母の匂い
頭に血がのぼった状態のシアは三人を寝室から追い出すと直ぐ様行動に出た。
寝台に敷かれたシーツと上かけ用のシーツや薄布団の布を引き剥がすと端を結び、寝台の足に結び付ける。それを力任せに引き強度を確認し窓辺から下に向かって垂らす。下を覗くと明らかに長さが足りなかったが、一階の天井あたりまでには届いていたので何とかなるだろうとロープ状にしたシーツを掴み、何の躊躇もなく窓枠に足をかけた。
幼い頃より毎朝パンを打っていたので腕力は備わっている。
自身の重みで掌が握り締めた布に擦れて痛んだが、今のシアにはそんな事は大した問題ではない。
自分でも驚く程順調に下りて行くとやはりシーツが足りなくなった辺りで不安定になり、ずるりと手が滑って地面に落下した。
大した高さでもなかったし落ちる事も予測はしていたので、臀部を打ち付けた衝撃に悲鳴を上げそうになったものの何とかそれを飲み込み、しばし痛みに蹲っていたものの、一度自分の下りて来た高さを見上げてから部屋着に纏わり付いた土と草を払いその場を立ち去った。
ゼロに会いたい―――
それだけの思いでシアは裸足のまま庭を駆け回った。
ドレスを部屋着に着替えていたうえに裸足だったので、この姿のまま建物の中を走っては目立ってしまう。シアは土を蹴り足が痛むのも気にせず、感情の赴くままに会いたい人の面影を求めた。
セフィーロ王女の部屋の近くに行けばゼロの姿を目撃できるかもしれない。
ひたすら突っ走るシアの視界に突然何かが立ち塞がり行く手を阻んだ。
「きゃっ!」
接触する寸前シアは咄嗟に目を閉じ小さな悲鳴を上げ尻餅を付き、目前に迫った馬は嘶き翻る。
目の前に現れた馬が手綱を引かれ、蹄を掲げたもののぎりぎりの所でシアに直撃するのだけは避けた。
「―――そなた?!」
馬上から驚愕に満ちた声がシアに降り注ぐ。
シアは硬く閉じた瞼を開き馬上の主を見上げた。
傾き出した陽射しを背に受け、一人の威厳に満ちた人物が馬上からシアを真っ直ぐに見下ろしていた。
白髪交じりの茶色の髪に力強い灰色の瞳、太くしっかりとした眉は意志の強さを肯定させるような厳しさを持っていた。
シアは思わず息を呑んだ。
そこにいたのはたった一度だけ対峙した事のある、血の繋がりだけの存在―――数人の従者を従え馬上に佇むクロムハウル王だったのだ。
しかしここにいるのはシアの知るクロムハウルではなかった。
シアの知る国王は特に威厳に満ちた訳でも神々しい訳でもなく、ただ玉座に座っていただけの男だ。こんな覇気のある厳しい王など知らない!
シアが言葉もなく尻餅を付いたまま見上げていると、王は馬からシアの前に降り立つ。
腕を伸ばしシアの手を取って立ち上がらせると王は破顔し顔を緩ませた。
「この様な所で何をしておるのだ?」
初めて会った時同様、何処となく頼り無いその姿からは先程かいまみた威厳はすっかり失われてしまっている。
「クロードの姿が見えぬようですがまさかお一人で?」
王に従って馬を下りた五十歳前後と思しき年齢の男性がシアに問いかける。
白い騎士の制服に身を包んだ男はラウンウッド騎士団の団長を務め、同時に王の傍らでその命を守る任にも付いているライディン=ハイドである。
優しそうな茶色の瞳でシアを見下ろすが、彼の額から鼻筋を通って左頬にかけては剣によるものと思われる傷痕があり、シアはそれを見て僅かに怯んでしまう。
「あ…はい、一人です。」
シアの言葉にライディンは眉を顰めた。
「まさかあのクロードが巻かれようとは―――」
血は争えませんねと呆れるライディンに王は豪快に笑って見せた。
「予も人の事は言えぬがこれは感心できぬぞ。」
クロムハウルは握ったシアの掌を返す。
部屋を脱走する時に作った即席のロープで擦れ、掌の皮がむけ僅かに血が滲んでいた。
「しかも裸足ではないか。」
「これはそのう…窓から飛び出して来たから―――」
シアは様子を伺うように上目使いで王を見上げる。
ライディンの呆れつつ仕方のない物を見る様な視線と、クロムハウルの優く細められた灰色の視線がシアに注がれていた。
「私が送り届けましょう。」
進言するライディンにクロムハウルはその必要はないと言い放ち、シアの腰に手を触れると軽々と持ち上げ馬の背に座らせた。
「陛下?!」
慌てるライディンを余所にクロムハウルも素早く馬に跨ると、片腕でシアを支えながら手綱を取った。
「心配するなと言っておけ!」
