嫌な予感
宴が始まるのは夕刻だというのに、侍女達は早朝からシアを取り囲みせわしなく動き回っていた。
何時の間に仕立てられたのか、見た事もない真新しい深い青のドレスに袖を通し、鏡の前に座らされ長い黒髪を結い上げられる。
幾度となく様々な髪型が試され、最終的には一番最初に結われたのとそっくりな、高い位置で結い上げた髪と、左右に一房だけ残された髪の束を緩やかにウェーブさせた、落ち着いた雰囲気の髪型に決まったようである。
黒髪にドレスと同色の青く輝く宝石をちりばめた髪飾りも付けられた。いつもなら適当でいいと途中で侍女達と言い争いを始めている所だが、今回は大人しく彼女達のいいなりになっていたので、シアの様子が何処となくおかしい事に彼女達も気が付いた。
この日クロードはシアから離れる事を恐れていた。
シアが心にない相手を夫に選ぶのではないかという心配で、その不安がクロードを戸惑わせた。
だが宴の席に身を置く事を許されていないクロードはシアを送り届ける所までしか関わる事が出来ない。このままシアの側に有り続ける事が出来るなら、シアに付随する王位という最高の位を狙ってやって来る輩を徹底的に排除してやるというのに。
過去にない程美しく着飾らされたシアの背を見送り、宴の出席者の中にオルグとケミカルの姿を認め僅かにほっとする。彼ら二人がいるなら、家名だけでこの場に立ち入りが許されシアを利用しようとする不遜な輩は何とかしてくれるだろう。オルグに至ってはそんな輩はシアの視界にすら入らないよう手を打ってくれるかも知れない。
数歩歩いた所でシアはおもむろに振り返り、クロードと視線を合わせる。
大丈夫とでも言う様に優しく微笑むと、シアは再び真っ直ぐ前を見据えて歩き出した。
クロードは嫌な予感がしてならなかったが、それがどういった類の物なのか計り兼ねていた。
最初にシアの手を取った人を夫に選ぼうかと本気で思っていた訳ではない。ないのだが…それなりに相手のやる気を買って気に止めようとは考えていた。
心配してくれるクロードに後ろめたさを感じながらも意気込んで参加した宴の席で、一番最初にシアの手を取ったのはスロート公爵クレリオン。
戸惑いながらも差し出された手を取ったシアに、クレリオンは優しく微笑み返した。
(ああ…やっぱり素敵だわ)
ケミカルの父親だという事がなければクレリオンに決定していたかもしれない。あらゆる問題はあるだろうが、兎に角顔や雰囲気はシアの理想その物なのだ。
その理想と言うのが男性に対してというよりも、父親であって欲しい人という枠の方に多く入りはしているのだが。
「随分と上達されましたね。」
「そうでしょうか?」
最近はダンスの練習も中止していたので、自分では全くそうは思えない。
クレリオンはシアの手を取り、流れる音楽に乗って優雅にリードしてくれる。相手が上手だから上達した様に見えるだけだろうと思いながらも、クレリオンに褒められまんざらでもない。
そこですれ違いざまにケミカルとミーファが手を取り合いダンスに興じる様子が目に映った。
ツキリと、胸の奥が針で刺された様に痛みを覚える。
僅かに顔を顰めたシアをみて、クレリオンは心の内で満足げに頷いていた。
「今宵は陛下も顔を見せると言われていた。一緒に踊られてはいかがかな?」
クレリオンの言葉にシアは顔を上げる。
「陛下は…踊られるのですか?」
シアとどころか、クロムハウルがダンスをする様を見た事もない。
不思議そうに見上げるシアに、当然だとクレリオンは言葉を繋げる。
「姫の夫選びの席であるため陛下は手を取る事を憚っておいでの様だが、姫自身が望まれるなら喜んで座を降りて参るでしょう。」
「そんな…恐れ多い事出来ません。」
相手は国王だ。公の席で軽々しくシアの方からそんな事出来る筈がないし、クロムハウルの手を取るなんて…何だか恥ずかしくて出来そうにない。
一応親子だと認めはするが、それ故にまだまだ遠慮があった。
一曲踊り終えた二人の所へ、緊迫した様な面持ちの男が近づき声をかけて来る。
男は従者であろうか? クレリオンに対して何事かを耳打ちし、それを聞いていたクレリオンの表情が硬い物へと変わる。
漏れ聞こえる音から『還俗』という言葉が聞こえた。
