消された男
セルロイズ=ウェストと名乗った青年はシアを城の外へと誘った。
さすがにそれは不味いだろう―――
過去に起こした失態と周囲に与えた迷惑を考えると頷く訳にはいかないし、何より見ず知らずの相手に付いて行くほど馬鹿な小娘でもない。
するとセルロイズはシアの興味引かれる言葉を紡いだ。
「ご存じないようだが私はスロート公爵の第一子でケミカルの兄です。」
「ケミカルの、お兄さん?」
シアは眉間に皺を寄せる。
ケミカルに兄がいるという話しは今初めて聞いたし、ケミカルはスロート公爵家の嫡男で、次期公爵となる事を認められた人だ。その人に兄がいるとなると当然公爵位は兄の方に与えられるのが筋なような気がするのだが…しかしセルロイズはスロートではなくウェストと家名を名乗った。
「もしかして―――」
「そう、私も貴方と同じ妾の子ですよ。もっとも、私の母はスロート公に愛された訳ではありませんが。」
そう言って冷たい灰色の瞳がシアを見下ろした。
クレリオンも同じ灰色の瞳をしているが、こんな風に冷たい目でシアを見る事はない。恐らく、クレリオンを敵に回した者たちはこの様な冷たい目で見られているのだろうと、男を前にしたシアには容易く想像できた。
温度差はあるがセルロイズの瞳は確かにクレリオンと同じもので、見覚えがあると感じたように彼はクレリオンに何処となく似た雰囲気をもっていた。
怖いと―――シアの中で警笛が鳴る。
この男に近付いては駄目だ。灰色の冷たい瞳はシアではなく、もっと別の何かを見ていると感じられた。
ここにいない筈のクロードを、いないと分かっていても捜してしまう。姿が見えずとも必ず側でシアの事を見守ってくれているクロードだったが、宴の席でだけは違っていた。クロードの身分ではそれが許されないからだし、ここは安全だと思われているからだ。
確かに多くの兵たちが取り囲む城に賊が侵入するのは困難だ。だが、逆に言えば身元のしっかりした者は出入りが容易い。セルロイズもクレリオンの息子なら自由に立ち入りできるのかもしれないし、ここで彼が何か危険な事をするとは思えない。
思えないが、それでもシアは目の前の男を恐ろしく感じた。
警戒するシアにセルロイズはふっと笑う。
笑いまでも冷たくて、シアは虚勢を張りセルロイズを睨みつけた。
「大人しく付いて来て下さるなら無体な事は致しませんよ?」
「あなたに付いてなんか行かないわ。それにこんなに大勢の人がいるのに無理に連れだせるとでも思っているの?」
薄暗い庭に生い茂る木々の間でシアの姿は隠されている。
それでも、無理やり連れ出そうとするなら声を上げて抵抗するし、セルロイズに追い払われたワースとてシアの戻りを気にしているだろう。
ワースの場合はシアを気にするというよりも、王位継承権に固執しての事であろうが、今の所シアがセルロイズとここにいる事を知っているのはワースだけだ。彼が頼りになるかどうかは分からないが、人目に触れただけにセルロイズもそう無体な事は出来ないだろう。
だがそう見こしていたシアの読みは甘かった。
セルロイズの手が伸びたかと思うと声を出す間もなく腕を掴まれ、鳩尾に鋭い痛みが走ると同時に息が詰まり―――目の前が暗転する。
優しさのかけらもない冷たい腕に受け止められながら、シアは意識を手放して行った。
シアと共に消えていたワースが一人戻って来た事にオルグとケミカルは顔を見合わせた。
次の瞬間、ワースが現れた闇に向かって走ったケミカルと、笑顔を浮かべながらワースに歩み寄るオルグ。オルグの目は少しも笑っておらず目の前の男を鋭く射抜いており、傍らにいたミーファは緊張で身体を固くした。
「シア殿はどうされました?」
「どうって…」
ワースの目が泳ぐ。
シアの夫候補筆頭であるオルグに、みすみすシアを他の男に奪われたなどという失態を口にしたい訳がない。