腹に響く重さのある声だったが悪戯を思い付いたような表情でクロムハウルは言い捨てると、力任せに馬の腹を蹴った。
「ひやっ!?」
突然走り出した馬の背で体勢を崩したシアは思わずクロムハウルにしがみ付き、王はその感触に口角を弛める。
「オルグ殿に伝えおけ!」
ライディンは傍らにいた一人の従者に命令すると、己も馬の背に跨り直ぐ様クロムハウルの後を追う。
「まったく幾つになってもお変わりないのだから―――」
現在のラウンウッドの状況を分かっているのだろうかとライディンは愚痴る。
立て続けに王子が三人も病死したせいで王位継承問題が持ち上がっているこの状態で、国王と直系の王位継承権を持つただ一人の王女が揃って城を抜け出して行こうとは…もし二人同時に命を狙われたりでもしたらどうするつもりだと言うのか。勿論ライディンが付いて行くのだからそんな事なさせない。
それでもラウンウッドを虎視眈々と狙う国の存在もあると言うのに、いつになっても変わらない王の呑気さには流石に辟易してしまう。
それに加えてシアのあられもない姿だ。裸足で部屋着のまま、しかもかすり傷とは言え怪我までしている。明らかに人前に出られる姿ではなかったシアを迷いなく連れだしたクロムハウルに、ライディンは愚痴りながらも直ぐ様後を追った。
初めこそ乱暴だったものの、爆走する馬の上であるにも関わらずシアは安定した乗り心地に景色を楽しむ余裕すら出て来る。それほどクロムハウル王の馬術は長けたものだった。
シアは横向きに乗せられ漆黒の髪をたなびかせながら、シアの身体を包み込むようにして手綱を捌くクロムハウルをちらりと覗き見る。
真っ直ぐに前を見据えた眼差し。深く刻まれた皺があるものの端正な顔立ちで、若かりし頃はさぞ女性にもてただろうとお世辞なしに捉えられ、血を分けた親子であるにもかかわらず何故かシアは胸が高まる。
(どうしたわたしっ、落ち着けっ!)
馬が力強く地を蹴る音に掻き消されるだろうが、それでも胸の鼓動が届くのではないかという不安でしがみ付く手を緩める。と瞬時にクロムハウルの腕に力が込められ、そのせいで頬まで熱くなってしまった。
それを見られたくなくてシアが顔を背けると、クロムハウルはやはり打ち解けてはもらえないのかと心の内で深い溜息を落とした。
小一時間ほど馬を走らせると森に入ったためか走る速度が落ちる。
この頃になると辺りは夕闇に包まれ始めていた。
「いったい何処に―――」
馬があまりに速く走るものだから口を開いては舌を噛みそうだったので黙っていたが、流石のシアも不安になる。
(まさかわたしを森に捨てようってんじゃ―――ないわよね、流石に)
自分が周囲からは望まれない子供だったのだと言う事が解っている分シアは不安になるが、それだったら初めから城に呼ばれる訳などなかったと馬鹿な自分が恥ずかしくなる。
一方押し黙っていたシアから出た言葉に浮足立ったのはクロムハウルである。
先程まで思わず見惚れるほどだった王の威厳も何もかもがシアの何でもない一言で見事に崩れ去り、後を追った護衛達が見なかった事にしようと無言で一同目を背ける程、クロムハウルの顔つきは笑顔で破壊されていた。
「もう間もなくだ、楽しみにしておれ。」
答えを求めた訳でもなかったが頭上から注がれた嬉しそうな声に、シアは振り向く事なく前をみつめた。
生い茂る木々をぬって迷いなく進む。
間もなくすると辺りが開け、一面に黄色い世界が広がった。
暗闇の中で月明かりを浴び、辺り一面に咲き誇る黄色い花たち。
甘く、それでいて爽やかな香りがシアの全身を包み込む。
「これ―――」
馬の背から下ろされたシアは、辺り一面に咲き誇る花の海に足を踏み入れた。
「アデリの好きだった花だ。」
クロムハウルが懐かしむように呟く。
(知ってる―――)
シアは月の光を浴びて輝きを増すこの花を知っていた。
毎年この時期になると、誰かしらから届いた黄色い花束。
母に恋慕している男達の誰かからだろうと思ってはいたが、アデリは送り主名のないこの花が届くと何時も嬉しそうな顔をして花の香りを楽しんでいた。
母の大好きな花。
シアも母親に送ろうと幾度か花屋を捜したが生憎見付ける事が叶わず、野にも咲いていなかったので一度も贈る事が出来なかった花だ。
それが何故こんな所に―――こんなにも咲き乱れているのだろうか。
もしかしてあの花の贈り主は―――
シアが振り返った先には切なげにシアを見つめるクロムハウルの姿があった。
(誰を見ているの?)
