恨み
こんな所に招待される予定なんてなかった筈なのに―――
目覚めたシアは状況を把握しようと視線だけを動かし、辺りをゆっくりと見渡す。
寝台には薄く透ける布が天井から垂らされており、明かりも付いていない薄暗い部屋の中に人の気配はない。
シアは痛む鳩尾を押さえながらゆっくりと起き上がる。
王宮から連れ去られた事は一目瞭然。なのに体が拘束されておらず自由に動かせるのはシアにとっては有り難い事だった。
王宮に馴染んでいたせいか部屋が狭いと感じるが、もともとシアが住んでいた家の自室の二倍はある。
大きな寝台に必要最低限と思われる家具と、煌びやかだが奇抜な配色の壁紙。僅かに明かりが差し込む窓に歩み寄ると外は白みかかっており、夜明けだという事が分かった。
窓を押し開け見下ろすと今いる場所は建物の三階のようで、同じ様な作りの建物が立ち並ぶ通りの光景にシアは眉を顰めた。
通りには倒れた男の姿がある。しかも一人二人といった数ではなく、建物に項垂れ寄り添う者や置かれた樽や階段に伸びている者…それは皆が男で、傍らを気にも留めず通り過ぎる人の姿。
酔っぱらって倒れている者と推察され、行きかう人も圧倒的に男が多い。その男に交じる女は、建物から出て来る男を見送ると直ぐ様屋内へと戻って行った。
その男を見送る女の姿。
胸の大きく空いた露出度の高いドレスに奇抜な化粧、後ろで束ねすらしていない流されたままの髪。
「花街?」
シアは思わず窓から一歩後ずさり、自分の身を改める。
頭に触れると髪は乱れてバラバラになっている様だったが、着ている物は宴の席で着せられた青いドレスのままだ。靴は脱がされていたが探すと寝台脇にそろえて置かれていた。
ほっとしたのも束の間、何故自分がこんな所にいるのかが分からない。
いや、ここ得連れて来たのは間違いなくセルロイズと名のったあの男だろう。だが、それがなぜ花街なのだ?
女が春を売る場所、男が女を買う街。
「もしかしてわたし売られた?」
相手はケミカルの兄だぞ、有り得ないだろうと頭を振る。
スロート家の名を語らずともあの場にいた男が、シアをこんな所へ連れて来るような理由が分からない。
あの男はいったい何をしたいのだろう―――?
目的は分からないが、当て身を喰らわせられて連れて来られたのだ。要するに攫われた。どう贔屓目に見てもそうなる。攫われたとなると―――シアが黙ってこんな所にいる理由はない。
扉のノブを回すが当然鍵がかけられてあり、シアは窓辺に戻ると窓を押し開き、迷う事なく窓枠に足を掛けた。
前に城の自室から逃げ出した時はシーツをロープ代わりにしたが、見下ろすと壁に出っ張りがあり足場になる場所がいくらでもある。このままでも下りられそうだと高を括って足を掛けたが、膨らんだドレスが窓枠に引っ掛かって体を出す事が叶わなかった。
ドレスのボリュームを出す為に下に履かされたペチコートを引き裂くようにして脱ぎ去る。膨らみは押さえられたがドレスのふくらみを出す為に大量に使われている布が邪魔で歩き難そうだ。
シアはドレスの裾を掴んで力任せにドレスを破ると、丈の長さをひざ下あたりに調整した。
かなりはしたない格好だが、逃げ出すのに邪魔だし、このまま捕まっていると不味い事になるのは目に見えている。
シアは窓枠を乗り越え二階と三階の継ぎ目辺りにある溝に足をかけ、体を壁に密着させると次の段へと視線を這わせる。
すると耳障りな口笛が聞こえ、見下ろすと通りを行き交う男達が足を止めてこちらを見上げていた。
短くなったドレスの中を覗いて下賤な言葉を吐いている様だ。
「見世物じゃないのよ、あっち行ってっ!」
娼婦が窓を乗り越え壁伝いに脱走しようとしているとでも映ったのだろう。
面白がった見物人の数が増えるにつれ、シアの方も相手にしているのが馬鹿らしくなり急いで下に下り立とうと足を進める。
上からは気が付かなかったが二階の窓が僅かに開いており、ちょうどいい足置きになりそうだった。
