あなたが友達と一緒にいる時にばったり出会ったら、私はきっと、挨拶して話しかけると思う。

そう答えた。


「じゃあ、彼女と一緒にいる時はどうする?」


この問いに対する私の答えを発表する前に、まずは私たちの関係について少しだけ説明しておきたい。


彼は私よりも7歳年下。

5年間付き合ったあと、喧嘩別れで連絡が途絶え、私たちは3年間、まったくの音信不通だった。

そしてある日、彼の方から突然連絡が来て、私たちはすぐに身体の関係を持つようになった。


再会したとき、「彼女はいるが、今は冷却期間中でこの先どうなるか分からない」と言っていた彼は、最近ヨリを戻したみたいだ。


そうした状況の中、私の出した回答は

「彼女と一緒でもたぶん声をかけると思う。

もし『あの人誰?』って聞かれたら、『昔付き合ってた人で、年齢的にも昔の人だよ』って伝えたらいい。その後彼女をギュッと抱きしめれば、もっと愛が深まるんじゃない?」


そう自虐的に言うと、彼はフフフと小さく笑ったような息を吐いて言った、


「彼女と一緒にいる時には話しかけないでね」


何を今更、と思いながらもその言葉を宙に浮かせたまま、私たちはしばらくお互いの体温を肌で感じることを楽しんだ。

そしてセックスはせずに、その日は別れた。


今朝のことを思い出しながら、改めて私は自分が都合の良い女であることを認識する。


そして確認しつつ受け入れる。

「それでもいい」


その言葉に少しでも痛みや哀しみを感じるか、自分の心の動きをじっと見つめる。


今は、もう何もない。


再会した当初、たとえ冷却期間中だったとはいえ、彼女がいるのに私と身体の関係を持っている事実を知ったときは、正直ショックだった。

きちんと彼女と別れたうえで、私の元に戻ってきてくれる——そんな誠意を見せられる展開を、どこかで期待していた。


私は彼の彼女がどんな人なのかを全く知らない。


おそらく胸が大きくて、ほどよくふくよかな、いかにも女性らしい体型をした人だろうと想像する。

そして、彼と対等に言葉を交わせるだけの無邪気さと、軽やかな強さを持った、二十代の女の子。

たとえ彼女の方から冷却期間を持ちかけたとしても、彼の方から彼女の元を離れるという決断は下したくないと思うような魅力を備えているのだろう。


想像上の彼女と、私は真逆だ。

四十手前の三十八歳。胸も、平野にぽつんと小さな丘がある程度で、肉付きも悪い。

お情け程度についている柔らかな脂肪も、重力には逆らえず、気づけば下へ下へと引っ張られている。


それでも彼が、定期的には会ってもいいと思えるような何かを、私はまだ持っているのだろう。

――そんな希望的観測だけが、私の自尊心を細々と支えている。


大抵の場合、人を好きになり、その人を深く知っていくうちに、相手の苦手な一面に触れて気持ちが冷めることがある。

その主な理由は、体臭や口臭、性癖、癖など、生理的でどうしようもないものが多い。


もちろん、彼にもそうした“嫌悪を抱くかもしれない要素”はある。


——けれど、私の彼に対する好意は、そのすべてを軽々と超えてしまう。


「いったい何を食べたら、脇からこんな匂いがするの?」

腕枕をされていたとき、ふとそう思った。

キスをすれば、タバコの味が口いっぱいに広がる。

セックスはときに乱暴で、痛い。

貧乏ゆすりが止まらない……やめて。


そう感じながらも、そのすべてを愛おしいと思いながら彼を見つめる自分がいる。


そのことに気づいたとき、私はこう思った。

——この先、彼以上の人には、もう出会えないかもしれない。


それ以来、私は彼に執着している。


時間が経つにつれて、私の執着は対象を絞り純度を増していく。

私が欲しいのは彼そのものではない。

彼の子どもだ。


彼が手に入らなくてもいい。

彼の一部が、私の中に宿り、私の側に残ればそれでいい。


私はまだ、生物学的に“女”だ。

妊娠できる身体を持っている。

けれどそれは、永遠ではない。

私の意志とは無関係に、細胞は劣化し、卵子は枯れていく。

彼の子を産み、育てるために必要な体力、経済力――

それらを保てる時間も、せいぜいあと二十年ほどだろう。

つまり、私が彼に執着できるタイムリミットは、刻一刻と迫っている。


だから私は何も言わず、何も責めず、ただじっと、チャンスを待っている。

欲望を悟られないように。拒絶されないように。

「無害な存在」を装いながら、「それでもいい」と。


かつて週に一度だった逢瀬は、隔週になり、月に一度になり、

そして今日、ようやく二ヶ月ぶりに再会し、二時間を共に過ごした。


けれど、生殖行為はおあずけとなった。


帰り際に彼は私にアドバイスをくれた。


「運動して、お尻と胸に筋肉をつけて、よく食べて脂肪をつけるといい」


私はソファから体を起こし、椅子に腰かけ、机の上のパソコンを開く。

家の近くにあるフィットネススタジオの月額料金を調べる。


年間契約で、月7,000円。総額84,000円。


画面を閉じ、頬杖をついたまま、向かいのアパートをぼんやりと眺める。

窓の向こう、小さな子どもがひとり、部屋の中でボールを転がして遊んでいるのが見えた。


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― 新着の感想 ―
なろうらしからぬ純文学、長編で書けば大きな賞を受賞する可能性があると感じます。 複雑かつ多くの感情を感じますし、先細りの希望を表現されていて一瞬で主人公に没入することができました。 長編にした場合、…
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