還俗とは神に使える身になった者がそれを止めて元の世界に戻って来る事を指す。その言葉で思い当たる人と言えば修道院に籠ったミーファであったが、ミーファは正式に修道女になった訳でもなかったので還俗と言う言葉はそぐわない。
声を顰めて話をする様子にシアはこの場は遠慮した方がいいだろうと声をかけようとしたが、それよりも先にクレリオンの方がシアへと向き直り、耳打ちしていた従者も頭を下げて直ぐ様立ち去ってしまった。
再びシアに向き直ったクレリオンは優しく微笑んでいたものの、シアの好む笑顔ではなく、目がまったく笑っていない。
何かあったのだろう。
「わたし、他の方とも踊って来て構いませんか?」
クレリオンがシアを独占していると遠まわしにこちらの様子を伺っている男達は声をかけ難いという建前を含め、クレリオンを解放する言葉を放った。
シアの言葉にクレリオンは手を取ると、その甲に口付けする。
「気分を害されてなければよろしいが―――」
「そんな事。クレリオン様は大好きですよ?」
笑顔で応えるシアに、クレリオンも今度は本物の笑顔を向ける。
「その言葉、次は夫となるべき殿方に紡がれるとよい。」
そう言ってクレリオンはシアの手を解放し、頭を垂れると宴の席から姿を消した。
シアが夫候補として目を付けていた人物は、クレリオンとも血縁関係がありスロート公爵家にも従順なエグニオ侯爵家の嫡男、ワース=エグニオ。
歳は間もなく二十一を過ぎようとしており、ケミカルやオルグからすれば家柄、血筋共に多少劣りはするものの、宴に出席している以上は夫として認められる範囲にいる事は確かだ。
過去に一度踊った事があったのだが顔が思い出せなかった。だがクレリオンと別れたシアにワースの方から接近してきて名乗ってくれたので、早速目的の人物に出会えてシアはほっと胸を撫で下ろす。
ワースの方も当然シアがクレリオンとダンスをしていた事は知っていた筈だ。そのクレリオンは自分の息子であるケミカルをシアの夫、ひいては次代のラウンウッド国王にと望んでいる。そのクレリオンに従順な筈のエグニオ侯爵家嫡男の方からシアの手を取って来たのである。エグニオ侯爵自身の思惑は計れないが、嫡男ワースにとってはクレリオンを敵に回しても構わない程に王位が魅力的なのだろう。何よりも恐れを知らない野心に満ちた目は隠そうにも隠せない程輝いていた。
これならシアの夫となる事によって降りかかる火の粉を払い除ける覚悟の一つや二つは有るだろう。
王としての素質は分からないが宰相のモーリスも、その後を継ぐであろうオルグもいる。この男が愚王なら飾りになってもらえば済む事だ。
一人の人間を観察し、相応しいか相応しくないかによって見分け夫として選ぶ日が来ようとは―――シアはワースを前に自虐的に微笑んだ。
普通に恋をしてその相手とつつましくとも幸せに暮らして行くのだろうと、それが当然とばかりに思っていた頃が懐かしい。
ワースは意外にも饒舌で、手を取られて踊る間中何かしら口を動かし話をしていた。
シアを異常にまで湛える美辞麗句に始まり、趣味の乗馬と狩りの腕の自慢、家族の事…庶民育ちのシアに対して失礼になると感じたのか、シアの暮らしや身の回りの事に触れる事はなかった。
彼が見せる姿が真実の姿とは限らないが、夫として特別受け付けられない雰囲気がある訳でもない。少々おしゃべりな点は、今日が最後と気合を入れているせいだろう。
「少し静かな所で話しませんか?」
他の男達からシアを引き離したがっているのか、しきりにフロアを出て薄暗い庭へと向かいたがっている。
お前が静かにしろよと突っ込みたかったが、心に思った事を呟く程子供でもない。それにワースでほぼ決定にしていたシアは、今更他の男達とで迷う事も面倒に思っていたので、彼の言葉に従い素直に手を引かれた。
庭に下りる時、ケミカルとミーファがこちらを伺っている様な視線を感じたが気付かない振りをした。そこにはオルグもいて、物言いたげな視線が痛かった。
彼らを裏切る様で辛い気持ちになるのはどうしてだろう。
オルグを選ばないことを決めたのはシアの意思だ。
告白されそれを拒絶する事の後ろめたさは、恋愛感情がないにしろシアがオルグを好きだからだろう。男女間の思いが生まれなければこんな後ろめたさも感じなかった筈である。
オルグの前で他の男の手を取る自分があさましくて、とても嫌な女に思えてならなかった。