灰色の、何処となく悲しげな瞳の先に宿るのはシアの姿だが、クロムハウルはシアを通してただ一人の人を見つめていた。
(この人は本当に母さんを―――?)
かつてモーリスがシアに言った言葉は気休めではなかったのだろうか?
クロムハウルは心から、偽りなく母を愛していたのだろうか。そして母も―――?
一年に一度だけ届く甘く爽やかな匂いを馳せる黄色の花。
届いた花束を嬉しそうに受け取る母の面影を思い出しシアは俯いた。
自分だけの母だった。
それを聞いて返って来るであろう答えを予想すると、シアは母親を取られるような気持ちにかられ口を閉ざす。
自分を妊娠したせいで母は意に添わぬ苦労して来たのだと思っていた。どんなに繕っても現実に世間は冷たい。そんな世界で女が一人で生きて行くのはもちろんの事、さらに未婚のままたった一人で子供を産むと言う決心は相当なものだったであろう。
数ある求婚を断り続けた母と、一面に咲くこれと同じ花を嬉しそうに受け取っていた過去が重なる。
王を―――母を見捨てたクロムハウルを父として認めた訳ではない。
二人の間にどんな思いがあったとしても、母とシアが二人きりだったのは変わらない事なのだ。
それでもシアは一面に咲く花を見て、自分がこの世界に愛されて生まれて来たのだと心の何処かでそう感じ始めていた。
気付くとクロムハウルは腰をかがめ、一面に咲く黄色の花に手を伸ばして一つ一つ丁寧に摘み取っていた。
大の大人が、しかも国王が花を摘むと言う光景は異様で思わず苦笑いが漏れる。
(なんか可愛いかも)
不自然な光景ではあったが何故だかそれがあまりにも可愛らしく思えて、シアは優しい気持ちでその姿を見ていた。そして自身も足元いっぱいに開花した花を摘み取る。
暫くするとシアとクロムハウルは両手いっぱいに黄色い花を抱えていた。
シアよりも腕の長いクロムハウルの方が摘み取った花の量が多い。
流石に両手いっぱいの花を抱えたままでシアと共に馬に乗る事は出来なかったのか、クロムハウルはしぶしぶと言った感じでシアをライディンに預ける。
シアを腕に抱いて馬に同乗させたいのは山々だったが、それ以上に花束を他の者に預ける方が躊躇されたのだ。
辺りはすっかり闇に包まれている。
花を抱えたままライディンに馬に乗せてもらった頃には、シアはゼロに会いに行くと言う当初の目的も忘れ一面の花畑を見渡していた。
月に輝く黄色い花。
「王様は何時もここに?」
「この時期は必ずここで花を摘まれておいでです。」
「似合わないわね―――」
シアの言葉にライディンは苦笑いを浮かべ、クロムハウルが馬を走らせると同時に手綱を引いた。
「舌を噛まれませんようお気をつけ下さい。」
ライディンはしっかりとシアを支え王の後を追う。
行きついた先は都外れのアデリが埋葬されている墓地だった。
シアがここを最後に訪れたのはクロードを引き連れ城を抜け出して以来。
母を失い突然知らない世界を押し付けられ…ゼロにも会えなくて世界が真っ暗に思えた日だ。
馬から降りたクロムハウルは迷う事なくアデリの墓前に足を勧め、その様子からは王が過去にここを訪れている事が伺えた。
クロムハウルは方膝を付き、腕に抱えた黄色い花束でアデリの墓前を彩る。
シアはその隣に立って母の墓前とクロムハウルを黙って見下ろしていた。
「そなたは手向けぬのか?」
跪き墓前をみつめたまま口を開いたクロムハウルに、シアは苦い顔をして笑った。
「母が待っていたのはあなたからの花束だったから。」
今年も違える事なく母のもとに届いた、甘く爽やかな香りの黄色い花。
クロムハウルは一度驚いたように隣に立つシアを見上げた後、再び墓前に視線を戻す。
「―――そうか。」
その表情は今までにない以上に嬉しそうで、威厳に満ちた王の片鱗すら伺わせないほど崩れていた。