見つかったら大変だと先を急いでいた為、そこに足を乗せたらどうなるかなど全く考えておらず―――開いた窓に足をかけた途端、それはシアの重さに耐えられず『バキッ』という音を立て崩れ落ちた。
「ひやぁっ?!」
慌てて壁の出っ張りを掴む手に力を込めるが間に合わず体が壁から離れ、下方では落下した窓ガラスが地面に叩きつけられ割れ散る音が耳に届いた。
ふわりと宙に浮く体は重力に従い当然のように落下して行く。
割れる窓ガラスの音を聞きながら何とか上手く着地できないものかと、自分でも意外な程冷静に成り行きを見守っていた。
それはほんの一瞬の出来事なのに、とても長い時間であるかにゆっくりと進んだ。
宙に浮いた体に人の腕が伸び、シアの腰を包み込んだかと思うと一気に引き寄せられる。額に衝撃が走り体が回転したかと思うと、次の瞬間には硬い寝台に押し付けられていた。
辺りには火花が散るようにちかちかと金色の光が降っており、その向こうには驚いたような、それでいて呆れた様な灰色の瞳の青年がシアを見下ろしているのが分かった。
体を寝台に押し付け見下ろしている相手がセルロイズである事に気付いたシアは、拘束を逃れようと慌てて起き上がろうとするが、額に強烈な鋭い痛みを感じて両手で額を押さえて身を縮める。
「痛っ…たぁぁぁぁぁぁいっっっっ―――!」
落下する所をセルロイズによって上手い具合に助けられたのだが、二階の部屋に引き込まれると同時に窓枠に額を強打したのだ。
「大丈夫?」
さほど心配などしていなさそうなおっとりした女性の声に、シアは目尻に涙をにじませながらも何とか相手を覗き見る。
豊かな金の巻き毛を持った妖艶な女性がシアを覗き込んでいたが、シアが両手で庇う額を見た途端にぎょっとした表情を浮かべた。
「ちょっと、すごく腫れてるじゃない…」
シア自身目にしなくてもわかるほど、手のひら越しに腫れの酷さは伝わって来た。
(くっそう~何でわたしがこんな目に―――)
脱走に失敗した顛末とはいえ、あまりの痛みに助けてくれた筈の男を非難がましく睨みつける。
するとシアを覗き込んでいた女がしなやかな肢体を男に伸ばし、優雅に絡みついた。
「傷物にして良かったの?」
見ると女は裸同然とも言える姿で、肌が透ける薄いローブを身に纏っているだけである。セルロイズの方も衣服は着ているもののシャツのボタンは止められておらず気崩れたまま。
シアの目にも女が娼婦で、ここで何が行われていたかは直ぐ様理解できたと同時に、その事がなされたであろうと思われる寝台に居座っている自分がふしだらに思え、顔を赤くして慌てて飛び退き、あまりに慌てたものだから同時に足をもつれさせそのまま寝台から汚れた床に落下し、今度は臀部を強打し額と尻をさする羽目に陥った。
「子供が産めさえすれば構わないのだがな―――」
セルロイズは額と臀部の痛みに耐えるシアの腕を掴むと引き摺り、再び寝台に押し上げる。
「これでは抱く気も失せる、冷やしてやれ。」
女は命令されると背伸びをしながらセルロイズの頬に真っ赤な唇を押し当て、妖艶な笑顔のままシアを一瞥して部屋を出て行った。
シアは眉間に皺を寄せ、腕を組んで呆れ気味に自分を見下ろしているセルロイズを見上げると睨みつける。
「孕ませて王位に就こうって魂胆?」
状況と会話から察するにそう言う事だろう。
するとセルロイズはそんなシアを馬鹿にするように鼻で笑った。
鼻で笑って、ただそれだけ。後は黙って値踏みでもするかにシアを見下ろしている。
「あなた頭悪いんじゃない? 正攻法で来た方が王位に付ける確率は絶対高かった筈よ!」
どんなに母親が身分低く妾の子であっても、シアのように王位継承権を受け継ぐ事が出来るのだ。まがりなりにもスロート家の人間が、こんな野蛮とも言える行為に及ぶ必要はない。
スロート家とセルロイズに起こった事実を知らないシアは疑問に満ちた視線を向けた。
するとセルロイズは、何処までも冷たく辛辣な灰色の目をシアへと向ける。
「王位になど興味はない、必要だから利用するだけだ。」
「必要?」