一人になりたいと言われたと偽りを述べれば、オルグはそれを見透かし不敵な笑いを浮かべた。
「王女を闇に一人取り残して来るとは…万一の事があればエグニオ侯爵家にとっても痛手になりましょう。何しろたった今まで王女と共におられたのはワース殿なのですからね。」
「なっ…私とて王女を一人残したりは致しません!」
それくらいの事は分かっていると、とってつけた様にいい訳を始めた。
「セルロイズ殿が現れたのです。まったく…久々に姿を見せたかと思えば相も変わらず強引な態度にはさすがの私もムカつきます。」
さっさと尻尾を巻いて来たとは言えず、あくまでも強引にと強調するワースの言葉などオルグの耳に入ってはいなかった。
「セルロイズ…ウェスト殿か?!」
オルグが声を荒げたことであの男を恐れるのが自分だけではない事を察し、ワースも僅かに自尊心が回復した。
「他に誰がいるというのです、都に戻って来ていたとは知りませんでしたよ。」
忌々しそうに吐き捨てるワースに対し、オルグは周囲を改める。
真相を確認しようにもクレリオンの姿が見えない。シアと踊った後すぐに座を退いたのだろう。
「ミーファ、すまないが―――」
「ええ、分かっています。わたくしの事はお気になさらずどうぞ行って下さい。」
ミーファもこわばった表情でケミカルの後を追うオルグを送りだした。
セルロイズ=ウェストという名はミーファもよく知っていた。
表向きは四年前に都を追われスロート家の領地に籠りひっそりと生活を送っている事になっている青年。
だが実際には、クレリオンの指示により存在を消された男だ。
ミーファは不安気に二人が消え行った闇をみつめる。
気を取り直したワースがミーファにダンスの相手を申し込んで来たが、ミーファはそれを冷たい一瞥だけで断わると、賑わいの中に交じり何事もなかったかに過ごし出す。
ここから先は口に出さない方がいいに決まっていると、シアと、セルロイズとは切っても切れないケミカルの身を案じながら、自分にできる事は口を噤む事だけだと必死に平静を保ちながら日常に戻って行った。
シアの身を案じ行方を探すケミカルの背後に人の気配が近付く。
「シアか?!」
振り返り気配に向かって一歩足を向けた所で、目の前にオルグの姿が浮かび上がった。
なんだお前か―――
ケミカルが口にするよりも早くオルグが強張った顔つきで先に口を開いた。
「セルロイズ殿だ。」
「―――誰だって?」
耳にした名に戸惑いが浮かぶ。
「セルロイズ殿がシア殿に接近した。」
オルグの言葉にケミカルはあり得ないと言った表情を浮かべる。
「だって兄上は―――」
ここにはいない筈。
同時にまさかという思いが走りケミカルの顔が青ざめた。
「やはりお前も初耳か。だがセルロイズ殿であったとワース殿が証言しています。シア殿はもうここにはいないでしょう。お前はクレリオン殿に確認を、私はクロードを捕まえます。」
迅速に事を始めようとするオルグに対し、ケミカルはその場に固まってしまっていた。
踵を返そうとしたオルグがそれに気付いて眉間に皺を寄せるが、すぐに腕を伸ばしケミカルの肩に触れる。
「兄上は―――今も俺を恨んでおいでなのか?!」
ケミカルには似合わない、切実で悲痛な声が漏れた。
セルロイズという男は十歳年上の、ケミカルにとっては母親違いの兄にあたる存在で、母親の身分が低いためスロート公家の名を名乗る事を許されなかった人だ。
ケミカルの父クレリオンは王子時代に先代のウェスト男爵の妾腹の娘と出会い、後に一人の男子を設けた。
男爵という、公爵と比べると雲泥の差のある地位、しかも妾の娘がクレリオンの妻の座に治まれる訳がない。妾の娘は妾となり、クレリオンの子を生んだのである。