ワースは俯いて手を引かれるシアを石のベンチへと誘う。
「あちらが気になりますか?」
そう言ってワースが視線を送る先には、こちらを伺いながら談笑を楽しんでいるような三人の姿。
遠過ぎて表情が確認できる訳ではなかったが、少なくともシアの目にはそう映っていた。
オルグの事もあるが、何故かケミカルとミーファの二人を目に止めるのが辛く思えてならない。
シアは俯いたまま唇を噛んだ後、笑顔を作り顔を上げた。
「そんな事はありませんよ?」
ワースは答えたシアの隣に腰を下ろす。
体をシアへと向けるワースに対し、シアの方は正面を向いたままだった。
「噂ではオルグ殿やケミカル殿を対象から外されたと伺いましたが…それは事実なのでしょうか?」
核心を付いてくる質問にシアは漆黒の瞳を向けた。
彼は確実に王位を狙っている、この質問はそれの意思表示だろう。
正直でいいと思うのだが―――
同時にシアの手を取って来たのは気に食わない。
貴族の男達は誰もかれも女の扱いになれているようで、直ぐにこうやって手を握って来るのだ。これがクレリオンとかなら黙って受けられるのだが、幾ら夫に選ぼうとしているとはいえ、こうも下心丸見えの対応を取られるのには慣れていなかった。
「誰を対象から外すとか誰を選ぶとか言った事は決めてはおりません。」
それとなく取られた手を離し、シアは膝の上に乗せた。
「ですが…今夜中には確定させるつもりでいます。」
意味有り気に呟くとワースは自信を持ったようで、再びシアの膝の上にある手に己の手を重ねて来た。
大きな男の手がシアの手を包むと同時に、余った指先がドレスを通してシアの膝に触れる。
とても不快な感覚だった。
ダンスを踊る為に触れるとか、思わず手が伸びたとか言うのではない。心のない相手に触れられる事のおぞましさを感じ、シアは思わず身を固くする。
それをどう勘違いしたのか、ワースは剥き出しのシアの肩に腕を回して抱き寄せようとした。
驚いたシアは逃れるように立ち上がり、拳を握りしめた。
やっぱり無理だ、愛のない結婚なんて絶対無理っ!!
心で叫ぶが、他に選択肢がない事も分かっている。
握り締めた拳で殴り飛ばしたい気持ちに駆られるが、彼がこの様な行動に出たのにはシアにも責任があると分かっていた為、必死になって気持ちを抑えつけた。
このままではいけない、気分を変えて仕切り直さなければこの男を拒絶してしまう!
シアは腰を下ろしたままのワースを見下ろすと、精一杯の努力で笑顔を作った。
「ごめんなさい、ちょっと失礼しますわね。」
言うなり踵を返すと闇にまぎれようと庭の奥へと進んで行く。
「お待ち下さい!」
焦った声がシアを追って来るが振り向く事なく先に進んだ。
草を踏む音が消える事なく後を付いて来て、歩みを早くしようとした途端に腕を掴まれる。
「失礼をしたのなら謝ります、ですから私の話を聞いて下さい!」
ワースはシアを振り向かせると両腕を掴んで顔を覗き込んで来た。
放っておいてくれたら間違いなく絶対に貴方を夫に選ぶから―――
声を大にして言いたかったが口に出来なかった。
相手も最後のチャンスと必死で、シアは野心に満ちた眼差しが怖くて身を竦ませる。
ワースが口を開き何かを訴えているが、何を言っているのかまったく耳に届かなかった。
そのとき、シアを掴んで離さないワースの腕に第三者の手が伸びて来た。
骨ばった長い指にシアとワースが同時に視線を落とす。
「許しもなく女性の肌に触れるなど紳士のする事ではないな。」
突然現れた男はシアからワースの腕を引き離した。
ワースは呆気にとられた様に男を見上げている。
年の頃は三十に手が届きそうな男は、明らかに自分よりも年下のワースを見下ろして余裕の笑みを浮かべていたが、その灰色の瞳はとてつもなく冷ややかだった。
初めて目にする青年。
シアにとっては見覚えのない筈の青年なのだが、何故か何処かで会った事がるよな錯覚を覚える。
ワースは目を見開いたまま、驚いたようにその青年を見上げてえいた。
「セルロイズ、殿…か?」
「いかにもセルロイズ=ウェストだが―――消えてもらえるかな、ワース=エグニオ殿?」
エグニオ侯爵家の嫡男であるワースに対して明らかに上から目線の男を、シアは不思議な気持ちで見上げていた。