「スロート公の悔しがる姿を見る為なら何だってする。あの男が失脚する様を玉座から見下ろせるなら王位も望むが、残念ながら私の身分では無理がある。だが私の子が玉座に座ることは可能だ。あの男の選んだ嫡子ではなく、切り捨てた身分低い妾の子が王座に就くのだ。あの男にとって自分の意のままにならぬ事程腹立たしい事はないのだから、こちらとしてはこれ程楽しい事はない。」
シアは訳が分からないと眉間に皺を寄せるが、そうすると打ち付けた遺体が酷く疼いた。
「クレリオン様にとってあなたは息子だわ。有り得ないけど、絶対に有り得ないけど、わたしがあなたの子を産めばクレリオン様にとっては孫が王位に就くって事だから喜ばしいんじゃないの?」
貴族の理を理解していないシアには分からなかったが、セルロイズはクレリオンの子でありながらスロート家の人間としては認められていないのだ。そのセルロイズの血を引く男子をシアが生んだとしたら、次の王となるのはその男子だ。そして表向きその男子はスロート家ではなく、ウェスト男爵家の血を引く血統とみなされる。それだけでは王位を受け継いで行くには弱い力だが、反スロート公家派の大貴族も少なくない。スロート公家に恨みを持つウェスト男爵家は彼らに後見を願い出るだろうし、彼らも喜んで後見人の役目を買いラウンウッドの実権を握ろうとするだろう。
セルロイズは冷酷な笑みを浮かべシアに手を伸ばすとシアの細い顎を掴み、憎い相手でも見下ろすかに蔑みの視線を向ける。
そこにある恨みの強さに、さすがのシアも思わず身を縮め唇が震えた。
「お前には解せぬ。」
愛を受けて育った小娘に、権力の道具としてしか見られなかった男の気持ちなど解りはしない。
同じ妾の子でありながらシアの母親は王に愛された。捨て置かれたのも一種の愛情だ。だがセルロイズは違う。生まれた時からスロート家の第一子として、後々の手駒としてウェスト男爵家の手によって育てられた。祖父や伯父はスロート公爵の力を求め、母親は無謀にもスロート公爵夫人の地位を望みセルロイズを使って画策した。しかし身分低い息子をクレリオンは実子として認める事はなく、万一の為の後継ぎとして公に否定もしなかった。黒い心を持った大人達に囲まれたセルロイズが真っ直ぐに育つ訳がない。
やがてクレリオンに嫡子が生まれると、母親は発狂した様にセルロイズに暴力を振るうようになり、かと思えば女神のように慈愛した。公爵夫人の座を求めるあまりスロート家の嫡子に毒を盛る事も珍しくはなく、ケミカルの母親である夫人が亡くなったのもそのせいではないかと噂されている。そのため事が露見する前にセルロイズは自らが母親に毒を盛り自殺と見せかけた。
そうして存在自体を危険とみなされたセルロイズはクレリオンの命により修道院に監禁されたのだ。
母親達の尻拭いのせいで一生をあんな牢獄のような場所で過ごすのはごめんだった。
都に病が蔓延し後継ぎである王子達が次々と亡くなったと聞いた時は、クレリオンに降って湧いた幸運を深く罵った。地位と権力に固執し、我が子であっても容赦なく切り捨てる狡猾な男を父と慕ったためしはなく、心にあるのは恨みだけ。しかしシアという王の落胤が現れたことでセルロイズは己に運が向いて来たのだと確信する。
現れたのは女で、女ではラウンウッドの王位には就けない。クレリオンの事だ、嫡子であるケミカルをその娘の夫とし王位に付ける為の完璧な筋書きを用意しているだろう。
それを邪魔する―――
捨てた息子にその座を奪われた時のあの男の悔しがる姿を見る為なら、たとえ自身が処刑される様な罪を犯そうともセルロイズはどんな事でもするつもりだ。
世間一般に息子と認められておらずとも、その血を受けたセルロイズが犯した失態だけはスロート公家に火の粉となって降り注ぐ。セルロイズがシアを連れ去っただけでもクレリオンにとっては相当の痛手となっているだろう。
その引きがねとなってくれる娘はいま自身の手の内にある。
セルロイズは指を滑らせシアの肩を押すと、容赦なく寝台に押し付けた。