小さな婚約者
あんな恥ずかしい事を言われたばかりで、クロードと肩を並べて歩ける程シアは図太くはない。
暴言の現況ではあるが孤児院へはケミカルについて来てもらう事にして、クロードにはここで待っていてもらう事にした。
素直に了解したクロードだったが、距離を保って後を付いて来る事くらいシアとて承知している。それでもクロードの様な整い過ぎた容姿を持った人と歩くには、今のシアは異常に意識してしまい恥ずかしくて出来ない事だった。
シアとケミカルが肩を並べて孤児院に向かうと、ケミカルも見知った頬のこけた中年の修道士がシアの姿を認め笑顔で歩み寄って来る。
修道士はケミカルの姿を目に止めると、今回は警戒心も持たずに丁寧に腰を折って深く頭を下げた。
この街で生まれ育ち、粗末な衣服に身を包んだシアの血筋については気付いてはいないようだ。
「子供達の姿が見えないようだけど―――」
シアはパンの入った籠を修道士に手渡しながら周囲を見渡す。
いつもなら大騒ぎして群がって来る筈の孤児たちの姿がまったく見えない。
「司祭の説教が長引いているのですが間もなく終わるでしょう。そうなるとまた騒がしくなりますよ。」
「そっか…じゃあちょっと待ってみよかな。」
「そうして頂けると子供達も喜びます。」
お腹を空かせた孤児たちはパンをもらえる事をとても喜んだが、それだけではなく、シアにとてもよくなついていた。そんな孤児たちの笑顔に、シアも力を貰っている。
「道士様、明日はここへ来る事が出来ないんです。それと…もしかしたら暫く来れなくなるかも知れなくて―――」
夫選びの期限が迫り、明日は最後の宴の席。出会いの席も明日が最後になるだろう。
寂しそうに笑顔を浮かべるシアに、修道士は一歩歩み寄った。
「それはとても残念です、子供達も寂しがるでしょう。私どもに出来る事があれば何でも言って下さい。アベストの者たちは何時でも扉を開けてあなたを待っていますよ。」
修道士は元気づけるようにシアの肩に手を置き優しく微笑むと、手にした籠を孤児院の中へと運んで行った。
シアは修道士の背を見送ると、孤児たちが説教を受けている教会へと目を向ける。
子供達の声がないだけでこれ程静かに感じてしまうなんて―――寂しいものだ。
そんなシアを見下ろしながら、沈黙を遮る様にケミカルが口を開いた。
「お前、自分の事はどう説明しているんだ?」
宰相のモーリスがシアを迎えに行った時点で、周囲の者たちは少なからず何かを感じ取っている筈である。そのシアが堂々と孤児院に出入りして何の違和感も抱かない訳がない。
「勿論正直に母さんが死んで父親に保護されたって話してあるわ。」
シアはにっと笑うと漆黒の瞳を輝かせ、ケミカルを腕を引いて肩に手をかけ耳元で囁く。
「保護されたはいいけど、政略結婚の駒に使われそうなんで逃げ回ってるって言ってあるの。」
なまじ嘘とも言えない言い訳に、周囲はシアに同情して何かあればかくまってくれるとまで言ってくれている。
シアの母親であるアデリは見た目のせいで男にもてたが、それに媚びたりしない性格のお陰で周囲の女達を敵に回す事もなかった。
豪華な馬車でモーリスに迎えに来られ周囲の注目を浴びたにも関わらず、今もこの街に融け込んでいられるのはそんなアデリのお陰でもある。
悪戯っぽく微笑むシアに多少呆れたが、憎めない微笑みにケミカルも仕方がないなと、シアの頭をぽんぽんと軽く叩いて黒髪をくしゃくしゃと鷲掴んで撫でた。
何するのよと言いたげにシアは乱れた髪を撫で付けながらケミカルを見上げると、ケミカルは更にシアの髪に手を当てくしゃくしゃと乱暴に撫で続ける。
「ちょっと何なのよっ?!」
「なんか面白いな。」
「意味分かんないっ!」
手を伸ばし更に頭をくしゃくしゃにしようとするケミカルから逃れる為に後退を続けていると、甲高い子供達の声が耳に届いた。
声の方に振りかえると、司祭の説教を聞き終えた見慣れた孤児たちが小さな教会の扉を押し開け傾れるように飛び出してくる。