次にクレリオンに男子が生まれたのはセルロイズの誕生から十年後。その時よりセルロイズは後継ぎの予備としての座から、用無しとばかりにただの妾の子として扱われる様になり、それに反発した現ウェスト男爵家の画策によってセルロイズは多くの貴族達を巻き込んで公爵位を狙う様になる。
公爵という位はそれだけで魅力的なもので、幼少期のケミカルは他の同腹の兄弟と共に幾度となく命を狙われて来た。
ケミカルが無事に成人した四年前、正式にスロート家の嫡子として認められるとセルロイズはクレリオンの命によって都より遠く離れた修道院に身を置かされる事となり、セルロイズの母親はスロート家嫡子の命を狙った咎の責任を一身に受け自ら毒をあおり命を絶っている。
表向きはスロート公家の面子を保つため、セルロイズはスロート公家領内で謹慎同然に生活している事になっていたし、毒をあおり命を絶った前ウェスト男爵妾腹の娘は病死したとして届を出された。
幼少期を命の危険に曝したケミカルはスロート公爵の屋敷ではなく、縁のあるイシュトル公爵家に身を預けられる事がしばしばあった。イシュトル家の当主で宰相でもあるモーリスの母親は王の姉であると同時に、ケミカルにとっては伯母にあたる。オルグとはその時よりの付き合いで、ミーファともそこで出会っていた。
オルグはケミカルの両肩を掴むと数回揺すり瞳を覗き込む。
ケミカルは自分の存在が異母兄を貶めたのだと思いこんでいるのだ。
確かにそうかもしれないが、それは決してケミカルの責任ではない。権力争いは何も王家に限った事ではなく、何処かしこで常に持ちあがっているのが現状。それよりも嫡子となる存在の命を本気で狙って来る方にあさましい非があるのだとオルグは思っていた。
実際、クレリオンの気質を色濃く受け継いだセルロイズのやり方は陰湿で恐ろしいものだった。最初の頃はウェスト男爵の方が先導して画策していたようであったが、セルロイズが成人した頃よりウェスト男爵は掌で転がされるようになっていたようだ。
オルグに肩を揺すられ、はっとした様にケミカルはオルグと視線を絡る。
「セルロイズ殿が恨んでいるのはお前ではない、クレリオン殿です。」
年上でありながら友人でもある男の言葉に暫く時を置いた後、一歩引くと髪をかきむしり、己を落ちつける為に深く息を吐いた。
「悪い、動転した。」
こんな所で自分の事情を交えている暇はない。
セルロイズがシアを連れ去ったのなら的は二つ。
スロート家に対する復讐と、それと同時に付随するラウンウッドの王位。
父に似て狡猾で野心深い人だが相当な恨みも持っている筈である。王位を狙うより復讐が先立つなら、連れて行かれたシアの身に危険が及ぶやもしれないし、シアは大人しくセルロイズのいいなりになる様な気質は持ち合わせていない。抵抗して逃げ出そうとし、それが原因で自ら命の危険を招きかねないと、それが何よりも心配だった。
警備が厳しい王宮も、スロート家の長子に対しては迷いなく門を開いたか。
事情を知らない輩を取り込むなどセルロイズにとっては容易い事だろう。
「悪いな、内輪の揉め事に巻き込んで。」
「内輪の揉め事で済む様何とか処理して下さい。こちらも時間稼ぎはしますがシア殿の安全が第一ですので。」
出来るだけ庇いはするが、シアの安全を優先させるならそれも出来なくなるという事だ。
二人合わせて眉間に深い皺を刻む。
シアが自ら城を抜け出したのとは訳が違う、闇にまぎれ連れだされたのだ。
たとえ連れだした相手がスロート公爵家に関わる者の仕業であっても許される事ではないし、露見するのも目に見えている。
だが今は公爵家の事よりもシアの安全が最優先だ。
幽閉同然に修道院に閉じ込められていたセルロイズがどうやって出て来たかなど後で考えればいい事。今はまず事実を把握し、取り返しのつかない事になる前にシアを取り戻さなければならない。
時間がないとばかりに二人は同時に走り出した。