「あ、シアだ!」
「シアが来てる!」
「シア―――っ!」
嬉しそうな子供達の甲高い声に、髪を撫で付けながらシアは明るい笑顔でそれを迎えた。
子供達の名を呼び、先程ケミカルにされた様な事を今度はシアが子供達にしている。
シアの小さな手に頭を撫でられた子供達は嬉しそうにシアに纏わり付き、シアは子供達を伴いながら孤児たちが住まう建物へと向かって行った。
その後を追おうとしたケミカルの前に、十歳にもならないだろう痩せこけた少年が立ち塞がっている。
他の孤児たち同様、痩せているうえに体に合わない粗末な衣服に身を包んでいて体も汚れていた。
少しくすんだ黄緑色の目をした少年は、荒んだ世界に身を置きながら瞳は輝いており、その眼光は鋭く、明らかにケミカルに対して敵意丸出しである。
子供相手に大人げないと思いつつも、ケミカルは少年に同じ様に鋭い眼差しを向けた。
小さな子どもと大きな大人、二人の間で火花が散る。
暫く無言で睨みあっていたが、いったい何なんだと我に返ったケミカルが腕を組み、小さな子供相手に低く威嚇するような冷たい口調で口を開く。
「俺に何か用か?」
視線だけで見下ろされ、睨みつけるだけだった少年は一歩後ずさってしまうが、それでも意を決するように前に出て拳を握りしめると声を荒げた。
「お前がシアをつけ狙ってる変態親父だな!」
「変態親父?!」
齢十九、目の前の子どもから見ても親父と言うには程遠く十分に若い。
親父呼ばわりされ思わず息を呑んだケミカルは頬を引き攣らせた。
しかも変態って―――
「貴族だからって何やっても許されると思うなよ、シアは俺の嫁さんになるって決まってんだからあんたの出る幕なんてないんだ。さっさとあきらめてシアを解放しろっ!」
子供特有の恐れを知らぬ物言いにさすがのケミカルも言葉を失う。
まったく…こんな子供にシアは何をどう吹き込んでいるんだ―――
「お前みたいなちんけな餓鬼がシアを嫁に出来る訳がないだろう。全く子供って奴は…」
「馬鹿にすんなよ。シアだってあんたみたいな変態親父よりも若い俺の方が絶対いいに決まってんだ!」
「こんのクソ餓鬼っ、何が変態親父だ!」
飛びかかって来た少年の頭をケミカルの長い手が押さえつけ行く手を阻み、それでも少年は必死になってケミカルに向かって一心不乱に拳を振るう。
腕の長さの違いで、少年の拳がケミカルに届く事はない。
「ちょっと何やってんのよっ!?」
騒ぎを聞きつけたシアが二人の方へと駆け寄って来ると、頭を押さえつけられた少年の脇に手を入れ胴を引き摺るようにしてケミカルから引き離した。
「何があったの?!」
「いや、何って言われても―――」
口籠るケミカルにシアは、暴れる少年を腕に抱いて引き止めながら顔を覗き込んだ。
「ロン、いったいどうしたの?」
「だって…だってこの変態親父がっ――――、うわ――――んっ!!」
ロンと呼ばれた少年はそれだけ口にすると堰を切ったように泣きだした。
黄緑色をした瞳から大粒の涙が次々と零れ落ち、真珠の粒のように頬から弾かれる。
ロンの言葉を聞いてはっとしたシアは、ばつが悪そうにケミカルを見上げた後で腕の中の少年を抱きしめた。
「ありがとうロン、わたしを守ってくれようとしたのね。でもこの人は悪い人じゃなくてわたしの友達なの。だから大丈夫。もう泣かないで、ね?」
シアは少年の顔を覗き込むと、流れ落ちる涙を身に付けている粗末なエプロンで拭い取った。
少年は嗚咽を上げながら一度ケミカルを見上げ、自分を覗き込むシアの首に手を回して抱きつく。
少年の必死な様子にケミカルも眉を下げ、安心させる意味で少年の頭を優しく撫でようとした瞬間。
「じゃあ何で今日はこの親父がシアと一緒にいるんだ?シアを守るって約束したあの綺麗な兄ちゃんはどうしたんだよ!」
少年の頭に向かって手を差し伸べたままケミカルは凍り付いた。
何故、自分よりも年上のクロードが『兄ちゃん』で自分が『親父』なんだ?!
このクソ餓鬼、シアがいなければ頭に拳骨をお見舞いしてやる所なのにと拳を握り、肩を震わすケミカルに、シアは苦笑いを浮かべ憐れむ視線を向け―――目が合うと思わずぷっ…と噴き出した。
「何がおかしいんだよ?」
「変態親父だってさ。」
「お前のせいだろ?!」
怒鳴りつけてもころころと転がる様な声を上げて笑うシアに、しょうがないなとケミカルは深く息を吐いて両手を腰に置いた。
思えば、こんな風にシアが笑う姿を見た事があっただろうか?突然突き付けられた不条理な運命に楯突きながらも受け入れているシアに、彼女の拠り所は王宮にはないのだと思い知る。
シアがあまりに笑い転げるものだから、その手の中にいた少年も泣くのをやめて不思議そうにシアの顔を覗き込んでいた。
「こいつ本当に変態親父じゃないの?」
少年の敵意剥き出しだった黄緑色の瞳がやんわりと丸くなり、シアは少年が指差すケミカルを見上げる。
「うんそう、違うの。だから心配しないで。」
笑いが止まらないシアは肩を震わせながら目尻に滲んだ涙を拭った。
「ならいいけど…もし危なくなったら変態親父より先に俺が嫁にもらってやるからちゃんと言えよな?」
「ありがとうロン、ちゃんとそうするから。」
シアが頭を撫でると、もう子供じゃないんだからとロンはぷうっと膨れて怒りだす。
そして何故かそのとばっちりとして、ケミカルの脛を蹴飛ばすと一目散に孤児院の建物へと駆けこんで行った。
「ちょっ、ロンっ?!」
子供とはいえ手加減なしの力で脛を蹴られたケミカルはその場に蹲り、シアが肩に手をかけ心配そうに覗き込んで来た。
「大丈夫?」
「あんのっ…クソ餓鬼!!」
とっ捕まえて張り倒してやる!
拳を握りしめロンが走り去った方に目をやるが、建物に入ってしまった少年の姿は見当たらない。
「ごめんね、いつもは良い子なんだけど―――」
いったいどうしちゃったんだろうと、シアもロンが走り去って行った方向に目を向けていた。
「単なる焼きもちだろ?」
ケミカルは当然のように吐き捨てると立ち上がり、汚れてもいない衣服の埃を払う。
「焼きもち?」
「大人の男にお前を取られるんじゃないかって抵抗だ。」
シアに頭を撫でられ子供扱いされた事にむくれて、その怒りの矛先がケミカルに向いたのだ。
「クロードさんには一度もこんな事はなかったのに?」
クロードに無くて自分だけ被害をこうむるとは…何もしていないというのに変態親父呼ばわりされるし―――
子供は大人の感情変化に敏感だというのを思い出し、何の意味もなくケミカルは口を滑らせた。
「お前、俺に惚れたりしてないよな?」
ケミカルの言葉にシアは一瞬間をおいてから反応する。
「―――はぁ?!」
そんなのあり得ない―――全否定しようとした瞬間。
『姫はケミカルに恋をしますよ』
クレリオンに言われた言葉が突然シアの脳裏に浮かび上がり、体の動きが止まって硬直したように動かなくなる。
まるでそれは魔法の様で―――
シアの頬がほんのりと色付いた。
「え?!お前っ…何赤くなったりしてんだよ?!」
シアの色付く頬を見てケミカルもつられて顔を赤くする。
(何で―――なんで今そんな事思い出すのよわたしっ!!!)
「ケミカルが変な事言うからでしょ!」
「俺のせいだってのか?!」
「他に誰がいるってのよ。ってか、何であなたまで赤くなってるの変態!」
「何だと―――っ!」
お互いが誤魔化し合うように悪態をつきあう。
何かもう、女として有り得ない様な暴言を吐きながらも、クレリオンから言われた言葉が脳裏から離れず、何故かシアはクレリオンの術中にはまってしまったような気になって仕方なかった。